6.迷想

 スィフリが何かごそごそやっている気配で目が覚めた。
 もそり、と布団から顔を出すと、部屋は暗いままだった。ここは窓がないから朝陽なんて入らないし、電気もついていない。
 機械の彼には作業をするのに暗いとか明るいとか関係ないのだろうけど、明るい方がやりやすいのに。僕が寝てるからって気を遣ったんだろう。…馬鹿みたいだ。
 スチール机の辺りでごそごそやっているスィフリを睨みつけて、「電気、つけたら」とぼやくと、パチン、とスイッチがオンになる音がした。廃棄された地下部屋の壊れかけた蛍光灯がいくつか灯る。
 スィフリはいつもの笑顔でにこりと笑って「おはよう恭弥」と挨拶してくる。
 どう見てもスィフリのジーパンとトレーナー姿には合っていない高そうな鞄。スィフリのいう『博士』の遺品として持ち出してきたというブランドものの鞄に何か詰めてるようだ。「何してるの?」欠伸をこぼしつつスプリングがへこたれてきているベッドの上で寝返りを打って起き上がる。スィフリは鞄にまた何か突っ込みながら「今日はお仕事に行ってくるんだ」さらっと初耳のことを言ってのけた。…そんなこと聞いてない。
 どういうことなんだと無言で睨みつけていると、スィフリは苦笑いで鞄のチャックを閉めた。…中に何が入ってるのか知らないけどパンパンだ。一体何がそんなに必要な仕事なんだ。
「一日だけの、単発のバイトだよ。夜に帰ってくるから。買い物もしてくる」
「…ねぇ」
「うん」
 よいしょ、と肩に鞄を引っかけたスィフリを睨みつけ、何か言いかけて…やっぱりやめた。
 僕は別に、ここにいないといけないわけじゃない。身体は動くようになったんだ。銃もあるし、この部屋で腐っている必要はない。外へ出ればいいんだ。そんなこと自分で判断すればいいのにどうしてスィフリに確認しようとしたのだろう。馬鹿みたい。
 人間である以上、いや、スィフリも食物を摂取してエネルギーとしている以上、お金は必要だ。それに、一人前に働けるってデータがスィフリの有用性を少しでも証明するものになるかもしれない。
 何も言わない僕に首を傾げたスィフリがスチール机の上のパンとチーズ、ハムサラダを指して「朝ごはんはこれ。お昼は何か適当に食べて。夜は、俺が帰ってくるまで待ってくれると用意するけど。お腹が空いたら適当に食べちゃって」「…うん」ぼそっと返事をした僕に彼はにっこり笑って「行ってきます」と残して部屋を出ていった。鉄扉の扉がバタンと大きな音を立てて閉まり、廊下を行く足音が遠くなり、階段を上り始めて、やがて、消える。
 静かな部屋に一人残されて、のっそりした動きでベッドから下りて立ち上がった。
 机の上にはスィフリの用意した朝食がある。
 そういえば、僕、当たり前みたいにスィフリの用意するものを食べているけど、お金を持ってない。身体は動くようになったんだしそろそろ僕も仕事を再開しないと。
(……仕事)
 人を殺して、脅して、それで得るお金でこれまで食べてきた。生き方を選んじゃいられなかった。
 どのみちスラム生まれの人間にきれいな生き方なんてできるはずがない。
 命の保証のできないような汚れ仕事ならゴロゴロ転がっていた。
 仕事に困らないということはお金に困らないということだ。それなら汚れた方がいいと、僕はトンファーを手に取ったんだ。
 どうせ汚れた人生だ。それならせめて、今くらいは、誰かのために、手を汚そう。それが僕にできることなら。
 パイプ椅子に腰かけ、パンをちぎって口に放り込む。一昨日のやつだけど充分だ。ちょっとパサパサしてるけどチーズと一緒に食べれば気にならない。サラダも、レタスが少ししなびてるけど、食べられる。
 スィフリにだけ任せているのは癪だ。彼は自分のためにもっとしないといけないことがあるはずなんだ。そのためにお金が必要だっていうなら僕が代わりに稼ぐくらいできなくちゃ。
 もう、期限まで十日しかない。あと十日でスィフリがバラバラにされてしまうかもしれない。
 にっこり笑顔で恭弥と僕を呼ぶ彼の手足が関節という関節からちぎれてバラバラになり、頭がもげて、血の代わりにオイルを撒き散らす。痛みを数値化して感覚として無視することのできる彼はバラバラになった自分を見て残念そうに眉尻を下げて、ごめんね、と最後に笑って、その頭もパーツというパーツに分解されてバラバラになる。スィフリの影なんて何もない、ただの部品の塊になる。
 カラン、と落ちたフォークの音にはっとして意識を戻した。冷や汗で背中が冷たい。
 スチール机の上にはハムとレタスを突き刺したままのフォークが転がっている。
 あと、十日。このまま大したこともできずにずるずる日々を過ごしていたら、そうなる。
 僕も何かしなくちゃ。スィフリのために何かしたい。でも何を? 何をすれば彼のためになる? 有用性の証明って結局何をすればいい? 何をしたら一番スィフリのためになって、何をしたら、彼は生き残ることができるんだ?
 人のためになることって何なんだ。人殺しをしてきた僕には分からない。憎まれることばかりだった僕が思いついた『愛』も説得力はない気がする。愛がない人生なんてないと思うけど…人の数だけ愛のかたちがある。スィフリがすべてを理解して実践するなんて無理だと思うし、できたとして、嫌だ。スィフリが、僕に向けるのと同じ笑顔を違う誰かに向けて、触ってと望まれるままに触れる姿なんて見たくない。
(僕のことじゃない。スィフリのことを考えなきゃ。それがスィフリにとって生きる道になるなら、僕は…)
 とにかくお金は必要だ。あっても困ることはない。
 ワイシャツに袖を通し、カーゴパンツのベルトに銃を突っ込む。携行に問題がないことを確認してからちらりと誰もいない暗い部屋を振り返り、鉄扉を押し開けて外に出た。預けられた鍵で施錠をして暗くて狭い通路を歩き、地上に続く階段を上がる。
 …僕が殺しや脅しの仕事を再開することを、スィフリは喜ばない気がする。それで怪我をしたらまた彼の手を煩わせることになるし。
 だいたい、人類に貢献してるとはいえない僕を助けて、彼の価値が下がったらどうするんだ? 一度目は『人助け』で通るかもしれないけど、二度目、同じ人物を助けたとなれば、僕の素性も評価の対象になるだろう。罪のない一般人を助けたというのなら彼の評価は上がるだろうけど、人殺しを助けたと知れれば、彼の価値は下がるかもしれない。
 スラム街は奥へ行くほどビルなどの高層建築物が消え、あってもアパートくらいの高さの建物になり、コンクリートの舗装が途絶えた頃には砂利道の上に雑多な商店が立ち並ぶ界隈が広がる。僕が慣れ親しんだ光景だ。
 木箱の机にビール箱をひっくり返しただけの椅子のある店に、人相の悪い輩が集まり、声を潜めて富豪の家に強盗に入る計画を話し合っている。隣の店は非合法な値段で臓器売買を専門に扱っていて、臓器保管のためだとかでいつも薄暗い。その隣はナイフから銃器までスラムで生きていくには欠かせない武器を揃えていて、刀身が陽射しを受けて鈍色に光っている。
 何も変わってない。…当たり前か。一週間やそこらで劇的に変化なんてするものか。
 慣れているはずの不穏な空気の塊に足が止まってしまうのは、この場所が変わったせいじゃなく、僕が変わったせいだ。
 こんな場所で生きてきたから、僕は笑い方を忘れてしまったけど。スィフリはあと十日しかない期限の中でも笑ってみせる。
 彼のためになりたい。でも、何をすればいいのか分からない。
 お金は必要だ。それは間違いない。この中に戻ることが僕にできる唯一のこと。
(本当に?)
「おや? あなた…雲雀くんではありませんか?」
 地面に落ちていた視線を上げると、向かいからぞろぞろお仲間を引き連れた気に入らない奴が気に入らない笑みを浮かべてやってきた。「随分お見かけしませんでしたから、死んだのかと思ってましたが…生きてましたね」くふふと気持ちの悪い笑い方をする六道骸を睨みつける。
 まったく、最悪だ。同業者、それも馬の合わない奴と鉢合わせとは。
「僕は忙しいんだ。じゃあね」
 さっさと歩いてすれ違い、とりあえず武器の調達の目途と今ある仕事の確認くらいはしようと思った。銃はスィフリの借り物だし、引き受けないにしても、どんな仕事がどのくらいあるのか知っておいて損はない。それに前の仕事の報酬をもらってないし。
 表の通りから裏の小道に入り、奥まったところに僕が出入りしていた事務所がある。
 扉のない入口から薄暗い店内に入ると、受付で分厚い本を傾けていた老人が眼鏡を押し上げながら僕を見上げ、合点いったように表紙を閉じた。億劫そうに立ち上がって複雑な鍵のついた引き出しの前で何かごそごそとやり始める。
「生きとったかね。すぐに来ないんで相打ちでもしたのかと思っとったよ」
「…ちょっと怪我をしたんだ。手負いではこんな場所来られないだろ」
「ふむ、懸命だ」
 引き出しから麻袋を取り出した老人がしっかり鍵をかけ直し、「あいよ。毎度ご苦労さん」と報酬の現金の入った袋をカウンターに置く。ぞんざいに手繰り寄せて中身を確認し、カーゴパンツのポケットに突っ込んだ。
 老人が眼鏡の奥から僕を観察している。「…何?」じろりと睨む僕を覗き込むようにさらに眼鏡を光らせる。
「雰囲気が変わったな」
「は?」
「お前さんのだよ。気高い一匹狼がシベリアンハスキーに変わっておる。狼の血は残しておるが、従犬として主人を求めているようでもある…。誰ぞいい人でも見つかったか」
 眼鏡の奥でにやりと笑う目から視線を逃がした。
 外れてはいない。僕はこの場所に来ることを躊躇っていた。スィフリを…彼を言い訳にして。
 僕は、変わったのだろう。彼に出会って、彼に助けられて、触れられて。
 思い出しかけた情景を振り払い、仕事のリスト本を引っぱりよせてページを繰る。一週間見ていないけど、ほとんど一新されている。
 ページを繰る僕を老人は黙って眺めていた。そうかと思ったら、普段は億劫そうに動くくせに僕の手から素早くリスト本を取り上げる。「…ちょっと」まだ三分の一も目を通してない。
「やめとくこった。今のお前さんじゃヘマするのがオチよ」
 すっぱり言われ、気の進まない自分を言い当てられた気がして、唇を噛んだ。
 …この仕事で一番邪魔になるのは迷いとか情だ。
 この老人はずっとこの手の仕事を提供し続けてきた。失敗する人間がどういう奴か、相手が任せられるだけの技量があるかなど、長年の経験として目利きがある。今の僕には仕事を任せられないと判断したのなら、ここでは仕事はもらえない。
 溜息を吐いてカウンター用に足の長い木椅子に腰かけ、脱力する。
 うまくいかない。仕事のことも、スィフリのことも。このままぐずぐずしていたらスィフリは…。
 また本の虫の戻っている老人を眺めて、最後に訊いてみることにした。
「人のためになることって、なんだと思う?」
 節くれだった短い指で眼鏡を押し上げた老人が興味を本から僕へと移す。「ほう? 人のためになること?」「…笑ってもいいよ。らしくないこと言ってるのは自覚してる」今までさんざん人を殺す脅すで憎まれてきた僕に言えたことじゃないのはわかっている。
 老人はしげしげと僕を観察して、ふぅむ、と唸って白い顎髭を撫でた。「それは、お前さんのいい人のことでよいのか?」否定も肯定も面倒なので黙って頷く。
 僕より人生が長く、色々なことを経験しているだろう老人は、考える素振りを見せたあとにこう言った。
「求められたことをすればええんでないかのぅ」
「…求められたこと?」
「お前さんはその誰かを支えたい。そのためにできることをしたい。それが何かとあーだこーだ考えるより、訊いてみなされ。人は必ず求めておることがある。こうしてほしいと言われたらそれをすればいいんじゃ。恋とは猪突猛進なもの。当たって砕けて経験せい」
 ほっほっほと無責任に笑う老人に溜息を吐く。
 恋。
 僕はスィフリに恋をしているのだろうか。これは、そんなにきれいなものだろうか。
 人間とロボットの恋は実るものなんだろうか。

 俺を、愛してくれますか。俺に、愛されて、くれますか

 涙を流しながら、自分という存在への肯定を求めていた君を、愛することが、僕にできる唯一だろうか。
 君の言う愛と僕の思う愛はきっと違う。
 その違いを埋めていくことが…いずれ、僕をも救う愛に、なるのだろうか。