ぱち、と唐突に目が覚めた。なぜか冴えている。そんなに寝てしまったろうかとベッドサイドのデジタル時計を睨みつけて、『5:13』の表示にそっと溜息を吐いて寝返りを打った。 寝つきも悪かったし、眠りも浅かったし、それなのに目が…いや、意識が冴えている。あまり休んでいないせいで頭の回転はなんとなく鈍く感じるけど、眠れない以上仕方がない。 諦めて暗闇の中起き上がり、隣に目を凝らしてみる。 人間の視力には限界があって、原始人でも黒人でもない僕は標準的な視力しかない。暗闇の中生きるような生活を続けていたけど、最近は朝に起きて夜は眠る生活をしていたし、目も、それに慣れ始めているのかもしれない。 見えない。見通せない。そのことに焦りを覚えてベッドライトを点灯させて、隣で眠っているスィフリの姿にほっと息を吐く。 今日は、スィフリの有用性の証明について、審判の出る日だ。 (大丈夫だ。ボンゴレがありったけの証明のデータを送りつけた。この間は犯罪組織を仕留めたんだ。社会にとってもキャバッローネにとっても有益なことをした…大丈夫。大丈夫) 大丈夫、と自分に言い聞かせるのに、ライトを灯したまま光を消せない。このままにしておいたらスィフリが目を覚ますのに。 せっかく、寝てるのに。起こしたくないのに。休んでいてほしいのに。僕はその真逆のこともまた望んでしまっている。目を覚まして、僕を見て、と。 結局ライトを消せないまま、果てには手を伸ばして彼に触れてしまっている、僕は、馬鹿だ。 (大丈夫) 指でスィフリの顔の輪郭をなぞる。肌の感触を確かめるように何度もなぞって、指だけで足りなくなって、掌全体で触れた。 ちゃんとあたたかい。人の温度がする。感触だってそうだ。 何もかもが人間なのに、こんなに人間なのに、スィフリは機械。今日は彼の未来を巡って一つの判決が下る。 (大丈夫) 何度繰り返したか分からない言葉をそれでも何度も唱えて、唱えて、唱え続けて……胸に渦巻く不安を誤魔化すために勝手にキスしていると、ぱち、と青い瞳が覗いた。やんわり細められた瞳と持ち上がった腕が僕の背中を抱き締めて、勝手にキスしていた僕の行いを肯定して、舌を捻じ込んでくる。 慈しむような。愛するような。そんな気遣いと優しさを含んだ腕に抱かれていると、無性に泣きたくなってくる。 「恭弥?」 そんな僕に気付いて少し顔を離したスィフリに、怖くて訊けなかったことを、確かめないといけないと思った。もしかしたらもう訊けなくなるかもしれないから。 「なんで、キスするの」 「え? なんでって、どうしてそんなこと訊くの。それこそなんで?」 「誰にでも、するの。してって言われたら、するの」 困った顔になったスィフリが考えるような間を置く。細長い指が僕がさっきそうしたみたいに顔の輪郭をなぞっていく。「やっぱり気にしてるんだ。スーパーで店員さんにキスしてたこと」「…別に」目を逸らした僕にスィフリは困った顔のままだ。 「理由を挙げていくなら……一つめは、恭弥が求めるから、それに応えるため。二つめは、俺が、恭弥とそうしたいから」 「、」 ぱっと顔を上げると涙が散った。 僕の涙を拭おうとする指が愛おしい。その困った顔も、泣かないで、と囁く声も、全部。 「寝てないの?」 「…少しは寝た」 「もう少し眠りなよ。今日は10時には裁判所だ。同席したいなら眠った方がいい」 あくまでやわらかいいつもどおりの声は、今日自分の未来の決定が下されるなんてことが信じられないような、本当に、いつもどおりの、優しく笑う君のままで。君は自分の精神状態をコントロールしていつもどおりにしているのに、僕の方がこんなにぐちゃぐちゃになっている。 怖い、という言葉が口を滑ってこぼれ出た。 何が、と優しく笑って問う顔を見ていると、君がバラバラの部品になって転がっている、何度か見た悪夢を思い出す。 「君が、いなくなるかもしれない未来が、怖いんだ。すごく、怖いんだ。ちゃんと眠れないくらい…」 怖いんだ、と泣く僕にスィフリは困った顔で僕を抱き寄せた。僕は縋るようにスィフリの背中を抱きしめた。 こんなに泣いたのは生まれて初めてかもしれないと思うくらい、静かに涙を流し続けて…そんな僕を彼が抱きしめ続けて…気付けば6時半にセットしていたアラームが鳴った。ピ、と音を立てて勝手に止まったのは、スィフリが設定を解除したんだろう。どおりで涙が枯れているはずだ。もうそんな時間か。 綱吉を起こしに行く準備をしなくては。いつものようにスーツを着て、朝食を一緒に食べて、そのあとは少し流れが違うけど。ぼんやりしてる時間はない。 「希望を、言ってもいい?」 「…?」 ぽつりとした言葉に、掌で目をこすりつつ首を捻る。 何の希望のことだ。そもそもスィフリが『希望』って曖昧な言い方をするのは珍しい。彼は機械だから、機械故に、予想とか想像も確固たるものとして口にするものだけど。 「俺の有用性が証明されて、この先の未来も、生きていていいよって言われたら」 「…うん」 「気がすむまで恭弥のこと触りたいんだ」 耳が孕むと勘違いするくらい熱くなった。 その言葉を聞くまでの抱擁と、その言葉を聞いてからでの抱擁では、意識の仕方も感じ方も違う。 腰が疼く。一度だけでも僕の全身にくまなく触れた指の感触を思い出す。 「どういう、意味」 ごく、と唾を飲み下して震えた声で問う僕に、耳元で、彼の声は言う。 「愛し方が分かったら、一番に愛したいって、前に言ったよ。そういう意味」 する、とパジャマの上を滑った指が背中の神経の上をなぞった。そのまま腰まで下りてくる。むずむずと疼く身体に唇を噛んで耐える。むず痒さに任せてそのまま僕を暴いてほしくなる。 「機械のくせに、僕を、抱けるわけ」 「さぁ。何事も挑戦。やってみないと分からない」 「そういうのは無責任だ。シたいなら責任取るって誓え」 素直になれない僕を笑った声は優しい。「じゃあ、俺を捧げるよ。俺でよければなんでもするよ」だから恭弥をちょうだい? そう囁いた声はズルかった。卑怯なくらい優しくて、断りようのない甘さで、僕の耳も意識も思考も全部を溶かしていく。 最高裁判所というやつに予定より30分早い時間に到着した。 それから10時の開廷まで待たされて、そこから審議とやらで2時間は縛りつけられ…僕はその間食い入るようにスィフリを見つめていた。ガラにもなく手を組んで祈りながら、彼の未来を願って乞うた。 いもしないだろう神様はぼんやりとしていて、かろうじて思えたのは、趣味でもない聖典のキリスト像だ。あんなものでも人の顔に投げつけたらそれなりに意味があった。無駄に分厚くて装丁もしっかりしていたからだろう。おかげで生まれた一瞬の時間に命拾いしたものだけど。 結果が出たのがお昼もいい時間だった。 大手企業のボンゴレコーポレーションでの実績を重ねたこと、ついこの間キャバッローネを襲撃した犯罪者を被害が広がる前に仕留めたことなどが大きく評価され、スィフリの有用性は裁判員の多数決により証明された。 『これからも人類に貢献するよき機械として、それを誓えるのであれば、あなたの未来は保障されるでしょう』 裁判長の判決にスィフリを切り刻むことを目的としていた政府側の人間は苦い顔をしていたけど、ジョットは場なんか気にせずガッツポーズをして「よぅしやったなスィフリ! これからもツナを頼むぞっ」なんて言ってスィフリと肩を組む始末だ。場所を分かってるのかジョットは…。まだ閉廷してないぞ。 僕と一緒に傍聴席にいたGが呆れた息を吐いている。 スィフリはといえば困った顔だ。その困った顔のまま傍聴席に僕を見つけると笑顔を浮かべて手を振ってきた。 君も、場所を、わきまえろ。馬鹿。閉廷するまで気を抜くな。そのくらいのことで覆る判決じゃないはずだけど、敵に油断した姿を見せるな、馬鹿。向かい側にいるのは君の余命一ヶ月の宣告を一方的に与えてあわよくば切り刻もうって考えていたろくでもない連中なんだぞ。 …ほんと、馬鹿。 じわりと歪んだ視界をばしっと叩いて手で覆う。「あん? 何してる」「うるさい」Gの声を一蹴して、勝手に震えてくる肩ですっくと席を立った。閉廷の声を聞かないまま外に出て、掌で口を塞ぐ。 「ふ…っ、ぅ、」 (スィフリは明日も明後日も、一ヶ月後も、もっと先も、一緒にいられる。一緒にいられるんだ。ボンゴレで綱吉の教育係として生きていけるんだ。これからも彼の笑顔と一緒に寝起きして、手を繋いで、キスをして…それから……) そういう未来が、望めるんだ。この先も続くんだ。それはなんて幸せなことだろう。 (幸せ) …おかしいね。この僕が、幸せ、だって。 (スィフリと一緒にいることが僕の幸せ?) ああ、そうだね。幸せだと思う。彼と一緒にいられるならスラム街にいたままでもきっと幸せだと思えていた。でもあそこにいたままじゃ彼の未来は掴めていなかったと思う。スィフリのことに関しては、ボンゴレに頭が上がらないな、本当に。 お昼もいい時間だったので、裁判所から一番近いファミレスで食事をすることになった。 ファミレスといっても近場にはビル群しかないため、スーツ姿の人間が利用してもおかしくないようシンプルな外装と内装のオフィスビルみたいなファミレスだ。サラリーマンが遅めの昼食を摂っている姿がちらほらある。 「…ちょっと」 「ん? 何?」 「何じゃない。なんで手を繋ぐんだ、さっきから」 ばしっと振り払っても懲りないスィフリはすぐに僕の手を握り込む。にこっといい笑顔を浮かべて「今朝約束したよ?」耳が孕むと勘違いするくらい熱い言葉を言われたことを思い出してぶんぶん首を振る。「ちが、違う、それは、だって」「俺の有用性は証明されたよ? 何か違う?」「そ、れは」ぱくぱくと口が空振る。それは、そうなんだけど。 ばし、と手を払って「人が、いる場所は駄目」どうにか声を絞り出すと彼は首を傾げた。「どうして?」「どうしても」「えー」唇を尖らせた彼が僕の手をじっと見つめて諦めたように視線を外した。「おーい何してる、こっちだ」と手招きするジョットに一連の流れは見えていなかったのか、とくに妙な視線は感じない。いつもどおりだ。 車を置いてきたGと合流し、4人掛けの席に4人で座る。 今日は綱吉がいないせいか、すごく静かだ。というかたぶんこれが普通。いつもこのくらい静かな方が楽なんだけどな。 とくにお腹も空いてないし、と適当にメニューをめくる。季節の限定メニューから定番までファミレスらしくなんでもある。…決めるのが面倒くさい。スィフリと同じものを食べようか。 「あの、ジョット。お願いがあるんですが」 「うん? なんだ、言ってみろ。今日はスィフリの有用性が証明された記念すべき日だ、お祝いで何でも叶えてやるぞ」 今にも鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌なジョットにGがやれやれと首を竦める。 ちょっと泣いただけだけど、スィフリには見破られるし、なんだか目が乾いてる。適当に水分補給でもすれば治るか、と水の入ったグラスを口元に運ぶ。 ぱっと笑顔を浮かべたスィフリは嬉しそうに、こう言った。 「ありがとうございます。じゃあ、叶えてほしいお願いがあります。この後の時間を非番にしていただきたいです」 「なんだ、そんなものでいいのか? ツナはぶうたれるだろうが、それが望みなら仕方ないな。今日はオレがツナと遊ぶか」 「お前は仕事があんだろーが」 「固いこと言うなよG」 「…あと」 「ん?」 「恭弥も、一緒がいいんですが」 その言葉に、飲んでいた水が気道かどこか変な場所に入ってぶっと吹き出してしまった。咳き込みながら慌ててナプキンでテーブルを拭く。 スィフリの言葉と僕の慌てように、Gは顔を顰めて、ジョットは不思議そうに首を捻った。 「最初に訊いたと思うんだが、君達の関係は?」 僕は口を真一文字に引き結んで黙って俯き、隣のスィフリは逆ににこにこした笑顔を浮かべるのみで、答えのようなものはない。ジョットがそれをどう取ったのかはわからない。ふーむと腕組みして「まぁ、いいか。働き詰めというのもよくないしな。だが、ディナーの時間にはボンゴレに戻るんだぞ。ツナと一緒にパーティの準備をして待ってるから、いいな」「はい」にっこり笑顔を浮かべたスィフリが僕の手を掴んで席を立った。「え、ちょ、」「じゃあ行ってきます!」お昼、食べなくていいのか。僕は減ってないからいいけど。 呆れ顔のGは「お前ら、面倒起こすなよ」と投げやりに手を振ったのみ。 (僕とスィフリの、関係) 関係。そんな大げさなものはまだないけど、これから、そういうものができるかもしれない。 ファミレスのガラス扉を押し開けたスィフリは嬉しそうに太陽の下に出た。僕の手を引いて、今まで見てきた中で一番のキラキラ輝いた笑顔を見せる。子供だなって思うような純粋な顔。 「今日は恭弥とデートだ」 にっこり嬉しそうに、何を言うかと思えば。…馬鹿じゃないの。 俯いて逃げた僕を下から覗き込んでくるスィフリはズルい。「嫌だ?」「……嫌じゃない」「じゃあ行こ? 普段の仕事柄、そう簡単にこういう時間が取れるとは思えない。一秒でも無駄にしたくない」大げさだな、と呆れて笑って、スィフリの手を握り返す。僕より少しだけ大きい手を。 一秒でも無駄にしたくないと言った彼と歩き出す。指を絡めて手を握り合いながら。 「どこ行くの?」 「恭弥と一緒ならどこだっていいけど、行きたいところある?」 「…僕も、君と一緒なら、どこでもいい」 まっすぐ僕に向かって笑う君に、照れ隠しで顔を背けつつぼそぼそ返すと、スィフリは嬉しそうに笑った。 子供が素直に喜ぶ顔とはまた違う。さっきまでのキラキラした笑顔とも違う。はにかんだように瞳を細くした笑顔は、たぶん、僕と同じ感情を抱いていたと思う。 |