天界というのは退屈だ。何故かというと、全てが整っていて、隙がなく、無駄もなく、流れる時間は平和そのもので、理不尽なことも予定外のことも何も起こらない。だから、とても退屈だ。死にそうなくらい。
 自分がすべき役目、みたいなものはあるけれど、それだって暇潰し程度にしか考えていない。
 ここはとても平和で、問題ごともなく、哀しみなど存在せず、怒りなど存在せず、ただ全てが穏やかにある。
 それが、僕にはとても退屈で、気持ちが悪い。
 それは恐らく、僕が純粋な天使でない故だろう。全てが純物からできている天使はこんな無駄なことは思わないし考えない。与えられる事柄を信じて疑わない。いつもそうであるように朗らかに笑って過ごす。それだけ。
 対して僕は、全てが整っていて気味が悪いと思うココに背を向け、今日も外界を覗いている。
 まず、適当な大きさの器を用意して、そこに手順を踏んで聖水にした水を入れ八分目まで満たす。覗くだけの時間に合った聖なる言の葉でまじないをかければ準備完了。僕の意思を汲み取った水が僕が見たい場所を水を通して映し出す。
 人間は今日も忙しない一日を送っている。彼らに安定という言葉はない。常に日々が動き、己が置く状況も動き、止まっているものがない。彼らは行き急ぐように生きて、そして、死んでいくのだ。
 僕はきっと元々人間だったのだ。だから、人間の生活に親しみが湧くし、興味も湧くし、ココが気持ちが悪いと思うのだ。ココで目が覚める前のことなんて何一つ憶えていないけれど、多分そうだろう。
 手を伸ばして、人間界を映し出す水面に触れる。指で弾けば、思ったところに場面が移る。そこには男が一人、今日もレストランのウエイターとして働いていた。
「…………」
 彼の一日を眺めているのが、最近の僕の時間の過ごし方だ。
 ここ最近はずっと彼のことばかり見ている。理由は、何となくだ。特に深い意味はない。
 ただ、彼のことを眺めているのが好きだった。
『お待たせしましたー!』
 彼の声が頭の中に響く。営業スマイルというよりは純粋に自分が持つ笑顔を浮かべ、男女平等に接して仕事に徹する彼は、見ていて好ましい。
 人間界にはよくある男女故の痴情のもつれというのも彼ならば無縁なのだろう。彼は人間なのだしもういい大人だ。純粋無垢というのはありえない。けれど、きっと、それに近いところにいる。その笑顔の眩しさにいつもそんなことを思った。
 さすがに四六時中覗くみたいな真似はしていないけど、そのうちしそうで、そんな自分がやっぱり天使からは程遠いと感じる。我ながら馬鹿みたいだ。
 少し視点をずらすだけで、路地裏では鞄を強奪にあった女が泣いているし、駅前では物乞いがスーツの紳士に手を伸ばしているし、胡散臭い建物の中では胡散臭い男達が嫌な笑みを浮かべて悪巧みをしている。少し視点をずらすだけでそんな嫌なものが転がっていると分かっているのに、彼の仕事姿に視線を戻せば、僕は自然と口元に笑みを浮べているのだ。
 好きだった。頑張っている彼が。汚いことに手を染めて楽にお金を稼ごうなんて思わず、他人を蹴落とそうなんて思わず、自分の身体で精一杯働いて、笑って、生きる。君のいる世界でそれがどれだけ素晴らしいことかなんて、君は理解していないし、無意識のうちにそうやって生きているのだろうけど。だからこそ僕は、そんな君に惹かれている。
「……少し疲れてるみたいだね。帰ったらちゃんと休みなよ」
 ぽつりと独り言を漏らし、水面の上から彼の頭を撫でる。控え室で頭を抱えてソファに脱力していた彼が、僕の一無ででふっと顔を上げる。僕の力が届いたようで、彼を悩ませていた突発的な頭痛はなくなったらしい。よかった。ここから手伝えることなんて知れている。これがラインギリギリだ。これ以上は他の誰かに感知されてしまう。
 急に頭痛が治まったことに不思議そうな顔をしていた彼だけど、休憩時間が終わればネクタイを締め、また仕事へと戻っていく。
 ふっと息を吐いて、引きずってきたソファに寝転がってうつ伏せでしばらく水鏡を眺め、かけた言の葉の効力が途切れて自然と映像がなくなるまで、ずっと水の向こうの君を眺めていた。
 凝った、とぐっと伸びをして背中の翼をばさばさと羽ばたかせ、面倒ながらも、自分に割り当てられている天使の仕事ってやつのためにテーブルから離れる。
 全てが整っていて、皆が幸せそうに笑い、ただ息をしているこの場所が、僕にはとても気持ちが悪い。
 できるものなら、彼のそばへ行きたい。その笑顔をちゃんとこの目で見てみたい。
 叶わない願いを抱きながら、何人もが出入りする神殿の一つに赴き、天界も外界もその下の世界も全てを見ているというカミサマが寄越した書類にサインする。『近いうち、外界に大きな不幸があるでしょう』と書かれたその書類には天使全員が目を通すように言われている。上の位も下の位も関係ない。目を通して適当なサインをし、大きな不幸、という言葉を頭の中で繰り返す。
 つまり何が言いたいかって、審判すべき人間の魂が一時的に増えるから、関係する天使は仕事を全うするように、という仰せなのだ。
 …大きな不幸、と言われて、僕はなぜか彼のことを思い出していた。
 カミサマが大きな不幸と表現するくらいだ。それは人災ではなく、天災なのだろう。火山が爆発するとか、大きな地震が起きるとか、そういう止めようもない力のことを言っているのだと思う。一つの国がめちゃくちゃになってしまうような、あるいは、一つの大陸がめちゃくちゃになってしまうような。そういうどうしようもないことを示している。
 嫌な予感というものが背筋を這い上がった。
 これは本来なら起きて朝一で目を通さなければならないものだ。僕は怠惰だから昼前になってようやくこれに目を通した。普通の天使なら外界で大きな不幸が起こることなどもう知っていて、それに備えているはず。
 その不幸は今この瞬間に世界を食っても何も不思議じゃない。
 乱暴に最後の書類にサインをして神殿を飛び出す。朗らかに笑うことしかしない人達が何事かという顔で走り去る僕のことを見ていた。飛べば早い、と気付いてばさりと翼を羽ばたかせて空を突っ切る。そんな基本的なことさえ忘れているのだから、僕はすっかり、彼に感化されて、気分が人間になりつつある。
 自室に飛び込んで水鏡に指先を触れさせる。心のこもってない聖なる言葉を早口で述べながら早くと水面を指で弾く。じわり、と波紋が広がって、そこに世界が集約されて彼が呼び出されるまでの時間がもどかしい。
 やっと景色を映した水の中で、彼はまだ仕事をしていた。いつもの笑顔で『いらっしゃいませ』と来店した客を出迎えている。
 なんだ。よかった。ほ、と息を吐いて指を滑らせる。少し視点を上にして、彼のいるレストランを見渡し、さらに視点を上げてレストランのある町を見渡し、どこにも異常がないことを確かめた。
 カミサマは一体なんのことを言っていたのだろう。近いうちって表現も曖昧だし。どこがどうとは言っていなかったし。大きな不幸って、なんのことだろう。
『ありがとうございました。またのご来店お待ちしてます』
 いい笑顔で客を見送る彼に目を細めて、指先でその顔をなぞって撫でた。感触なんて分からないし、体温ですら想像することしかできないけど。
 彼のいる町が、国が、不幸の対象でなければいいと、本気で願った。
 人間界でいうそれから三日後に、カミサマの言った不幸というやつが起きた。とても大きな地震だ。まともに地震を体験していなかった国の家や建物は多くが崩壊し、人が生き埋めになり、おまけに地脈を刺激され火山まで噴火した。流れ出すマグマが麓の町を呑み込み、火山灰を撒き散らし、遠い町にも被害を及ぼし始める。
 確かに、それはとても大きな世界の不幸だった。
「………」
 すっと指を滑らせる。水鏡に映る彼は崩れたレストランの中で何とか生きていた。大きな柱が支えとなって彼の周りに二階から上の積載物が落下するのを防いだけれど、辺りには潰されたテーブルや椅子、潰れた人間が散乱していて、状況はよくなく、積もった瓦礫は彼を生き埋めにしていた。
 どこもかしこもひどい惨状だ。助けなんて期待していないのだろう、彼は諦めた顔で笑って柱に背中に預けているだけで、声を上げて助けを求めることもしない。
 ぐっと唇を噛む。
 人間に手を貸すことは禁じられている。天使と人は交わるべきではない。なぜなら、そうして腐ってしまった天使が多数いるからだ。天使は人を管理するもの、世界を管理するもの、手を貸す存在ではない。僕もそうやって言い聞かせられてきた。
 もしも天使の掟を破るのなら、僕は二度とココへは戻れないし、天使としての力も失うだろう。そうなった場合、自分がどういったものになるのかも分からない。天に歯向かった者として消されるのか、それとも人間へと降格されるのか。僕としては後者を望むところだけれど、真実なんて分からない。堕ちた天使の話なんてココに存在するはずもないから。
 彼を助けに行けば、自分がどうなるのか、分からない。
 だけど。好きだと思っている人がこのまま死んでいく様なんて、見ていたくなかった。
 、と彼の名前を呟いて、心を決める。
 これで僕という存在が消えても構わない。その前に彼を、助ける。
 指先で触れるだけだった水面に、手を、腕を入れて、どんどん沈んで、僕は望んで外界へと落ちた。
 かざした掌で瓦礫の類を吹っ飛ばし、彼を生き埋めにしていた場所に穴を開ける。目を閉じていた彼が瞼を震わせ、ぼんやりした顔で僕を見上げた。
 その瞳に初めて魅入られた瞬間、僕の背中から翼が消失し、天使故の力というものもごっそりと抜け落ちたのが分かった。重力に囚われた身体が驚くほど重くなったけれど、それに絶望はしない。
「…動ける?」
 ずっと上から見下ろすだけだった彼に声をかける。慣れない重力でふらつく身体で瓦礫の上を歩き、またぎ、まだぼんやりしている彼の横に膝をついて、傷ついているその手を取る。初めて彼の温度を知る。

 ああ、愛おしい。

「……いま。てんしに、みえた」
 ぼんやりした顔の彼に僕は笑ってやった。「何それ」と。
 僕はもう天使じゃない。それに、君を見つけてからずっと、人間になりたいと思っていた。背中に翼なんていらない。もともと純粋無垢でもないからこの世界の汚さになんて絶望しない。世界規模の不幸に襲われた世界でだって、君と共に生き抜いてみせる。
 彼に肩を貸して瓦礫の中から抜け出し、外に出る。多くが倒壊し、場所によっては炎上しているここにも灰色の雲が広がり、火山灰が降り始めていた。「なんだこれ」と顔を顰めて咳をする彼に、「吸わない方がいい。肺が病む」と返して、自分が着ている服を見下ろす。この場には似合わないほど白い服が気に触った。今まで仕方なく着ていたけど、僕は黒い色の方が好きだ。
 特に意味もない腰布を解いて、び、と破る。驚いた顔をしている彼の鼻と口を覆うように巻きつけ、頭の後ろで軽く結んだ。自分の方もそうやってとりあえずの呼吸法を確保し、早くここから離れなければ、と一歩踏み出す。
 踏み出した地面はまだ揺れていた。余震だろう。ボコボコしていて歪だけど、整いすぎていた天の床よりはずっと親しみを持てる。
「…あ。たすけてくれて、ありがとう。えっと、」
「キョーヤ」
「きょーや。おれ、
「…うん。別に、勝手に助けただけだから、お礼とかいらないよ」
 彼に自分の名前を呼ばれるのは、思っていたよりも胸が高鳴ることだった。
 もう、遥か頭上から見下ろしているだけじゃない。もう、覗き見して自己満足に浸っているだけじゃない。僕は彼の隣にいるんだ。彼に手を差し伸べられるんだ。彼の生に交わることができるんだ。それが天使という安寧の人生と引き換えでも構わないさ。僕は、あんな退屈な場所嫌いだ。あんな整いすぎた環境はただ気持ちが悪い。
 だから、僕はこれでいい。
 何も約束されていない明日。保証のない未来。いつかは終わる生。善悪の入り混じる、安定を知らない世界。全て受け入れる。その上で、を勝ち取る。