出来たいモノ

 その日は仕事がなかった。大してすることもなかったから久しぶりにスーツ以外の服に袖を通してばんとの部屋のドアを開け放つ。もぞりとベッドが動いて寝起きって顔のが何度か瞬きしてボクを見つめた。
「ひばり?」
「出かけるよ。起きて」
「え? おれも?」
「そうだよ。さっさと顔洗って着替えて」
「う、ん」
 もぞもぞ起き上がったが階下に下りていった。その間にクローゼットを開け放って適当な服を取り出す。お金は渡したから必要なものは粗方揃っていた。今度スーツも新調させようか。どうせ最初に着ていたのは使い物にならないわけだし。
 三分たつとが部屋に戻ってきた。いくらか眠気の取れた顔の相手に着替えを押しつけて「下にいるよ」と残して部屋を出る。戸惑ったような視線が追いかけてきたけどスルーした。まだ五時だとか、そんなことは関係ない。
 なんだか無性に海に行きたい気分だった。
 バイクを愛用することが多いけど、今日は連れがいるから車庫から車を出す。黒塗りの車には少しだけ埃が見て取れた。ああ、しまった。普段使わないから気にしてなかったけど、週に一度くらい車も清掃させようか。
 家から出てきたがきょろきょろとボクを探す素振りを見せた。ファン、とクラクションを鳴らすとびっくりした顔でこっちを見て、慌てて走ってくる。
「雲雀、どこ行くの?」
「海。乗って」
「え、みんなは?」
「何で同じ顔を連れて行かないといけないのさ。キミが来ればいいんだよ」
「う、ん」
 遠慮がちに車の助手席に乗り込んだ。バタンと閉められた扉を合図に車は滑るように走り出した。久しぶりに自分で運転するけど、腕が落ちてないといいな。
 きょろりと車内を見回したが「外車だね。高そうだ」とか笑う。キミからしたら日本車が外車だろうと思ったけど、余計なことは口を噤んだ。「高かったかな。もう忘れた」墨のような黒い色が気に入って買ったことは憶えてるけど、値段までは記憶していない。
 ハンドルを切りながら、高速道路を目指す。まだ五時過ぎだから車道は人影も車もまばらで運転しやすい。
「どうして海?」
 隣で首を傾げたに「何となく」とだけ返す。理由は本当に、無性に行きたくなった、というだけだ。
 この時間帯なら高速に一時間も乗れば近場の海へ行けるだろう。行って、何をするかは考えてないけど。
 あふ、と欠伸を漏らしたが目をこする。ボクは昨日さんざん寝たから四時からもう起きているし、眠くもない。
「ご飯の用意ができなかったなぁ」
 ぽつりとした呟きは、使用人らしいものだった。
 実際彼はよくやっている。毎日の食事からお風呂の用意、買出しから雑事までこなしている。それだけで日々が埋まっていくことに疑問も感じていないようだし、使い勝手のいい拾いモノをした。これは拾って正解だった。悪意も害意も媚びもない笑顔は見ていて苛々しないし、素直に受け取ることができる。食事はおいしい。温かいものを食べられて、最近は外での食事の回数も減った。
 どんな人間が作ったか分からないものなんて食べる気にならなかったけれど、の作るものなら、食べてもいい。苦にならない。だから自然と胃に入る。
「寝てもいいよ。着いたら起こすから」
 そう言うと、は眠そうな顔で笑った。「うん、起きれたら、起きてる」言いながらすでに寝そうだった。まるで昨日のボクだな、と思う。ボクも昨日は眠かった。徹夜で仕事を片付けたせいだろう。予定通りに片付けたけど、徹夜は眠い。気持ちは分からないでもない。だから彼が眠ることを許可した。
 高速に入ってスピードを上げる。バイクだとうるさい耳鳴りも、車では気にならない。
 すっかり眠っているにときどき視線をやりながら海を目指した。都会を離れ、ひたすら端へ。
 途中、お腹が空いてサービスエリアに寄った。スタバで適当なものを二人分テイクアウトして車に戻ると、はまだ眠っていた。さすがに放置するとホットは冷めるだろう。ボクは冷めたものはあまり好きではない。だから手を伸ばしてむにと弾力のない頬をつまむと、は目を覚ました。「いひゃい」「朝ご飯」スタバのサンドイッチとコーヒーの入った紙袋を預けて頬をつまんでいた手を離す。「あ、りがとう」頬をさすりつつ笑ったから顔を逸らしてコーヒーの紙カップを傾けた。もう少し熱くてもいいけど、これくらいが外の温度かな。
 すっかり朝陽が昇っていた。サービスエリアにもそれなりの人がいる。運搬業者のトラックが多い。ガソリンの残りを確認してからシートに腰かけてサンドイッチを食べた。
「電話していい? 朝ご飯作れなかったから。もう恭起きてるだろうし」
 答えないでいると、は携帯で電話をかけ始めた。すぐに繋がったようで、「恭? 俺、。朝ご飯作ってなくてごめん。ご飯は炊けてると思うんだけど…ああ、うん。雲雀なら隣だよ」ちょんと背中をつつかれた。視線だけ投げると「恭が代われって言ってるけど」「嫌だ」苦笑いしたが携帯に耳を当てて「やだって」と吹き込んだ。
 会話を聞き続けるのが億劫で立ち上がってアスファルトを蹴り、左の肩甲骨辺りに手を触れさせた。まだ少し痛む。湿布は効いてないわけじゃないだろうけど。
 コーヒーの紙カップを傾けてサンドイッチを食べ終え、コーヒーも飲み干す。ゴミを紙袋に突っ込んだところで「気をつける。じゃあ」と声が聞こえて、終わった。パタンと携帯を閉じた音がして、サンドイッチとコーヒーを片付ける音が続く。
 目に沁みる朝陽を睨みつけていると、ガチャと車のドアが開く音がした。視線を投げるとが外に出たところで、ぐっと大きく伸びをすると「朝陽が眩しい」とこぼして笑った。
 キミの中は、まだ空っぽなんだろう。記憶が戻ったという話は少しも聞かない。そろそろ拾って帰ってきて一週間にはなるけど、まだ戻らない。
 病院には連れていっていない。身分証明の類のものがないし。ボンゴレに頼るなら腕のいい医者の一人くらい捕まえられるだろうけど、何となく、それを避けている。記憶が戻った場合、彼はもうではなくなる。の部分を共有した知らない誰かになる。ボクはそれを避けている。
 本来ならいるべき場所や、帰るべき国、居場所、家、人、全てを彼の中から排除して、ようやく彼はここにいる。
 出会い方が違っていたら。ボクは彼を壊していたろうか。
 ぼんやり見つめていると目が合った。青と緑の混ざった瞳と、首を傾げれば額をさらさらと滑っていく金糸は、きれいだった。
「…行こうか」
「ん」
 声をかけるとは笑う。まるでそうとしか知らない子供のように。
 設置されてるゴミ箱に紙袋を突っ込み、車に乗り込んで、また海を目指して車を走らせハンドルを切った。
 目的の海に着いた頃には七時を回っていた。
 バタンとドアを閉めて遠隔操作のキーでロックする。カチンと音がしたのを確認してから顔を上げると、ざわりと吹いた風は潮風だった。どこか肌に纏わりつくような、日本独特の海岸の風だ。「海!」と嬉しそうに駆け出したに少し呆れる。本当、まるで子供のままだ。
 追いかけるようにして一歩踏み出す。革靴の足元を見てしまったな、スニーカーで来るべきだったと思った。革靴はあとで手入れが面倒だ。まぁいいか、に押しつければ。
 誰もいない砂浜を踏みつけて砂を蹴飛ばす。ざらざらした砂は水分を含んでいて、風に少し流されただけですぐに落ちた。視線を上げれば水平線が見える。視界いっぱいにとはいかないけど、朝陽を反射してきらきらと眩しいことこの上ない。
「海だよ雲雀、誰もいないね!」
「…キミはどうしてそんなにはしゃいでるわけ」
「海なんて初めてだからっ」
 靴を脱いでジーパンを膝まで折ったが寄せる波を蹴飛ばした。飛沫が上がる。「冷てっ」と声を上げて一人笑っているに吐息して、寄せては引くを繰り返す波の近くまで歩く。
 海が初めて? そんなわけが…あるのか。の頭の中にある海という知識に、今初めて自分の感情意識がプラスされたのだろう。知っているけど行ったことのない場所体験したことのないものというのが彼の中にはたくさんあるのだ。
 海に来て、何がしたかったわけでもない。ただ海が見たかっただけだ。何となく。
 を連れてきたのは。どうしてだろう。家でいつものように家事炊事をさせていればよかったのに、どうして連れ出したりしたんだろう。
 答えを探すようにぼんやり彼を観察していると、寄せる波を迎え撃つように蹴飛ばしていたが砂を掘り起こし始めた。…本当、子供みたいだ。
 波の届かない場所で、ズボンが汚れるなと思いつつ腰を下ろして、片膝を立てて顎を乗せる。一人楽しそうなを眺めながら、その向こうの海を見つめる。
 生命は皆海から生まれたのだという。ボクも彼も、全てが海が始まりだと。そして恐らく海が全ての終わり。
「雲雀ー、貝があった」
「いらないよ。捨てな」
 無邪気な顔でぶんぶん手を振られて呆れる。こんなところにある貝なんておいしいはずがないと切って捨てたボクに、は残念そうな顔で貝を砂の中に戻した。ざぶざぶ波を蹴って歩いてくるとボクの隣に座り込んで「海冷たい」と笑顔をこぼす。
 そういえば、ボクはまだ、彼が泣いたところを見ていない。別に泣き顔を見る趣味なんてないけれど、それも妙な話だ。自分の胸の空洞に彼が気付いていないはずがない。記憶の欠損という埋めようのない穴に、呆然としない方がおかしいのに。
 怒った顔も見ていない。笑った顔しか見ていない。ぼんやりした顔は知ってるけど、虚無には遠い。
 このままずっと記憶が戻らず、胸の穴を他のもので埋めようと、彼が思えば。今の環境からして、それはボクら以外に選択肢がない。
 手を伸ばす。潮風に揺れる金糸の髪を指に絡める。海を見ていたがボクを見て首を傾げた。寄せては引く波の音が絶えず沈黙を塗り潰し、途絶えない。
 この青と緑の目がきれいだから気に入ったんだと思っていた。少なくとも、最初はそう思っただけだったはずだ。それ以外にはなかった。
 今はどうだろう。それ以外が、ある気がする。だから手放す可能性を潰しているんだろう。病院へ行かせるという考えを拒否しているんだろう。
「不安じゃないの」
「何が?」
「今が、かな。キミは自分が不安ではないの」
 問いかけると、は困った顔をした。視線をあっちへこっちへやってからもう一度ボクを見て「不安じゃないって言ったら嘘になるけど。でも、俺には雲雀達がいるし」当たり障りのない答えだった。ぴんと髪を引っぱって「建前はいいよ。本当のところは」と問い詰める。困った顔をしたが「本当なんだけど。そうだなぁ」とこぼして視線を海に流した。
 沈黙は、波の音で閉ざされる。
「このままでいいよ。俺は」
 海を見つめる瞳に、本気なのかと訊きたくなった。その答えを一番求めていたはずなのに、納得していない自分がいる。唇を噛んでぴんとさらに髪を引っぱった。「いた、い雲雀」と抗議の声を上げたが髪を押さえる。
 全く、忌々しいくらい、未練を感じさせない奴だ。どうしてこのボクがキミの未練のことをキミの分まで考えないといけないんだ。全く馬鹿馬鹿しい。
 キミがこのままでいいと言った。なら、このままでいい。それでいい。この話はここでおしまいだ。
 絡めていた髪を解いて離す。視線を逸らして海を見る。寄せては返す波の音を聞きながら、沈黙のない音の中で、朝に染まる風景を見つめ続ける。
 今までなら、一人だった。一人で気が向いた場所へ行き気の向くまま時間を過ごしていた。
 でも今は隣に人がいる。一緒にいても煩わしくない、出来た拾いモノが。