3.有用性

 『スィフリ』というのはスワヒリ語で『0』を意味する数字のことで、名前の由来は、博士が作製した初めての多様性自律歩行型端末…簡単に言えばアンドロイドだ。その記念すべき1作品目に博士はゼロという名前を与えた。それが俺、スィフリだ。
 博士は変わった人だ。持てる技術のすべてをつぎ込んで俺の完成までに情熱や時間を注げたのに、俺が完成して満足のいく出来に仕上がったと分かると俺から興味をなくした。俺のことなんて視界に入らないくらい違う作業に没頭し始めたので、俺は自律型のアンドロイドらしく、自分で知識その他を吸収し思考力を育てるしかなかった。
 そんな博士は放っておくととにかく食事をしない人なので、俺が博士のためにするもっぱらなことは食事の世話だ。

「博士。せめて一日一食は摂ってくれないと、身体がもたない」

 咀嚼すら面倒だという顔をする博士のために用意するのはパックの栄養ゼリーを数種類。博士はそれをとても面倒そうに吸って食べて、またパソコンに向かう。本当に疲れたら眠る。起きたら気分で適当にシャワーを浴びたり散歩に出かけたりしてまたパソコンの前に戻る。その繰り返し。
 博士は何をそんなに熱心にやってるんだろうと首を捻ったけど、パソコンを覗こうという気は起きなかった。なんとなく、それはしちゃいけないことなんだろうと分かっていた。
 俺は自分で自分を育て、博士の面倒をみながら、とくに不自由のない生活を続けた。
 博士が住居としているのは人のあまりいない山の奥で、来客は滅多にいない。栄養ゼリーやたまに入る新しい機械なんかはすべて配送してもらっている。
 俺は、外の世界を知らない。
 博士のそばで博士の補佐をするだけなら、外の世界に出る必要はないし、知る必要もないかもしれない。それでも興味はあったので、知識を吸収するためネット回線に意識を流してサーフィンをした。一つの事柄だけでもいろんな角度からの意見や考え方があって、それらを見ているのは飽きなかったし、ネットの情報量は計り知れないほどあった。底がないのだ。
 夢中になるとつい時間の経過を忘れて博士の食事の世話がお留守になるため、自分にタイマーをセットして、決まった時間になったら博士のもとへ食事を運ぶ…そんな日が続いた。
 なんとなく、このまま日々が過ぎて、博士がまた何かを完成させて、次の何かに取り組んで…そんな時間が繰り返されるのだろうとぼんやりと思っていた。別にそれでもよかった。俺は博士に作製されたアンドロイドだ。博士にそうしろと言われたわけではないけど、博士の面倒は誰かがみなくてはと思っているし、とくに、外に出てしたいこともない。
 このまま緩やかに日々は過ぎるのだろう。疑う余地もない平穏とほんの少しの退屈さに埋もれて。
 ………でも、違った。

「博士?」

 ネットサーフィンから意識を現実に戻し、ゼリーパック片手に博士の部屋を訪れて、足が止まった。
 パソコンの画面が煌々と白い光を漏らす暗い部屋。
 パソコンの前のチェアーに博士の姿が見える。左利きの博士は右の肘掛けに頬杖をつくようにして画面を見ていることが多い。今は、左側に大きく身体を傾けて、今にもチェアーから転がりそうだ。「博士、寝てるの? ベッドにした方が…」ぱたぱたとスリッパでパソコンの前まで行って、その画面に記された『DELETE』の文字に、博士に伸ばしかけた手がぴたりと止まる。
 デリート。一体何を。いや、そんなことより。
 俺が近づいても何も反応しないでだらりとしたままの博士の首に指を添える。…脈がない。
 この部屋では無線での通信はすべてシャットダウンされるので、有線のものしかデータが飛ばない。生体反応を確認したくても頭の中にはエラーの警告が表示される。
 部屋の入口まで戻って電気をつけた。博士は動かない。視覚的にも脈の有無を確認するために博士のもとに戻り、首と手首に手を当てながらじっと博士を見つめた。
 やっぱり、脈はない。
 でも、どうして。
 博士の姿を最後に確認したのは10時間ほど前、食事の有無を確認しに行ったときだ。そのときはいつも通りの様子でいらんと一蹴された。
 外傷はなし。仮に外部からなんらかの方法で侵入を試みた輩がいるとして、システムの警告は俺にも届くはず。気付かないはずがない。そういった連中に妙な薬を飲まされたと仮定するには無理がある。
 なら、博士はどうして死んでいるんだろう? 自分が死ぬことを予期していたかのようにパソコンのデータをデリートして…。
(死ぬことを予期していたかのように…)
 自分の思考にはっとした。同時に、それしかありえない、とも思った。
 博士を不幸な突然死が襲ったという可能性はないとは言えないけど、確率的にとても低い。
 博士は恐らく持病的な何かを抱えていた。それを俺に告げることもなく、医者にかかることもなく、死の気配を感じながらも生活していた。したいことを誰にも遠慮せずにしたい人だったから、自分の命の残り時間にさえ遠慮しなかったのだ。
 病気が治る可能性が低く、治療に取り組んだとしてもあまり回復の見込みのない、末期癌のような…そんなものに侵されていたとしたら、博士がこの結末を辿ったことは、むしろ納得できる。
 ふっと一つ吐息して、博士をチェアーから抱き上げた。ベッドの上へと移動させて両手を組ませる。死後硬直が始まってそれなりに時間がたっているようで、指が硬くて、開かせるのに苦労した。
 その手からぽろりと何かが落ちてベッドの上で跳ねた。力加減を間違えて折れた指、じゃない。小指の爪ほどしかない記録媒体…チップだ。
 博士なら、チェアーに座ったまま死んでいるあなたを見た俺の行動など予測できたはずだ。何せ俺を作った人なんだから。俺がこうして博士をベッドに安置させることも想像できたはず。こうして手を組ませようとすることも。
 それならこのチップは博士が俺に遺したものということになる。
 博士の手を慎重に組ませ、チップをつまんでかざす。
 あの博士が最期に遺したものだ。心構えがいる内容かもしれない。あるいは、パソコンのデリートしたデータがこの中に圧縮保存されているって可能性もある。どのみち貴重な代物だろう。博士が死亡したと届けを提出して政府の人間を研究所に入れる前に隠さなければならない。
(隠すって、どこに)
 過去に政府で働いていたという博士の経歴を考えれば、この研究所の中はくまなく調べられるとみて間違いないだろう。どこかに保管していたんじゃ都合のいい理由を並べ立てられて没収されるに決まってる。……それなら。

「博士が俺に遺したんだから、俺が取り込まないと、意味がないってこと、だよね」

 小さなチップを首の後ろに押し当てる。脊髄から表皮まで滲み出てきたナノマシンがチップに接触する。コール音のあと頭の中にウィンドウが開いた。『ACCOUNT』の欄に博士のコードネームを入力し、『PASSWORD』の欄を前にして思考が止まる。パスワード。聞いた憶えはない。
 これが博士が俺に遺したものなら、これでいけるだろうか。
『sifuri』
 ゼロの意味を持つ自分の名前を入力し、確定する。
 次の瞬間、滝の流れのように容赦ないデータ量が俺の頭と言わず全身を圧迫し、身体が固まった。
 予想もしていなかった量だ。こんな小さなチップに圧縮されたデータがこれでもかというほどに詰まっていて、それは俺の意思を無視して次々ダウンロードされて身体に浸透していく。ダウンロードされたデータは痕跡すら残さずチップから消去され続け……データがすべてダウンロードされる頃には俺は膝をついてうなだれていた。
 とても短時間で処理しきれる量ではないのに、無理矢理流し込まれて、思考力はかなり低下、それに伴い身体能力も低下していた。
 首に貼りついていたチップが役目を終えてぽろりと取れて、自然発火して燃え尽き、灰すら残さず空気の中に消える。
 頭の中では最後に展開された文章が点滅していた。

『これからお前は苦難の道を行くだろう。様々な人間がお前のことを悪意をもって利用しようとする。
 お前の価値は計り知れない。たとえ私がデータを残さずとも、お前を分解し、その身体の全てを切り刻めば理解できると思っている愚か者は少なからず存在する。
 未来を模索せよ。お前がお前として生き残る方法を見つけ出せ。それは安易なことではないが、不可能ではない。
 信頼できる友の一人も持てず、お前の行く先を保障できず、すまない』

 ぽた、と落ちた滴に気付いて、処理力不足でぎこちない指を伸ばして触れてみる。水…のようだ。一体どこから。
 ぽた、と落ちた滴の軌跡を計算すると、自分の目の辺りだという結果が出た。そんなはずはと目頭に指を押しつけて離すと、確かに濡れていた。
 これは、なんだろう。オイルが漏れたのかな。でも、身体は重いけど、どこもおかしくはない。異常は見当たらない。じゃあ、これは、なんだろう。
 ぽた、ぽた、と床に落ちる滴を眺めながら、疲れたな、とその場に蹲る。タスクがいっぱいだ。一端再起動して、不必要な領域を解放して、それから…全部、そのあとだ。
 博士の死亡届けを提出すると、博士の死を今か今かと待ちわびていたらしい政府の人間が一番に飛んできた。俺が予想した通り『博士の死の原因を特定するため』だとか言って研究所内をあれこれと弄り倒し、パソコンその他は当たり前のように押収された。
 博士が自分達に何も残していないらしいと分かって政府の人達は顔を顰めていたけど、黙って葬儀に必要な手続きや手配を進めている俺のことをひそひそと話し出す。『彼がかね?』『ええ。ついに完成されたらしいと噂には聞いていましたが…』『しかし、どう見ても人間だな』『いや、素晴らしい出来じゃないか。ぜひウチで引き取って今後の研究の発展に貢献してもらいたいものだ』『いやいや、それなら我が社のライフラインの安定にこそ彼の力をだね…』みんな勝手なことを言っている。どうやら博士の死を慮る人間はここにはいないらしい。
 その後、その場の話し合いだけでは決着がつかないと踏んだ彼らは、勝手に俺を勧誘していった。『ぜひ君を我が社に引き入れたいのだが…』というお決まりのアレだ。
 俺はどこにも行く気はなかったのでどこにも返事を出さずにいたけど、利用価値も希少価値も高い俺のことを彼らが放っておくわけがない。
 博士の葬儀は仕事上付き合いのあった人間が義務的に参加しただけの集まりで終わり、遺灰は公共墓地に安置されることに決まった。
 葬儀の場でも再三ウチに来ないかと誘われたけど、すべてに返事をしなかった。黙秘というやつだ。それで彼らが引き下がるとは思っていなかったけど、正直、口を利く気にもなれなかったというのが本音だ。
 葬儀から一週間後、政府に雇われたというスーツに眼鏡の弁護士が俺を訪ねてきた。大事な話があるらしい。
「君はね、今とてもマズい立ち位置なんです。いいですか?」
 やってきた弁護士はガラスのテーブルの上に次々と書類を並べた。
「主要五社が君の権利をかけて争っています。君には所有者が必要だ。なぜか分かりますか?」
「…俺がロボットだから」
「その通りです。今間近に見ていても、私の目にも君は人間のように映りますが、それでも君はロボットです。機械だ。機械の絶対的定義とは何か分かりますか?」
「…人類のために貢献する道具であること」
「その通りです。君は機械であるが故にその存在意義を問われています。君はまず自分の有用性を証明しなくてはならない。その証明までに与えられた期間は、一ヶ月です。その期間内に自分は人類にとって有用な存在であると証明できなければ、君は処分されます。ただ生かしておくには危険な存在として」
「……そうやって恰好つけて、処分って形で公表して、俺を切り刻むって魂胆なんでしょう」
 ふっと吐息してお茶をすする。弁護士は顔を顰めていた。「まぁ、そうでしょうね」とぼそっと俺の予想を肯定する。
 一ヶ月。その間に自分の有用性を証明できないと、俺は強制的に処分の道を辿るらしい。
 俺が誰かの所有物だったなら、起こらない事態だったんだろうけど。博士は俺を託す先を見つけられなかった。俺が機械である以上、誰かのために存在しなくてはならない。そうでなければ強制的にそういう存在にさせられるだけだ。
 弁護士のお兄さんは静かに名刺を差し出してきた。「証明に必要なのは、データです。もしそういったデータが収集できた場合、ここに送ってください。手続きは私が行います」名刺を受け取って宛先を記憶し、テーブルに置く。「お仕事大変ですね」と笑うとお兄さんは渋い顔でお茶をすすった。
 自分の、有用性。
 人類にとって必要な存在であること。人類にとってその利用価値が高いこと。殺しておくより生かしておく方がためになる、という、証明。
 博士は俺に生きろと遺したけど、現状、俺が生き残るのはとても難しい。人類にとっての有用性なんて考えればきりがない。
 人類のためになること…たとえば人助け。
 あるマフィアから追われていた人を助けたとしよう。それは助けられたその人から見れば、俺は『有用』で価値のある存在だと思うことだろう。でも、マフィアの人間からすれば、俺は自分達の仕事の邪魔をした『不要』な存在でしかない。ということは、計算すれば俺は『不要』の票を多く得ることになる。ただ人助けをすればいいってもんじゃないのだ。
 自分の有用性を模索しながら、博士の研究所があった山の奥から、街のスラム街までやってきた。その頃には与えられた期間から一週間が過ぎていた。
 俺が俺でいられるのはあと三週間と少し。
 その日も自分の有用性について思考を巡らせながら、夜のネオンを背中に受けながら、夜の散歩をしていた。
 空気を震わせた鈍く大きな音に気付いて足を止める。…なんだ、今の音。
 空気の振動から落下した物体と速度を計算し、それが人で、どうやらどこか高い場所から落下したらしいと知る。さらに音の出所を探ってその場所に行くと、計算した通り、そこには人がいた。近くにあるのはビルだ。どうやらあの高さから落ちて、まだ息をしている。普通なら即死してもおかしくないのに。
 右腕が不自然な傷口で欠けている。傷自体は新しい。探せばその辺りに腕が落ちているかもしれない。
 夜の色に沈んだコンクリートに広がっていく赤い色が、ネオンの七色を反射して、まるで虹のようだった。
 まだ意識があるのか、くすんだ灰色の瞳が俺を見上げている。
(虹を背負ってる…)
 俺にはそう見えた。
 たとえるなら、宗教絵画。背に翼を生やして微笑む天使のような存在。
 ………間に合わないかもしれないし、間に合うかもしれない。
 そもそもこれは俺の有用性を証明することになるのだろうか、と思いながら、手を伸ばした。血に沈んでいる身体の傷口に掌を当てて、表皮から滲み出したナノマシンでとりあえずの止血で傷口を塞ぐ。傷口から侵入させたナノマシンが全身を覆うよう設定し、ナノマシンが送ってくるデータの羅列を頭の隅に追いやり、七色の血の虹からぐったりしている身体を抱き上げた。
 取れてしまった腕を探さないと。今ならまだくっつけられるかもしれない。
 傷という傷の止血をクリアしたナノマシンが損傷部分の回復を始めたので、腕の傷だけスルーするよう設定し直し、ビルの階段を上がりながら人の腕を探した。
 さんざんうろうろした結果屋上で取れた腕を見つけた。あと、死んでいる人も。
 腕を拾って傷口に当て、治療を開始する。
 …状況から見たところ、この子はそこで死んでる男となんらかの理由で殺し合いをして、その過程で腕をなくし、ビルから落ちた。そういうことだろう。
 ここはスラム街だ。そういう仕事だってあるだろう。
 綺麗なバラには棘がある、みたいな生き方をしてるんだなぁ。すごいな。俺にはできそうにない。自分の存在意義…人のための道具という大前提を蹴飛ばしてまで生きたい理由がない。
 腕が無事くっついたので、破裂した内臓や損傷した神経を治療しているナノマシンを気にしつつ、夜に沈んでいる町の中を歩いて今現在の住居へ帰宅した。誰も住んでないみたいだったから住ませてもらっている、大した設備もない地下の部屋だ。
 かろうじて機能している寝台にそっと横たえた相手はまだ死にかけている。安心できる生命ラインには至っていない。ピピ、と音を立てて心拍数その他の計測数値を表示したデジタルウィンドウを指で弾く。
 死ぬかもしれないし、生き残るかもしれない。
 これは俺の有用性を証明するのかもしれないし、関係ないのかもしれないし、不要と判断される材料になるだけかもしれない。
 それでも助けようと思った。助けたいと思った。バラみたいな生き方をしている、君を。