1.灯々

 朝6時半。「恭弥、起きて」と肩を揺さぶられて、眠いと訴える目をこすりながらのそりと身を起こすと、スィフリがいた。いつもと何も変わらない笑顔だ。
 僕は朝は血圧が上がらないから苦手だ。まず眠いし。だいたい君はどうして朝からそう笑顔でいられるのか…いや、むしろ、いつもだいたい笑顔でいるのはどうしてか。そっちの方が謎だ。
「7時にツナを起こしに行くよ。支度して」
「…ん」
 ベッドに手をつくと、スプリングがしっかりとしていて、シーツも滑るような手触り。跳ねのけた布団もふわふわとやわらかい。ベッドから下りれば絨毯の毛が足の裏をくすぐる。
 ピ、とスイッチの入る音がして、部屋の遮光カーテンがひとりでに開いていく。カーテンの向こうには地面から生えているようにビル群が立ち並び、その間から朝陽が見える。寝起きの目にその光は突き刺さるような強さで、視界を庇って手をかざす。
 ボンゴレコーポレーション。そう呼ばれる民間企業のトップに立つジョットに雇われて、『沢田綱吉の教育係』としてスィフリと二人でボンゴレに入って、これで三日目の朝だ。
 僕がぼやっとしているとスィフリが勝手に着替えを用意し始めた。勝手にと言ってもいつもだいたい着るものは同じだ。幹部の甥っ子の世話をする人間が丈の合ってないジーパンではいられないから、着替えもいいものを支給されてる。
 ぼうっとしている僕に苦笑いしたスィフリが「顔は洗ってきなさい」と言うから、ふらっと一歩踏み出して、どっちだっけ、と左右の扉に視線を彷徨わせ、「左だよ」という声に従った。…相変わらずよく見てる。
 シンプルなデザインで無駄な装飾の省かれた、システム的な洗面所で顔を洗った。寝癖のついている髪を気にして水で濡らした手で撫でつけてみたけどあまり変わらない。…まぁいいか。
 多少覚めた目で部屋に戻ると、朝陽に照らし出されているスィフリの髪がきらきら輝いていた。物のいいスーツに身を包んで、やわらかい笑顔で僕においでと手招いている。
(そうしていると、君は物語の中のできすぎた王子様みたいだ。いつも笑顔で、優しくて、相手のことをよく見てて…)
 馬鹿なことを考えてるな、と自分の思考を笑って、呼ばれるままふらりとスィフリのそばに行った。当たり前のようにパジャマにかかった手にゆるりと瞳を細くする。
 もうだいぶ目は覚めたし、自分でできるけど。スィフリが勝手にやりたがるんだから、させておく。それだけだ。別に甘えてるとかじゃない。
「腕上げて」
「ん」
 するする滑るような肌触りのパジャマはまだ着慣れない。ボタンを外してしまえば滑って絨毯の上に落ちる白い生地を眺めて、視線を上げる。やんわり微笑んだ顔のまま薄い紫色のワイシャツを着せていく手をぼうっと見つめて、眠気に任せて、ついつい目を閉じてしまう。
 …居心地がいい時間。この時間だけを切り取るなら、まるで僕が主人で、スィフリが執事みたいな。
 スィフリが薄い水色のワイシャツ、僕が薄い紫のワイシャツで、あとは同じスーツの恰好になって、時刻は7時になる5分前。綱吉を起こしに行くにはちょうどいい頃合いだ。
 二人で部屋を出て、誰もいないフロアを並んで歩く。
「…そういえば、弁護士の人、なんだって? 返事来た?」
「来たよ。やりましたね、って喜んでた。このまま実証データを重ねていけば、『有用性の証明』で裁判ごとになっても勝てるだろうって。そうなった場合ジョットが証人台に立つって言ってくれたし…処分の通告が取り消されるまでは安心はできないけど、九割方大丈夫だと思う」
「そう」
 隣を歩くスィフリをちらりと見上げる。いつもと変わらない表情。自分の有用性を証明できたも同然なんだから、もっと喜べばいいのに、普通だ。
 ……そういえば僕もそうか。スィフリが壊れたら嫌だ嫌だって思っていたくせに、これでもうスィフリは大丈夫というところまできたのに、喜べていない。
 理由はたぶん、その証明に大きく貢献したのが自分ではないから、だろう。
 民間でも大企業に入るボンゴレコーポレーション、その取締役代表という立場のあるジョット、そのジョットの養子である綱吉の教育係。これだけ条件が揃ってなおかつ『スィフリでないと駄目だ』という現実があったから成ったんだ。はっきりいって、そこに僕はいないし、いらない。あんなにスィフリのためになりたいって色々考えたのに、結局僕は彼のためになれなかった。
 ぐっと唇を噛んだとき、ちょん、と体温が当たった。スィフリの指だ。「そんなに強く噛んだら切れちゃうよ」という声に、わざと唇を強く噛んだ。ぷつ、という音と鈍い痛み。じわりと口内に広がる鉄錆の味。久しぶりに血の味を知ったなと妙な関心を憶えた僕に、スィフリが苦笑いで顔を寄せてキスしてきた。生温かい舌が切れた箇所に触れるとピリッと鋭い痛みが走る。
 スィフリは自分の身体を構成する、ナノマシン、とかいう極小の機械で切れた唇を治した。この原理で僕の取れた腕もくっつけたんだとか。
 傷を治したら離れようとするスィフリのネクタイを掴んで引き寄せ、キスさせたまま離さないでいると、青い瞳がゆるりと細くなった。傷を治すためのキスが嗜好的なキスに変わる。
 したいからする。理由も理屈もいらない。僕はスィフリとこうしたい。
 スィフリは、僕とこうしたいと思っているから応えてくれるんだろうか。それとも、相手が誰であっても、有用性の証明のためにキスするんだろうか。あのスーパーではそうやって女の頬にキスしていた…。
 考える胸がムカついてきて、どん、とスィフリの胸を押して身体を離した。「時間」俯いてぼそっとぼやいた僕に「そうだった」と笑った声は本当は何を思っているんだろう。僕のことをどう思っているんだろう。僕はそれが怖くて訊けない。
 僕じゃなくたって、誰にだって、求められればするんでしょう。そうやって問い詰めて、彼が困った顔でそうだよと言う、その姿が想像できる。それが現実になってしまったら、僕はきっと、耐えられない。
 誰だっていい。僕じゃなくたっていい。そう言われることが怖い。
 僕らの一日の仕事というのは、まず綱吉を起こすことから始まる。
「ツナー朝だよ、起きて」
 スィフリがベッドで寝こけている綱吉を起こす間、僕がカーテンを開けて着替えを用意し、玩具や本が転がっていたら片付ける。ようやく起き出した綱吉が顔を洗うのにスィフリが付き合い、着替えもさせて、次にようやく朝食だ。『ツナ』と札のかかった部屋を出て、フロア全体のリビング・ダイニングとなっている大きな部屋に向かう。
 54階の高さを誇るボンゴレ社の40階から上は居住スペースになっていて、一番上のワンフロアはまるごとジョットのものだ。そのうちの一番広い個人部屋がジョットの私室、隣がツナの部屋、僕らは一番端に二人で一つの部屋をもらった。
 なんだかんだでジョットの秘書みたいな仕事をしているGもこの階に住んでいる。彼は医者らしいけど、患者がいなければ仕事にならないから、好きでやっているんだとか。
 綱吉を連れて僕とスィフリがリビングに入ると、「おはよう」とさっそくジョットが挨拶してきた。今日もパリッとアイロンのかかった皺一つないシャツにスーツ姿だ。「おはようございます」とぺこりと頭を下げるスィフリに倣って頭だけ下げておく。綱吉にとってジョットはただの叔父さんだけど、「おはよーございます」と頭を下げるのはスィフリのマネだろう。
 広いキッチンではGが朝食の準備をしている。顔に似合わないけど家事全般が得意らしい。
 綱吉を子供用の椅子に座らせたスィフリは「手伝います」とキッチンに入った。僕はあまり調理が得意ともいえないのでついてはいかない。けど先に座るのも何か変な気がして、Gとあれこれ会話しながら有用性をフル発揮しているスィフリをぼんやり眺める。
 こうやって誰かのためになっている現実を積み重ねていけば、スィフリは未来を得られる。
「雲雀」
「…何」
 ジョットの声にじろりと視線を投げると、彼は真面目な顔で腕時計型の携帯端末から表示される立体ウィンドウを見ていた。どうやらスィフリが立てた今週一週間の綱吉のスケジュール表を確認しているようだ。「今日は外へ買い物へ出るそうだが、どこへ行く気だ?」「ここから一番近いデパート」「理由は?」「…スィフリ」そういう詳しい話はスィフリに全投げしてある僕は彼を呼んだ。サンドイッチとつまみの載った大皿を片手で運んできたスィフリは、「おなかすいたー」と手を伸ばすツナに野菜サンドを渡しつつジョットの質問に答える。
「ジョットは、ツナに必要なものを用意するとき、ネット経由のオンラインショップを利用していますよね」
「ああ。店に一緒に行く時間もなかなか取れないし、ツナも行きたくないと言ったからな」
「今日外出する理由は二つあります。一つは、ツナが行きたいと言ったからです。ツナ」
「んー」
「俺と一緒にお買い物、行きたいんだろう?」
「うん!」
 口周りをパンくずで汚しながらぱっと笑顔になった綱吉に、ジョットが苦笑いをこぼす。
「二つめは?」
「経験です」
「…ん? どういう意味だ?」
「ここには何でもある。ツナが欲しいと言えばたいていのものなら用意する気でいる。でしょう、ジョット」
「そうだな。不便はさせたくないと思っているから、たいていのものは用意するだろうな」
「欲しいと言えば何でも手に入る、ということを当たり前として育ってしまうと、その感覚を当然として、手に入らないことがおかしいと感じる人間になってしまう。そのためにもあえて不便を経験するんです。
 たとえば、服一つにしても、お店で見て、手に取って、試着してみて、それで気に入ったら初めてレジに持っていってお金を払って品物を得る。物というのはこうやって売られていて、それを得るには手順がある。それを知っておくのは損にはならないと思います。
 ツナはスラム育ちですから、完全なお坊ちゃんとかじゃありませんけど…そもそも、遊び盛りの子供がずっと室内にいるというのも不健全ですし。たまには外出した方がいい。本人が行きたいと言ってるならなおのこと」
 真面目な顔でスィフリの教育論を聞いているジョットから視線を外し、「ジュースは何がいいの」と綱吉に振ると、おっかなびっくりという顔で僕を見上げた綱吉が「じゃあ、りんご」と言うのでキッチンの冷蔵庫からりんごジュースのパックを取り出してコップに注いだ。コーヒーメーカーの前に立つGが「仕事してんじゃねぇか」と笑ってくるから、一睨みしてからダイニングに戻って綱吉の前にコップを置く。
「あとは何かいる?」
「…おにーちゃんたべないの?」
「食べるよ」
 どうやらスィフリとジョットの話し合いはまだ終わらないようなので、仕方なく綱吉の横に着席してサーモンとチーズのサンドイッチをつまんでかじった。
 朝からこんなものを食べられる贅沢にもそろそろ慣れ始めている自分に呆れてしまう。適応力が高い、といえば聞こえはいいけど。
 カビたパンで一日を凌いだことが何度もあるのに、朝からこんなもの。ある意味吐き気がする。贅沢すぎて。
 隣で落ち着きなさそうに膝をもそもそさせている綱吉は僕のことが苦手らしい。僕も子供なんて苦手だからお互い様だけど。
「スィフリは、おじさんと、なにはなしてるの?」
「…難しい話だよ。綱吉にはまだ分からない」
「でも、おれのなまえ、でてくる。おれのことでしょ?」
 子供とは言っても5歳児は馬鹿ではない。
 いい加減にしろとスィフリとジョットを睨みつけると、二人は揃って口をつぐんだ。取り繕うのがうまい二人は不自然でない笑顔で、「スィフリに今日のお出かけの予定を聞いていたんだよ」「そうそう。ツナに新しい玩具買ってもいい? って」玩具、の言葉に反応した綱吉は丸い目でジョットを見上げた。ジョットはツナに甘いので、仕方がないなぁという顔で「いいか、一つだぞ。よく考えて選んでくるんだ」と言う始末。…親馬鹿だ。
 朝は目覚ましになるよう苦いエスプレッソを淹れるGは、二人分しか持ってこない。僕はそんなに苦いものは飲めないし、スィフリはあまりエネルギーのない飲み物は摂らない。
 スィフリが隣に座った途端元気と機嫌がよくなる綱吉を横目で眺めつつ、野菜サンドをかじる。
 仕方なく席を立って、綱吉の世話を見るスィフリと自分にオレンジジュースを注いで持っていく。「ん」コップを突き出した僕にスィフリは「ありがとう」とやんわり笑った。オレンジ100%のジュースはエスプレッソよりエネルギー栄養その他がある。
 G、ジョット、スィフリ、綱吉、僕。五人の朝食の席にも慣れ始めた。
 スラムでの生活を基盤としている僕には嫌悪してしまうような贅沢は、どこかで望んでいたことで、憧れていたことで……でもいざその中に放り込まれてみれば、違和感ばかりがある。
 掃除の行き届いたフロア。汚れも破れもない物のいい服。喧騒なんて程遠い静かで空調の利いた空間。ワンタッチで開閉する扉。いたるところにある監視カメラの人工的な目。
 ただの人殺しにすぎない僕がここにいてもいいんだろうか。
 そうやって考えているとスィフリが決まって何かしらアクションを起こす。僕の心中を察しているように。「恭弥」「何」「フルーツは何がいい?」「…桃」「ん」にっこり笑ったスィフリがツナの頭を撫でてからキッチンに向かう。水色のシャツの背中を眺めてから視線を外し、細く息を吐いた。

 なんだかんだと言い訳したところで僕は認めたんだ。ジョットに問われて頷いたじゃないか。
 僕と一緒なら。そう条件を出したスィフリが、好きで、好きで、だから、嬉しかったんだ。
 あのとき、スィフリは何を思って僕のことを引き合いに出したんだろう。言葉のとおりに一緒にいたいと思っていたんだろうか。それが偶然で、成り行き上でも、なんとなくでも、これからも一緒にいたいって思ってくれたんだろうか。
 そうだとしたら嬉しい。訳もなく照れを覚えてしまうくらいは。

「はい」
「…ん」
 スィフリの手から一口大に切り分けられた桃の小皿を受け取る。
 同じ小皿が綱吉達にも配られるけど、それでもよかった。
 わざわざ真ん中に、一番目に入る位置に、ハート型に器用に切られた桃の一片を見つけたから。
 その形に深い意味があるにせよ、ないにせよ、スィフリは僕のことを気にしている。気にかけてくれてる。…今はそれで充分だ。
 贅沢すぎて吐き気を覚えるこの場所で息をすることを前向きに考えられる。ここにいたいんだと思える。僕が望んだんだと認めていける。…受け止めていける。
 この贅沢さを嫌悪しながら、享受していける。