常に笑顔を浮かべているそいつはフランス語で『太陽』という名前だった。
 名前のとおり馬鹿みたいに明るかった。見ていてイラつくぐらい常にへらへら笑顔だった。
 僕はその笑顔が気に入らなかったけど、その他大勢は太陽の笑顔に救われているらしい。曰く、もうちょっと頑張ろうと思えるんだとか、元気になるんだとか、弱音は吐けないなって気を引き締めるんだとか。
 太陽の名にふさわしく、あいつは考え方や思考回路も明るかった。前向き、というやつだ。それでいてただ馬鹿なわけでもなく脳天気なわけでもない。きちんとものを考え自分の判断力を持ちながら、暗いだけのスラム街で、へらへらと笑っている。毎日毎日、楽しいことも嬉しいこともなくとも、毎日、毎日。

 出会いは、若い連中が集まったレジスタンス気取りの集会の夜。使える人間がいたら利用しようと気紛れに覗いたその場所で、僕は太陽に出会った。
 太陽は、ビール箱を逆さにしただけの演説台の上で舞台役者のように振舞っていた。大した内容の話でもないのに人が沸いていたのをよく憶えている。
 そういう生まれもっての才能なのか、太陽の周りには人が集まり、大した演説でなくてもすんなりとバラバラだった若い連中をまとめ意志を統率した。そのときはまだ若い奴らの集まりでしかなかったレジスタンスが『ボンゴレ』として成立した最初の夜のことだ。
 …太陽は、人の輪に入らなかったただ一人である僕に気付いて、そばにやってきた。
 へらへらしたあの笑顔で差し出された掌。
 その手を眺めて、気紛れに手を伸ばしたのは…それでも確かに、僕の意志だった。

 太陽は僕のことを『月』だと言った。太陽がなければ輝くことのできない、真空に沈んだ月だと。太陽さえあれば月だって輝ける。夜を照らせる。やわらかく、優しく。それって素敵だねって太陽は笑った。他の誰も照らせない夜を僕は照らすことができるのだから、と。
 それは、つまり、君さえいれば僕は光を取り戻すことができるってこと? もう少しでそう口にしそうになってすんでで呑み込み、意味が分からない、と顔を顰めてみせる。
 明るく笑う太陽は僕にじゃれついてくる。正直とても鬱陶しい。手元が狂って発砲したらどうするんだって思うくらいベタベタと、何をそんなにくっつきたいのか知らないけど、武器の手入れをしてるときくらい空気を読んでほしい。いや、彼の場合、空気を読んであえてそうしているのだと分かってはいるんだけど。
 …僕にとって、世界がどう変わろうがどうだっていい。利用しがいがあるからボンゴレの一員に数えられているってだけ。ボンゴレが本当に政府を打倒しようが口先だけで終わろうがどうでもいい。僕は、僕にとって生きやすい世界があれば、それでいい。
「アラウディは、ロマンとかどうでもよさそうだなぁ」
「は? ロマン? 死語だろ、それ」
「そんなことないよ。夢とロマンは男にとって大事だ」
「ああそう。…で? わざわざ外に呼び出しておいてそんなこと言いたかったわけ」
「ううん、違う。ちょっと緊張してるのでアラウディに笑ってほしかっただけ」
「……何。深刻な話?」
「うん。わりと。すごく」
「そういうことは僕じゃなくて他を頼ってよ。資金関連ならジョットかディーノ。ボンゴレの指揮に関してならGとかナックル辺りに…」
「そうじゃなくて。そういうんじゃなくて。アラウディに言わないと意味がなくて」
「…じゃあ早くして。真冬の寒空の下にいつまでもいたくない」
「よ、よし。言うぞ。びっくりしないでよ? あと逃げないでよ?」
「はぁ? さっきからなんなの…。さっさとしろ」
「よし。よし。言います。ひ、一目惚れでした好きです俺とお付き合いしてください!!」
 ……馬鹿な男だった。へらへらへらへら、見てるこっちがムカつくくらいに笑顔を配って歩いて、バラバラだった連中を一つにまとめて、光で照らして、導いていく。
 ボンゴレのリーダーはジョットで副リーダーはGという形を取っていたけど、能力を抜いて人気度だけで考えるなら、リーダーはあいつになっていただろう。それくらいいつも周りに人がいた。笑っていた。笑わせていた。笑って、と言っていた。
 太陽は月を照らした。光を返して、と勝手に照らしてきた。月は真空に沈んだまま黙っていたけど、ジリジリと背中を焦がし続ける光が鬱陶しくなり、ついに振り返ってしまった。
 太陽はその名を持つ男の姿になって僕にまとわりついてくる。あの笑顔で。
 太陽が照らすことのできない夜という闇。彼では切り拓けない世界の昏さ。影の落ちた場所。僕は、彼に代わって、その場所を照らすことができる。
 義理も義務もない。僕は自分に都合がいいからボンゴレに組みしているだけで、都合が悪くなれば最初から切り捨てるつもりでいた。
 切り捨てる、つもりでいた。
 生まれてからこれまでずっと真空の闇に浸かっていた身体は冷え切っていた。それが僕の普通だった。心が沸騰したことなど一度としてなく、思考が沸いたことも数えるほど。すべては予定調和のうちに終了し、都合が悪ければ切り捨て、都合がよければ利用する。僕にとって世界はその程度で、自分が生きるための道具でしかない。
 冷え切った身体の表面から、太陽が触れた部分から、じわり、じわり、とあたたかさが沁み込んで、凍っていた僕を溶かしていく…。

 人間に対して『使える』『使えない』以外の評価をつけたのはそいつが初めてだった。
 迷いに迷って何度も書いては消してを繰り返してぐしゃぐしゃになった付箋には『まぁ悪くない』と小さな字で書いてある。一体彼のどこがどう悪くないのか、この付箋を書いた当時の僕に問い質してやりたいくらいだ。
 太陽は僕がフッたあとも懲りずに好きだと公言し、べたべたと甘えてくる。鬱陶しいその手を払いのけながら何かと理由を作っては僕は仕事だとスラムを出ていく。あいつはその度に残念そうな顔をして僕に手を振っている。
 …どうしてだろう。見える世界は何一つ変わっていないのに、以前よりも眩しいと感じる。
 この目が光を知らなければ。太陽になんか出会わなければ。僕はずっとこの世界を道具として扱って、使える人間と使えない人間とに区分し、使えないものは切り捨て、使えるものは利用していただろう。
 何にもこだわらないその生き方が僕には向いていた。それを、あいつが壊した。
 この目が光を知らなければ、見なくてすんだ笑顔があった。
 この身体が冷たい真空に沈んだまま、照らす光がなければ、あたたかさなんて知らずにいられた。
 僕が君を知らなければ、抱かずにすんだ想いがあった。
「…聖書のページみたいだ」
「え?」
「あそこ。天の梯子」
 ちぎれた雲の波間から地上をこぼれ射す光の筋を指すと、きょとんと不思議そうな顔をしていたソレイユが笑った。「アラウディでも聖書の中身なんて知ってるんだ」と言われて薄く笑う。僕は利用するものは何でも利用するんだよ。宗教はとくに扱いやすいし。
「どうしても資金がないときはペテン師でも何でもやったからね」
 それで、僕の言葉を聞いた途端ソレイユの笑顔が残念そうなものに変わる。何を期待してたのか知らないけど、そんなものだよ、僕なんて。
 昼間の海に人はいなかった。寄せては返す冷たい波の音だけがあった。季節が真冬のせいだろう。雪でもちらつきそうなほど息が白い。
 雲の流れによって光の梯子は形を変える。
(音のない光の気配を肌に感じる、なんて、どっかの誰かさんのロマンチストがうつったかな)
 寄せては返す波の音だけが僕らの沈黙を埋めていく。
「好きだよ」
 ごく自然に、当たり前のようにぽんっと落ちた言葉は波の音に上書きされて消えた。
 じろりと横目で睨む僕にソレイユは笑っている。
 ソレイユ曰く、僕がいるだけで、彼は幸せなんだそうだ。
 それが本気かどうか一度試したことがある。
 人間は水だけ飲んで3日ほど生きることができるらしい。それは本当なのかどうか確かめてみようと気紛れに思ったのだ。まぁ、半分以上遊びのつもりで『僕の愛だけ食べて生きてみせてよ』と言ったところ、彼は本当にそうした。水のボトルだけを持ち歩いて1日目を過ごし、2日目を過ごし、3日目を迎えて…本当に一口も何も口にしていなかったので、見かねてお粥を作ってあげた。自分から言い出した遊ぶ半分のこととはいえ、ここまで本気にされると後味が悪い。
 僕の愛なんて、一度もあげたことはないし、そもそも愛がどんなものか僕は知らない。酸素とか二酸化炭素みたいに目に見えないもので、食べられないことだけは確かだ。そんなもので生きろと言われて真に受けるソレイユはおかしい。僕が卵と梅干しを放り込んだお粥を持ってきただけでさっきまでのやつれた顔はどこへやらだし、本当、現金で、おかしな奴だ。
 たとえば今『僕の愛で海を泳いでよ』とか言ったとしても冬空の下服を脱ぐだろう。止めなきゃ凍えるほど冷たい海の中へ、僕への愛とやらを掲げて泳いでみせるんだ。
(馬鹿みたい)
「…ジョット達遅くない?」
「そういえば遅いね。何かあったのかな」
 今気付いたって顔でソレイユが辺りを見回す。待ち合わせ場所には他の誰の姿もない。
 ジョットが、いらない気を利かせて僕らを2人にした。それだけのつまらない話だ。そのつまらない話をにこっといい笑顔を浮かべて肯定するのがこの馬鹿だ。「二人きりだね」「…だから何」「嬉しい」「ああそう」へらへら笑っていつものように僕に愛の言葉とやらを投げつけてきた。冷たさのバットで愛の言葉を打ち返してもソレイユはめげない。「ねぇ、手繋いでも」「馬鹿じゃないの」ばっさり切り捨てても怯まず一歩踏み込んでくる。「繋いでも減らないよね。じゃあいいよね」勝手に解釈して手を握ってくるので一歩下がって振り払った。ぱし、と乾いた音が波に呑まれて消える。
 ソレイユはやっぱりめげなかった。手を繋ぐのが駄目ならと抱きしめてきたのだ。
 どこをどう考えるとこれならいいだろうって顔でこの結論に至るのか、彼の頭の中身をぶちまけて調べてやりたいくらい意味不明だ。
「…離して」
「突き飛ばしていいよ」
「馬鹿だろ。後ろ、海じゃないか。僕が突き飛ばしたらずぶ濡れになる」
「なるなぁ。きっと風邪ひいちゃうね」
 笑った声に唇を噛んで拳を握る。
 空にある天の梯子は、僕から見るとソレイユの金髪を彩っているように見えた。…天に祝福されているように見えた。ソレイユは、そういう人間に見えた。
 天に祝福されたソレイユに、祝福された僕は、ぼんやりと天の梯子を眺めていた。
 太陽のぬくもりに包まれて、指の先がかじかむような寒さを言い訳に、人のぬくもりに包まれることをよしとした。
「突き飛ばさないの?」
「……うるさい」
「もっと調子乗っちゃうよ」
「うるさい」
「ほんとに嫌なら、今度こそ突き飛ばして」
 密着していた身体が少し離れて隙間ができただけで海風の冷たさに胸が凍えた。
 天の梯子がかかったままの海を背景に、ソレイユの顔が近づいてきても、僕は拳を握ったまま突き出すことができなかった。
 唇同士が触れる寸前でこっちを窺うように一度動きは止まったけど、それでも僕は何もしなかった。
 至近距離で見つめ合った翡翠色の瞳は燃える緑のように眩い色をしている。

 僕は、その日、ソレイユとキスをした。
 初めて触れた人の唇は冬の寒さでかさかさしていて無駄に気になった。
 もともとソレイユはあまり食べない。病弱ってわけではないと聞いたけど、今度からもう少し食事をするように言ってみよう。それから、帰ったらリップクリームを押しつけてやろう。そんなかさかさじゃもうキスしてやらないよって言えばきっちり塗るだろう。まぁ、それでまたキスするのかどうかは僕の自由だ。

 結局陽が沈むまで待ってもジョット達は現れなかったので、2人でスラム街の拠点に戻ると、当たり前の顔をしてメンツが揃っていた。僕らを嵌めたジョットに至ってはいつも以上に笑顔だ。
(余計なことを)
 ふん、とそっぽを向いて、どうして仕事の待ち合わせ場所に来なかったのかとかそういうこと全部の確認をソレイユに投げて自室に戻った。
 その日以降、彼は前にも増して僕に甘えてくるようになったので、はっきりいって相当鬱陶しかったけど、相当鬱陶しい奴を遠ざけない僕も僕だった。
 初めて『使える』『使えない』以外で評価をした人間は、太陽は、その光と笑顔で僕を慈しんだ。
 そのあたたかさに慣れ始めていた僕は、その光がなかった頃のことを感覚として忘れ始めていた。冷たい真空にずっと長いこと沈んでいたはずなのに、光に照らされている期間の方がもっとずっと長いような気がして、今日もなんだかぼんやりとしている。
 なんで僕はソレイユに膝枕しているんだっけ。ぐあいが悪いんだっけ? そんなこと言ってたような気もするけど、ならベッドで眠った方がいい。枕も、僕の腿なんかよりやわらかい羽根枕の方が寝心地がいいだろう。寝転がるのだってソファでは窮屈だ。
「…ソレイユ?」
 ぼそっと声をかけても返事はなかった。表情を隠している髪を指で払いのけてみる。
 ぐあいが悪いんだったか、眠いんだったか、忘れたけど、寝ているようだった。
 閉口して彼の横顔を見つめて、髪を耳にかけてみる。いつも髪に隠れている耳が見えてなんとなく耳たぶを触ってみた。…ふにふにしてる。そのままなんとなくふにふにと耳たぶをいじる。…こんなところにホクロがあるなんて知らなかったな。
 ボンゴレがどうなったって構わないと思っていたけど、その考え方は修正せざるを得ないようだ。
 ソレイユがここまで関わって引っぱってきた組織だ。中途半端に終わることは許さない。
「ソレイユ」
 本気で寝入っているのか、彼は目を覚まさない。多分、その方が今は都合がいい。
 ふにふにと耳たぶをいじっている時間が平和に過ぎていく。
 パキン、と暖炉の薪が割れる音がしても、ソレイユは眠ったままだった。
 その平和な寝顔を眺めているとなんだか笑えてくるんだから不思議だ。嘲笑でも自嘲でもなく素直に唇が緩んでいる。不思議だ。人間に対してこんなふうに笑う日がくるなんてね。
 もしかしてこれが愛ってやつなのかも、とか馬鹿なことを思いつつ、ふにふにと耳たぶをいじり続ける。
 ………このとき、僕は確かに『この時間が永遠に続く』ことを願っていた。僕にあたたかさをくれたソレイユと一緒に生きていく現実を受け入れていた。
 彼はいつの間にか、欠けたら痛いではすまない、僕の弱点となっていた。