6.相愛

 舗装されたきれいな路面。定間隔で植えられた街路樹。バス停には電子時刻表があり、その時間になればバスが来るか、遅れがある場合はその旨が表示される。駅前にはオートシステムで運転される無人タクシーが常駐。オートシステムでは難しい場所へ行く場合のみ運転手のいるタクシーがあるけど、割高らしく、さっきから見てるけど利用者はいない。
 駅前には他にも色々なものがある。電子掲示板は絶えず広告内容を変えてチカチカと目に眩しく、人通りも激しい。ここは高等裁判所があるくらいだから、結構賑わっている界隈なんだろう。
「はい」
 すっと目の前に差し出された香ばしい香りに一つ瞬きしてから視線を上げると、スィフリがクレープを持って立っていた。「…ありがと」ぼそぼそお礼を言って、おやつの甘いクレープではなく、ハムとチーズと野菜がサンドされたクレープを見つめた。…僕が外でこんなものを食べる日が来るとは。
 すとん、と僕の横に腰かけたスィフリはさっそくクレープにかじりついていた。ここまで散策がてら歩いてきて、スィフリもエネルギーを消費したんだろう。こうしているともう忘れそうになるけど、午前中は胃の痛くなるような審判の時間を過ごしたわけだし。
「それ、何?」
「カルビクレープ」
 ふーんとぼやいて返し、僕もクレープをかじった。別にお腹は空いてないけど、食べておいた方がいいだろう。残してもスィフリが片付けてくれるだろうけど。
 しばらく黙って二人でクレープを食べた。
 スーツ姿の若者が二人、昼間から駅前のベンチで隣り合ってクレープを食べているというのは組み合わせ的に視界に引っかかるようで、ときどき人の目を感じたけど、徹底的に無視した。
(僕だってクレープなんてかわいいもの食べるつもりはなかった。でもスィフリが、食べたことのないものが食べたいって言うから。じゃあ、手軽にできない手間のかかるもので、そう高くはないものでって考えてたら、駅前にクレープのワゴン販売車……そうなれば『じゃあクレープを食べよう』って自然な流れになっちゃうだろ?)
 もふ、もふ。チーズとハムとレタスなのかキャベツなのかで口を満たしながら、意味もなく視界の端でスィフリの姿を確認している。
「これ食べたら買い物しよう。駅前だからなんでもある」
「、え」
 落ち着きのない僕に比べてスィフリはいつもより思考を回転させているらしい。片手の指を折りながら「買い物して、記念に何か買って、映画…はちょっと時間がないかな。それは今度にしよう。水族館とか行く時間もないけど、お茶して、ケーキ食べよう」「は? なんでケーキ…」「恭弥にあーんして食べさせたいのと、俺があーんされたいから」真顔で一つ指を折るスィフリが馬鹿だと思いつつ顔を背けた。
(ケーキ…あーんして食べさせあう…そりゃあ、確かに、そういう構図はいかにもデートみたいだけど、さ)
 それは、想像しただけで照れくさい。
 ぱくぱくと大口でクレープを片付けたスィフリが時間を気にするように駅の時計台を見上げた。14時5分過ぎ。ファミレスから駅前までぶらぶら歩いてきたから思ったより時間が過ぎている。夕食の時間に間に合うように帰ることを考えるなら、リミットはだいたい18時。つまり、あと4時間くらいしかないってことになる。
 慌ててクレープを口に詰め込んで、ペットボトルのお茶でほぼ飲み下した。
 買い物をしようと言ったスィフリは、駅前の店をあちこち覗いた。
 ナチュラル系の小物が揃っている雑貨屋。有名ブランドのスポーツ店。珈琲・紅茶の専門店。花屋。デパートはこの間行ったから飛ばして、駅前レベルのスーパー。とにかく色々な店に行き、色々なものを見た。
 店の中ではさすがに離すだろうと思ったのに、ほぼ手を繋がれていたので、店に出入りする度に僕の顔は火照っていたと思う。
 記念に買ったものは、仕事でも使えるだろうワイシャツだ。薄く銀糸で格子の入ってる柄をお揃いで選んだ。襟や袖の折り返しの部分に別の生地が使われているオシャレなやつだ。結局あれこれこだわりだすと時間が足りないってことにスィフリは気付いていて、今日は『実用性のあって記念になるもの』に焦点を絞ったらしい。
 16時を過ぎて、スィフリはカフェに入った。小さいけどイギリス辺りを連想させる佇まいをしている落ち着いた雰囲気の店だ。何世紀前のものなのか、レコードの音楽がかかっている。
 どうして僕がイギリスなんて外国の街並みを連想したかというと、スィフリがジョットからもらってきた海外のかつての景色や街並みの写真集を一緒になって眺めたから、だ。イギリスだったかフランスだったか、とにかくヨーロッパ辺りのカフェはこういう感じだった気がする。
 苺のショートケーキなんてポピュラーなケーキに、飲み物が2つ。席は想像したとおりの小さなテーブルの二人がけの席。
 スィフリはずっとにこにこしているんだけど……なんか、貼りつけた笑顔って感じだ。たぶん本当にそうなんだろう。いつもの彼を知っているからこそそう言える。完璧すぎる笑顔には一切の感情や気持ちを排除したような、感じさせないような、そんな頑なさがある。そう、笑顔の仮面ってヤツだ。
 男二人にはかわいすぎるレース模様の皿にちょんとかわいくのっかった苺のショートケーキに紅茶が2つ運ばれてくる。
 古いレコードの、誰かもわからない歌手が、今では廃れた英語で何かを歌っているのを聞きながら、完璧すぎる笑顔を前にそっと口を開く。
「…あの、さ」
 スィフリはアンドロイドだ。たぶん僕より理解の及ばない感覚があると思う。知識として知っているのと感覚として知っているのとではずいぶんと違うから。
 だから、経験者として、僕は言ってあげることにした。
「これ食べたら、もう行こ」
「行きたいところあった?」
「…そうじゃなくて」
 きょとんと首を傾げるスィフリに唇を噛んだ。…なんで僕が自分からそんなこと言わなくちゃいけないんだ。
(僕は別に、どっちだっていいけど、君が行きたいんだろ。君が言ったんだろ。僕に、気がすむまで、触りたいって。愛したいって)
 人間の夜の営みってヤツが古来から変わらない以上、そのための建物があるってことは知ってる。男がそういう性を捨てられないまま生きてきて、それがある種の商売として成立していることも知っている。スラムにはそういう場所はたくさんあった。その道の人間に誘われたことは何度もある。
 僕の顔なら男娼として食べるのに困らないくらいにはやっていけるだろうと言われた。
 楽して稼げる、という甘い言葉を呑もうかと、カビたパンしか食べられなかった日にはよく思ったものだ。
 楽して稼ぐ、その代償が、一度捨てたら二度と戻ってこないものだと分かっていた。だから踏み止まった。それならまだ人を殺した方がマシだと思った。…どっちを選んだとしても『汚れる』ということに変わりはないのに。
 こう、触れるだけでこっちの思考が相手に伝わるような技術とかがあったらいいのに、と思いながら、ポケットからメモ帳とペンを取り出してガリガリ書いた。腕時計型の端末をいじってもよかったけど、下手に記録とかされたら嫌だからこうして紙に文字を書く。これなら証拠隠滅しやすい。
 そもそも、僕は文字なんて必要最低限しか書いてこなかったから、簡単な漢字以外はひらがなになった。字もあまり綺麗とは言えない。
 長々と文字を綴っていく僕に、向かいで紅茶のカップを傾けるスィフリが何度も瞬きしている。…写真に撮ってないだろうな。撮ってたら消させよう。
 完成した紙片をびしっと眼前に突きつけて、ぱっと手を離した。細長い指が絶妙のタイミングで紙片をつまむ。「読んでいい?」「どうぞ」フォークを手にして細長い三角形の先っぽを切った。スポンジにフォークを突き刺して口に運ぶ。…思ったより、甘くない。ケーキなんてくどいくらい甘いものだと思ってたけど、砂糖だって貴重になったこの時代に無駄に使っているわけないか。
 クリームは甘さ控えめ。スポンジはほんのりと甘みがあって、果実の味がする。オレンジ辺りだろうか。ほんのりと甘いくらいの方が男の味覚にはちょうどいい。
 スィフリはまだ紙片を見ていた。じっと見つめて瞬き一つしていない。
 …おかしいな。彼の理解能力ならパッと見てパッと認識できるはずなんだけど。それとも僕の説明が下手くそだったろうか。
 すっかりケーキを半分食べてしまった。あーんして食べさせあうんだって言ってたから待ってるんだけどな。
 じっと紙片を見つめていたスィフリが焦点をずらして僕を見た。青い瞳が僕を捉える。「ココに、行くの?」紙片を指す指にこっくりと一つ頷いた。照れくささを勢いに変えてケーキをフォークで突き刺し、そのフォークをスィフリの眼前に掲げて「あーんして」と、彼の希望を叶えるためにぼそっとぼやけば、ぱちぱちと瞬きした彼が大人しく口を開けた。一度目はきょとんとしてたけど、二度目はにこにこ嬉しそうにあーんしていた。…この笑顔は本物だな。そうわかってしまう辺り、僕も彼をよく見ている。
 残り時間1時間と30分弱。
 最新のラブホテルっていうのがどういう仕組みなのかなんて全然知らなかったけど、どうやら今は時間単位でも支払いが可能な部屋というのがセッティングされているらしい。何かと多忙な日本人には好評そうなシステムだ。その代わりシーツ類は廊下に設置されているものを自分で取っていってセッティングするというセルフサービス仕様。
 ビジネスホテルだと言われても納得できるようなシンプルなラブホテルは、駅の裏側にひっそりと、何件か並んでいた。
 たぶん、ジョットが使ってるフロアよりずっとシンプルだ。僕らが与えられた部屋はここより広いしきれいだし機能的で、この小さな部屋が僕らの部屋に優っている点はこの部屋のベッドの方が大きいだろうってことくらい。
 スィフリが選んだから基準がなんだったのかは知らない。ホテル関連の詳しいことはすべてスィフリがネット経由で調べてしまったので、僕はほぼ何もしていない。シーツを二枚持ってくるという馬鹿をしたくらいで、取ってきてしまったものはしょうがないとさっきから黙々と大きなベッドの上でシーツを重ねて敷いているだけ。
 じっとしていると、心拍数が尋常でない自分に気がつくので、なるべく動いていたかった。
 どうせ皺になるシーツをなるべくピンとさせようと意味もなく掌を滑らせる。
 シャワー。シャワーって浴びた方がいいだろうか。あまり時間がないし、終わったあとにまた浴びるのは二度手間だ。なしでもいいだろうか。こういうことは調べたこともないし未経験だから全然分からない。どうするのが適当なんだ?
「恭弥」
 唐突に、呼ばれて、背中側から抱きしめられて、シーツの皺を伸ばしていた手がびくんと大げさに強張った。自分の動きが止まって、ドキドキと痛いくらいに鼓動している心臓を嫌でも感じる。
「今日は時間がないんだ」
 言いながら、身体に回った手が上着のボタンを外していた。そのまま薄紫のシャツのボタンも一つずつ、ぷち、ぷち、と小さな音を立てて外されていく。
 僕はシーツに視線を落としたまま何も言えなかった。うまいぐあいに言葉が出てこない。
 僕は、どうしたいのだろう?
 スィフリは僕に触りたいと言った。スィフリは僕を愛したいと言った。僕はそれが嫌じゃない。だからされるがままになっている。
 僕の、本当は? 僕はどうしたい?
 スィフリはちゃんと僕に言ったんだ。年下のアンドロイドにいつまで先を歩かせるつもりだ。僕の方が年齢的に上だし、人間的な思考でいっても僕の方が人生の先輩なんだ。教えてあげなくちゃ。僕が知ってることは全部、余すことなく。惜しむことなく。
(僕は………)
 最後のボタンが外されて、上着ごと一緒に脱がされた。空調を入れ始めたばかりの部屋の空気とスィフリの視線に晒されて肌が疼く。
 ズボンのベルトに手がかかった。うなじに押しつけられた唇のやわらかい感触がむず痒い。
 まだ肌に触れていない指が僕のすべてに触れた、あの日を思い出して、腰の辺りがむずむずしてくる。
(僕は)
「触っていい?」
 唇を強く噛んで、ズボンのチャックを下ろした手にこくんと一つ頷いた。
 …駄目だよ。うまく言葉が出てこない。喉がからからだ。顔も身体も火照っていて、頭から水を被りたいくらい。
 緊張、だろうか。訳もなく指が震えている。誤魔化すためにぐっと強く拳を握ってもあまり実感がない。頭もうまく働いていない気がする。ぼんやりするっていうか…酸欠、みたいな。
 駄目、だな。全然うまくできないや。
 僕を脱がせてベッドに押しつけながら、スィフリが煩わしそうにスーツの上着を落とした。君のそういう焦った顔は珍しい。
 手を伸ばして眉間の皺に触れる。
 これで機械だなんて未だに信じられない。眉間に皺は寄るし、股間だってちゃんと膨らんでるしさ。いっそ何世紀の前のネコ型ロボットみたいに寸胴だったら、僕らは好き合わずに、人間と機械の一線を越えることもなく日々を生きていたろうか。
 今日は時間がない。それは僕も分かってる。だから君は急いてるし、余裕がない。
 ねぇ、そんなに僕に触りたい? そんなこと訊いたとして、君は何も迷わないで頷くだけだろう。触りたい、って素直にまっすぐ僕を求めてキスしてくるだけだ。
 ……これから、頑張っていくって方向でも、いいだろうか。いきなりあれもこれもはできない。今日だって人前で手を繋がれて羞恥心を耐えるのでずいぶん疲れたんだ。あーんとかガラでもないこともしてあげたし。お揃いのワイシャツ選びに店員が僕に似合うものスィフリに似合うものと勧めてきて、そういう空気にも無駄に気を遣ったし。
 明日から、もう少し頑張るから。気持ちとか、言えるように。素直になれるように。
 だから今は、君に愛でられるだけの僕でいさせて。