7.心深層

 誰にでもできるありふれた貢献の仕方じゃ『俺』の有用性をアピールするには足りない。死ぬはずだった恭弥を助けたみたいに、大胆かつ繊細な、俺にしかできないことをやりなさい。
 というのが、単発アルバイトで一日労働し、人並みに稼いでみたデータを送った俺への弁護士のお兄さんからの返答だ。
 ふむ。プロの人がそう言うんだからまぁそうなんだろう。
 頭の中に展開しているウィンドウで文字が点滅している。そこだけ目立つように。
(あと、14220分、切った)
 あっという間に残り時間は三分の一になってしまった。あと九日と少し、ぐずぐずしていれば俺は強制処分だ。
 もっとアンドロイドらしさを見せた仕事をした方がいいんだろうか。人間にはできないような力仕事とか、技術や専門知識の求められることとか。
 それはそれで、せっかくスラムに部屋を確保したのに失うことになりそうで、あまりしたくはない。
 知る人は知っているあの博士の遺作ともなれば、俺をバラしてでも売りさばけば金になるって企む人はいるだろうし。俺は撃退できる自信があるからいいけど、恭弥に何かあると困る。
 恭弥…大人しくしてるだろうか。恭弥の性格じゃ難しい気がする…。どこへ行くのも恭弥の自由だけど、無理してないといいな。せっかく怪我が全快したところなんだ。もう腕が取れたりビルから落ちたりするような無茶はしないでほしい。
 夜も遅い時間に終わりがけのスーパーにふらっと寄り道して、パンとかチーズ、野菜を少し買って、優しい店員さん達に廃棄品を分けてもらう。代わりにほっぺにちゅーすればいいんだから簡単というか、いいのかな、というか、いつも少し悩む。
 これはズルいことなのかもしれないけど、自分にできるすべてのことをして生きていくのは、俺でも、恭弥でも、一緒だと思う。
 スーパーの店員さんは俺のちゅーが欲しいんだし、ギブアンドテイク、ってことにしてる。
「ありがたくちょうだいしてきます」
 スーパーの裏手、いつものように用意してある段ボール一箱の中身に手を合わせ、確認する。大部分は販売期限のきた加工食品で、今日中に食べないとマズそうな肉や魚類もいくつか入っている。最近は恭弥と一緒に来ることが多いからか、男が二人いれば処理には困らないだろうって思ってるみたいだ。まぁ、困らないし、食べちゃうけど。
 段ボールの上に紙袋を置いて、中世ヨーロッパ時代のようなオシャレなガス灯の橙色の光の下に照らされる歩道を歩く。
 スラムが近い場所のスーパーでも廃棄品が出る。ここより街中なんて考えるまでもない。ゴミ箱をあさるのは人じゃなくて猫か烏で、最近はここも動物によるゴミ荒らしを避けるためにネットが用意されたのを知っている。
 少し行った規制線のテープの先では、毎日食べていくので精一杯な暮らしが待っているのに。
 捨ててしまうくらいなら、賞味期限切れのものだって構わないから、あの場所に置いていってくれればいいのに。それだけでスラムの荒んだ空気がどれだけ改善されるか。
 五メートル幅で設置されているガス灯。その光がまばらになる頃には周囲は静かだ。ぷっつり、それこそきれいに道がなくなり、家が途絶え、十メートル先に最後のガス灯が頼りない光を落としている。
 その下に人影を見つけて足を止めた。
 俺は夜目がある…というか、赤外線センサーとサーモセンサーが搭載されてるから、たとえ暗闇に紛れるようにしていてもそこに人がいるって分かっただろう。相手の顔も判別できる。
「恭弥」
「…おかえり」
 ガス灯の下にいたのは恭弥だった。俺が抱えている段ボール箱を見ると呆れた顔をして、機嫌悪そうに眉根を寄せてみせる。器用だ。「魚と肉とあるよ。腐るといけないから今日は豪華に全部食べちゃおう」へらっと笑った俺に恭弥はむっつり黙り込んで、「じゃあ、帰ろ」とぼやいてガス灯の光の下から抜け出した。
 頭の片隅では時刻と残り時間を知らせる小さなウィンドウの文字が点滅している。
(あと、14200分)
 あと九日ともう少しで、俺は世界とお別れをしなくてはならない。
 ……恭弥はこういう考え方をする俺を怒ったんだっけ。
 隣に並ぼうとしない恭弥を追いかける形で地下部屋に帰り、スチール机に段ボールと紙袋を置く。
 急務は魚の処理だ。肉は火を通してしまえば明日の朝でも食べられるだろう。魚はもたないし、臓器は取り除かないと苦味や臭味の原因になる。下処理だけ先にしてしまおう。
「恭弥ごはん食べた?」
「まだ」
「何がいい? 和風? 洋風? 中華?」
「簡単なものでいいよ。焼いて塩かけるだけで充分」
「じゃあ、俺が調理してくるから、恭弥はパンとかチーズを切り分けておいてね」
 仕方なさそうに頷く恭弥にナイフを預け、俺は魚と肉と野菜を段ボールに入れてキッチンに移動した。キッチンと言っても旧式のガスボンベの火で鍋やフライパンを熱するだけの場所で、ついでに言えば俺が調達した手作りの火元である。調節はボンベの取っ手、コックを捻ってガスの量を調節して火加減を操る。ちょっと間違えれば大惨事になりかねないので、よい子はマネしないように。
 俺はアンドロイドだから、本当は電気を供給してもらうのが一番効率がいいエネルギー摂取方法なんだけど、この部屋にそんな大規模な電源あるはずもない。俺が食ってしまったら途端にブレイカーが落ちるだろう。だから、効率は悪いけど、食物を摂取して分解、エネルギーに変えるしかないのだ。そのためには調理して食べた方がいい。消化不足でどこかがショートしても困るし。
 手際よく下処理をすませて魚は塩焼き、肉は入ってたパスタソース味で炒めた。これにチーズとパンがあれば上々な晩餐だ。
 しっかり火の始末をしてから角の欠けてる四角い皿に魚の塩焼きとカルボナーラ味の肉を盛りつけて部屋に戻ると、恭弥が難しい顔でナイフを睨んでいた。パンとチーズは適量切られている。
「どうかした?」
「…なんでもない」
 俺が声をかけるとコトリと静かにナイフを机に置いた。
 いつもより豪華な夜ごはんを二人で食べて、もそもそパンをかじる恭弥をじっと見つめてシャッターを切る。こっそりと。
(君はきれいだ。バラみたい)
 ガス灯の頼りない光の下で一人俺を待っていた君は、何かを憂いているような遠い眼差しで、何を思っていたんだろうか。 
 残り九日となってしまったその日の夜、何かの気配で目が覚めた。スリープモードになっていた意識がウィーン、と音を立てて起動する。
 同じベッドで眠っている恭弥をちらりと確認する。熟睡中だ。きれいな…いや、かわいい寝顔をしてる。キスしたいな、なんて思うのはおかしいかな、と一人笑いながらベッドを抜け出る。なるべく音を立てず慎重に、けれど素早く迅速に。
 地上の様子が何かおかしい。普段よりかなり騒がしい。それなりの数の人間がいるということだ。こんな夜更けに。
 スラムは眠らない町だと勘違いされているようだけど、それはあくまでお店が集まっている界隈だけの話だ。廃ビルばかりのこの辺りは夜になれば静かな方だ。それが…。
(視覚をサーモセンサーと赤外線センサーのみに切り替え)
 人間と同じ色彩を映し出す視界がブレて色味が抜け、物の輪郭の線と温度別に色がつく。人の体温はだいたい橙から赤で表示される。
 いつもなら階段を上がってそのまま地上に出るところだけど、今日は階段を上がって、その場でぐぐっと力をためて跳躍して跳んだ。内部の床のあちこちが陥没しているビルの適当な場所に滑り込んで、そろそろ四つん這いで壁まで行って貼りつく。
 窓からそろりと目から上だけを出して下の状況を確認する。
 政府のお偉いさん方が痺れを切らして俺を回収しにきた…というわけではなさそうだ。下にいるのは物のよさそうなスーツを着た男が、全部で14人かな。そのうち一人が特徴的な金髪をしていて目立っている。あとは特徴を取り払ったみたいな同じスーツ同じ髪型。特徴を許されている、あの金髪の人がリーダーなんだろう。
 聴覚のダイヤルを調節してあちらの会話が拾えるようにする。

『見つかったか』
『いません、ボス』
『弱ったな…この先は本格的にスラム街。スーツのオレ達が出向いては浮くだろうし、住人を変に刺激しかねない。ただの迷子捜しにそれは避けたいが……うーん、誰かいい考えはないか?』

 ボス、と呼ばれた金髪の人は若い。二十代だろう。そのボスに話を振られて部下なんだろうスーツの人達は無言である。困ってる、ようにも見える。いい意見が浮かばないってことかな。
 話を聞いた感じ、迷子になるんだから、子供か誰かを探してスラム街に立ち入ったようだ。この場所に恐れや困惑を抱いているわけでもない冷静な思考力から一般人とも少し違うようだなと推測して、悩む。迷子を捜し出すまでこの人達は帰らないだろうし……過激派な人達に見つかって銃撃戦、なんて物騒なことになる前に穏便にすませたい。何せ住まいが近いので。
「俺が捜してきましょうか」
 ビルの窓からひょっこり顔を出して声を投げると、スーツの人達が一斉に俺を見上げた。夜でもしてるサングラス、あれは俺の目と同じような機能を果たしているらしい。
 金髪のリーダーが俺を見上げて目を細くした。
「そう言うお前は?」
「この辺りに住んでる者、とだけ。
 あなた方が奥に入って過激派の連中を刺激するのを避けたいんです。銃撃戦でとばっちりなんてごめんですから。だから、その迷子さん、俺が捜してきます。それでどうでしょう」
 スーツの人達が声を潜めてサングラス越しの視線を合わせている。『ボス』と小さくかけられる声は、俺の登場をよく思っていないものだ。
 ぽっと現れたスラム街の助っ人なんて確かに怪しい…のかな? そうかもしれない。たとえばこれが俺じゃない誰かだったら、捜し出した迷子を盾に金を要求……うん、ありえそうだ。しまったな、間違えた登場の仕方をしてしまったのかも。俺は本当にとばっちりを受けたくないから早々にお引き取り願う最良の手段を選んだつもりだったんだけど。
 険しい顔をしているスーツの人達に囲まれている金髪のリーダーは『まぁ落ち着けお前達』とスーツの人達を宥め、再び俺を見上げた。「下りてきてくれないか。話をしようにもそこでは遠い」やましいことを考えている奴ならあの中に下りていこうとは思わないだろう。袋の鼠ってやつになるから。でも、そうなっても俺はそんなに問題ないし、やましい気持ちもないので、素直に階段を下りてスーツの人達のサングラスに睨まれながら金髪のリーダーの前に行った。
 近くで見ると、二十代後半かな、と分かる。少し疲れた顔をしてるから。
「自己紹介がまだだったな。オレはジョットだ。君は?」
 少し疲れた顔をしてるけど、笑顔はきれいだ。この場面でも無理のない笑顔を浮かべているというのは表情筋を細かく観察すれば分かる。「俺は、スィフリといいます」名乗ったらジョットというらしい相手は途端に驚いた顔になった。「スィフリ? 君があの…?」どうやら俺に憶えがあるらしい。俺はジョットに憶えがないけど…どこかで会ったことがあるのかもしれない。
 ジョットは思案気な顔で俺を見ていたけど、「ああ違うそうじゃない。今は…」一人ぼやくとスーツのポケットから一枚の写真を取り出して俺へと差し出す。写真には一人、男の子が写っている。涙目でこっちを睨んでいる。泣き虫なのかな。
「この子が迷子さん?」
「ああ。オレの甥っ子なんだ。綱吉と言ってな、ツナと呼んでる」
 ぱち、と一度瞬いて写真を撮って脳内保存しておく。
 ツナは物のよさそうな服を着ている。汚れていない白いシャツにチェックの短パン。涙目ではあるけどどこにも汚れのない顔。スラム育ちではないだろう。
「どうしてこんなところにこんな小さな子が、一人で?」
「それはあとで話そう。早急にツナを保護してほしい。お礼も出す。君にならできるだろう、スィフリ」
 ボス、とどよめいた周囲に構わないジョットの視線を受けて、この人は俺のことを知っているんだなと確信する。だから利用しよう…という悪い人でもなさそうだ。迷子になった甥っ子を心配してるんだから、いい人なんだろう。
 これ以上騒ぎを大きくしたくないし、人助けということで、これも俺の有用性を証明する一つの事柄になると思って、手を貸そう。
「行きそうな場所に心当たりはありますか?」
 最後に捜索場所の心当たりを訊ねた俺に、ジョットは視線を空に投げた。「…恐らくあの場所だと思う」「あの場所?」「かつて暮らしていた生家のあった場所だ。火事で焼けてしまったから今は残骸しか残っていないだろう」ふぅん、とこぼして左目だけ通常の視界に戻す。赤外線とサーモでは本来の色が見えないから。
 そろそろスラムの人間も動き出す頃だ。
 騒ぎにならないようにジョット達には規制線の外側で待つように言ってから、俺はツナの捜索に出かけた。
 火事はスラムで嫌われるものの一つだ。ここには満足な消火機関がないから。俺が来てからそういった話は聞いていないけど、灰と炭、火を連想させるにおいを辿れば似たような場所には辿りつけるだろう。
 最近あった火事について、尋ねれば誰かが答えてくれるかもしれないけど、駄目だ。今回は内密に、穏便に処理しなくては。
 夜更けでも営業している飲み屋の炭火、外で焚き木をして暖を取っている集団、こんな時間に調理をしている誰かの家。可能性のある場所にあちこち出向いた結果、俺はようやくその場所に辿りついた。
 ぽっかりと不自然に空いた敷地は黒ずんだ土の色をしていて、そこにぽつんと小さなものが蹲っている。
「ツナ」
 声をかけると、小さく震えたツナが泣き腫らした目で俺を振り返った。頭の中で写真の泣き顔とその泣き顔を照らし合わせてみる。98パーセントの確率で同一人物。ツナと呼んで顔を上げたのだから本人だろう。
 無事でよかった。スラムにいるには小奇麗な恰好をしているし、小さな子供だ。何かあってもおかしくはなかった。
「帰ろう。ジョットが心配してる」
 俺がそう続けるとツナはぶんぶんと首を横に振った。頑なさが滲んでいた。俺から顔を背けると両手でざらざらと黒ずんだ土を撫でる。
 一般人か、あるいは上流階級に属するだろうジョットのもとを飛び出して、スラムの生家のあった場所に戻ってきたツナ。その事情はだいたい想像できる。
 近づこうとすると涙目でうーと睨まれて威嚇されたので、近くにいくことは諦めて、ツナの目線に合わせてしゃがみ込んだ。炭、灰、土…色々なものが混じって黒ずんでいる地面を同じように掌で撫でてみるとざらりとしていた。
「ジョットのこと、嫌いなの?」
「……べつに」
 会話はしてくれるようだ。ならそこから糸口を見つけ出すしかない。無理矢理連れて帰るのは簡単だけど、それはツナのためにもジョットのためにもならない。なんとかしてツナの気持ちをこの場所から違うものに向けさせるしかない。
 ざらざら、ざりざり、二人で黙って砂の地面を撫でるだけの時間。
 遠くの方でスラム特有の喧嘩の声が聞こえてきて、今回は酷い喧嘩だったようで、パン、と銃の弾ける音がした。どちらかが撃ったらしい。
 びくんと小さな肩を跳ねさせたツナの目が挙動不審になっている。「ツナ?」「う…」きょろきょろ辺りを窺っていたかと思うとぱっと立ち上がってばたばた駆け足で俺のところにやってきて抱きついてきた。ぼすっと軽い衝撃を受け止めて、震えている背中をぽんを叩く。土で汚れちゃうな…しょうがないか。
 パン、パン、と二度三度と銃声が続いた。ツナはその度に身体を震わせて俺にくっついてきた。
 …そりゃあ、怖いものだけど。この怖がり方は、たぶん、トラウマってやつだろう。ジョットに引き取られたこと、焼けたスラムの生家という現実を見れば、想像はできる。
 トラウマは心の傷のことを言うらしい。それは俺が普段からしている『記憶』や『記録』とは違い、形もなくて目にも見えないのにとても傷がつきやすいのだと聞く。そして、容易に修復できず、放っておけば傷は膿んだり悪化したりもするらしい。
 ………でも。その傷を認めて、癒そうと努めなければ。辛くとも。悲しくとも。寂しくとも。
 目を背けることは放置することと同じだ。傷は自然治癒するかもしれないし、膿んだり悪化するかもしれない。
 ツナの場合、放置することはまたこの場所に逃避にくることに繋がる。それは避けなければいけない。今回は無事だったけど、次もそうだとは限らない。ここはスラムだ。小さい子供がこじゃれた格好でうろついていたら誘拐されたって何も言えない。
「ここで、何があったの?」
 だから、傷を突く。目を背けたいことに意識を向けさせる。そうしないと前にも後ろにも進めないから。
 ツナはガタガタ震えながら、頑なに首を横に振った。言いたくない、と。
 持久戦だと分かっていた俺は、ジョットに頭の中で電波を飛ばしておいた。時間かかるかも、と、届かないけど一応。
 汚れるけどまぁいいかと割り切って黒ずんだ地面の上に胡坐をかいて座り、ツナを膝の上に乗せて、東の方から明けていく空を見上げ続ける。
「おにーちゃん」
「ん?」
「だれ」
 ぽそっとした声が今更なことを訊いてきたので、にっこり笑顔で「俺はスィフリ。アンドロイドだよ」と自己紹介した。自分が機械だと告げたのは、素直で敏感な子供の心に嘘を感じさせないためだ。「あんどろいど…?」首を傾げたツナには意味が伝わらなかったようだ。まぁそれでもいいんだけど。
 俺も、自分の状況を自分に言い聞かせるために、あえて説明することにする。
「あと九日で強制的に処分されちゃう機械なんだ。俺の意志には関係なく、バラバラに分解されて…悪い人達の道具にされちゃうんだ」
 分かりやすいようにかいつまんでみたところ、ツナはぱっと顔を上げて初めてまともに俺のことを見た。目が大きい。子供だからだろうか。「わるいひと?」「うん。たぶん」「しょぶん、ってなに?」「うーんと…殺されちゃうってことかなぁ。死ぬんだ」「し…」汚れた手で口を押さえたツナはまた泣きそうだった。
(難しいな、人間は)
 傷を癒したくても、目に見えないし、手に取れるものみたいに存在しない。そんなものでも確かに傷つくというのだから、心っていうのは難しい。それを内包している人間は難しい生き物だ。俺は人間に限りなく近いものとして作られたけど…たぶん心はない、ような気がする。俺にあるのはそういうプログラムで構築されたコンピュータの頭と意識だけだ。
 ツナは俺の膝の上から手を伸ばして黒ずんだ地面を撫でた。
「おとーさんと、おかーさんが、ここにいる」
 ぽそっとした声に首を傾ける。さっきまで頑なに話したくないって顔をしてたのに…。

「そうやって撫でてると、お父さんとお母さんに伝わるの?」
「うん。おれはここにいるよって、おしえてる」
「そっか」
「…おにーちゃん、おじさんにいわれて、おれをつれもどしにきたんでしょ?」
「うん」
「ふたりが、いけって、いってる。もうだいじょうぶだから…ちゃんと、いきなさい、って」

 ん、と差し出された土で汚れた手を取って抱き上げた。高い高いをするとツナの大きな目にちょうど朝陽が射し込んで、眩しそうに目を細くして俺を見下ろしている。
 よく分からないけど、ツナが自分の意志で戻ろうと思ったならそれがベストだ。従おう。
 ツナを抱っこして火事の跡地に背を向けて、バイバイ、と俺の後ろに向かって手を振っているツナに、顔半分で振り返ると、朝陽に照らし出される黒い地面の上に誰かの足が二人分、見えた気がした。
 ぱち、と瞬いたときには消えていたけど…それは残像なんかではないということは、映像記録を振り返れば分かることだ。
 スラム街の入口まで戻りながら、うとうとしているツナの背中をぽんと叩く。睡眠に導入しやすいリズムで背中をあやし続けていると、眠そうに目を閉じて俺の肩に頭をぶつけた。
 ようやく戻ってきた俺にジョットがほっと表情を緩めて、スーツにサングラスの人達の間にも緊張が解れたような空気が漂った。
「感謝する、スィフリ」
「どういたしまして」
 ジョットの手に眠っているツナを託す。「怪我はないか?」「なかったですよ。土をいじってたからだいぶ汚れてますけど」そうか、とこぼすジョットはツナの無事に心底安堵しているようだった。ツナを抱え直すと朝陽に眩しそうに目を細める。俺達が戻ってくるのを待っていたなら徹夜ってことなんだろう。眠いはずだ。
「すまないな、スィフリ。お礼はまた今度でもいいだろうか。オレはこのあと仕事で、ツナも寝かしつけてやらないと」
「いつでもどうぞ」
 スラムの人間にもジョットは丁寧に断って「ありがとう」と頭を下げた。スーツの一人がすっと静かに名刺を差し出してくるので受け取っておく。イマドキ電子データでない名刺を持ち歩くなんて、ジョットはレトロなところがあるんだな。それとも役職柄そういう人と接することが多いんだろうか。
(『ボンゴレ…取締役代表……』)
「オレの連絡先だ。君に連絡を取るのは難しそうだから、明日の午後辺りに電話をくれるとありがたい」
「迷子捜しくらい、気にしなくていいですよ」
「そういうわけにもいかないさ。君の有用性の証明の役に立とう。君が望むならね」
「、」
 ぱち、と瞬いたオレにジョットはウインクを残して「さあ帰るぞ。帰って風呂に入って寝ようじゃないか」とマイペースなことを言って、スーツの人達を連れてスラム街を離れていく。
(やっぱりジョットは俺のことを知ってるのか…)
 だから何、っていう話でもないけど。俺が自分の有用性を証明しないといけないことを理解してくれていて、それを手助けしてくれるというなら、ありがたいな。明日、電話してみようか。
 規制線のテープの格子に背を向けて、朝陽をいっぱいに浴びれる場所で目を閉じてすっと深呼吸する。
 赤外線とサーモセンサーをそれなりに長い時間行使していたからバッテリーを消耗してる。
 五分間朝陽を浴びてソーラーパワーで多少充電し、恭弥が目を覚ます前に地下の部屋に戻った。
 暗い部屋の中で視界の明度を調節してから何度か瞬きし、俺が出ていったときと変わらずベッドで眠っている恭弥にほっと息を吐く。
 土で汚れてしまったから着替えないと。着替える服、あったかな。
 部屋に衣服の替えくらい置けと言われて、いつもスーパーでもらう段ボール箱を収納箱っぽくしたものをあさる。白衣くらいしかすぐ着れるものがないなぁ。服、もうちょっと買わないと駄目かな。バイトでお金が入ったし、今度また恭弥と…。
 ジャージとトレーナーを脱いで白衣を羽織り、ボタンを閉めて、汚れた服を持ってそっとシャワールームへ行き、石鹸で手と服を洗って、服の方はしっかり水気を絞ってから干しておく。
 迷子捜しで少し疲れたみたいだ。タスクを一度整理するためにも眠ろう。恭弥に起こされたら起きればいい。
 ぎ、と軋むベッドに腰かけて、きれいにした手で恭弥の額に触れた。理由は、なんとなくだ。なんとなく恭弥に触りたかった。…なんでだろう。よく分からないな。
 思えば、最初から、恭弥は俺にとって不思議だった。
 片腕のない、ビルから落ちて血の赤を咲かせた人間を、普通はきれいなんて思わないのだろう。
 理屈も根拠も確信もない。そうだと思う確かなデータは何一つないのに、俺は恭弥のことをきれいだと思った。
 形がなくて、目に見えなくて、それなのに確かに存在している、厄介なもの。
(まるで、心みたい…)
 なんて、ね。