追い落とした花蕊

 休日は、少し忙しい。平日も少し忙しい。ああ、だから、毎日忙しい。
 やることがたくさんある。朝は朝ご飯の準備から始まって、仕事や学校に行くみんなを見送る。そこから食器を片付けて洗濯をする。干す。恭に頼まれたときは庭の草木に水をやる。平日ならお昼は用意して三人分、または二人、または自分の分だけ。休日なら全員分。いない人は除く。この間は雲雀が出前のお寿司を取ってくれたから、調理する必要がなくて少し楽だったかな。
 食器を片付けて、少し休憩を取る。それから冷蔵庫の中を見て買出しに出かけたり、家の掃除をしたりする。仕込みの必要な料理はそこで手をかけ始める。
 休日だと、誰かに付き添ったりもする。この間は恭ちゃんに言われて画材屋さんというところに顔を出した。恭ちゃんは絵を描くことが好きらしく、鉛筆だけで描いた絵を見せてもらったけど、上手だった。せっかくだからと恭ちゃんに色々買ってあげた。お金は、雲雀から預かったものだけど。きちんとレシートを取ってあるし、家計簿もつけているから、大丈夫だとは思う。何か言われたら俺が謝ろう。恭ちゃんは悪くない。
 話が逸れた。それで、休日は誰かと出かけたり平日と一緒の午後を過ごしたりで、これもまたまちまちだ。
 掃除なり買出しなりをすませて洗濯物を片付け、夕食の準備に移る。
 平日、一番に帰ってくるのは恭ちゃんで、次が恭くん、次からはばらばらだ。恭弥はバイトをしてるし、恭の仕事は日によって忙しさが違う。雲雀は帰ってきたりこなかったりするから、料理が余ったりする。余った分は次の日朝ご飯で自分で食べたり、恭弥のお弁当に上手く取り入れて片付ける。
 夜ご飯が終わったらお風呂の準備をして、みんなに先に入ってもらう。俺はだいたい最後。みんながお風呂に入ってる間に食器を片付けて、台所をきれいにして、朝の仕込みをしておく。
 お風呂をすませて、最後に家の施錠なんかの確認をする。電気を消して部屋に戻る頃にはだいたい日付けが変わるか変わらないかくらいの時刻になっていて、疲れていたらそのまま眠ったり、体力が残っていたら恭にもらった雑誌を読んだり、空がきれいだったら、テラスから月を見上げたりする。
 そうやって日々を過ごすことに慣れてきた。ときどき頭が痛むことがあるけれど、もう包帯はしていない。あってもお風呂とかで邪魔なだけだ。出血はないのだし、外しても大丈夫だろう。
 自分のことは、まだ何も思い出せない。
 ぼんやりテラスから月を見上げていると、ばさりと音がした。視線を上げる。上から何か降ってきた。ばさっと頭に被さった何かに手をやって目の前に持ってくると、スーツの上着だった。一つ瞬きして顔を上げる。二階の部屋の窓が開いていた。あそこは確か、雲雀の部屋だ。
 落としたんだろうか、と首を捻ったとき、窓枠を乗り越えた雲雀が見えた。器用のレベルを超えて、運動選手みたいに淀みない動作で二階から一階のテラスに着地した雲雀が「風邪を引くよ」と言って俺の手から上着を取り上げた。袖を通してボタンを留める姿に「今から仕事?」と訊くと「そうだよ」と返された。そうか、大変だな。雲雀は仕事で外に出てばっかりだ。
 雲雀の仕事先で、俺は拾われたのだった。あのときはぼんやりしていたからよく憶えていないけど、雲雀は、あまり表立って言える仕事をしていない。こういう夜の闇に紛れてしまうような仕事をしている。それも一つの在り方だと、俺は思っている。
「明日はいないの?」
「どうかな。よく分からない。連絡入れるよ、家に」
「分かった」
 頷くと、雲雀はしばらく黙って俺を見つめていた。月夜の光を鋭角に映し出す瞳を見つめ返していると、「携帯を買おうか」とぼそりと言われた。俺は首を傾げる。「どうして?」「キミと連絡が取れないだろ」「家に電話くれれば、取るよ?」「いなかったりするだろう」「ああ。そうだね」買い物に出てたりするかもしれない。そうか、なら携帯はあった方がいいのか。俺が感心していると、雲雀は眉間の皺を解すような仕種をしてから「じゃあ行くから」と言ってテラスを下りていった。その背中にひらりひらりと手を振る。黒いスーツ姿の雲雀は夜の闇に紛れて次第にその姿が分からなくなり、やがて消えた。
 ぱたり、と手を下ろす。ぼんやり闇を見つめてから視線を上げる。今日の月は、だいぶ丸みを帯びていた。あと何日かすれば満月になるんじゃないだろうか。
 目をこすって、テラス用のプラスチックの椅子から立ち上がる。
 そろそろ寝ないと、明日起きれないといけない。しっかり鍵を閉めてから部屋に戻って、目覚ましのセットを確認してからベッドに潜り込む。
 夢は見た。でも何も見なかった。空っぽの俺の頭を映すように、夢は空っぽで、空っぽという夢を見ていた。
 記憶は戻らない。何も思い出さない。病院へ行って検査とかを受ければ何か分かるかもしれない。でも、俺にはお金も身分証明できるものも何もない。今のところ、そう不自由があるわけでもない。それに、必要だったら雲雀か誰かが連れて行ってくれるだろう。だから自分からは言い出さない。
 雲雀がここに置いてくれたから生活できているけど。雲雀に拾われなかったら、俺はどうなっていただろう。
 朝になって、一番に恭が起きてきた。恭は朝が早い。その分お昼に眠ることも多い。そういうサイクルで生活してるようだ。着物姿がよく似合う恭に「おはよう」と言われて「おはよう」と笑顔を返す。今日の朝食は梅干とシソを入れた卵焼きに、白いご飯と豚汁だ。
 温めていると、恭がキッチンまでやってきた。温めている鍋を覗いて「いいにおいだね」「豚汁作ったんだ」「ああ、なるほど。相変わらず上手だ」やんわり笑いかけられて笑い返す。少し照れくさい。できることをしているだけだけど、褒められるのは嬉しい。
 朝食を二人分用意した。俺は本当は使用人だから、一緒に食べるのは遠慮した方がいいんだろうと思うんだけど、恭が食べようっていう。それに甘えて、一緒に食べることにしている。
「昨日、兄さんは仕事に行ったのかな」
 ぽつりとした問いかけに頷いて返して豚汁をすすった。箸の方はまだ慣れない。練習はしてるんだけど、どうしても取り落とすのだ。恭みたいに上手になりたい。
 せっかくきれいな、漆塗り? の箸だから、なんとか使っている。卵焼きを挟んだら力加減が足りなかったようでぐしゃっと潰してしまう。恭はそんな俺を見てくすくすと笑った。
「慣れないようだね」
「うん。難しいね、箸って」
なら使えるようになるよ」
「うん」
 潰れてしまった卵焼きをなんとか口に持っていく。せめて落とさないように気をつけながら朝食をすませて、恭は仕事だからと早めに家を出て行った。
 今日は平日だから、次にリビングにやってくるのは恭弥だ。「おはよう」眠そうな顔に挨拶すると「はよー」と眠そうな声が返ってきた。手早く朝食を用意すると、恭弥はさっそく食べ始める。次に起きてくるのは恭ちゃんで、最後が恭くん。「おはよう」「おはようございます」軽く会釈されて笑顔を返す。恭ちゃんは礼儀正しいいい子だ。まだ小学生なのに偉い。
 恭くんは、あまり俺のことが好きじゃないのかもしれない。目を合わせてくれないし、「おはよう」と挨拶しても返ってこないことの方が多い。恭がいるとそんな恭くんを窘めたりするけれど、今日はもういない。だから挨拶の返事を聞かないまま朝食を準備する。
 食べ終わった恭弥が慌しく学校へ行く。恭くんと恭ちゃんは同じくらいに家を出る。
 そうして、今日は家に誰もいなくなった。
 朝食の後片付けをすませて、一つ息を吐く。洗濯機を回してる間に草木に水をやる。余った時間は、あまりつけないテレビを見る時間にした。みんなあまりテレビを見るって習慣がないようだ。新聞に目を通すのは恭くらいだし、世間に意識が薄いというか、疎いというか。
 ぼんやりニュースを眺める。日本はあまり凶悪性のある事件が起きないから、平和だと思う。
 視界にかかる金色の髪をつまむ。鏡で見ると俺の目は青と緑を混ぜたような色をしてる。どう見ても日本人の色ではない。なら俺は日本人からいう外人、なのだろう。何人なのかまでは分からないけど。
 ぼうっとニュースを眺めていたら、洗濯機が終了のお知らせをしてきた。ピーピーピーと電子音に呼ばれて、テレビを消して洗濯物を干す作業に移る。
 今日も空は晴れていた。吹く風は心地いい。夏が終わり、秋が来る前なのだと恭は教えてくれた。
 日本は四季の移り変わりで有名だったな、と思い出す。けれど、浮かぶ知識、情報には、自分の思いは何も付与されていない。
 心にぽっかりと空洞がある。そこを風が吹いている。穴を埋めたい、と思う。けれど、忘れてしまったことはまだ思い出せない。
 なら、違うもので埋めるしかない。吹く風を寒いと思うのなら、穴が嫌だと思うのなら、違うもので埋めるしかない。
 何でもいい。何でも入る。なら、何でも詰め込もう。いつか埋めよう。この穴を。
 最後のタオルを干してからテラスをあとにする。洗濯カゴを戻して、今日のお昼は自分の分だけでいいのだと気付いた。冷蔵庫を覗いてジャムを取り出す。この間作ったりんごのジャムだ。戸棚の食パンを持ってきて塗って食べた。自分の分だけだと俺は手を抜いてしまうようだ。洗い物も大して出ないし、お昼はもうこれでいい。
 午後になって、電話がかかってきた。出ると雲雀からだった。夜には帰るからご飯がいるという電話だった。了承して受話器を置く。用件はそれだけで、そのためだけに電話をくれたようだ。
 なら夜ご飯はいつものように六人分だ。恭は遅くなるけどご飯はほしいと言ってたし。今日は何にしよう。
 この間買ってきた料理の本をぱらぱらとめくる。これを見た恭弥は呆れたような驚いたような顔であんたこんなの作れるの? と言っていたっけ。
 よし、なら作ってやろうじゃないか。せっかく買ったんだから作れるよ、お店のビーフシチューの味くらい。
 冷蔵庫から牛の塊を出して処理し、フライパンで焼き色をつけてから鍋に移して赤ワインのボトルを開けた。たっぷり一本使って煮込みを開始する。玉ねぎをじっくり炒めてから鍋に入れ、ローリエの葉を数枚沈めた。強火で煮込んでる間にマッシュルームをスライスして、アクを取り除いた鍋の中に投入。火はとろ火、と。
 一つ息を吐いて顔を上げる。洋物だけど、いいよね。雲雀家は和風が常みたいだけど、俺は洋物の方が好きかもしれない。
 午後にすべきことをすませて、上々な仕上がりになったビーフシチューを完成させ、夕方。雲雀が帰ってきた。眠そうな顔で「ただいま」と言われて「おかえり」と返す。雲雀の手には小さな紙袋があって、それをぽいとこっちに放ってきた。ばしとキャッチして見てみると、携帯が入っていた。黒い筐体だ。パカンと開けると電源が入っていた。これは、俺の、だろうか?
「キミのだよ」
「…いいの?」
「いいよ。ついでにボクの番号とか入れておいたから」
「ありがとう雲雀」
 笑ったら、雲雀は顔を逸らした。疲れたって感じに椅子に腰かけて「ご飯」と催促するから、「ビーフシチューなんだ」と説明してみる。特にリアクションはなかったから食べるってことだろうと受け取ってお皿によそう。ご飯がまだ炊けてないから、パンになっちゃうな。いいかな。
 パンとシチューを並べる。気だるげにスプーンでシチューをすくった雲雀の動向を見守る。味見の段階ではおいしかったけど、みんなの口に合うかどうかはまた別の問題なのだ。
「…ワイン使ってるの?」
「アタリ。分かる?」
「そりゃあね。キミは好きだね、凝った料理が」
 呆れたような口調だった。でも手は動いている。おいしいとは言ってくれないみたいだけど、不合格でもないってことだ。なら、いいか。
 お皿を拭うようにパンできれいにして平らげた雲雀が「お風呂、はまだ入れてないよね」「あ、ごめん」「いいよ。シャワー浴びて寝る」ふらりとリビングを出て行く雲雀のスーツの背中を見送ってから気付いた。慌てて追いかける。「待って雲雀」「何」「怪我してるんじゃ」言いかければ、気だるげにこっちを振り返った灰色の目に睨まれた。
 スーツの背中に汚れがあったのだ。転んだのか蹴られたのか、少しかすっている。雲雀が怪我をしたかもしれないと思うには十分だった。
「どこも痛くない?」
「…少し痛む。シャワー浴びたら行くから、湿布でも用意しておいて」
 ふいと視線が外れて、雲雀は着替えを取りに部屋に戻っていった。
 言われたとおり俺は湿布を探した。冷蔵庫で冷やしておいた方がいいだろうと袋ごと突っ込んで、切り傷や擦り傷があった場合を考えて救急箱を展開して中をあさっていると、「大げさだよ」と声が聞こえて手を止める。頭からタオルを被っている雲雀は上を着ていなかった。どかりとソファに腰かけるとぞんざいに髪を拭い始める。浴びて出てきたって感じだ。シャワーだから仕方ないのかな。
 背中が見えなかったから移動する。雲雀は気だるそうに俺に背中を向けた。きれいな背中だった。男にしては細いし、生傷のようなものも少ない。喧嘩事をやってるにしてはきれいな背中だった。左側の肩甲骨辺りに少し青痣がある以外は。
 湿布だな、と判断して冷蔵庫から取ってくる。きれいな背中にぺたっと湿布を貼りつけた。雲雀はソファに寄りかかったまま動かない。そろりと顔を覗いてみると、眠そうだった。
「雲雀、何か着なくちゃ。眠るなら部屋へ行かないと」
「…髪。拭いて」
 ぼそりとした声に、放置されていたタオルを手にして黒い髪を拭う。昨日の深夜仕事に出て行って、眠っていないんだろう。雫のなくなった髪からタオルを外して「だいたいいいよ。雲雀」反応のない雲雀の顔を再度覗き込むと、寝そうだった。
 人差し指で頬を引っかく。どうしようか、と考えてからタオルをソファにかけた。眠そうな雲雀を抱っこしてみようと試みる。背負うか腕に抱くか。どっちがいいんだろう。考えてから抱く方かなと手を伸ばして、ばしんと振り払われた。ぱちと目を開けると俺を睨んで「何しようとしてんの」と棘のある声を出すから「抱っこして部屋に連れてこうと思って」そう言ったら雲雀は呆れた顔をした。「大の男抱き上げてどうするのさ。歩けるよ」頭を振って立ち上がった雲雀が少し頼りない足取りでリビングを出て行く。
 残された俺は、濡れたタオルをテラスの手すりにかけて干した。二階を見上げてみる。窓は開いたままだ。寝るときは閉めないと風邪引くよ、雲雀。
 恭は一番最後に帰ってきた。外着用の着物姿で少し疲れた顔をして「ただいま」と言って玄関の引き戸を開けた頃にはもう十時だった。とたとた廊下を歩いて「おかえり恭。遅かったね」「ああ…そうだね。遅くなった。ご飯は何かな」「今日はビーフシチューだよ。みんなに好評」「そう。それは楽しみだ」笑みをこぼした恭に俺も笑顔を返す。恭ちゃんはちょっとお酒っぽいって苦い顔をしてたけど、おいしいって感想はみんな同じだった。きっと恭も気に入る。
 恭が着替えてる間にご飯を用意した。ほかほかの白いご飯にビーフシチュー、付け合せの野菜。
 黒い着物姿で戻ってきた恭が席に着く。俺はもうすませてしまったから、麦茶のコップだけ持って斜め向かい辺りに座った。
 手を合わせた恭がシチューを食べ始める。俺はコップの麦茶を飲む。
 雲雀はあれから起きてこない。まだ眠ってるんだろうか。
「これは、赤ワインで煮込んだのかい」
「アタリ。恭ちゃんとかにはちょっと早かったかな」
「そうだね。まぁ、たまにはいいんじゃないかな」
 スプーンを口に運ぶ恭が「まるで三ツ星レストランの味だ」なんて言うから思わず笑った。それくらいおいしかったらいいな、手間暇かけて作ったから。
 そうして食事をすませた恭はお風呂に入って部屋に戻った。
 俺は後片付けをして最後にお風呂に入って、いつものように家の中を見回る。鍵をチェックして朝ご飯の仕込みをする。ご飯のセットと、ちょっとしたおやつの準備。インスタントコーヒーを溶かして砂糖を入れてよく混ぜ、粉寒天を入れる。器を氷水に当てて荒熱を取ってタッパに移した。冷蔵庫に入れてよく冷やす。あとは明日起きてからやろう。キャラメルクリームくらいすぐ作れるだろうし。
 かたんと音がして顔を上げて振り返る。暗い中目を細めて、「雲雀?」と呼んでみる。違ったらだいぶ失礼だ。でもどうやら当たったらしいと分かったのは、否定の言葉がなかったからだ。ふらりとキッチンに入ってきた雲雀が「甘いにおいがした」「ああ、うん。明日の朝の用意してたから」「そう」眠気はだいぶ取れたらしい。キッチンの電灯の中で雲雀は目を細めて俺を見ていた。
「ねぇ」
「うん」
「今食べたい」
「え。うん、分かった、ちょっと待ってね」
 冷蔵庫を覗く。寒天はまだ固まっていない。どうしようか悩んで、別のものを作ることにした。
 大きめのマグカップを用意して、冷蔵庫から業務用の板チョコを取り出す。白いそれをばきっと適当な大きさに折って、残りは戻した。折ったチョコをビニールに入れて麺棒で叩いて砕く。マグカップに入れて、インスタントコーヒーの粉も入れた。お湯を沸かして注いで溶かし、よく混ぜる。牛乳を入れてレンジで加熱、またよく混ぜる。バーミックスとかあると便利だな、と思いながら冷凍庫から業務用のバニラアイスを取り出して大さじ一つ分カップに落とした。上からメープルシロップをかける。一連の俺の行動を、雲雀はじっと見ていた。
「はい。飲み物だけどいいかな」
 無言でカップを受け取った雲雀がスプーンでアイスを沈めた。「手間をかけるのが好きだね」という呟きに笑う。それくらいしか、俺にはかけられるものがないし。
 雲雀は熱いものが平気だから、すぐにカップを傾けた。眉を顰めて「甘い」とぼやかれて「うん」と笑う。俺は辛いものより甘いものの方が舌に合う。雲雀は甘いものが嫌いだろうか。首を傾けて「甘いの嫌い?」と訊くと肯定も否定もされなかった。どちらでもない、ということだろうか。今度からは少し気をつけてみようか。
 カップを傾ける雲雀をぼんやり見つめる。目が合った。灰色の瞳は切れ長で鋭い。カップを口から離した雲雀は世間一般から見てもとてもきれいな部類に入ると思う。贔屓目を除いても、買い物へ出かけても雲雀兄弟ほど整った顔立ちの誰かは見ない。
 すっとカップを差し出された。「飲んでみれば」と言われて、カップを受け取って飲んでみる。うん、まぁこんなものだろう。チョコとインスタントコーヒーがもう少しいいものだともっとおいしくなるだろうけど、市販品だから、こんなものだ。お店の味には少し遠いかな。
 カップを返す。「こんなもんだろうね」と俺は笑う。雲雀は何も言わずにカップを傾けて、黙って中身を飲み干した。
 カップをシンクに置いた雲雀が手を伸ばして俺の顔を掴んだ。カップは水につけておかないと、と思った俺に動くなとばかりの行動だ。大人しく動かないで「雲雀?」と呼んでみる。鋭い眼光がじっとこっちを睨んでいる。
「…この目が気に入ったんだと思ったんだけどな」
 ぼそりとした、多分独り言だった。首を傾げたくても両手で頬を挟まれてて動けない。
 と、いうか、キスしそうなくらい近いと思うのは、俺だけだろうか。
「ひ、ばり?」
「……やめた」
 ふいと顔が逸らされて、手が離れる。雲雀はそのままリビングを出て行った。残された俺は雲雀が出て行ったのを見届けてから、カップを水につけた。明日洗おう。今日はもういいや。
 部屋に戻ってベッドに潜り込む。目覚ましのセットを確認してから目を閉じて、枕元に携帯を置いた。
 今のところ、これにはまだ雲雀の携帯しか登録されていない。