2.思想

 僕の目が覚めて、一週間目の朝、スィフリが買い物へ行こうと言った。なんでもそれが僕のリハビリの一環らしい。確かに、動かなければ筋肉はほぐれないし、体力だって戻らないけど…。
 僕が反応しないでいると彼は首を傾げた。やわらかい飴色の髪が揺れる。
「恭弥はヒッキーなの?」
「…そういうんじゃない。僕は、まだ満足に動けないし…」
「満足に動けるようになるためにも、外に出ることは必要だよ」
「……そうなんだけど」
 僕が渋っているのは本当はそういう理由じゃないということを彼は恐らく分かっている。何せ、死にかけの僕を助けたのだから。片腕がもげてビルから落ちて死ぬところだった人間を『すべてはただの事故』とは思っていないだろう。それをあえて無視しているのかどうか知らないけど…外に出て、今までの仕事柄でゴロツキとかに目をつけられたら、撃退が難しい。まだそこまで身体は動かない。
 僕が黙ってゼリーのパックをすすっていると、彼は一つ吐息していつも着ているやぼったいパーカーのポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは、銃だ。
 経験上身構えてしまう僕に構わず、彼は一撃で人を殺傷できる武器をスチール机に置いた。
「不安なら、これを持つといいよ。弾は十八発全部入ってる。こっちが交換の弾倉」
「…………」
 そっと手を伸ばしてピストルのグリップを握った。一応弾の装填を確認する。
 典型的なオート・ピストルで安全装置を解除して引き金を引くタイプのものだ。難しい操作はない。「君のは」「護身用だから、予備はないよ。俺の心配はしなくていい。自衛くらいできる」にこっと笑顔を浮かべる彼を胡乱げに睨んだあと、ここで突き返したらせっかく得た武器がなくなると思い、僕は黙ってピストルと予備の弾倉を受け取った。
 ここでもう一つ問題が出てくる。服装だ。さすがに病人着で外を出歩きたくはない。悪戯に目立つし。
 僕が訴えたところ、彼は唸りながら部屋を出ていった。
 …この部屋にどうして着替えがないのかと呆れながらベッドの下とかあちこち探したけれど、見当たらなかった。諦めて彼の帰りを待つことにして、ベッドに腰かける。
 ピストルを撃つ練習をしながら待っていると、スィフリが戻ってきた。新緑色の何かを抱えている。
「…何それ」
「作業つなぎ」
 ばさっとつなぎを広げて示す彼に、僕は呆れた。「……どうしてそういうものしかないの? この病人着といい、それといい…」機械油か何かで汚れている新緑色のつなぎを顎でしゃくった僕に、彼は苦笑いをこぼす。「あと、白衣なら」「…はぁ」どのみちろくなものはないらしい。病人着よりはマシということで諦めるしかなさそうだ。
 仕方なく彼の手からつなぎを受け取り、着替えようとして、じっとこっちを見ている青い瞳を睨みつけた。
「見ないでくれる変態」
「変態? 俺のこと?」
「そうだよ」
「男同士なんだから変じゃなくない?」
「ガン見するのは絶対に変」
「えー。そうかなぁ…」
 首を捻った彼が仕方なさそうに背中を向けた。そのことにそっと吐息をこぼして上の着衣のサイドの結び目を解く。
 もたつく身体で着替えを終え、つなぎの前チャックを鎖骨辺りまで引き上げた。ポケットにピストルと替えの弾倉を入れ、出し入れを確認する。
 不愉快なのは、サイズが少し大きいことよりも、足の丈が足りなくて裾を折らないといけなかったことだ。
「もういいよ」
 許可した途端彼はぐるっと勢いよく僕を振り返って頭のてっぺんからスニーカーの先までじっと観察してきた。…出たよ変な癖が。「出かけるんでしょ」「うん」「じゃあ歩きながらにしてくれる。時間がもったいない」「うん」本当に歩きながらガン見してくるスィフリにいっそ呆れる。前見て歩かないと転ぶよ。
 目が覚めてからは一週間ぶりだけど、僕が死にかけてからはどのくらいの時間が経過したのか…。とにかく、久しぶりに太陽の下に出て、世界の白さに目が眩んだ。
 廃ビルの影から一歩も踏み出さないで白い世界を睨みつけ、視界が色と眩しさに慣れるのを待つ。
 視線を上まで持ち上げれば、青い空。周囲は廃ビルの立ち並ぶスラム街の一角で、治安維持されている町まではわりと近い。
 視界と意識が昼間の世界の眩しさに慣れるのを待っていると、僕の横をふらっと通過したスィフリがビルの影から陽射しの下に出た。両手を広げて陽射しを歓迎するみたいに大きく深呼吸して、太陽の下で眩むような笑顔で僕を振り返る。
「さあ、行こう」
 誘われるまま、影の中から、白日の世界の中へと歩き出す。
 眩しい。ネオンの色も嫌いだけど、太陽も嫌いだ。どれも僕には痛くて眩しい。
 僕の足取りがまだおぼつかないことを思ってか、スィフリが手を握ってきた。…僕より少しだけ大きい、かな。
 空の青と、ビルの廃れたコンクリートの色、舗装にヒビが入って歩きにくい路面の黒や白線の白。ぼんやりと見えるスラムと町とを分ける規制線の向こうには、怯える夜を知らない町がある。そんな世界の中をスィフリと手を繋いで歩いている。…妙な話だ。本当に。
 僕はどうして生きているんだろう?(彼に助けてもらったからだ)
 彼はどうして僕を助けたのだろう?(それは、まだ訊いてない)
 僕はこれからどうやって生きていこう?(まだ、決めてない)

 赤の他人にここまで施しを受けて、よくしてもらったのは、初めてだ(だから、何)
 繋いだ手に温度があってあたたかい(だから、なんだっていうんだ)
「服も買おうか」
「、え?」
 はっと我に返ると、スーパーの紙袋を抱えているスィフリが首を傾げていた。「つなぎ、嫌なんでしょう? 個人的にも恭弥には似合ってないかなと思うし。どうせ着るなら似合うものを着てほしい」「…僕、お金が」「俺が出すよ」さらっと言ってのける彼に眩暈を憶えて目頭を押さえる。「……そういうわけにはいかないよ」申し出は、とても、ありがたいけど。あまり甘えているわけにはいかない。他人に甘えることを憶えてしまったら、その人がいなくなったとき、自力で立つことを苦しいと感じてしまう。そんなのは嫌だ。
 スラム街に暮らしているくらいなんだから、町に住むだけのお金がないか、町に住めない事情がスィフリにはあるのだ。どんな仕事をして生計を立ててるのか知らないけど、町に住めないのなら、それは合法じゃないということだ。…僕と同じで。
 スーパーの出入り口付近でかごを片付けたり掃き掃除をしていた女店員がみんなそわそわしていると思ったら、帰ろうとした僕らにわっと寄ってたかってきた。
「ねぇこれあげるわ、さっき廃棄処分になったやつなの。明日までに食べてねスィフリ」
「これはね、ここがちょっと欠けちゃってるだけで商品にならない食器なの。よければ使って」
「お店の裏にそういうものいっぱい用意したから、スィフリちゃんがよければ持ってって」
 たかられたのは僕らというよりスィフリで、にこっと笑顔になると「いつもありがとう。助かってる」とにこやかな笑顔で、僕にキスしたのと同じような感じで、自然な流れで、女の頬に順番にキスしていった。キャーと黄色い声が上がるのを一歩離れたところで眺めて、冷めている自分に気付く。
 …上手な生き方だ。そう思った。同時に、僕にはできない生き方なのだろうとも。
 別に、だから何ってわけでもない。僕には関係ない。どうせそのうち、身体が回復したら、彼のもとから去るのだから。
 スーパーの裏手に回ると、女店員が言ったように本当に段ボールが置いてあり、中には商品にならなくなった食品その他が詰まっていた。「せっかくだからもらっていこう」とちゃっかり段ボールを抱える彼に、僕が紙袋の方を持つ。
 思ったより荷物ができてしまった。本当に服を買いに行くんだとしても、一度荷物を置いてこなくてはいけない。いくらスラムの外とは行っても近い場所ではあるんだ。こんな荷物を持ち歩いていたらスリや強盗にあう。
 昼間の世界は相変わらず眩しい。車が行き交うような場所に来たのは久しぶりだ。カフェで談笑する姿、怯えることなく歩道を歩く人々…僕にはすべてが遠い事象だ。僕はもう光の中は歩けない。そういう生き方を自分で選んだけど、たまに、苦しくなる。とくに今は。
 そっと視線を上げると、段ボール箱を抱えているスィフリと目が合った。どうやらまた僕を観察していたらしい。
「何」
 尖った声を出すと彼は首を傾げた。「不機嫌になってる」「は?」「俺がキスしたこと怒ってる?」「はぁ?」素っ頓狂な声が出たことに自分でも驚いた。しかも、なんだって? 君が女の頬にキスしたから僕が不機嫌になってる、って? そんなわけないだろ馬鹿じゃないの。なんで君が女にキスしたから僕が怒るんだよ。意味が分からない。
 ざくざく早足で歩き出す僕に「あ、恭弥、転ばないでよ」と背中に声がかかる。眩しい世界に眩みそうになる足で煉瓦の歩道を踏み締めて、僕がいるべき暗い世界に向かって歩いていく。
 スラムと町とを分けるテープを潜り抜け、廃ビルの朽ちた姿を見上げて足を止める。
 ここが僕のいるべき世界だ。今までずっと一人でこの場所に立ってきた。それなのに。
「恭弥」
 それなのに、僕を呼ぶ、声がする。
 僕に並んだスィフリは段ボール箱を抱え直して「まだ無理は…」何かを言いかけて口をつぐんだ。それであろうことか抱えている段ボール箱と僕が持っている紙袋を空へと放り上げる。
 何を。そう思ったときに初めて気付いた。敵意と殺意の存在に。ビルの影からこちらを狙っている銃口に。
 パン、と弾ける音。
 僕が何かをする暇はなく、スィフリが僕を肩で担ぎ上げるようなかたちで跳んで足元を狙った銃弾を避けた。跳躍したことでさっき放り投げた段ボールと紙袋を中身をこぼすことなくそれぞれ片手でキャッチし、着地の衝撃を利用してざざざと地面を踵で滑りながらビルの壁を背面にするかたちで止まる。
 スィフリはいたって普通の顔で荷物を下ろし、僕を立たせた。「怪我はない?」「ない…」「よかった」いまだ銃口はこちらを狙っているというのに、彼は笑う。「銃は持ってるよね」言われて、今頃ポケットの中のピストルを思い出す。彼は声を潜めるように僕の耳元に唇を寄せて「俺が引きつけるから、恭弥はここにいなさい。危なくなったら撃って。援護射撃はいらない」囁く声音に耳が疼く。
 言うが早いか、僕の返事なんて訊かずに彼は駆け出した。ビルの影から陽射しの下へ。瞬間、速度が跳ね上がる。二足歩行の人間が出すスピードじゃない。
 続けて銃の弾ける音。
 スィフリは弾丸の軌道が見えているかのように最低限の動きだけで弾を避けることを続け、ビルの影に潜んでいた奴に簡単に接近。とん、と軽い手刀が首に入り、男は無力化した。それはあっという間の出来事だった。
(何…?)
 尋常な動きじゃない。少なくとも、常人ではない。
 またどこかから銃撃の音がした。陽射しの下でコンクリートの地面が抉られる。ビルとビルの間に音が反響してどこから撃ってきているのか特定ができない。
 ピストルのグリップを握って構え、安全装置を外す。
 僕には特定できなかった音を彼は捉えたらしい。だん、と強い跳躍で一気に五階分くらいの高さに跳ね上がり、ガラスのない窓からビルの中へと消える。
 …尋常じゃない。
 スィフリは何者なんだ。僕の取れた腕をくっつけたと言ってみせたことといい、今の身体能力といい、とても人間とは思えない。
 少しもしないうちにスィフリはビルの窓から身を投げるようにして飛び出し、簡単に着地してみせた。いたって普通の足取りで「恭弥大丈夫?」と僕の心配をしてくる彼に浅く頷きかけて、
 パン、と銃の音。
 気がついたときには僕はスィフリに抱きしめられていた。苦しいくらいに。
 撃たれたのだ、と気付いて、彼が僕を庇ったのだ、と知って、頭が沸騰した。
 突き飛ばすようにスィフリの抱擁から抜け出して銃を構えて乱射する。十八発全部撃ち切ったところで空の弾倉を捨てて替えを突っ込んで装填し、構えて、恐らく一発も当たってないんだろうことに舌打ちした。
「スィフリ? 大丈夫?」
「だいじょーぶだいじょーぶ。恭弥、右斜め前のビルだ。上から数えて三階めの、一番左端の窓。俺が合図するから照準を合わせて」
 彼の言うとおり、僕から見て右斜め前のビルの、上から数えて三階め、一番左端のガラスのない窓に目を凝らし照準を合わせる。
 今、という彼の声に迷わず撃った。全弾使い切るつもりで。
 耳障りな発砲音が連続でビルの谷間を震わせ響き、やがて沈黙する。
 硝煙が立ち込める中目を凝らしてみたけど、相手を殺ったのかどうかここからでは分からない。
「大丈夫。終わったよ」
「…なんで分かるのさ」
「生体反応が消えたからだよ。死んだってことだ」
 は、と息を吐いて、一つ呼吸して振り返ると、腕を押さえているスィフリがいた。僕を庇って撃たれた部分だろう。
 ぽた、と落ちる赤い色は、血の色だ。
 ピストルをポケットに突っ込んで駆け寄ろうとして、足がもつれた。転びそうになった僕を抱き留めたスィフリが「無理は駄目だよ」と苦笑いしている。
「君は、何者?」
 思わずそうこぼした僕に、彼は淡く微笑んだだけで立ち上がった。僕を立たせると片腕で段ボールを抱え直す。「恭弥、そっち持ってね」そっち、とは紙袋のことだろう。僕が黙って睨みつけて動かないことに気付くと、困ったな、とまた笑う。
「じゃあ、帰ったら話すよ。それじゃ駄目? いつまでもここにいるのは得策とは言えないと思うんだけど」
「…………」
 さっきの銃撃戦などなかったかのように、撃たれた傷などなかったかのように普通の足取りで歩いていく彼の背中を眺めて、渋々紙袋を拾い上げる。
 彼は足を止めて僕を待っていた。「恭弥」と呼ぶ声に仕方なく隣に並ぶ。

 ……何も知らなければいいのかもしれない。僕は何も知らないまま、ただ彼を『自分が本調子になるまでの便利な道具』として扱えばよかったのかもしれない。そうすれば僕は彼をこれ以上知ることもなく、惹かれることもなく、思うこともなかったのかもしれない。
 でも、そんなのは無理だ。
 僕を無償で助けてくれた。生きるために施してくれた。下卑た欲望があるわけでもなく、利用しようと画策しているわけでもない。
 君がなぜ僕を助けたのかを、僕は知りたい。
 君が何者なのかを、僕は、知りたい。