4.愛情論

 俺、『スィフリ』のありのままを話し終えた頃には随分時間が立っていた。ここはいつでも薄暗くて時間の経過が分かりづらいけど、脳内時計ではあれから二時間は進んでいる。
 恭弥が難しい顔をしてスチール机を睨んだまま動かないので、「コーヒー淹れてくるよ」と声をかけて席を立つ。部屋を出るまで視線で窺ったけど、恭弥は難しい顔のままだった。
 恭弥が俺の話をどう捉えたのかは分からないけど、中身もありふれた話とはいかないし、突然すぎたろう。
 恭弥が聞きたいというから話したけど、その判断が正しかったのかはよく分からない。
 一週間接してきて、人間として観察してきて、恭弥はいい子だと思った。だから話した。
 ひょっとしたら、俺も、誰かに吐き出したかったのかもしれない。自分の不遇を。
 恭弥には両親といえる存在はなく、生きる環境に恵まれなかった。親からの愛情を知らずに育った。
 スラム街で危険な仕事を請け負って生きていくしかなかっただけで、人の好意に飢えている。
 本人は絶対認めようとしないだろうけど、愛されたいと、そう思っているはずだ。できるものなら規制線の向こうで怯える夜を知らずに暮らす人々の中に混ざりたいとすら心の奥底で願っているかもしれない。
 恭弥はいい子だと思う。愛を求めたら愛を返してくれる、そんな子だと思う。

 俺が、俺の有用性を証明するために君に愛してほしいんだと言ったら、恭弥はどんな顔をするだろう。
 愛してくれるなら愛したいと告げたら、恭弥はなんて言うだろう。

「はい」
 マグカップを置くと恭弥は灰色の瞳で俺を睨み上げた。「ねぇ」「うん」「その証明期間っていうのはあと何日あるの」「約二週間」向かい側に腰かけてコーヒーをすする。苦い。博士は眠気覚ましだと言ってよく飲んでたけど、俺にはコーヒーのよさはよく分からない。
 恭弥は難しい顔でカップのコーヒーを睨みつけている。
「君の、その、有用性が証明されれば、君は自由になるわけ」
「いや。とりあえず処分が延期になるか、よければ取り消されるだけ。俺がアンドロイドである限り所有者が必要なんだ。これは法的に決まってて…だから、今回の証明に成功しても、俺が自由になることはない。一生」
 自分で言ったものの、少し重いな、と思った。現実が。
 そう、たとえここで俺の有用性の証明に成功しても、俺の処分という形でバラバラにされることを回避するだけであって、それ以上ではない。俺には機械としての所有者が必要で、その権利を争っている人達がいる。俺が人だったらまた違ったんだろうけど、俺は機械だ。俺の意見なんて無視される。
 人間にとって『必要』ならば処分は取り消されるが、機械である以上『所有者』が必要で、俺はその所有者が決まるまで一時的に自由を得る…という感じだ。利権で争ってる裁判に決着がつけばどこかが俺を引き取ることになるだろう。
 恭弥がまだ難しい顔をしていた。というか、だんだん眉尻がつり上がっているところを見るに、怒って…らっしゃる。でも、なんで。
 首を捻って恭弥の観察を続けていると、拳を振り上げた恭弥がだんっとスチール机を叩いた。常備しているゼリーパックがぽこぽこ倒れる。
「君はそれでいいわけ」
「よくはないよ。せっかく生まれたんだから、死にたくはない」
「じゃあなんでもっと一生懸命にならないのさ。今の君は残された人生を精一杯楽しもうって諦めてるようにしか見えない」
 その言葉は俺にとっては鮮烈だった。頭の中に火花が散ったような感じだ。
 そうか、俺、そう見えるのか。人生を諦めて、残りの時間を楽しんで生きようってふうに見えるのか。
 …うん。そうだな。だってそれが楽だから。
 俺には戦う理由がない。絶対生きてやるって意思がない。生き残れればラッキーだなぁくらいにしか思ってない。俺がバラバラにされたら博士がちょっとは悲しむかもしれないけど、その博士はもう死んでいる。俺に生きてくれって言ってくれる人がいない。利用させてくれって人ならたくさんいるけど、俺の生を望んでいる人は一人もいないのだ。
 ぽた、と目から滴が落ちてスチール机に歪んだ円を作った。
 …まただ。また目がおかしい。システムはエラーを伝えてこないのに、目から水が漏れる。
 それを見た恭弥は怒った顔から一転、驚いた顔になった。「君、泣けるの…?」「泣く?」「それ、涙だよ。悲しいときに流す涙」涙というらしい目からこぼれる水を指で払う。どうやらこの状態を人は泣くというらしい。
 驚いた顔から今度は戸惑った顔になった恭弥が躊躇ったあとに席を立ち、涙を払い続ける俺の横にくると、そろりとした手つきで俺の頭を撫でた。「その…ごめん」「何が?」「……なんでもないよ。でも、ごめん」なんで恭弥が謝るのかなと首を捻りつつ綺麗な顔を見上げた。視界が涙でぐちゃぐちゃだ。恭弥の顔がよく見えない。
「きょーや」
「何?」
(俺の有用性の証明のために。俺を生かすために)
「俺を、愛してくれますか。俺に、愛されて、くれますか」
 恭弥の戸惑った顔がぽかんと気の抜けた顔になって、それから、頬がじわじわと赤みを帯びていく。瞳は逃げるように部屋のあちこちに向けられて、頭を撫でていた手は動きが止まっていた。
 その手を握って手の甲に唇を寄せてキスをするとばっと振り払われた。こっちを睨みつける顔の赤みが増してる。照れてる、のかな、恭弥は。俺が愛なんて言ったから。
 恭弥はこれでもかってほど俺を睨みつけたあと、ぼそっと訊ねた。「僕が、君を…愛して。それが証明になるわけ?」と。俺は笑って答える。「分からない。でも、そうしてくれたら、俺は生きたいって思える気がする」それはとても自分勝手な言い分で、恭弥を巻き込もうとしていることに気付いたけど、遅すぎた。
 恭弥は俺がキスした手の甲をじっと見つめて、さっきよりも赤くなった顔で、そっと、同じ場所に唇を押しつけた。
「いいよ。愛してあげる。僕も愛し方なんて知らないけど、それでもいいなら」
「…!」
 椅子を蹴倒して恭弥を抱きしめると「調子乗るな、離せ」とぼかすか頭を殴られた。痛い痛いと笑いながら恭弥のことを抱き続ける。
 恭弥は俺の生を望んでくれた。それは周りに誰もいない孤立無援状態だった俺からすれば嬉しいの一言に尽きる。
 与えられた期間の半分以上を費やして、やっと一人、俺を愛してくれる人を見つけたのだ。
 ぬか喜びもしていられない。俺の有用性の証明のために力を貸してくれる恭弥という存在を得たとはいっても、じゃあ結局どうすればいいのかという肝心なところはぼやけたままだ。
 スチール机にチーズやサラミ、クラッカーなどのつまみ類に、天然水のボトルとコップを二つを用意。
 俺達はスチール机を挟んで『人類にとっての有用性とか何か』を議論し合った。自分だけでなく他の誰かを加えることで理解が及ぶこともあるし、何かいい案を思いつく可能性もある。
「大前提をもう一度。『機械には所有者が必要』『機械は人類のために貢献する道具である』」
「ん」
「そのうち差し迫っているものは、俺という存在への疑問提唱への回答。俺は人類に貢献できる道具ですよ、っていう証明ね。そのためにはデータが必要なんだ」
「データ?」
「ん。たとえば、人助けをして、その一部始終をこの目を通して録画する。その記録を送って俺の有用性の有無の判断材料にしてもらうんだ。その人助けが必要だと判断されれば有用性の価値は上がるし、逆に不要だと判断されれば評価は下がる」
 恭弥は難しい顔で腕組みしてクラッカーをしゃくしゃくしつつ、「僕を助けたときのデータはないの」と言う。首を捻って「あるけど…恭弥が許可してくれるなら、送るよ。見てからにする?」渋い顔で頷いた恭弥に「じゃあちょっと待って」声をかけて部屋の隅で埃を被っている古い型のテレビを持ってくる。ふっと息を吹きかけたら見事に埃が舞って、恭弥が迷惑そうに手を払って咳き込んだ。
「そんなものどうするの?」
「まぁ見てて」
 後ろのコードを掴んで首の後ろに押し当てると、脊髄から表皮まで滲み出してきたナノマシンがテレビと俺とを繋いだ。ブツン、と電源が入ってテレビに俺の視界が映る。
 映像ファイルを頭の中で検索して引っぱりだし、ついでにフォルダを作って『雲雀恭弥』の中に放り込んでおく。
「じゃあ再生するね」
 テレビに映るのは、あの日の夜だ。
 スラム外の散歩。響いた鈍くて重い音。
 現場に向かうと、かろうじて生きている恭弥。不自然に欠けた右腕の傷口。夜のネオンを反射して虹のように光る血の赤。俺を見上げる灰色の瞳。
 傷口から侵入させたナノマシンに治療をさせ、恭弥の腕を探してくっつけ、この部屋まで運び、本格的な治療を開始する。
 その辺りで映像は途切れた。このあと俺も疲れて充電時間に入ったから仕方ない。
「どう? 送ってもいい?」
 恭弥はぽかんとした顔でテレビを見ていたけど、俺と目が合うと微妙な顔をしてみせた。…恥ずかしい、と、照れている、と、嬉しい、が混じったような表情、かなぁ。
「……いいよ」
「ホントにいい?」
「いいってば。しつこい」
 最後は睨まれたので肩を竦めて弁護士さんのアドレス宛に今のデータを送っておいた。あとはうまく処理してくれるだろう。
 接合が切れるとコードが首から滑り落ちた。映像の再生はそれなりに疲れるのでチーズをつまんで口に放り込む。
 恭弥は溜息とともに机に頬杖をついた。「もっと簡単に証明できる方法があれば…」とぼやく言葉に首を傾げる。今それを話し合ってるところだよ。
「恭弥にとっての『人類へ貢献している証明』ってなんだと思う?」
「はぁ? 人類に貢献している、ね……」
 クラッカーをしゃくしゃく食べて、チーズを食べて、サラミを一口でぺろりと食べて、恭弥は難しい顔で俺を見上げた。じっと見つめるからじっと見つめ返していると、根負けした恭弥がぷいっと顔を背ける。
「君が最初に言った、愛、じゃないの」
「愛? って、具体的にどういう愛?」
「愛で、人を支えているっていう証明ができれば、それは人のためになってるってことでしょ。愛は人が必要とするものだし、君の価値に繋がると思う。…愛の詳しいことなんて知らないよ。調べれば。そういうの得意でしょ」
 最後は突き放されてしまったので、『愛し方を検索する』と自分の頭の中にメモした。さすがにスラム街にはネット回線が来ていないので、町に出て電波を利用できる場所へ行かないと調べられない。
 でも、なるほど。愛か。俺という機械を愛してほしいという意味で使ったけど、人も同じものを求めているのか。それを俺が与えられるようになれば、俺の有用性は増すだろう。いい案だ。愛することがどういうことかまだ分からないけど、少し希望が見えてきた。
「ありがとう恭弥。恭弥のおかげでちょっと世界が明るくなった」
 笑った俺に恭弥は視線を逸らした。「別に、大したこと言ってないし」ぼそぼそそう言う恭弥ににこっと笑顔で「愛し方が分かったら、恭弥のこと一番に愛するね」と言ったら恭弥はつまんでいたクラッカーを落とした。また顔が赤い。どうしたんだろう。
 恭弥は落としたクラッカーもそのままに机に突っ伏した。「恭弥? どうしたの?」と声をかけても構うなとばかりに手を振ってくるだけで答えてくれない。口を利きたくないほど俺はマズいことを言ってしまったんだろうか。でも何を?
 会話記録を引っぱり出して読み返し、首を捻る。
 …駄目だな。分からない。いくら人間に見えても、人間に限りなく近くても、恭弥のことすら分からないんだ、俺。まだまだ人間の理解には程遠い。