やはりGを行かせて大正解だったと、あとになって思った。
 Gは思っていることが顔に出ないし、出たとしても顰め面に眉を顰める程度だ。顔に刺青があるせいで表情の細かい部分というのも誤魔化される。初めてGに会う相手はたいてい奴の刺青と顰め面に気を取られがちで、奴が何を考えているのかまでは推し量れない。
 覚悟しとけよとGにぼやかれなければ、オレはきっとその場で固まっていたに違いない。
 Gに連れられてやってきた人影は二人いた。一人はイマドキよく見られるハーフの外見をしているアンドロイドのスィフリ。本日最大のお客様だ。そしてスィフリと並んで歩いてくるもう一人は、日本人を感じさせる純粋な黒髪に、切れ長の瞳をしている。
 こちらは想定外だった。そう、あらゆる意味で。
「スィフリ、そちらは?」
「雲雀恭弥」
 訊ねたオレにスィフリが答えるよりも早く本人が不機嫌そうにぼそっと名乗った。
 見るからにサイズの合っていない中古もののよれっとしたワイシャツに、丈が微妙に短いズボン。スィフリの方は白衣にジーパン。二人とも手元にあって着られるものを着ているという状態で、それだけでもスラムの現状をよく表していた。
 こほん、と一つ咳払いをすることで自分を律し、応接室の扉を指す。
「中で話そう。ティータイムにはいい時間だ」
 扉の脇に控えている一人が木製の扉を開くと、途端に小さな影が飛び出してきた。ツナだ。背が届かなくて自力でドアを開けられず、開くのを待っていたらしい。
「スィフリ!」
 ばたばたとまっすぐ走っていってスィフリの足にしがみつくので、困ったな、と指で頬を引っかく。スィフリはしがみつくツナに嫌な顔一つせずに高い高いをする要領で抱き上げる。「やぁ、ツナ」にっこり笑うスィフリの横で雲雀が目を眇めているが、気付いているのかいないのか。
 ごほんと咳払いをする。ここはあくまで社内なのだ。部下の手前、スィフリに再会できて喜んでいるツナにほっこりしている場合ではない。
「ツナ。お行儀が悪いぞ」
 ここは一つ、保護者として厳しい表情も見せなければ、とキリッと引きしめた表情を意識してみたが、ツナにはあっかんべーをされるという始末。…恰好がつかない。見かねたGが二人の背中を押して「おら入れ」と半ば無理矢理入室させたことで外と中とが隔絶され、扉がしまり、ようやく一息吐けた。「ツナ…会社ではいい子にしてくれとあれほど」「べーっ」またあっかんべーされてしまった。そんな顔でも泣き顔よりはずっといいが。
 ツナはオレを含めて誰にも心を開いてこなかったが、昨日スラム街の奥まで自分を捜しに来たスィフリにだけは懐いていた。昨日の今日という出会いではあるが、オレはこのことを歓迎している。
 ツナは両親とともにスラム街でそれなりに平和に暮らしていたが、一ヶ月前、沢田家が炎上したことでその平和は唐突な終わりを告げた。
 焼け跡からは四人分の遺体が発見された。鑑定の結果、うち二人は沢田奈々と沢田家光、ツナの両親だった。では遺体の残る二人は誰なのか?
 あまりやりたくはなかったのだが、真実を明らかにするため、泣き疲れて眠ったツナに特殊な装置を取り付けて『記憶の再現』を行うことに決めた。ツナに『夢の中でもう一度』そのときのことを思い出してもらい、ツナの視点で、事件を見るのだ。
 ツナは毎日泣いてばかりで、泣いていなくても泣きそうな顔をしてばかりで、まともに口も利いてくれない。まったく手をつけていなかったご飯を少し食べ始めたことが唯一の回復傾向だったが、精神状態は相変わらず不安定だった。そんなツナに話せと強いることはしたくない。だが、何があったのか、彼の保護者を名乗る前に把握する必要がある。
「本当にやるんですか?」
「ああ。それくらいしかもう方法はないんだろう?」
「何せ事件があったのはスラムの住宅街だからね。監視カメラがあるわけでもないし、セキュリティだって物理的に鍵をかける、くらいの前時代的なものでしょ。これはもう事件を綱吉クン視点で再現する記憶のモンタージュくらいしかないよ」
「でもあれは危険でしょう、白蘭さん。ただでさえ思い出したくない記憶のはずだ。下手に海馬を刺激するのはその記憶を強いトラウマにさせるだけのものになってしまう」
「でもさ、これ以上の手はないって。聞き込みの情報はアテにならない、綱吉クンが自分の口で語ることは期待できない、ないない揃いだ。じゃー強行手段も仕方ない」
「けど、彼はまだ小さな子供で…このモンタージュでトラウマが増幅されて、これからの人格形成に歪みを生み出す原因になる可能性だって」
「可能性のある、ないを論点にしたって解決策は出ないよー正チャン。選ぶのか、選ばないのか、そのどっちかしかない」
「……装置は異常ナシ。いつでも開始できる。社長、どうする」
 スパナに問われ、今一度、頭に特殊な装置をつけ、何も知らずに眠っているツナを眺める。
 奈々。家光。
 子供が生まれたと電話で報告されたときには本当に嬉しかった。スラムという決して優しくはない場所で、それでも懸命に生きてきた二人が得た希望だ。
 その電話を受けてからは何かと理由をつけて二人と生まれた赤ん坊に会いに行った。会社から出るときはスーツで、スラムに踏み入るときはわざわざ着替えてでも、遠縁に当たる家族のもとに通った。オレにはもう家族がいなかったから、そういった空気への懐かしさや、それを失ってしまった寂しさもあったのかもしれない。家光も奈々も快く迎えてくれたし、ツナにはいつも玩具を買っていった。
 たった三ヶ月ばかり会っていなかっただけでツナが一人で立てるようになっていたときには驚いたな…。大人にとっては仕事に忙殺されていればあっという間に過ぎてしまう時間だが、子供は、過ぎた時間がどれだけ大切なものかということを教えてくれる。
 すべては順調だった。オレの方も、家光の方も。
 …少なくとも家光の方だけは大丈夫だと、そう思っていたかった。
 10月14日。沢田家が炎上したとされる日は、ツナの5歳の誕生日で、誕生会にはオレも呼ばれていたが、どうしても仕事の都合がつかなかった。
 仕事の量がもう少しだけ少なければ。いや、仕事を蹴飛ばしてでも、その場にオレがいたなら。何か一つでも違っていたら、この悲劇は防げたかもしれなかった。自分の誕生日に両親が死ぬという辛苦をツナが味わうことはなかったかもしれなかった。
 オレには責任がある。
「モンタージュを」
 肺の底から息を吐き出しながら一言告げると、イタチごっこのような討論をしていた正一と白蘭がぴたっと口をつぐんだ。スパナは黙って手持ちの精密機器の電源を入れ、最終チェックをすませていく。立体映像のスクリーンに電子データの羅列が並んであっという間に覆い尽くし、ツナの頭、記憶領域にアクセスを開始する。

 ぱち、と瞬いた視界に映し出されたのは、10月14日に大きく赤丸のつけられたカレンダーだった。ツナは壁に貼りつけられたそのカレンダーを見上げている。
 ツナの目線では、少しくたびれた皮のソファの向こう、小さな台所に立つ奈々の姿も見上げる高さだ。どうやら夕食の準備をしているようだった。包丁とまな板のリズミカルな音が響いている。
『おかーさん、おれもなにかてつだう?』
『ツっくんはいいのよー、遊んでらっしゃい』
 奈々のやんわり笑った顔に唇を噛む。もう二度と見ることのできない姿、聞くことのできない声…。感傷に浸りそうになる心に鞭打って、スクリーンを睨み続ける。
 ツナはおそらくふてくされたのだろう、奈々から視線を外して部屋を見回す。遊ぶものを探しているのかもしれない。この時点では何もおかしなところはなかったが…そういえば、家光がいない。仕事だろうか。ツナの誕生日くらい一日一緒に遊んでやればいいものを。
 ツナがソファに寝そべって絵本を読み始めた。絵本に飽きるといつかにオレがプレゼントした玩具の車と積木で適当に遊び始めた。『ジョットも来られればよかったのにね』という奈々の声にツナが視線を上げる。窓の外には斜陽。眩しいくらいの赤。
『おじさん、これないの?』
『お仕事が忙しいんですって』
『オレのたんじょーびなのに?』
『そうねぇ』
 困ったように笑う奈々の声。やはり家光は現れない。『おとーさんは?』『遅いわね…。何してるのかしらあの人』一人遊びに飽きていたんだろう、ツナは積木を放り出すと玩具の車片手にぴょんとソファを下りた。『おれみてくるよ』と言って奥の部屋に向かう。『お願いねー』と言う奈々の声が遠くなる。
 北向きに奥に広がっている間取りの家は、そう広くはない。だが、家族三人で住むには充分だ。『おとーさん?』と声をかけながらツナが背伸びして部屋の扉の一つを開け、覗き込む。いない。陽が沈み始め、電気をつけなければ室内はかなり薄暗く、見通せない。『おとーさん?』と再度声をかけたツナは、この部屋に家光はいないと見て、隣の部屋に移った。その部屋は少しだけ扉が開いていた。ツナが背伸びしなくても押せば扉は開いた。
『おと、』
 ツナの視界に光が射し込む。
 窓が開いている。カーテンが風に揺れている。
 その部屋は電気がついていた。
 家光は、こっそり準備をしていたのだろう。ツナを驚かせようと部屋を飾りつけていた…そう感じさせる室内に、家光が倒れている。頭からは出血が見られる。そばには覆面をつけ武装した男が二人。一人の手にはトンカチのような鈍器もある。
 ガチャ、とツナの手から玩具の車が落ちた音が大きく響いた。
 スクリーンに映る映像が不安定にブレ始める。ツナの意識が、モンタージュを拒絶し始めたのだ。
 振り返った男二人。『お、おと、さ』ツナの細い声。後退るツナに大股で近づこうとした一人の足を家光が掴み、トンカチで殴られようが、絶対に離さない。『ツナ行け、逃げろ。ナナと逃げろ!』家光の怒鳴り声に、ツナが駆け出す。一人は家光に足止めされているが、もう一人は猛然とツナを追ってくる。『おか、おかーさん! おかーさん!』ツナが必死に奈々を呼ぶ声。映像は走っているせいだけでなくノイズが入り始めた。ツナが思い出すことを拒絶しているのだ。これ以上はもう嫌だ、と。
 紙芝居のように、そこから先はブツブツと映像が途切れ、音声も途切れがちだった。
 台所兼居間に駆け込んだツナ。ツナの涙ぐんだ視界に映る、駆け寄って来る奈々。追いついた男。子供のツナより大人の奈々へ、向けられた殺意のナイフ。奈々は気丈にも応じた。自らの腕を盾に、調理に使っていた包丁を掴むと、男の腕に突き刺す。
『逃げなさい!』
 奈々の声。首を横に振った視界。嫌だ、と男に向かって積木を投げつけるツナの小さな手。
 奈々は精一杯抗ったが、男と女だ。力の差はあった。経験の差というやつも。
 奈々の胸に深々とナイフが突き立てられたことで、奈々が崩れ落ちたことで、ツナの泣き声は悲鳴に変わった。絶叫。奈々によってあちこちに傷を作った男がツナを睨み、蛇に睨みつけられた蛙のように、ツナの声が引っくり返る。
「ジョット、これ以上はもう…」
 現実ではツナがガタガタと震えていた。正一がツナを気遣うが、オレは「まだだ」と唸った。このままではツナが無事だった理由に繋がらない。まだモンタージュを続ける必要がある。
 男に睨まれ、引きつった呼吸を繰り返すだけになったツナは、無力だと判断されたようだ。手をかけられることなく放置された。男は部屋の金目のものをあさり始め、それが終わるとコートのポケットから缶を取り出した。…着火剤の入った、灯油のようなものだろう。強盗目的に家に押し入り、留守でなかった場合は相手を殺し、目的がすんだら火をつけて証拠隠滅、この家は火事で焼けてしまい、人も死んだ…筋書きとしてはそんなところか。火事に対する消火手段が乏しいスラムだからこそ通る筋書きだ。あの場所には消防車なんてものはないし、火事で人が死ぬことはままある。仕方がない、運が悪かった…そうやって片付けられてしまう。
 もう一人の男が戻ってこないままだったが、男は構わず缶の中身を部屋にまいた。マッチの火種は頼りなかったが、着火さえすれば、もう止められない。男が覆面の下で嗤う。
 ツナはなす術なくマッチの火が床に落ちていくのを見ていた。
 ボッと音を立てて火が上がる。男はそれを見届けてその場をあとにしようとしたが…背後から何者かによって後頭部を殴打された。かなりの力だったようで、火の中に倒れ込み、そのまま炎上し始めた。分厚いコートが着火剤を吸って仇になったのだ。
 火だるまになって床を転がる男の向こうには、生きているのが不思議なくらいに顔中血だらけの家光が立っていた。頭の一部が陥没している。それでもまだ生きていた。奈々を見つけるとよろりとした動作で膝をつき、動かない彼女を抱き起こし、瞼を閉じさせる。
『ジョットのところへ行け…ツナ』
 炎が床を舐める音。家光の消えそうな声。それでもまだ意志の強さの消えていない力強い瞳。だが、もう立ち上がることはできないようだった。奈々を抱いたまま動かない。
『行けっ』
 強く言われ、ツナはよろけながら立ち上がり、後退りながら、燃え盛る炎の向こう側に見えなくなっていく両親を見つめていた。最期まで見ていた。あっという間に天井まで届いた火から逃げて外に転がり出る、その視界は涙でいっぱいだ。

「もういい」
「ほい」
 スパナがプログラムを強制終了させると、痙攣を起こしていたツナの身体から力が抜けた。ヘッドセットを外すと、泣きながら、まだ眠っているツナがいる。
 それまで黙ってスクリーンを見つめていた白蘭があーあと明るい声を出した。「こりゃけっこー酷いね。トラウマ化するかも」「だから言ったじゃないですか」眉尻をつり上げる正一に白蘭は明るく笑う。この男はいつでもそうだ。どんな暗いことも明るい方向へ持っていこうとする。それで損を背負おうとも。
「まぁまぁ。どういうメンタルケアをすべきか、この映像をもとに専門家に任せるっていうのも手だよ。ウチにはメンタル専門医はいないしね」
「…それは、確かに」
「それで? 我が社のシャチョーさんはどうするの? 僕はコレ、信頼できる人間以外には見せない方がいいと思うな。下手に同情できる環境を作っちゃうと、綱吉クンが曲がっちゃうと思うし。男の子は逆境を乗り越えてこそ! とか言うじゃない」
 にこにこ笑顔の白蘭を正一が小突くが、間違ったことは言っていないと思う。
 ツナはモンタージュに耐えたのだ。きっと強い男になる。なれるはずだ。家光は強い男だった。お前はその血を引いている。
(強くなれ、ツナ)
 オレはお前を見守るよ。慈しむ。オレのすべてでもって、お前のためにできることをしよう。そう誓う。
「アップルパイ!」
「本当だ。いいにおい」
「たべよ。スィフリも。おじさん、いーでしょ?」
「ああ」
 着席したスィフリの膝の上からアップルパイをねだるツナは元気だ。スィフリに懐いた理由がどうであれ、ずっと泣いているよりはいい。が…一つ言いたい。
「…おじさんはやめないか……オレはまだ28だぞ…」
 唸ったオレを雲雀が一瞥した。「アラサーってやつでしょ? おじさんでいいじゃない」こちらも容赦ない。ぐさっと胸に何かが突き刺さる。「おじさんっていうのは、血縁関係から言う叔父さんのことでしょう? そんなに気に病む必要は」スィフリがフォローしてくれるが、それでもおじさんという響きは変わらないわけで…。複雑だ。
 Gが呆れ顔で紅茶を淹れている。「パイ!」ツナの催促に肩を竦めて小皿にパイと生クリームを盛りつけて目の前に置いてやると、ツナはエプロンもしないままフォークを握ってパイをつつき始めた。だが、俺が行動するより早くスィフリがテーブルに用意されたナプキンを取ってツナのシャツの襟元に押し込む。「ツナ、隣で食べなさい。俺が食べられないから」やんわりと促すスィフリにツナがむむっと眉間に皺を寄せ、いいことを思いついたとばかりにアップルパイを突き刺したフォークを掲げた。これで食べられるだろうと言わんばかりのドヤ顔だ。
 スィフリが苦笑いでツナの手からアップルパイをいただく、その横で、雲雀が無言でパイにフォークを突き刺した。ガン、というすごい音がしたがツナは気にも留めない。「はい!」「うん…」が、スィフリは雲雀の不機嫌さをそことなく察知しているようで、ツナが近づけたフォークに遠慮がちだ。「んーっ」ツナが足をばたつかせて抗議する。食べろ、と。
 ツナとスィフリと雲雀、三人の向かい側に着席したオレは、給仕に回っているGを見上げた。視線がかち合う。
 雲雀の存在は想定していなかったが、考えは変わらない。いや、むしろ、譲れないものになったともいえる。
「スィフリ」
「はい」
 紅茶のカップにミルクを垂らしたスィフリが顔を上げた。もう片手は生クリームで汚したツナの口元を紙ナプキンで拭っている。
「急なことで驚くと思うんだが…」
「はい」
「ツナの教育係にならないか?」
「…はい?」
「給料も出す。衣食住も保証する。その代わり、ツナについての全般を任せることになるから、それなりの責任も伴う。だが、君にとっても悪い話ではないと思っている。有用性の証明だ」
 ガン、と音を立ててフォークをパイに突き刺した雲雀が剣呑な目つきでオレのことを睨みつけている。その雲雀に気遣うような視線を向けたあと、スィフリの青い目はオレに戻った。「ツナの教育係なら、俺じゃなくてもできるのでは」「いや。君には懐いているが、オレの膝にだって乗ろうとはしないんだ。君がいいんだろう」「…はぁ」ツナのことをイマイチ理解していない現状では、オレの言うことにピンとこないのも仕方がない。
 小さなチップを取り出し、Gに預ける。Gの確認するような眼差しに一つ頷くことで答え、チップをスィフリに渡してもらう。それが記録媒体だということにスィフリはすぐに気がついた。「それを見てもらえば分かるだろう」と言うオレに、紅茶のカップから手を離したスィフリが受け取ったチップを首の後ろ辺りに押し当てた。
 時間にして、僅かに10秒ほどだ。それで記録データをすべて読み取り、チップをGの手に戻す。
 あのチップにはモンタージュのデータと、オレがツナを引き取ってからのだいたいの記録のすべてが詰まっている。ツナが誰の言葉も聞こうとしないこと、あまり物を食べないこと、笑わないこと、泣いてばかりいること、人見知りなこと…そのどれも、君はクリアしている。君だけが。ツナにとって君は特別だ。
 スィフリは黙ってツナの頭を撫でた。ツナが無邪気に笑って掲げるフォークに重さがあることに気付いたのだ。
「スィフリ、あーん」
 ぱく、とツナのフォークからアップルパイを平らげ、紅茶をすすり…スィフリは迷ったような視線を隣の雲雀に向けた。さっきのデータが何かなど知るはずもない雲雀は不機嫌そのものの顔で紅茶に砂糖を落としてスプーンでかき混ぜている。
「俺は、それでもいいです。確かに、俺の有用性の証明に、大きく関係しそうだし」
「、」
 カチャン、とスプーンとカップが音を立てる。雲雀が大きく目を見開いて、視線を俯け、何かに耐えるように唇を噛みしめていた。その表情を誤魔化すようにカップを口元に運ぶ。
 そうか、と安堵しそうになったが、「でも」と続けるスィフリにアップルパイの載った皿を引き寄せる手が止まる。
「でも、なんだ?」
「一つだけ、条件が」
「条件? なんだ。言ってみろ」
「…恭弥も、一緒にいさせてくれるなら……」
 思わず首を捻ってしまう。それが条件?
 ぶっと紅茶を吹き出した雲雀が盛大に咳き込んだ。気のせいではなく顔が赤いようだ。「ば、な、何、馬鹿なこと」口も回っていない。「…失礼だが、君と彼との関係は?」雲雀の様子を見ていれば想像がつくようなものだが、スィフリは曖昧に笑って「関係とか、ないですけど。なんとなく、一緒にいたので。この先も一緒にいたいというか」「ふむ」で、そちらは、と雲雀の方に視線を移す。彼は紅茶で汚したテーブルをナプキンでこすっていたが、オレの視線を受けて、黙って頷くことで答えとした。
「…ジョット」
 Gの咎めるような声がする。
 お前の言いたいことは分かる。だが、それがスィフリの条件だというのなら、仕方がない。
 あらかじめ用意しておいた契約書に、スィフリの字でサインをしてもらう。あとは、雲雀にも。
「これで契約成立だ。君達二人にはツナのことを任せたい。まぁ、他にも雑用なんかをしてもらうことになるだろうが…その代わりこちらは君達の衣食住を保障し、スィフリ、君のためにどんなデータも優先的に用意しよう」
「はい。よろしくお願いします」
 頭を下げたスィフリに、雲雀が渋々といった感じで倣う。
 では、今日のところはこのくらいにしよう。そちらも持ち物の準備などがあるだろうから、明日、今日と同じ時間、同じ場所で落ち合おうと約束をして、Gに二人を駅まで送らせた。
 一人になった応接室で、一人アップルパイを食べながら、携帯端末にアクセスし、久しぶりにアルバム機能を表示させて検索をかける。
 その名でヒットする写真は一枚だけだ。奴はそういったものを毛嫌いしていたから。
 ボンゴレを会社として設立することになったとき、幹部の顔ぶれを公表するのにどうしても必要だと粘りに粘ってようやく撮った一枚の集合写真。そこにはさっきまで見ていた顔とそっくり同じ顔がある。雲雀恭弥、と不機嫌そうに名乗った彼とそっくり同じ顔が。髪や瞳の配色こそ違えど、それ以外は本当にほとんど同じだ。血縁関係にあると言われてもありえないくらいそっくりな人間がいる。
「……アラウディ…」
 最後に奴を見たのはいつだったか…。記憶を手繰り寄せるために目を閉じて、パイの味のする唇を舐める。
 最期に、まともに奴の姿を見たのは……アイツの葬式のときだったか。
 火葬場で、あのアラウディが、棺に縋って泣いていた。大声を上げて、子供のように泣いていた。そんなアラウディにオレ達はかける言葉が見つからなかった。オレ達のことを邪魔だと判断した連中が汚い手を使ってでも会社を潰しにかかってきた、アイツは最初の犠牲者になってしまったのだ。

 美人ともいえる顔立ちをしているアラウディは、顔に見合わず凶暴な破壊衝動を秘めた危険人物であり、その破壊衝動を冷静に処理してしまうという恐ろしい客観性を兼ね備えていた。鬼に金棒だ。冷静に他人を利用し冷静に他人を蹴落とし、邪魔になると判断すれば斬り捨てる。それが敵わないから手を汚してでも消す。自分の生きやすさのためなら簡単に他人を犠牲にできる、一歩間違えば大犯罪者にもなりうる素質を持っていた奴は、さながら氷の化身のようだった。
 奴の生まれ持った冷たさ。下手をすれば触れた自分が凍傷にかかって傷つくだけのその冷たさを、恐れず、抱きしめた奴がいる。
 スラム育ちでありながら、他人を信じる心を忘れなかった、太陽みたいに笑う、太陽の名を持った奴だった。その笑顔が辛いときでも気持ちを前向きにさせてくれたし、オレも何度も救われたことがある。
 前向きではあるが決して楽観的ではない明るさは保つのが難しい。それを自分のためではなく人のためとするならなおのことだ。
 だが、アイツは気取ってなどいなかったし、自然体だった。だからこその太陽だった。
『アラウディはお月様なんだ』
『は?』
『太陽がないと輝けないんだよ。冷たい真空に沈んだままなんだ。でも、太陽があったら、その光で輝ける。夜を照らせるんだよ。やわらかく、優しく』
 それって素敵だねってアイツは笑って、意味が分からない、とアラウディは顔を顰めていたっけ。
 触れれば傷つく冷たさを恐れなかった奴は、太陽としてアラウディを照らした。その光を無視し続けていた月だったが、飽きも諦めもしない太陽に、次第に顔を覗かせ、太陽が照らすことのできない夜という闇を照らすようになる。

 雲雀恭弥はアラウディに瓜二つだ。
 アラウディが消えたのは五年は前になるが、その間にどこかの誰かと子供ができたと仮定しても、計算が合わない。
 月と太陽は寄り添っていた。奴が死ぬまで、いや、死んでも、アラウディが心を変えたとは思えない。他の誰かを好きになったとは思えない。…そうなっていたら一番いいのだろうが、太陽をなくした月は、また真空に沈んだのだ。
 一度光を受け、その光を返すあたたかさを知ったからこそ、アラウディはもっと深くまで沈んだまま、この場所からも消えた。代わりのあたたかさなどいらない、求めない、と。
 完璧な行方不明。
 捜索依頼を出したが情報は集まらないまま、もう五年だ。月は死んだ太陽のあとを追ったのではないか…そんな話も出始めていた。
 だが、雲雀が現れた。間違えようもなくあれはアラウディだ。無関係であるはずがない。雲雀自身に自覚はなくとも、彼にはアラウディに繋がる何かがある。
 それに、スィフリ。彼はアイツにそっくりだ。ちょうどソレイユに出会った頃があのくらいの年頃だった。
 かつての太陽と月を模倣するような、スィフリと雲雀の二人。何もない偶然の一致だと思えというのが無理な話だろう。
 とりとめのない思考でかつての思い出を振り返っていると、携帯端末が着信を知らせた。Gだ。二人を駅に送り届けたのだろう。
「助かったよ」
『ああ』
 ぼやくような声には重さがある。いつもの気怠さとはまた違った種類のダルさだ。
『ありゃなんだ? 悪い夢でも見てる気分だぜ』
 吐き捨てるような声は、雲雀とスィフリの二人を指していた。
 二人の姿で自然と連想してしまう、かつてのアラウディとソレイユ。
 太陽は沈み、月は取り残されたが、奴を照らす光がなくなったことでその姿は闇の中に沈み、埋もれたまま、五年がたった。アラウディはソレイユを追って死んだのかもしれないと思っていた。だが、今日雲雀の姿を見て、その考えは簡単すぎたんだと気付いた。
 あのアラウディだ。自分の生きやすさのためならどんな狡猾な手段にでも出る奴が、そんな自分を客観的に冷静に判断できる奴が、自分を見失うなんて簡単なこと、できるはずがない。きっと絶望しながら気付いたはずだ。ソレイユという太陽を失っても沈まない自分に。沈めない自分に。
 絶望して、失望して、その先に奴が何を見出したのか…。希望を失った世界に何を思ったのか。愛する者を失い、ぬくもりを失い、冷たい両手と思考に戻った奴が、何をするのか。きっと何でもできるだろう。奴にできないことなどなかった。冷静にすべてをやってのける。どんなことでも。
「お前は、奴は生きてると思うか」
『…死んでたらいいと思うがな。タダで沈むもんかよ。好きになった奴を殺されてんだ。殺し返したくらいじゃその殺意は止まらないだろう。太陽を奪ったこの世界ごと壊すような……そういうろくでもないことを平気でやってのけるぞ、アイツは』
 氷のように冷たい瞳がひたりとこちらを見据えているような気がして、腕をさすった。
(どこからどこまでが偶然で、どこからが必然だ? どこまでが仕組まれていて、どこからが…)
 アラウディが無表情に操っている糸がスィフリと雲雀の二人にくくりつけられている。二人はそれを知らない。もしかしたらすべてが計算されたことなのかもしれないということに気付かない。
 その可能性に気付いてしまったオレ達は、スィフリと雲雀を監視下に置く。それくらいしか手がない。
 これがオレ達のいきすぎた思い込みで終わるならそれでいい。だが、恐らくそうはならない…。悪い予感というのは昔から当たるものだ。
 きい、と静かに扉が開く音がした。はっとして振り返った先にいたのはツナで、きょろきょろとあちこちに顔を向けて何かを探す仕草をする。スィフリが帰って、飛ぶように部屋に戻ったと思ったが…。
「おじさん」
「ん? どうした」
 そっと通話を切ってそれとなく席を立つオレをツナの丸い目が見上げている。「おひさまがとんでた」「…ん? 太陽なら外にあるぞ」ほら、と窓の外を指すオレにツナが首を横に振る。あの太陽のことを言ってるんじゃないらしい。
 ぷくーっと愛らしく頬を膨らませたツナは、もういいっ、と怒って部屋を飛び出していった。
 通話を終えた端末はその前までの処理を実行している。アルバム画面の集合写真を表示したままだ。
 写真を眺めているうちに、ツナの言うお日様がソレイユのことを言っているんじゃないかと気付いて、まさかな、とオレは一人頭を振った。