…爛れていく。身体がじゃない。心が。
 オレの心には形があって、端から少しずつ崩れていってる。爛れた場所が腐って融解し、少しずつ少しずつ、暗闇の中に落ちて消えていく。
 心が全部消えたら。身体だけが残ったら。オレもあの子達のようになってしまうんだろう。生きる屍。何をされても何を言われてもどうでもいいような顔をして息だけをしている人形。
 犯されても、汚されても、心を失くしたガラス玉の瞳は感情一つ浮かべないで、肉塊としてこの世に留まり続けるのだ。
(それは、嫌だなぁ)
 クレマチスの花の中でうとうとしていると、地面を伝って複数の足音が聞こえてきた。その音で嫌な夢は消えた。現実であった夢。あまり見たくはないものだったからちょうどよかった。
 きっとあの子が誰かに言ったんだろう。オレに食料をくれた子。逃げ出した奴隷がいるって、オレを捕まえにきたんだ。きっとそうだ。
 まぁ、しょうがない。この国の人が表立って奴隷をよしとするのかそうでないのかによってオレの立ち位置は違ってくるけど、奴隷をよしとするのならオレはまたあの場所に逆戻り。あくまで奴隷を認めず奴隷商を捕らえるってなった場合は証言者。どのみち自由なんてないんだ。
 ぼんやり目を開けてクレマチスの紫の花を眺める。
 いいにおいだった。ここにいる間だけ穏やかな時間をすごせた。最後に、そんな時間をすごせて、よかった。
 すっかり雨の上がった空を見上げて動かないでいると、「生きてる?」と聞き覚えのある声がした。顔を向けると、あの子がいた。今日は品のいいフリルのシャツを着てる。「全部食べちゃったよ」「…食べすぎだ。お腹下すよ」「だいじょーぶ。もっと最低なもん食べたり食べなかったりしてきた。胃が慣れてるよ」ひらひら手を振ったオレに顔を顰めてから溜息を吐いて馬を下りる。その後ろには、兵士、だろうなぁ。甲冑着てるし。
 全てに諦めて手足を投げ出したままでいるオレの横に立つと、伸びた手が首輪を掴んだ。痛いです。
「これ、切ってあげる」
「え?」
「手枷も足枷も外してあげる。そのかわり、君を飼ってた奴隷商を潰すのに協力してほしい」
 どうやらこの国は奴隷商を認めない方向らしい。感心だ。そういうことならオレも手を貸したい。どうせ自由はない身なのだから、せめて、誰かのためになれることをしたい。
 億劫ながら起き上がったオレに、控えていた兵士がでっかい金槌を持ってきた。原始的な方法だ。ハンマーで叩いて鎖を壊すんだから。オレに当たったら確実に骨が砕けて肉が潰れる。が、そこはさすが兵士さん、オレに当てずに鎖だけを破壊してみせた。手と足が多少自由になる。枷は冷たいままだけど、鎖がない分重たくない。
 首輪は革製だったので、フリルのあの子のハサミでちょん切れた。首を覆っていたものがなくなってスッとする肌を掌で撫でる。…なんか変な感じだ。フリルの子が持ってるあの首輪をもう長いことつけてたんだもんな。
 フリルの子に促されるままクレマチスの花畑をあとにする。
 一番に連れて行かれたのはお城のお風呂だった。何をするにしてもとりあえずきれいになってもらわないとってことらしい。
 さすが一国を治める人達が住むお城だ。あたたかいお湯に石鹸類も揃っている。全身泡もこになる勢いで自分をきれいにして、タオルで身体を拭いながら、鏡の中に映る自分を眺めた。…貧弱だなぁ。主に食べ物のせいだと思いたい。オレだってしっかり食べたらもうちょっと肉付きよくなるはず。
 用意されていたきれいな服を広げてみて、それしか着るものがなかったので、これを着ろってことなんだろうと思って白いシャツに袖を通した。黒いズボンを穿いて、ふむ、と腕組み。…下着がないとかツッコんだからいけないよな。きれいな服用意してもらってる身で。
 さっぱりしたーと満足しながら扉を開けると、フリルの子がいた。上から下までオレを見て「まぁいいか」とぼやいて上着のジャケットを押しつけてくる。
「さっそくで悪いけど、行くよ。情報が外に漏れる前に仕留めたい」
 そんなわけで、オレ含み色んな子に人に言えないようなことをさせていた奴隷商は潰された。
 私腹に肥えた豚のような親父が喚きながら兵士に連行されていくのを眺める。あんだけ悪事を働いてたおっさんでも捕まるときはくるんだな。うん。よかった。
 心を失くして生き人形になってしまった子達が檻の中にいる。自分達を支配していた人間がいなくなったのに、自由だぞと檻の扉を開けられても無感動。兵の人が戸惑うくらいにはぼんやりと何も見ていない。
「殺してあげてください」
 オレがそう言うと、兵の人が驚いたように振り返った。「何を言うんだ」「生きているんだぞ」当たり前のようなその言葉に、ああ、この人達は何も知らないんだな、と思う。もう人間でなくなってしまった人形を憐れと思うなら、終わらせてあげるのが唯一の救いなのに。
「試しにその剣で腕でも切り落としてみてください。反応しませんから。泣かないし叫ばないし怒らない。心を失くしてしまったので、痛いと感じることもない」
 血や糞尿でじめっとしている土を踏んで、檻の中で扉から一番近い子を思い切り殴った。ごっ、と鈍い音を立てて頭から地面にぶつかったのに呻き声一つ漏らさない。起き上がろうともしない。自分のことでも他人ごと。小さな頭を踏みにじっても同じだ。反応は返ってこない。
 かわいそうに。まだ小さいのにな。もうこの子の心は死んでいる。
「こういう子達が外に出て、自分の力で生きていけると思いますか? 思いませんよね。オレもそうです。薬か何かでこうなってしまった…壊れた心はもう戻らないんです。殺してあげるのが、慈悲ってもんです」
 呆然としている兵士の手から剣をひったくった。「おいよせっ」とそれでもかかる制止の声を振りきって剣先で左胸を突いた。深々と、その死を願って。
 ガラス玉の瞳はゆっくりと光を失っていく…。
「もういい、わかった」
 檻が詰め込まれているテントの入り口から声がかかった。苦い顔をしたキョーヤがオレを見つめている。
「殺すしか、ないんだね」
「うん。それがこの子達のためだと思う」
 この場の最高決定権はキョーヤにあるので、キョーヤがそうだと判断したら、兵の人達は従った。「お前は下がってなさい」と苦い顔で兵の人に押しのけられてテントの入り口まで戻る。
 フリルシャツの王子様は難しい顔で腕組みした。こういう場所には慣れないだろうけど、逃げるでもなく現実を見つめている。
「これで一応、君の役目は終わりだけど」
「…ほっぽり出されてもオレは路頭に迷うだけなんですが」
「そう言うだろうと思ったから、少しの間は城で面倒見るよ」
 よかったと息を吐いたオレをじっと見つめる鳩色の瞳が二つ。「…何?」「君は大丈夫なの?」「何が?」「心」ああ、とぼやいて笑う。まぁ、なんとかね。
 クレマチスの花で花輪を作る。最初のうちは花輪作りなんて苦戦したもんだけど、一時期オレを飼ってた人が女の人で、こういうのが好きな人だったから、よく作らされた。おかげで上手になったけど。
 特技・花輪作りっていうのも格好つかないなぁ、なんて思いつつ仕上げた花輪をキョーヤの頭の上にのせた。キョーヤは面倒くさそうに国政その他のオベンキョーをしている。誰かに教わればいいのに、人がいると鬱陶しいとかで先生もつけないで、勉強する気があるのかないのか、オレを連れて森の中のクレマチスの花畑を訪れている。オレ達が出会うことになったあの場所だ。
 キョーヤは一人息子で王子様なんだそうだ。いずれこの国を治めるべき人間。今までは面倒だからと勉強その他から逃げていたけど、オレのことがきっかけで国の危うさを知って、本気で治めようって思うようになった、らしい。
(オレはただの元奴隷なのにね)
 他にすることもないのでまた花を摘む。花輪二個目を作り出し、ほどなくして完成させる。満足いくできになったのを馬の頭にのせた。すぐに頭を振って落とされた。だよなぁ。
 これは食べちゃダメ、と馬の口から花輪を避難させたオレをキョーヤが眺めている。「何?」「別に…」ぱん、と教科書を閉じると「戻るよ。あんまり留守にすると父がうるさいんだ」「はぁい」キョーヤの頭に二つはのらないようだったので、仕方なく自分の頭に花輪をのっける。
 馬に揺られて城に戻り、オレの容姿を見てひそひそ声を交わす誰かしらがいるのを気にしないようにしつつキョーヤの部屋までついていく。
 一国の王子様はオベンキョーとかオサホウは面倒がるけど、変に固まった意識を持ってない。たとえば『王子なんだから』とか『世継ぎなんだから』とかそういう理由でサボる人達とは違う。…それでもキョーヤはこの国を治めていく人間だ。そのうち、変わってしまうだろう。
 入れと顎でしゃくられてキョーヤの自室に足を踏み入れる。元奴隷なんかが踏むには恐れ多い絨毯敷きの部屋だ。本人が華美なものは好きじゃないと言ってできるだけ簡素にした部屋。それでもソファやベッドが格の違いを見せつけている。
 クレマチスの花輪を頭の上からテーブルの上へ。その辺りで身体から力が抜けた。どうにかソファに崩れ落ちて転倒は防ぐ。…そんなオレを憐れみ、差し伸べられる白い手。
 なるべくおかしな薬の入ってるだろう食事を取らないようにしてきたけど、ふいに力が入らなくなることがある。

 こんなオレを憐れみ、迷うような間のあとに取ることのできない手が頬を滑った。キョーヤ、と呼ぶと優しく抱き寄せられる。フリルのシャツの襟元に顔を埋めて、なんかいいにおいがするなぁ、と目を閉じる。クレマチスのにおいかな…。
 オレのことなんて少ししか知らないのに、オレが城に滞在するのを許して、ご飯その他を手配してくれるキョーヤ。
 どうして疑わないのだろう。オレのこと。オレが卑しい身分の出なのは変わらない。お城なんかにいるべきじゃない。召使いとして馬の世話でも見るならまだしもそうじゃない。オレにはこんな生活不似合いだ。感じる視線がいつもそう言ってる。
 それなのに、キョーヤがオレを手放さない。
 少しの間は城で面倒見る、が続いてもう半年だ。いい加減キョーヤの両親だって痺れを切らす。
「キョーヤ、オレ、そろそろ出ていかないと」
「なんで」
「だって、ほら。お城にいるには全然身分が合わないしさ。みんなオレのこと変な目で見てるし」
「居づらいということ?」
「うん、まぁ」
「君のご主人様は僕だよ。僕がいろって言うんだからいて」
「えー…」
 いつの間にかそういうことになってるらしい。
 はぁ、うーん。ご主人様ね。奴隷の身分からしたらそうなるかな。きれいな男の子のご主人様か。悪くはない。
 指が動いたのでグーチョキパーをしてから腕を持ち上げ、キョーヤの背中を抱き返した。大事なものを抱き締めるみたいにぎゅってされてる頭は離されない。その抱擁が心地いい。
(お望みなら足でも舐めましょう。手を取り跪きましょう。どんな言葉も態度も、あなたのお気に召すまま)