8.不要情

 ジョットに電話をかけに行くことについて、今朝の地上での出来事を知るはずのない恭弥にはなんて言ったらいいのか、悩んで、結局正直に話した。恭弥は最初自分が寝てる間にそんなことがあったという事実に驚き、次いで、ジト目で俺を睨んだ。どうしてか機嫌が悪いようだ。
「どうして起こさなかったのさ」
「寝てたから」
「普通起こすところでしょ。寝てる僕に何かあったらどうするつもりだったんだ」
「そうならないように行動したつもりなんだけど…恭弥、怒ってるの?」
「別に」
 そっぽ向いて腕組みした恭弥は部屋の扉の前から動こうとしない。俺を外へ出さないという構えだ。
「そういう人達ではなかったけど、そのつもりがあったと仮定して、恭弥に何かあったら、飛んで帰ったよ」
 困ったなと思いつつそう繋げると、恭弥がちらりと俺を見上げた。視線がかち合い、すぐに瞳が逃げて緩く細くなった。「翼もないのに」ぼそっとぼやく声とは裏腹に頬は少しだけ赤い。怒りでの紅潮ではないのは声の調子から分かる。
 これは…照れているんだろうか? でも、どこに? いや、何に? 人間て不思議だなぁ。
「翼はないけど、ジェットエンジンみたいなものなら、無理すれば。見たい?」
「…いい」
 ぷいっと顔を背けた恭弥は扉の前から退いた。そして、部屋を出る俺についてきた。「電話してくるだけだよ?」「…そうじゃないかもしれないだろ」「何かあったとしても、俺一人で対処できるけど」「……僕が邪魔だって言いたいの」「そうじゃなくて、つまらないかもって話」瞳にギリギリ力を込めて睨んでくる恭弥に思わず苦笑いがこぼれる。そんなに昨夜のことが気になるのか、それともジョットとのことが気になるのか。
 地下部屋から階段を上がり、陽射しの下に出て、両手を広げて深呼吸をする。酸素と日光がおいしい。エネルギー充電的な意味で。
「じゃあ行こうか」
 自然と手を差し出してから、恭弥はもう一人で歩けるんだったなと気付いた。
 病み上がりの頃のデータがまだ残っているせいだろうか。それとも、俺が触れたいと思うせいだろうか。この行動の理由はなんだろう?
 恭弥は俺の手を睨みつけると、諦めたような溜息を吐いた。呆れたんだろうと思ったんだけど、違った。恭弥は不服そうに自分の手を睨みつけると俺の手をがしっと掴んだ。「ほら行くんだろ」と俺の手を引っぱってズンズン先を歩いて行く。
 ふ、と笑いがこぼれた口をもう片手で塞ぐ。
(なんだろう。なんでだろう)
 恭弥に触りたいと思った。今手が触れている。恭弥の手が俺の手を握っている。触れたい、という思いは叶ったのに、もっとたくさんの面積で体温を感じたいと思う。
 あれから俺は少し調子が悪いようだ。
 興味本位で恭弥の性器の味を知ったあの日以来、理由もなく触りたいと思うことが多くなった。観察しているだけじゃ満足できなくなってきていた。『もっと知りたい』とか『もっと触りたい』とか思うようになってきていた。
 この思いが何なのか、検索してみて、その定義のいくつかにヒットした言葉がある。
 俺のこれは恭弥に対する『欲求』だ。
 機械の俺が、人間に貢献する存在である俺が、人間にしてほしい、させてほしいと望んでいる。
 俺は自分の有用性を証明しなくてはならない。そうしないと処分されてしまうから。
 有用性とは、人が俺に求め、俺がそれに応えること。または、望まれていることを施すこと。間違っても『逆』ではない。
 …邪魔だ。俺のこれは、俺のためにも、妨げになる。これ以上大きくしちゃいけない。それは、今の俺には過ぎたものだ。
 頭の中で新しいフォルダを作成し、そこに切り取った思考を放り込んだ。恭弥に触りたいとか手を繋げてなんだか嬉しいとか、そういったものを全部放り込んで、しっかりと鍵をかける。
 俺がバラバラに解体されたときか、あるいは、俺の有用性が証明されて先が見えるようになったとき。そのとき初めてこの思考は次の息をする。
 イマドキ普通の町や街に住んでいる人はみんなが携帯端末を持っている。個人連絡には事欠かない。つまり、現代において、公衆電話というものはないに等しいのだ。一番近い場所で駅まで行かないとならない。不便だ。でも、俺という端末から電話するのはさすがに憚られる。ジョットのことを疑うわけではないけど、そこまでの情報開示はまだできない。
 恭弥と並んで一番近いターミナルに向かいながら、ネット回線を得た俺は今のうちにと様々な情報収集をする。
 これから電話するジョットが取締役を勤めている『ボンゴレコーポレーション』のこと、ツナの『トラウマ』、むしろそういったものを抱く『人間』という生き物についてを辿っていると果ても限りもなくて、あっという間に稼働率の上がっていくCPUに眩暈を覚えたとき、「ねぇ」と恭弥に手を引っぱられたことで我に返った。情報の海に溺れていた意識を現在に向けて、隣でこっちを睨み上げている恭弥を認めて、ネットって怖いな、と初めて思った。…まだ目の前がチカチカする。
 現実があるのに意識を持っていかれてしまった。ネットは怖いとは聞いてたけど、こういうことか。
「どっち」
「えっと、あっち」
 どうやら交差点で道が分からなくて立ち止まったらしい。そんな恭弥に合わせて俺も止まっていたようだ。先導しないと。ここは恭弥の知っている町じゃないのだから。
 きれいに舗装された車道、欠けることなく敷き詰められたレンガの遊歩道とオシャレなガス灯、笑う人々、平和的な空気。すべてを気に入らないという目つきで睨んでいる恭弥には、すべてが、自分には届かないもので、ないものだ。
 持っている人には分からなくても、持っていない人にはとてもよく分かる。それを当たり前と感受することがどんなに贅沢で、そして、妬ましいことか。
「あっちだよ。駅」
 恭弥が違う道に行ってしまわないようにしっかりと手を繋いで引き止めながら、少し早足で公衆電話のある駅を目指す。
 駅に一つだけある電話ボックスはオシャレな街灯と同じくオシャレな作りで、古風な赤い電話は木枠のついたガラスボックスの中にあった。恭弥を抱え込むようにすれば二人でも入れそうだったのでそうしたら無言で鳩尾に肘を入れられた。痛い。
 白衣のポケットから名刺を取り出して、電話に硬貨を投入し、名刺のとおりにダイヤルする。
『お電話ありがとうございます。ボンゴレコーポレーションの入江でございます』
 受話器から聞こえてくる俺とそう変わらないくらいの声の持ち主は入江と言うらしい。「あの、スィフリと言います。電話するようにとジョットに言われて、もらった名刺の番号にかけたんですが」『ああ、君が…聞いています。少し待っていてください』カンペみたいな応答から人間味の覗く口調になった入江の声の代わりにクラシック音楽が流れ始めた。このままお待ちください、というやつだ。
 恭弥が胡散臭そうに受話器を睨み上げている横から腕を伸ばしてチャリンと硬貨を追加した。途中で切れたら話にならない。
「ボンゴレコーポレーション?」
「そういう会社みたい」
「何する会社なの」
 さっきざっと検索してみて、公式のHPと市民からの評判その他を読み込んである。「多岐の部門に亘ってるけど、代表はセキュリティや技術方面の提供。次に人材育成のためのカリキュラム講座。色々開いてて、市民からは好評みたい」「…変な会社」「そこは面白いって言ってあげようよ」苦笑いした俺に恭弥はそっぽを向いてつまらなそうに腕組みした。だからついてきてもつまらないかもよって言ったのに。
 待ち時間の間にまた一枚硬貨を追加した。ジョット、遅いなぁ…。
『待たせたっ!』
 ブツッとクラシックが途切れたと思ったらジョットの声がわっと大きく耳に響いてキーンってきた。ひ、響く…。くらっと揺れた頭を押さえて「ジョット、声が、大きい」『ああ、すまない。待たせてしまったと慌てていたものでな…』この受話器と電波で繋がっている先にいるジョットがどんなふうに笑ったか、なんとなく想像できる。きっとあの少し疲れた笑顔だ。
『わざわざ電話させてすまなかった。あとで通話代も払うから』
「そんなことはいいんだけど」
『いや、よくないぞ。というかだな、とても大切な話だから、実際に会って話したいんだがどうだろう』
「えっと、ジョット?」
『迎えの車がターミナルに着いたそうだから、遠慮せず乗ってくれ。では、待っているからな』
「あの、」
 俺の訴えも空しく、ガチャン! と無慈悲に通話が切られてしまった。
 途方に暮れて受話器を置いた俺を恭弥がほら見たことかとばかりに睨みつけている。「怪しいじゃないか。強引だし」「昨日はそういう感じじゃ…」言い訳しようとした意識が近づいてくる複数の人間の足音をキャッチした。恭弥を電話側に押しやって俺が前に出る形で扉からは遠ざけたものの、全面ガラス張りだし、あまり意味はないかもしれない。
 というか、だ。電話したのは今さっき。待たされたのも一分か二分程度。その間にここに人を寄越すなんてのはよっぽどボンゴレが近くなければ無理だ。そうなると、電話をくれと俺に名刺を渡した時点で俺の行動を予測して人と時間を割いていたって計算になる。ジョットは初めからこのつもりだったのだ。
 スーツにサングラス。昨日ですっかり見慣れた個性のないスタイルのスーツの男に左右を固められる感じでやってきたのは、スーツをダルそうに着崩した、顔までかなり目立つ刺青の入っている男が一人。マフィアでもやってるのかってくらいパッと見ガラが悪い。
 そういった輩に敏感な恭弥は、俺の後ろから男の方を睨みながら「ほら露骨に怪しい。騙されたんだよスィフリは」と言うから、そうなのかなぁ、とジョットの笑顔とツナの泣き顔を思い浮かべてしまう。二人が人を騙すなんて思えないんだけどな…。
 刺青の男は一人でダルそうに電話ボックスまで近づいてきてコンと軽くガラスを叩いた。その行動に対して恭弥が動物みたいに唸ったのが新鮮なようで斬新なようで、そのくせかわいいと思ってしまって、笑ってしまって、そんな自分に気付いて思考が止まった。…さっき確かに全部しまったはずなのに。
「あー、警戒するのはわかる。オレぁこんなナリだしな。だがまぁ許せ。怪しい奴じゃない」
 ガラス越しにスーツの袖をめくった腕には腕時計型の小型端末があり、小さな立体ウィンドウに名刺が表示される。それによると「…ボンゴレの、常駐医?」名刺にはそういった旨のことが書いてある。
 まぁそれはまだいいとしよう。刺青のある医師なんてそういないとは思うけど。それより信じられないのは表示されてる名前の方だ。『G』って。Gって、それが名前? ニックネームとか呼び名ではなく?
 Gは掲げていた手をスーツの内ポケットに突っ込んだ。恭弥が警戒してる前で取り出したのは銃ではなくタバコだ。ライターを取り出すと一本くわえて火をつける。
「なんでオレが来たかというと、ジョットに言われたからだ。もうちょい人選しろと思ったが、他の奴は仕事で忙しいんだとよ」
「はぁ」
「で、いつまでも電話ボックスに籠城してないで、車に乗ってくれ。人が集まってきた」
 言われてみれば、電話ボックス越しに対峙している俺達に注目して、遠巻きに立ち止まっている人がちらほら出始めていた。…悪目立ちはしたくないのには同意だ。
 大人しく電話ボックスの扉を押し開ける。恭弥が俺の白衣の裾を引っぱって無言で抗議しながらもついてくる。
 ふー、と空に向かってタバコの煙を吐き出したGは恭弥を認めて目を眇めた。鋭く、尖った感じに。
「…お前、親は」
「は?」
「孤児か」
「……親の顔なんて知らない」
「そうか」
 それだけ聞くとGはめんどくさそうに赤髪をかきながら黒塗りの車の方へダルそうに歩いていく。「何あれ」ぼそっとした声に俺も首を捻ってしまう。今のは…なんだろう。なんでこのタイミングでそんなこと訊くのかな。
「逃げようよ。今なら人の目があるし、振り切れる」
「…うーん」
 恭弥はGが怪しいと言っている。確かに見た目はそんな感じのある人だし、そう思われてもしょうがない気もする。でもジョットは…ツナなんてまだ子供だったし。ボンゴレは面白いことをしてる企業みたいだし、俺は個人的に、係わっておきたいかも。
 白衣を引っぱる恭弥の手を握って、そっと離した。確かにフォルダの中に閉じ込めたはずの意識が暴れているような気がする。気のせいだといい。
(笑え)
「恭弥はここで帰りなさい。俺は行ってみる。お礼とかは別にいらないんだけど、ボンゴレそのものにも興味があるんだ。せっかくの機会だしさ」
 大丈夫、危なくなったら力ずくでも帰ってくるよと笑うと、恭弥は面食らったように黙り込んだ。それから急に怒ったように眉尻をつり上げて、俺の手を振りほどいたかと思うと、黒塗りの車の方へと走っていくではないか。「え、恭弥?」てっきりスラム街に帰るのだろうとばかり思っていたから慌ててあとを追いかける。
 Gを追い越して車の前に立った恭弥にスーツの一人がドアを開けた。恭弥は車内に滑り込むと「帰れって言われたってついていく!」と宣言。なんでか怒っている。なんでだ。
「なんだありゃ」
 顔を顰めたGの言葉に「あはは」と笑うことしかできない俺。
 まったく、本当に。人間って不思議だ。