僕の

 久しぶりに、着物以外の服を着てみた。鏡に映った自分はそうしていると兄とあまり大差がない。僕の方が少し髪が長いくらいしか違いがない。いつもは着物だから区別がつくかもしれないけど、この格好で行けば間違いなくどちらの雲雀恭弥なのかと疑問に思われるだろう。
 最も、兄は人がいるところへは顔を出さないし、行きたがらないから、間違われることはないだろうけど。
 一つ吐息をこぼしてもう一度鏡を見つめた。ジーンズと白いタートルネック、黒いベスト姿の自分を見つめて、箪笥からベルトを持ってきて足した。あまり色がないのも寂しいから、赤と黒のチェックの派手めのやつを選ぶ。本当に自分らしくないな、と思って苦笑しながらばさりとカーキのコートを羽織った。あまり彼を待たせてもいけない。
 玄関では、靴を履いた彼がぼんやり僕を待っていた。
、待たせたね」
 声をかけると、僕を見た彼が目を丸くして驚いた顔をする。予想通りの反応だった。
「恭…和服じゃないの?」
「今日は雨だしね。人混みには向かないんだよ、着物は」
 上から下まで何度も見られると、案外恥ずかしいものだった。そういう感覚はもう覚えないものだと思っていただけにこそばゆい。靴箱からブーツを出して足を入れて、止め具を調節する。しばらく履いていなかったけど、サイズは変わっていないはず。
 視線がまだ注がれている。さすがにこそばゆい。「変、かな」笑いかけると、彼はぶんぶん首を振った。一つ頬をかいて「和服姿しか見てなかったから…変じゃないよ。俺は変じゃない?」くるりと一回転する彼も私服だった。というか、僕と買い物に出かけてお店の人にコーディネートしてもらった服だから、変なわけがない。自信がないのか眉尻を下げている彼に「似合っているよ」と言うとほっとしたような顔をした。
 そんな彼と二人で、今日は街まで行く。仕事場の下見なんかを兼ねた、ちょっとした休息のつもりで。
 今日は平日で、兄さんはまた仕事に出て行った。弟達は皆学校だ。家には僕と彼の二人だけ。こう雨が降っていては洗濯物も片付かないし、気分転換とお昼を兼ねて外出しようと誘ったのは僕だった。彼は二つ返事で了承した。恐らく、兄のときも、二つ返事で了承したのだろう。
 朝五時から使用人を連れ出す兄の奔放さには溜息すら出る。本当、自分勝手な人だ。おかげであの日の朝は僕が支度をした。彼との朝ご飯を日課にしていただけに、あの仕打ちは少し寂しかったな。
 和柄の骨の多い傘を広げて外に出る。雨はぽつぽつと傘を打つ程度の強さで、風はない。
 施錠した彼が同じように傘を広げた。「電車に乗るんだっけ」「そうだよ。まだ乗っていなかったかな」「うん。バスなら乗ったけど」「そう」ぽつぽつと雨音を聞きながら言葉を交わし、僕らは最寄り駅へ向かった。雨であることと平日であることが交わり、人影はまばらだ。
 隣を歩く彼を何度か視線で窺う。三度目くらいでぱちと目が合って、曖昧に笑いかけた。にこりと笑顔を返される。邪気のない、悪意も害意も媚びもない笑顔を。
 あの日、朝五時に彼が連れ出された音で、僕は目を覚ました。クラクションの音がしたから。あの音がうちの車のものだと気付いて玄関から外へ出たときには、車庫はすでに閉じており、車は走り去ったあとだった。
 特別、止める理由はない。いや、あると言えばある。彼はうちの使用人なのだから、朝ご飯その他の準備をしてもらわなくては困る。そう考えはしたけれど、今更車を止める術は見つからない。僕は兄の携帯番号なんて知らないのだから。
 あの日は海に行っていたと、彼は話してくれたけど。本当に他には何もなかったのか、なんて、どうして考えているのか。
 兄が使用人を連れ出すことが許可されるなら、僕だってそうしようと、今日は思い切って彼を連れ出してみたのだけど。何となく、落ち着かない。着物じゃないせいだろうか。
「あ」
 ぱしゃ、と水溜りを蹴飛ばして彼が足を止める。「どうかしたのかい」と振り返ると、肩掛け鞄をあさっていた彼が神妙な面持ちで「携帯忘れた」とこぼした。一つ瞬いて「携帯、持っていたの?」「こないだ雲雀が買ってきてくれて…どうしよう」困った顔でこっちを見つめる青と緑の瞳に、「今日はいらないよ。僕と一緒にいるんだから。何かあったら僕の携帯に連絡が来ると思う」…後半は嘘だった。僕は兄の番号を知らない。嘘なんて吐いたのは、どうしてだろう。まるで意地を張ってるような、幼い嘘だった。
 ほっとしたように頷いた彼が再び歩き出す。彼が隣に並んでから歩みを再開した。
 小さな嘘を吐いた自分を責めながら駅までの道を歩いて、切符を買い、電車に乗る。知識として頭にあっても、彼の中に経験はまだ僅かだ。だから改札にも電車にも子供のような反応を見せる彼を苦笑いしたりして先導し、目的地の駅に辿り着いた。
「人が多いや」
「都心だからね。、はぐれないようにね」
「ん」
 つかず離れずの距離を保ちながら、手を繋げたら早いのだけど、と考える。僕の隣を歩く彼はきょろきょろと辺りを見回して、さっきから落ち着きがない。まずは次の仕事場に顔を出しておきたい。大きな生け花を注文されているから、イメージを膨らませておかないと。
 左へ曲がった僕に気付かない彼はそのまま直進した。少し待ってみたけど、辺りを見回すことに夢中なようだ。
 やっぱり危なっかしい。逡巡のあとにその背中に追いついて手を伸ばしてぱしと彼の手首を掴んだ。びっくりした顔で振り返った彼に「こっちだよ」と言って手を引く。慌てたようについてくる彼は、あまり人目は気にしていないようだ。僕ばかり意識しているような気がする。男同士が手を握るのは、世間一般にはやはり奇異な行動に映るようだ。そういう視線を感じながら、彼が迷子になるよりはマシだろうと心に唱え続けて、仕事場のホールまで辿り着く。
「ここは?」
「僕の次の仕事先。ここのホールに飾る生け花を頼まれているんだよ」
「へえー」
 感心したように頷く彼の手を離す。事務室のガラス戸をノックして名前を言うと、女性の事務員が会釈してから依頼人を呼びに離れた。
 視線をやると、彼は高い天井を見上げてぼんやりしていた。遠くを見るような目は天井のどこでもない場所を眺めて動かない。
 ときどきああいう姿を見る。自分の中身が空っぽであることを示すような、空っぽの行為。そんな姿を見かけたら、僕は声をかける。君は間違っても今一人ではないのだと言い聞かせるように。

「、」
 呼べば、彼は僕を見る。近くまで来ると「高い天井だね」と笑った。「そうだね」と返しながら、事務員と一緒に戻ってきた白髪が混じり始めているスーツ姿の依頼人に会釈する。も合わせて頭を下げた。教えれば彼は言った通りにしてくれるから助かる。
「おや、そちらは?」
「連れです。同行させてもよろしいですか?」
「構いませんよ、ぜひどうぞ。ご案内しましょう」
 人のいい笑みを浮かべる依頼人にもう一度会釈しておく。「ありがとうございます」と口にしてから歩き出すと、彼が斜め後ろをついてきた。
 今は無人のホールに案内されて、当日に行われるイベントについての紙面と簡単な説明をしてもらい、生け花の全体的な色や使う花の種類に希望はあるかどうかを訊いておいた。希望をメモして、しばらく滞在許可をもらってから依頼人と別れる。出るときは事務員に声をかければそれでいいそうだ。
(白と緑か。それなら…)
 取り出したメモ帳に希望の色を書き出し、そこに当てはまりそうな花を挙げていく。その間、彼は僕が座る席の後ろから手元を覗き込んでいた。…近い、と思ってしまうのは僕の意識のしすぎだろうか。
「花の名前?」
「そうだよ」
「すごいね。空でいっぱい出てくるんだ」
「まぁ、半分趣味だけれどね」
 そう言った僕に彼は笑った。吐息がかかりそうな距離だった。「恭は謙遜するね」「別に、そんなことはないと思うけど」「んーん、謙遜してるよ」笑った声に、そうなのかな、と考える。花を書き出す手を止めて、二階席を見上げた。あそこからも見渡しておいた方がよさそうだ。
 立ち上がって二階席に移動する。彼は斜め後ろをついてきた。
 五分はホールを眺めていた。思いついた花のイメージに名前が出てこない。仕方なくイメージを絵にして保存しておく。落書き程度の絵だけれど、思い出すことぐらいできるだろう。帰ったら調べないと。
 それからいくつか書き足して、声がしないことを疑問に思って振り返る。座席の一つに座り込んで、彼はうとうとと眠りそうになっていた。
 彼を花にたとえたら、何になるのだろう。ふとそんなことを思った。
 足音を立てないように近づいて、手を伸ばす。指先で表情を隠す金色の髪をつまんで持ち上げると、日本人とそう変わらない顔立ちが見える。特別鼻が高いわけでもないし、彫りが深いというわけでもない。金糸のような髪と青と緑の瞳に外人なのだと思ってしまうけれど、実は、そうではないのかもしれない。
 しゃがみ込んで、眠りそうな彼を見つめる。
 花にたとえるなら。何が一番ぴったりだろう。金の花弁の花なんて聞いたことがないし。青と緑の花弁は、どうかな。混ざった色をした花弁なんてあったろうか。
(混ざった……)
 そういえば。僕はあまり詳しくはないけれど、虹色の薔薇というのを聞いたことがある。確かオランダで開発に成功したという花だ。一枚一枚花弁の色が違っていて、それが集って一輪だけでも虹色をしているとか何とか。
「虹色、か」
 ぽつりとこぼしたとき、彼の瞼が持ち上がった。「やぁ」「あ。ねて、た?」「少しね」つまんでいた髪を離す。さらりと額に落ちた髪は少し視界にかかっていた。近いうちどこか美容院も探そうか。せっかくきれいな金色の髪をしているのだから、手入れはした方がいい。
 目をこすりながら「イメージ固まった?」と訊かれて「おかげさまで」と返して立ち上がる。
 さっきまで仕事に使う花ばかりで頭の中が埋まっていたけれど、今は虹色の薔薇のことが頭を埋めていた。
 帰ったらパソコンで調べてみようか。見つけたら、どうしようか。海外の花であることは間違いないから、買ったとして、手元に届くまで少し時間がかかるだろう。いや、そもそも買うんだろうか。話を聞いただけだし、虹色の花なんて想像が追いつかない。
 でもきっと華やかなのだろう。今までにない花のように、輝いているのだろう。
 そう。僕の意識で彼が輝いて見えるように。きっと眩い光を放って、今までの花の常識を覆すのだろう。
 そうやって彼が僕の中に存在しているように。出会ってしまえば当たり前のように在り続けるのだろう。忘れることのできない輝かしさで胸を焦がして。
 仕事先のホールをあとにして、彼の手を引いて駅の方へ戻る。
「恭、次はどこ行くの?」
「少し気になるから、デパートの花屋へ行こう」
「花。生け花に使うやつ?」
「それもあるけれど…」
 仕事でよく利用する馴染みの店に顔を出す。店主の方はすぐ僕に気付いた。「いらっしゃいませ雲雀さん。お仕事ですか?」「ええ、まぁ」店主の視線で気付いて彼の手を離した。握りっぱなしだった。まぁ、見られたって別にいいのだけど。
 ゆるりと店内を見回して、「ここには薔薇はありますか」と訊ねる。すぐに案内された。海外から青の薔薇が入るようになって、薔薇の色もだいぶ華やかになっている。けれど、虹色の薔薇は見当たらなかった。
「オランダで開発されたという虹色の薔薇はこちらには?」
「ああ、あれですか。レインボーローズ・アリスというそうですよ。高価なものなので、うちも常備はしていませんね」
「そうですか。写真などはありますか?」
「ええ。お待ちくださいね」
 店主がカウンターの奥に引っ込んだ。彼を探すと、物珍しそうに花や植木を見ていた。「こちらですね」店主の声に意識を戻す。渡された写真を見つめて目を細めた。
 確かに薔薇が虹色をしていた。花弁一枚一枚が違う色をしている。口元に手を当てて考え、「これは…白い薔薇に着色した液体を吸わせて育てた、ということでしょうか」「その通りです。理屈はそれだけなんですが、葉脈の一つ一つを理解していなければ到底できない技ですよ。いやはや、海外の技術には脱帽ですね」「そう、ですね」目を細めてレインボーローズというらしい薔薇を見つめる。視線を流して値段のところを見てみた。まぁ、海外からの輸入品であるということを考えるとこのくらいはかかるか。
 ちらりと横目で彼を窺う。しゃがみ込んで小さな花を見ている彼は、茶道や華道に無関心というわけでもない。暇なときに眺めることくらいできるだろうと雑誌を渡したら、読んだから次がほしいと雑誌を返された。次の号を渡したけれど、あれはどのくらい読み進めたのだろう。
 視線を写真に戻して、「これ、今注文すると届くまでどのくらいでしょう」と言うと店主は驚いた顔をした。「雲雀さん、ご購入を?」「…興味があるもので」真っ赤な嘘ではないけれど、半分くらいは嘘だった。感心したように頷いた店主が「さすがですねぇ。少しお待ちくださいね、受注状況を調べてみますので」カウンターの奥に引っ込んだ店主を見届けてから、どれを頼もうかなと考える。あまりたくさんあっても枯らせてしまうだけだし。玄関と、食卓と、彼の部屋と、僕の部屋と、他に飾る場所はあるだろうか。兄や弟が花に興味があるとは思えないし。
(ああ、そうか。余ったらドライフラワーやプリザーブド加工をすればもつか)
 決めた。淡い色合いの方ではなく、濃い色合いの方を選ぶ。
 やがて店主が戻ってきた。「本来なら一週間ですが、今は注文が重なっているので四日で来るそうですよ」「ではこちらをお願いできますか」一番高価な花束の方をお願いする。それから一応店内を見ておくことにした。仕事のことが頭から飛んでいたけど、そっちも忘れないようにしないと。
「恭」
 呼ばれて顔を上げる。「何か買うの?」青と緑の瞳に見つめられて「うん。、薔薇は好き?」「薔薇かぁ。きれいだよね。棘があるけど」笑った彼に「そうだね」と笑って返してから一通り店内の花に目を通して、レジに向かう。支払いをすませてから、これでもう今月は無駄遣いができないなとうっすら考えた。もともとそう使う方でもないからたまにはいいけれど。
「ご友人ですか?」
 当たり障りのない質問だったのだと思う。笑顔の店主にそう訊ねられて、とっさの言葉が出てこない。
 友人、ではないのだろう。彼は雲雀家の使用人だ。それ以上ではない、と思う。思うけれど。
 僕の代わりに返事をしたのは彼だった。店主に負けないにこにことした笑顔で「はい」と答える彼に、何となく視線を逸らす。
(友人、か)
 そんな言葉は、久しく、忘れていた。
 花屋を出て、デパートの上の階までエレベータを使って移動した。お昼時で混み合う人混みの中、はぐれないように彼の手を取って歩く。
 フレンチやイタリアン、彼に馴染みのある店の方は満席で空くのを待たないといけない状態だったので、空いている店を探したところ、日本料理の店に行き着いた。値段はこの際気にしない。足を止めて「ここでもいいかな」と声をかけると、きょろきょろしていた彼が頷いた。「でも恭、ちょっと高いよ? ここ」メニューを見た彼が眉間に皺を寄せる。そういう表情は珍しい。彼は普段から家の買出しをしてるんだから、物価の違いは分かるようだ。
「どこも空いてないからね。僕が出すから気にしないで」
 指先で眉間に寄った皺を解すと、彼は浅く頷いた。手を離して入店する。一組か二組先客がいるだけで、店内は静かだった。
 座敷の席の方に案内されて、向かい合って座る。彼はメニューを見てまた眉間に皺を寄せていた。
「食べたいものはあるかい?」
「うーん…恭はどうするの?」
「定食かな」
 ぱたりとメニューを閉じたが「じゃあ俺も恭と同じものでいいや」と言ってぐっと伸びをした。控えている店員を軽く手を挙げて呼び、定食二つを頼む。
 量は期待できないけど、僕も彼もそう食べる方ではない。物足りなかったらまたどこかカフェにでも入ればいいだろう。
 メモ帳を取り出して頭の中を仕事に切り替え、再び活ける花について考える。向かい側で彼はぼんやり僕を見ていた。それはそれで、集中できない。何かなかったろうかと鞄を探すと、花屋で渡された冊子を思い出した。花のことについてしか書いていないけど、何もないよりはいいだろう。
「読むかい?」
 差し出すと、彼は冊子を受け取って目を通し始めた。
 知識を与えれば惜しまず吸収する。記憶をなくした彼の中は空っぽで、穴がある。それを埋めるように彼は何でもする。与えた分だけ吸収しようとする。与えられることに疑問を持たない。それがどんなものでも、彼は吸収する。
 兄の拾い物だ。兄の所有物、ともいえる。
 頭の中を一度きれいにして、もう一度仕事について考える。静かな音楽が流れ、他の誰かの控えめな声の会話は中身までは聞き取れない。
 自分の文字で綴られている花の名前を目で追い、思い浮かべ、考える。今はただ仕事のことを。そうしないとどうしても目の前にいる彼のことで頭が埋まってしまう。
 おかしいな。僕はどうしてこんなにのことを考えて、いるんだろう。