「恭弥、いい加減彼は手放さないか…元奴隷なんて城に入れるべきではないよ。召使いがほしいというのなら別の者を用意するから」
 この日も父がうるさかった。こう来る日も来る日も同じことを言われ続ければ聞き流すのも面倒くさい。
 バン、とテーブルに掌を叩きつけて席を立つ。朝からうるさい親父だ。
 召使いと奴隷になんの差が? あなたが金髪碧眼の彼を偏見の目で見ていることは知っている。今の言葉も偏見そのものだ。
 朝から気分が悪くなったのでパンだけ掴んで朝食の席を出て行く。「恭弥!」と母の声がかかったけど知ったことじゃない。あの人も陰でのことを悪く言ってるのは知ってる。どいつもこいつも、彼が何をしたって言うんだ。
 苛々にパンを食いちぎりながら部屋に戻ると、が朝食を食べていた。パンにスープにサラダという簡単なものだ。それでも彼にとっては十分贅沢な食事のようで、ありがたそうに頬張っている。
「? キョーヤ?」
 どうしたの、と寄ってくる彼を押しのけて部屋の扉を閉めた。誰も入ってこないように鍵をかける。「別になんでも」パンを食いちぎりながらソファに腰かけた。どうしても足りなくなったら用意させればいいんだから深く考える必要もない。
 ふーん、と首を捻った彼の金髪が光をこぼすように揺れた。だいぶ伸びたな。また切ってあげよう。
 ソファに戻ってきた彼は僕の横で黙々と朝食を平らげ、満足そうにお腹をさすった。「ねぇオレちょっとは太ったかな?」「なんで」「骨が浮き出てる身体なんて貧相だろ」笑う横顔を眺めて手を伸ばす。簡素な白いシャツの上のベストのボタンをぷちぷちと外した。「見てあげようか?」上から二つしかはまってないボタンを外せば、肌色が視界いっぱいに広がる。その眩しさに目を細めて掌で肌を撫でた。
 前よりは少しはマシだけど、もっと栄養のあるものをたくさん食べてくれないと、太るとまではいかないな。でも、肌触りはだいぶよくなった。毎夜塗れと渡したクリームをちゃんと塗ってるんだろう。
 飽きずに肌を撫でていると、がくすぐったそうに目を細くした。
「太った?」
「まだ全然。もっと食べないと」
「えー…じゃあ」
 肌を撫でる手を掴んだ手は僕より大きい。あーん、と口を開けてかぷりと僕の指を食べて「キョーヤを食べる」と舌を覗かせる彼に、ぞわ、と背中が粟立った。
 生温かいもので指をなぞられる。しゃぶっているだけなのにそれで食べているとでも思っているのか、何を考えてるのかわからない青い瞳がある。
 ごくり、と生唾を飲み込む。
 さっきから背中がむず痒い。どうにかしたい。どうにか。
「ひょーや」
 指を甘噛みする歯の感触に気持ちが弾けた。
 熱を持って僕を呑み込む衝動の名前を知らない。名前を知らないから対処の仕方も分からない熱に駆られるままの胸に顔を寄せて肌をかじった。
 お互いの、食べ合いだ。
 ただ気持ちが向かうまま、食べたいと思ったところを食べる。もちろん本気で噛んで食べるという意味ではなくて、相手の肌や部位を舐めたり吸ったり甘噛みしたり、だ。
 が僕の手を食べる。僕がの胸を食べる。そのうち薄いお腹に移動する。そうするとの手が僕の服を剥がしにかかってくる。気にしないで傷の多い腹部を吸って印をつけていると、首を噛まれる。シャツが肩を滑って、その肩も噛まれる。身体を離されて、胸に口付けされる。僕は彼の頭を抱いて光のこぼれる髪に唇を寄せる。
 ソファに、倒されて、ズボンの方に手が伸びてもそうしている。抱き締めている。早く触ればいいのにと思う心を誤魔化すようにぎゅっと目を閉じて、の息遣いを肌で感じながら、思っている。
 好きだなんて言えない。
 今更、奴隷として無理矢理にでもこういうことを強いられてきたろう彼に、好きだなんて言えない。そんなきれいな感情で僕を想ってなんて願えない。好きだと言ったらきっとオレも好きだよって笑うのだろうけど、僕のためを思うだけのそんな笑顔なら、いらない。ほしくない。
 だから伝えないんだ。僕のこれが君への『好き』かもしれないってことも、全部言わない。
 奴隷だった頃のことが忘れられないのなら。なかったことにならないのなら。もうきれいにはなれないのなら。汚いままでいいから、僕のことを想ってほしい。
 父や母に咎められたって構わない。僕は君を抱き締めたまま離さず、君をそばにおいて、毎日君のことを想って生きていくんだ。
「ン…っ、ん、ぅうア、あっ、ァぁ」
 必死に、ってくらい一生懸命、手で口を塞ぎながらに抱かれる。
 壁につっぱらせている腕が震えてきていた。足も、ガクガクしてる。もう限界だ。イッてしまう。ベッドが軋む音が気になるからって立ってすることにしたけど、結構キツい。
 硬くて熱い先っぽで中を抉られて身体が跳ねた。快感で滲む涙が頬を伝う。
 悲しいからじゃない。痛いからじゃない。嬉しいからだ。こんな僕にも好きになった人がいて、その人に抱かれる現実があって、今こうして気持よくて喘いでいる。必死に声を抑えている。そんな現実が嬉しいのだ。
 毎日が退屈で死にそうだった僕はもういない。
 そんな僕に目を細めて腰を打ちつけてくるの金色の髪が光を散らす。
 …ほんのすこしの翳り。
 自分と同じ奴隷の子を、人形同然になった人間を、殺すしかないと断言した彼の、冷たい瞳の光。
「汚していい?」
 掠れた低い囁き声に、いいよ、と熱に浮かれた声で返す。
 あとは、声を殺すのに必死すぎてよく憶えていない。壁を汚すとかそんなことも忘れていた。外へ響かないように。それだけを考えていた。
 イッたあとはいつも頭が空っぽになる。何も考えなくてよくなる。ぼやっとした僕を、こういうことには慣れているんだろう彼が尽くしてきれいにする。嫌な顔一つせず。
「…?」
「ん?」
 お湯で絞ったタオルで僕の身体を拭っていく彼を眺めながら呼んでみた。何? と首を捻ってこっちを見ている青い瞳を食い入るように見つめていると、妙な間を気にすることもなくへらっと笑った彼の笑顔。「何ぃ? そんなに見つめられると照れるよ」と笑う声がいつも通りで、彼を疑った自分に呆れて目を閉じる。
(違う。違う。きっと、違う。そう信じたい)
◇   ◆   ◇   ◆   ◇
 結局オレは、自分にかけられた呪いを解くことはできなかった。
 腐って爛れていく心から順番に重要でないものが消えていく。自分のいた国、育った町、そこにいた人。全てが闇に散って消えた。次に奴隷商に捕まったときのこと、この国に来た頃のこと、あのテントの中で過ごした日々、オレを買った人のこと、を順番に忘れた。
 今オレがいるのは、キョーヤのそばで。キョーヤとはクレマチスの花畑で出会って。キョーヤがオレを手放さないことに、なんでだろう、悲しみを覚えたのを、憶えてる。
 キョーヤはどうしてオレを疑わないのだろう。元奴隷で、妙な薬を飲まされてて、きれいな人付き合いなんてしてこなかったオレを。どうして信じてるのだろう。
 信じたいのかな。どうして?
 オレに裏切られるのが、怖いのかな。それなら信じなければいいのに。もう十分面倒はみたって外に放り出せばよかったのに。そうしたらオレはその辺りで朽ちて終わっていたのに。
 夜。眠っているキョーヤの首に手を伸ばして、首、じゃなくて頬に指が触れた。…いつも思ってるとこと違う場所にいくんだよな、この手は。馬鹿だなぁ。オレみたいなのにキョーヤが本気だったら……そんなこと、考えたくない、なぁ。
 オレを縛っていた常識がなくなりつつある。過去もなくなりつつある。だからこそ植え込まれたソレがオレを支配しつつある。
 オレは、この国を滅ぼすためにやってきた。
「……嫌だ、なぁ」
 爛れていく。身体じゃなくて心が。その形が端から崩れていって、もう真ん中しか残ってない。もう少しで芯だけが残る。その芯に刻まれた命令をこなす人形になるまで、あと少し。
 キョーヤのこと、忘れたくないなぁ。
 力の抜けた身体で膝をついて、キョーヤが眠るベッドに縋った。必死でしがみついていた。身体でも、心でも。
 クレマチス《企み》の芽はよく育ち、
 その弦に自由を縛られて、
 似合いの花を咲かせるでしょう。

 色とりどりの欲望を纏い、隠れて貴方を蝕んだ。
 眺めていた景色はやがて、滲み出して、腐ってゆく。
(嘘じゃなかったよ。信じてなんて言わない。でも、嘘じゃなかったよ。きみとすごした時間の全部、好きだった)
 好きにならなければよかった。嫌いになればよかった。そうしたらどんな酷いことをすることになったとしても痛みを憶えずにいられた。いくらだって奪えた。キョーヤが嫌な子だったら、この国を崩すこと、その道具となった自分に、何も感じずにいられた。
 涙を流している自分に気付いて知らず笑う。
 そこで気を失ったようで、次に気がついたときは、全て終わったあとだった。
 キョーヤの大事な剣で、キョーヤの両親の寝首をかいて殺した、あとだった。
「ああ……」
 容赦なく首の動脈を狙ったようで、返り血ですっかり血なまぐさい。
 うまく、いかないなぁ。
 キョーヤ。キョーヤは? キョーヤのことまで殺してないだろうな。自分に自信がないよ。
 キョーヤ、忘れちゃったよ。オレ達どうして出会ったんだっけ? どうしてオレはキョーヤのことが好きなんだっけ?
…?」
 声、に気がついて振り返ると、キョーヤがいた。後ろに兵士の人もいた。見たらわかるようにオレがキョーヤの剣でキョーヤの両親を殺した、その現場だ。疑いようがない。オレは返り血を浴びてるし剣も持ったままだ。間違いなく犯人。その憶えがなくても、自分でもそう思う。
 もうダメなんだ、オレ。きみのことも忘れてきてて。
 ごめんね。確かに愛したのに。かわいいねって本気で思ったのに。そう伝えたときの照れくさそうな顔が、端から崩れて、消えていく。
 笑ったオレに、キョーヤは何も言わなかった。悲しみ、怒っていいところなのに、何も言わなかった。オレの裏切りを責めることさえしない。ただ哀しそうな顔でオレを見つめていた。
 オレを捕らえようと部屋に突入しようとした兵士達をキョーヤが止めた。兵の手から剣をひったくると、身体に力が入らず崩れ落ちたオレのもとに、ゆっくりと歩いてくる。

「できすぎた偶然かなって思ってた。退屈してた僕のところに現実を見せに現れて、かわいそうなくらい痩せ細って。同情を誘うには十分だ、って」
「……そう、だったっけ?」
「忘れちゃったの?」
「うん。もう全然…きみとの、出会い方も、忘れちゃった」
「クレマチスで作った花輪をくれたんだよ。クレマチスの花言葉は憶えてる?」
「企み」
「…うん。そう。疑えって言われてるみたいだって思った。でも信じたんだ。信じたかったから」

 唇を歪めて笑う。信じてくれたのにオレは期待に応えることはできなかったわけだ。心を崩す力に敵わなかった。人形になっていく自分に精一杯抗ったんだろうけど。やっぱりダメだった。
 動く力のないオレの前にキョーヤが片膝をついて目線を合わせる。その向こうには部屋の入り口から固唾を呑んで状況を見守っている兵士達。何かあったらいつでも動けるようにと構えている。
「ごめん、ね」
「…いいよ。許してあげる」
 キョーヤが剣先を上げる。まっすぐオレの胸を狙う位置。歪んだ泣き顔。きれいな顔なのにもったいない。きみは笑っていた方がずっとかわいいのに。
 キョーヤに殺してもらえるなんて、上々な最後だな。
 …あれ? キョーヤって誰だっけ? オレを殺そうとしてる子でよかったよな? 自信ないな。おかしいな。さっきまでちゃんと憶えてたのに。
 心が死んでいく。肉が腐って骨が剥き出しになる。『皆殺しにしろ』という骨格が、命令が、心を失くしたオレの身体をじわじわと支配し始める。手が震えた。剣を持っている。
 ダメだ。オレはこの子を殺したくない。殺したくない。
「はやく、ころして。きょーや」
 オレがきみを殺す前に早く。
 意志とは関係なく腕に力がこもる。
(殺したくない、殺したくない、殺したくない、殺したくない…ッ!)
 キョーヤの剣がオレの胸を貫くのと、オレの腕が意志とは関係なしに跳ねてキョーヤの身体に剣を突き立てるのは同時だった。
 自分のことさえ構わないオレは、せめて、キョーヤのことを抱き締めるようにして自分ごと刺し貫くことしかできなかった。
 口の端から血を流したキョーヤがオレに口付ける。どうしてか笑っている。満足そうだ。あるいはこの結末を望んでいたのかもしれない。オレだけじゃなくて、自分だけじゃなくて、一緒にいくことを。
 剣を手放して唇を押しつけられ、両腕で頭を抱かれて、束の間、穏やかだった時間を思い出す。
(キョーヤ…だ。そうだ。そうだった)

 …好きになれて、よかったなぁ。
 せめてこの気持ちのままでどこか遠くへいきたい。心が脅かされない場所に。
 もうこの愛を忘れたくない。
 汚いオレを愛してくれた人。壊れたオレにキスをくれた人を、忘れたく、ない。
 目を開けると、そこはクレマチスの花畑で、誰かが座り込んでいた。周囲の森は霧の中にあるみたいにぼやけていて、紫の花だけがぼんやり浮かんで見える。そこに、フリルがたっぷりしたシャツに黒い髪。
 ざわ、と一つ風が吹いてもう何も感じることのできない肌を撫でていった。

 遅いよ

 遠い声に、ごめん、と笑って感覚のない足を交互に前へ。あっちへこっちへふらふらしながらどうにかその子のもとに辿り着いて、疲れたな、と膝をつく。
 手を伸ばして抱き寄せるとクレマチスのにおいがした。いいにおいがした。
 キョーヤの。においだ。

 好きだったよ

 吐き出すと、不満そうにもう好きじゃないの? と言われた。慌てて今も好きと言うと少し機嫌がよくなったようだ。僕は愛してるよとさらりと言われて、いつかの夜を思い出した。オレが寝てると思ったんだろうキョーヤが泣きそうな顔でオレに言った言葉。
 そうか。本当だったのか。オレと一緒に死んじゃうくらいには好きでいてくれたのか。…もったいない話だな。なんでオレなんか。オレはキョーヤ達に滅びを与えただけの存在だったのに。

 僕は後悔してない。君と一緒にいた時間が生きてきた中で一番好きだった。だから、これでいい

 ひっそりと涙を流したオレにキョーヤは仕方がないなぁと笑って顔を寄せる。涙を舌で舐めとって、だから泣かないで、と優しくオレを抱き寄せる。

 忘れたっていうんなら新しく作ろう。君はもう僕を忘れることはないんだから
 うん

 ずび、と洟をすするオレにおかしそうに笑うキョーヤがかわいい。
 クレマチスの花畑にくすくすくすと笑い声が響く。いつまでも、絶えることなく、二人分。

クレマチスの花畑