1.再生

 夜のネオンというのは騒々しくて嫌いだ。遠慮を知らないから。
 本来なら闇に沈んでいるはずの色彩。赤、青、黄、緑…夜の中で視認できないはずの色を表そうと躍起になって、視界を突き刺す色はどれも攻撃的で、痛い。
 痛いのは、光で眩しい視界か? それとも、片腕が取れた部分? それとも、ビルから落ちて、コンクリートの地面に打ちつけられた身体のすべて?
 強運というより凶運の持ち主だと言われてきたけど、ここまで来れば不運だと言ってもいい。これでまだ生きているなんて。奇跡というより、ただの不幸だ。
 もう目を閉じる力もないのに、意識がある。痛みが分かる。それがこんなに苦しいなんて。
 今まで僕が仕事として屠ってきた人間はこういう気分だったんだろうと思うと吐き気がした。
 仕事として、相手と相打ったから、僕に依頼をしてきた組織と、僕を厄介払いしたかった奴らは両手を挙げて喜ぶことだろう。癪だけど、その嫌な面を叩き潰すだけの気力も力もない。
 僕は死ぬのだ。夜の中で、ネオンの嫌な色に視界を焼かれながら、コンクリートの地面の上で。
 …別に、死ぬのは惜しくはない。どうせいつかは死ぬのだから、生き物というのは死ぬときは死ぬんだと思っているし、僕がいくら強運や凶運を持っていたとして、いずれ尽きるものだ。そんなものは惜しくはない。
 ただ、生きることが、それがもうできないことが、少し、惜しいのかもしれない。
 一匹狼としてなんでもやってきた。なんでもやろうと決めれば、泥溜めみたいな場所でも生きていくことはできた。
 やりたいこともなければ欲しいものもない。ただ生きていくために武器を手に取り何かを傷つける道を選んだ。
 もっと、違う生き方を。たとえば、カジノで博打をして盛大に負けてみるとか…着れればそれでいいとこだわってこなかった服装を、デパートで揃えてみるとか…もっと違うことを、してみればよかった。それがどれだけくだらなくても、あとで笑ってしまうようなことでも……死にかけている今この瞬間に『やっておけばよかった』と後悔するよりは、その経験を嘲笑えるくらいの方が、いいと思うから。
(僕は随分ともったいない生き方をしていたんだな。生きていたのに、それらしいこともせず、ただのうのうと人を殺して、息をするだけの……まるで…)
 頭が回らなくなってきた。視界を突き刺す色味も曖昧だ。
 やっと死ねる、と息を吐き出した先で、ネオンを遮る位置に誰かが立った。
 色味も曖昧になった、灰色の光を背景に、その誰かは恐らく僕を見下ろしていた。背丈と体格から男だと判断したけど、どうでもいいか、と思考を放棄する。
 たとえ相手が誰であろうが、僕はもう死ぬ。すべてとお別れだ。最期になってもったいないと思う人生だったけど、仕方がない。今頃気付いた僕が遅かったのだ。もう取り返しはつかない。
 そうやって雲雀恭弥という人間は終わるはずだった。もう少し生きてみたかったという後悔を抱きながら。
「……、」
 ところが、僕は再び目覚めを味わった。
 瞼を押し上げるのが億劫で、頭の回転が少し遅く、ぼんやりとするこの感じ。寝起きのそれによく似ている。僕は朝があまり得意じゃない。もっぱら夜行性というか、夜の方が動きやすかった。闇に紛れていれば仕事がしやすい…生きるために身体がそういう変化を遂げたのかもしれない。
 いや、今はそんなことはどうでもよくて。
(どこだ、ここ…)
 殺風景な、配管が剥き出しの天井に、光源は蛍光灯。半分以上が切れている。
 とにかく起きなければと伸ばした左手でふいに右手に触れて、右側があったことに驚いて跳ね起きた。痛みと気持ち悪さがぐちゃぐちゃに混ざった衝動に襲われて咳き込み、再び倒れ込む。
 かざした右手は確かに存在していた。指も動く。…なくしたはずなのに。
 どうやら自力で動くことはまだできないようなので、視線だけで周囲を観察することにした。
 安っぽいベッド。病院の設備に似せたかのような器具や機械類。箱型の古い形式のテレビ。部屋、と呼んでいいのか微妙なこの空間に窓はない。薄暗さと空気の感じからいっても地下だろう。僕はなぜそんな場所にいるんだ。生きていることを考えるなら…助けられた、のか。
 あのとき誰かが僕のことを見下ろしていたのは薄く憶えている。けど、顔は思い出せないし、男のようだった、ということしか分からない。その誰かが僕のことを助けたのだとして、その目的は? 商業的に利用するためか…最低な男に捕まったなら性的に利用するためってことも考えられるけど。その場合死んでもいいから抵抗する。そのためには武器が必要だ。この部屋で何か使えそうなものは。
 視線だけで辺りを窺っていると、がちゃん、とふいに鉄扉の開く音がした。部屋に一つしかない扉の音だ。
 反射神経で捉えた入口には男が一人立っていた。飴色のやわらかい髪と青色の瞳…典型的なハーフといったところか。歳は僕とそう変わらない、いくつか年上といった感じだろう。強面でもなければ屈強な身体つきというわけでもない。相手がろくでもない奴だと仮定して、満足に動けない身体でも、勝算はある。
 寝ているフリを通してまずは様子見をしようと思ったのに、相手は一歩部屋に踏み込むなり気付いた顔をこっちに向けてきた。
「ああ、目が覚めたんだね。よかった。あと一分遅かったら手遅れになっていたよ」
 フリを通そうかと思ったけど、「裸で寒くない? 着るもの用意しようか?」と言われて、さすがに、だんまりは通せなかった。そういえば肌が布地に触れてる感触がない…。
「ちょうだい」
 諦めてぼやき、目を開ける。やっぱり殺風景な景色だ。
 病人着みたいなものを持ってきた相手は淡い微笑みを浮かべながら僕に服を着せた。何か知らないけど、嬉しそうだ。そんな気がする。
「痛いところは?」
「…よくわからない」
「じゃあ、何か変なところは?」
「…右腕。とれたのにくっついてる」
 病人着の袖ごと右手を揺らすと彼は笑った。「それは俺がつけたんだ。ちゃんと動く?」「動くけど……君が、つけた? どうやって」半ば呆れながら尋ねた僕に相手は笑っただけで答えなかった。
 まだ目が覚めたばかりで満足に動けない僕を、あろうことか抱き上げた相手は、大して表情も変えずに僕をベッドに移動させた。そう筋肉もついてない彼がひょいっと軽い動作で抱き上げられるほど僕は軽くはないはずなんだけど。それとも最近はこういったドーピング剤もあるんだろうか? 筋肉増強みたいな。
 ……怠い。それから、眠い。目が覚めたからこそ。
 相手は一度ベッドから離れると何かを手にして戻ってきた。金属のトレイの上には飲む栄養ゼリーみたいなパックがいくつかあった。
「起きてさっそくで悪いんだけど、眠る前に、何か食べてくれないと。君の体力は今生命維持ギリギリのラインなんだ。エネルギーがいる」
 パックを開封して飲み口を押しつけてくるので、顔を背けた。
 僕は君が誰だか知らないし、一応助けてくれたようだけど、信用しちゃいない。何が入ってるかも分からないものを迂闊に口にするものか。
 相手は困った顔になって、うーんと考えたあと、パックを引っ込めて自分の口に持っていった。…変なものは入っていないという証明のつもりなのか、中身を吸って口に含む。
 そこまでするなら…まぁ、飲んでやらなくもない。せっかく助けてくれたようだし。僕だって死にたくはなかったわけだし。まだ状況はよく呑み込めないけど、身体が回復するに越したことは。
 ふいに、彼がベッドに手をついた。そのまま何も躊躇うことなく息をするように自然にキスされて思考が止まる。
 唇に割り込まれた舌の感触と、生暖かいゼリーの味が、口の中にじわじわと広がっていく。
「…っ」
 まだ身体が動かない。突き放したくとも腕があまり上がらない。相手の腕を掴むくらいが精一杯で、蹴飛ばすことも殴ることもできやしなかった。
 上顎の奥辺りを舌でなぞられて咳き込みながらゼリーを飲み下すと、相手はようやく顔を離した。「自分で飲んでくれると手間がないんだけどな」「………」いい笑顔で言うことがそれか。冗談じゃない。なんで僕が男の口移しで食事しないといけないんだ。冗談じゃない。
 やけくそになってパックを掴んだけど、握力もあまり戻っていなくて、握っているだけでも結構大変だ。すぐに手が震えてきた。くそ、と歯噛みした僕の手からやんわりパックを持っていった相手が最初と同じように飲み口を差し出してくる。
 僕は、仕方なく、その施しのような食事の仕方でエネルギーを摂取するしかなかった。
 そんな日が三日は続いたろうか。
 ようやく起き上がっても吐き気を憶えなくなり、天井の蛍光灯が半分以上切れた部屋の物の配置を把握し始めた頃、自分の足で立つことに成功した。そのことにほっとしたのは、僕よりも彼だった。
 よかったと笑っている彼の名はスィフリ。正確にはそれは名前ではなくて呼び名のようなものらしい。…名前も呼び名も同じようなものだと僕は思うけど。だから、彼のことはスィフリと呼んでいる。正直、発音しづらいし呼びにくいと密かに思っていたりする。
「痛いところはない? 違和感は?」
「ないよ。ない。おかしなくらいない」
 ビルから落ちて叩きつけた全身も、取れた右腕も、違和感を感じないことに違和感を感じるくらいで、おかしな点は一つもない。
 グーチョキパーと手を動かしてから唐突に気がついた。この手に馴染むべきものがないことに。
「トンファーは?」
「トンファー?」
「これくらいの…こうやって構えて使う、僕の武器なんだけど。近くに落ちてなかった?」
「ああ、あれか」
 ぽんと手を打った彼がスチール机の引き出しから何かを持ってきた。僕のトンファーの、残骸だ。長いこと一緒にやってきたけど落下の衝撃に耐えられなかったようで、大破していた。この分だと内蔵システムも使いやすいよう改造を施したデータも飛んでいるだろう。
 僕が黙ってトンファーを受け取ると、スィフリは不思議そうに首を傾げた。「大事だったの?」と訊いてくる彼に唇の端をつり上げて笑ってやる。
「身を守るための手段で、相手を叩き潰すための武器だった。…大事とかっていうより……僕にはこれが、合っていたから」
 …長いこと、付き合ってくれた。これでも機械だ。クラッシュしたものを直すには技術と現金がいる。僕には今そのどちらも持ち合わせがないし、まだ以前のように身体は動かない。ゴロツキが出入りするような場所にはまだ行けない。
 銃のように弾切れは起こさないし、手入れさえ怠らなければ定期的なメンテナンスだけですむ。精密機械よりはずっと安価で、手にしているという重さがあり、人を殺めているという鈍い感触があった。時代遅れと嘲笑されるようなものでも、僕には合っていたのだ。
 ふいにスィフリがしゃがみ込んだ。下から僕を見上げてくる彼を睨みつけて「何」と尖った声を出すと、彼は笑って「別に。観察です」とか訳の分からないことを言う。
 スィフリは変だ。たぶんだいぶ変。見返りも求めず僕みたいな人間を助けたってところもそうだし、今現在も僕を生かそうと無償の施しを続けていることもそうだし、よくこうやって僕のことを観察してくることもそうだ。
 ハーフでひょろいだけかと思えば平気で僕を抱き上げたり、僕が自分でできないこと…たとえば、食事とか、シャワーとか、そういうことを手伝ってくるし。そのためならキスしようが裸になろうが構いやしない。変だ。絶対変。今は食事もシャワーも自分でできるけど、最初にキスされたときと裸にされたときを思い出すと今でも顔が熱くなる。
 ぷいっと顔を背けてトンファー片手にベッドに戻り、まだ重い身体で寝転がって彼に背を向け、さよならしないといけない武器を手に目を閉じる。
 この町で生きていくには、どうやっても武器がいる。今までの僕の生き方を考えれば絶対にだ。それを考えないといけない。また、生きていくために。