におちる

「しまった」
「おや。忘れ物ですか? 君のことですからどうせ寝坊で慌てていたせいでしょう」
「うるせ。あーしまった、くそ」
 六道のうるさいのは無視して舌打ちして携帯のフリップを弾く。宿題類の忘れはなかったけど、それより大事になってきてる昼の楽しみだった弁当を忘れてきてしまった。家に電話して持ってきてもらおうかとダイヤルを押しかけて指が止まる。いやいや、弁当一つくらいで何を大げさな。コンビニのおにぎりですませればそれでいいじゃないかオレ。
 パタンと携帯を閉じて机に転がす。毎度、今日はどんな弁当なんだろうと昼休みを楽しみにしていただけに、急激にやる気が失せてきた。今日は午後体育だってあるんだぞ。なんで忘れてきてんだよオレ。
 ぼんやり金髪碧眼の相手を思い出す。にこにこいつも笑ってる。笑ってないときは、ぼんやりしてることもある。だいたい家事炊事で時間が埋まってるみたいだけど、記憶がないってあの嘘みたいな話は、ぼんやりしてるあの顔を見ると本当らしいと納得する。
 空っぽで、どこも見ていない顔。地に足をつけていない顔。家のことはよくやってくれてると褒めてやれるけど、あの顔はいただけない。幽霊みたいに希薄な存在に見えてしまうから。
「最近の君はつまらないですねぇ。以前はもっと棘々していて、からかうと面白かったというのに」
 勝手な独り言にじろりと視線をやる。肩を竦めた六道が「冗談です」とか言うけど少しも冗談に聞こえない。
 気だるい授業を受けて、教科書とノートと黒板を行き来する一限目を終えた頃、放送で呼び出しを食らった。『雲雀恭弥くん、職員室へ』と担任の声に呼ばれて、眉根を寄せながら言われたとおり職員室に顔を出すと、見慣れた金髪がいた。あいつだ。オレを見つけるとぱっと笑顔を浮かべて「恭弥、お弁当忘れたでしょう。持ってきたよ」と手提げを揺らす相手に半ば呆然とする。
 ここは家からバスを乗り換えないと行けないような遠くの学校なのに、弁当を届けるために、こいつはやってきたのだ。家事をこなす以外の貴重な時間さえ割いて。
 手提げを受け取って、「雲雀、お手伝いさんかね?」という担任の声に浅く頷いた。はにこにこ笑顔を浮かべている。どこでもそんな顔するんだなお前。いや、営業スマイルってのも入ってるのか、あれは。どうなんだろ。
 せめて学校を出るまでは送ろうと思い、を連れて職員室を出た。まぁ授業にはちょっと遅れるかもしれないけど、いいや別に。
 来客用のスリッパをぱたぱたいわせながら、が斜め後ろをついてくる。
「悪かった、な。弁当届けるためにわざわざ」
「んーん。気にしないでいいよ」
 ちらりと視線で窺うと、いつもどおりの笑顔だった。毒気を抜かれる。悪意も害意も媚びもない笑顔は、オレにとって貴重だった。
 みんなそういう顔をしたらいいのに。純粋な好意は、どうして存在しないのだろう。どうして滲み出るものを感じ取ってしまうのだろう。それはオレの思い込みってやつなのか。だけどそう見えてしまうんだ。だから人を突っぱねてしまう。笑顔の裏にあるものが想像できて。
 来客用のスリッパをもとあった場所に戻して、靴を履いて、が顔を上げる。金色の髪がさらさらと流れてきれいだった。
「じゃあ恭弥、バイトも頑張ってね」
「ああ」
「今日の夕飯は中華に挑戦してみるんだ。期待してて」
 ひらひら手を振られて片手を挙げて返す。オレとそう変わらない背中を見送っているとチャイムの音が鳴り響いた。本当なら見えなくなるまで見送っていたかった背中から視線を剥がして手提げを抱いて階段を駆け上がる。
 三十秒くらいの遅れならセンコーでもよくするし、トイレでしたとか言い訳すれば通るだろう。
(中華か。それも楽しみだな)
 昼休みになって、わざわざ届けてくれた弁当をぱかりと開けると、コンビニ弁当よりワンランクは上のきれいなおかずが並んでいた。ご飯の方はそぼろと卵で二色に彩ってある。
 ぱちんと手を合わせる。今日もありがたくいただくことにしよう。わざわざ届けてくれたんだし、いつもより味わって食べよう。
「あの金髪の外人さんは使用人か何かですか?」
「っ、」
 聞こえた声に思わず口の中身を吹き出すところだった。どんどんと胸を叩いてペットボトルを呷る。だんとボトルを置いてじろりと睨めば、菓子パンを食べている六道がいた。自分の席で食えよこの野郎。
 質問を流して弁当を片付けることに専念する。しげしげ弁当を見てくる視線が鬱陶しいからだ。「雲雀くん、少し前までお昼はコンビニのおにぎりでしたよね」「そーだっけ」「そうですよ。僕なんかいまだに菓子パン一つですよ」「知るか」「それにしても、おいしそうですね…何か一口恵んでください」「断る」ご飯の方をかきこみながら六道の言葉を一刀両断した。
 それにしても、なんであいつのことが分かったんだ。金髪の外人って言われたらくらいしか思いつかない。
 六道の視線が鬱陶しかったのでいつもより早く弁当を空にした。早々に片付ける。本当は味わって食べたかったけど邪魔な奴がいるから仕方がない。
 これで午後も頑張れる。の料理はこう身体から力が湧く感じがするから。いや、多分思い込みなんだろうけど。
 あいつは家事と炊事以外は何をしてるんだろうか。暇そうなら、なんか貸すか。漫画とか。そんなことを考えつつ携帯をいじる。バイト先と二番目の兄貴くらいしか連絡は取らない。
 そういえばあいつは携帯持ってないのかな。いや、持ってたとして、連絡先を知ってたとして、何にもならないけど。緊急の用事のときはそりゃあった方がいいけど、オレはメールなんてしないし。電話だってしないし。…なら知ってても知らなくても同じだ。
 パタンと携帯を閉じて息を吐くと、まだいたらしい六道に「まるで恋してるようですね」とか言われた。「は?」と思いきり顰めた声を出すと、六道は鮮やかに笑う。「恋に悩んでる女子のようですよ、今の君は」机の横にかけている鞄を掴んでぶん投げたところ見事に避けられた。
「おお怖い。暴力は反対です」
「うっせ。なら妙なこと言うな」
 席を立って落ちた鞄を拾う。ガタンと椅子に腰かけて鞄を机の横にかけ直した。
 誰が恋だって? 馬鹿じゃねぇの。さすが六道、頭も腐ってるが目も腐ってるな。そのくせ今までテスト順位で勝ったことがないってどういうことだ。オレの頭は余計腐ってるって? そんなわけがない。くそ、次は絶対負かす。
 あまり人目を気にしなくていいことと、学校の帰り道に仕事場があること。それを理由に選んだビルの清掃のバイトを今日もこなして帰路につくと、八時前だった。夕方から三つビルを回って今日も疲れた。
 バス停でバス待ちをしてる間、教科書を開いて少しでも中身を頭に入れることを心がける。
 そろそろ英語が追いつかなくなってきた。ダメもとであいつに頼ってみようか。英語はできるだろうけど、人に教えられるかどうかはまた別問題だ。
 帰宅してスニーカーを脱ぎ散らかすと、とたとた廊下を歩いてきたが「おかえり恭弥」といつものようにオレを出迎えた。「たでま」と返して、にこりとした笑顔とすれ違う。何やってんだと確認したら、オレが脱いだ靴を揃えていた。ご丁寧なことで。…次からは揃えて脱げばいいんだろもう。
 居間に行くと、中華っぽいにおいがした。台所に行って鍋の蓋を開けてみる。あんかけのようだ。隣の鍋にはエビチリがある。我慢できずにつまんでみた。ピリ辛でうまい。あいつ本当料理上手いな。もしかしてどこぞのシェフとかしてたんじゃ、とかいらないことを考えてその想像を消した。
「あっためるよ。座って待ってて恭弥」
「ん」
 やってきたに台所を任せて食卓に戻る。鞄から空の弁当箱とペットボトルを出しておく。ついでに今日の宿題も出しておく。簿記とかめんどくせ。でも宿題だからやる以外にない。
 姿勢を崩してシャーペン片手に宿題を片付けていると、温められた夕食が並んだ。ずざざと筆記類とプリントを横に流してさっそく食事にありつく。今日もうまい。
 が不思議そうな顔でオレの宿題を取り上げた。「これは…?」「簿記」「簿記?」「そ」「ああ、そういえば恭弥の学校、商業ってついてた」「そ。将来性あるだろ、普通科より」蓮華のスプーンをがしゃがしゃいわせながら口いっぱいにあんかけご飯を頬張る。エビチリの方を箸でつまんでばくばく食べる。麦茶で飲み下して一つ息を吐いて気付いた。は微妙な顔をしていた。なんだよその顔は。
「なんだよ」
「恭弥は、恭弥のやりたいようにやってる?」
「当たり前だろそんなの。オレは兄貴達と違ってふつーに生きるんだから」
 がしゃ、と蓮華であんかけご飯をすくう。人に言えないような喧嘩を生業としてる仕事で生きてる長男と、常人にはないだろう生まれ持っての才能ってやつで華道の先生なんてやってる次男。あまり参考にならないその生き方は、普通からは外れている。だからオレは雲雀家の中で一番最初に普通の職業に就くんだ。無難にサラリーマンできればいいんじゃないか、この時代なら。世の中不景気だし。
 エビチリを食べつつちらりとの顔色を窺う。
 なんだその微妙な顔は。なんか言いたいなら言えばいいのに。
 は結局何も言わなかった。黙って弁当箱と食器を片付けて、「お風呂空いてるよ」といつものように笑う。
 引っかかりつつ、鞄を持って部屋に戻った。着替えを掴んで階段を下りていくと、居間の方から食器がぶつかる音が聞こえてくる。
 毎日毎日同じことを繰り返して、この家に縛りつけられて、あいつはそれでいいんだろうか。そりゃあ金銭面で面倒見てるのは一番上の兄貴だけど。
 ああ、そうか。あいつ記憶がないんだった。なんか笑ってばっかりだから忘れがちだけど、そうだ。あいつには思い出も記憶も何もないんだ。帰る場所も、行くべきところも、ここ以外あいつには何もないんだ。
 なんとなく、言い訳したい気持ちになって居間に立ち寄る。台所ではオレとそう変わらない背中が黙々と食器を片付けている。
 毎日毎日同じことを繰り返して。変わり映えのしない日々を過ごして。記憶の欠落を抱えているあいつは、オレよりもずっと大変なはずだ。確固たる足場もなく、ふわふわと漂うようにして生きてるんだ。ぼんやりしてる顔を見れば分かる。あいつの心はきっとどこにも寄り添っていない。

「、」
 こっちを振り返ったが首を傾げた。額をさらさらと滑り落ちる金色の髪と、青と緑の瞳を見つめて「あれだ、なんかあったら言えよ。ほら、オレとあんたわりと歳近い? と思うし。オレあんま家にいないけど、なんだ、話を聞くぐらいは、だな」言ってて声が小さくなる。いやなんでだ。オレは別に変なこと言ってないぞ。照れる場面でもないぞここは。じゃあなんで顔が熱いんだよ畜生め。
 何度か瞬きした相手はへらっと笑った。「ありがとう恭弥」と。「恭弥も、学校で何かあったら俺に言うんだよ」やんわり微笑みかけられてなぜか言葉が出てこない。
 あんたのそういう顔がずるいと、いつも思ってた。そんなふうに笑われると罵倒する気がなくなる。いや、今は別に怒りたいわけじゃないけどさ。
 なんだろう。だってなんかずるいだろ。そんなふうに笑ってばっかりで。今に不安なはずなのに、不満なはずなのに、笑って。誰の手を借りなくても大丈夫なのかと、差し伸べた手を跳ね除けられたのかと、思うじゃないか。
 唇を噛んでくるりと背中を向け、ずかずか洗面所に行ってばったんと扉を閉めた。
 鏡に映った自分はそれはもう情けない顔をしていた。まるで今にも泣きそうだった。
 自分はあの金髪碧眼に好意を持っている。今までさんざん女子からの好意を跳ね除けてきたくせに、いざ自分が逆の立場になってみると、泣きそうだった。
 そうか、オレはひどいことをしていたのかとようやく気付けた。
 ずるずるとその場に座り込む。着替えを握り締めて強く強く拳を握る。泣かないように、唇を噛む。
(ああ畜生、六道の勝ち誇った顔が見えるぜ)
 固く強く目を閉じていたのに、涙が落ちた。一滴だけ。がばっと立ち上がって乱暴に制服を脱いで洗濯機に放り込んでさっさと風呂に入る。ばしゃりと何度も顔を洗って自分の涙を誤魔化す。滲む視界はお湯のせいだ。顔を洗ったせいだ。それだけだ。
 畜生、と口の中だけで呟いて目を閉じる。
 一生誰かを好きになることなんてないと驕っていた。こんな簡単に人に堕ちた。兄貴二人とは違う、オレは真っ当な道を行くんだと決めていたのに。この恋は、ちっとも、真っ当じゃない。普通じゃない。どうやらオレも兄貴達と大差ないようだ。
 全く、血の繋がりってのは本当、厄介なものだ。