家を飛び出したその日は、夜から土砂降りの雨が降っていた。
 バケツを引っくり返したような雨っていうのはきっとこういう雨のことをいうんだろう。
 電車の窓を叩きつける雨粒をぼんやり見つめながら、適当に電車を乗り換え、降りてはまた乗り換えを繰り返し、東京の都心から離れた。
 とにかく離れたかった。あの場所から一歩でも遠くへ。
 目的地なんかなかった。行くようなところは思いつかなかった。
 目的もなく電車を乗り換えて終点で降りて、お金がなくなったことが手伝って、その駅で改札を抜けて外に出た。
 来たこともないような小さな駅は、改札を抜けるとすぐに外だった。買い物するところもなければ地下街なんてありもしない。
 バケツを引っくり返したような雨を見つめて考える。傘なんて持ってない。
 小学生が夜の十一時に駅に一人でいるのは目立つようだったから、走って駅を出た。当然濡れる。土砂降りの雨で、すぐに全身濡れそぼった。
 走っていたから、雨のせいで足元が滑って派手に転んだ。ばちゃっと音がして、かっこ悪いと思いながら何とか手をついて起き上がる。膝がひりひりして痛い。派手に打ちつけた。
 引きずるように起き上がって、びしょ濡れになりながら歩く。
 目的地なんて見つからず、帰るためのお金だってない。天気は土砂降りで、転んだせいもあって服はもうびしょ濡れだ。
 ここがどこなのかも分からず、ついには足が止まってしまった。
 自分が泣いているのだと気付いたのは、ひっくと嗚咽が漏れてからだった。ひどい雨のせいで涙が流れたことになんて気付かなかった。漏れた嗚咽で、泣いているのだと気付いた。
 どうして僕は雲雀恭弥だったんだろう。どうしてもっと平凡な家に生まれることができなかったんだろう。どうして兄二人のように才能がなかったんだろう。どうして両親は僕を僕として見てくれないのだろう。どうして、比べるのだろう。僕は兄じゃないのに。兄達みたいにはなれないのに。
 震える身体で自分を抱き締めた。他の誰も、こうしてはくれないから。
 兄達にそうするように、両親に笑いかけてほしかった。
 僕がほしいと思ったものは、そんなに贅沢だったろうか。
 できることは全部してきた。学校のテストは満点を取れるようにたくさん勉強したし、色々な場所での作法やマナーも練習して身につけることを努力した。雲雀家の三男として、人前に出ても恥ずかしくないようにと背筋を伸ばして色々なことを頑張ってきた。
 それでも、両親が僕に笑いかけてくれることはなかった。抱き締めてくれることはなかった。いつも兄二人ばかり見ていた。そして比べられた。いつもそうだった。いつでもそうだった。比べてほしくて頑張ってるんじゃない。認めてほしくて頑張ってるのに。僕は、僕なのに。雲雀恭弥なのに。
 兄二人が疎ましかったし、羨ましかった。
 兄しか見ない両親に、僕はついに絶望した。どれだけ頑張っても認めてもらえることはないのだろうと諦めてしまった。
 だから出てきた。家から離れたかった。あの閉鎖された空間から外へ出たかった。
 外へ出てみても。あったのは土砂降りの雨と、知らない土地と、何もない自分の掌だけだ。
 は、と短く笑って手を掲げる。あんなに色んなことを頑張ったのに、僕には何も残らなかった。なんてお笑い種だ。
 もう疲れてしまった。背伸びし続けることに、親の期待に応えようと頑張ることに、そうして生き続けることに、疲れてしまった。
 轟音を立てて通り過ぎたトラックがばしゃあと路面の水を跳ね上げ、飛び散った水が僕に降りかかった。ぼたぼたと髪から雫が落ちる。雨は一向に止む気配を見せず、トラックは雨の中へと消えて、周囲はまた雨音に満たされる。
 もういっそ、死んでみようか。そうしたら親はようやく僕を見るのだろうか。暗い考えが頭をもたげたとき、ばしゃと水音がした。すぐそばで止まった音に俯けていた視線を上げる。雨が当たらないなと思ったら、僕と同じくらいの男子がこっちに傘を差し出していた。自分の方が雨に打たれながら、この雨なのだから気付かなくて普通なのに、言われた。「ないてるの?」と。
 泣いてなんか。ないと、言おうとして。喉に言葉がつっかえて出てこなかった。
 知らない誰かはきょろりと周囲を見回して、僕に連れがいないらしいと気付くと首を捻った。びしょ濡れになりながら「おうちは?」と訊かれて首を横に振る。言いたくないし帰りたくもなかったから。
 困った顔をした相手がうーんと空を仰いで、「じゃあオレんちにおいでよ。かぜひくよ」と言って僕の手を取った。
 その手を、振り払おうと思えば振り払えたのだと思う。
 ただこのときの僕は人生で一番弱っていた。もうどうしたらいいのかも分からなかった。
 だから、僕と手を繋いだ相手の無防備な背中に、ついていってしまったのだと思う。
 その夜は土砂降りの雨がひどかった。明日は台風がこの辺りを通りかかるんだとか、ニュースで言ってた気がする。
 家に帰る。夜の十一時を回ってたけど気にしないで玄関の扉を開けた。「ちょっとまってね」連れてきたびしょ濡れの子に一言言ってから洗面所からバスタオルを取ってくる。俯いたままの黒髪の子にタオルを被せて、自分の髪をわしわし拭いた。すっかり上から下までびしょ濡れになった。
 その子が動かなかったから、首を捻ってタオルで髪を拭いてやる。そのうちくしっとくしゃみしたその子に小さく笑った。
「シャワーあびたほうがいいよ。かぜひくから」
「……でも」
「オレのきがえでいいならかすよ。ね」
 笑いかけると俯いたその子がこくんと一つ頷く。「じゃあちょっとまってて」と言って二階の部屋に行く。
 家の中は静まり返っていて、パート帰りで疲れた母さんは眠って、父さんもどうせ酒で酔い潰れて寝たんだろうと思った。静かにしてればオレが夜家を出てたことも知らない子を連れ帰ったことも気付かないはずだ。
 二人分の着替えを持って戻る。玄関に立ち尽くしているその子に「さきにシャワーいいよ。あがって」と言ってもなかなか動かないから、頑固だなぁと思って靴を脱がせた。手を引っぱって「ほらはやく」と促せば、諦めたらしいその子が洗面所に入る。お湯と水の栓を捻って適温にした。外の雨よりずっと優しいお湯の雨が降り注ぐ。
「オレそとでまってるから。きがえこれ。ぬいだものはー、このビニールぶくろにいれといて」
 こくんと一つ頷いた子を残して洗面所を出た。玄関に行ってその子が履いてた靴を部屋に持っていった。隠しておかないと気付かれてしまう。
 知らない人にはついていかないようにしましょうとかあったなぁ。知らない子を家に連れ込んじゃったよ。怒られるかなぁとか考えながら階下に戻る。
 三分くらいでその子は出てきた。先に部屋に案内して、「てきとーにしてていいよ。あ、しずかにね」「…うん」俯きがちの横顔を覗き込んで「ないてない?」と言うと驚いたような顔をされた。雨の中立ち尽くしていた姿は泣いてるように見えたんだけど、オレの気のせいだろうか。
「ないて、ない」
「そっか。じゃあいいか」
 濡れた髪をなでなでしてから部屋を出てシャワーを浴びた。お風呂はすませてたから身体をあたためるのが目的だ。夏前だけど油断してると風邪とか引きそうだし、雨で濡れたままっていうのはなんかぺたぺたするから、シャワーで洗い流した方がいい。
 着替えて部屋に戻ると、ベッドに座っていたその子が顔を上げた。「おなかすいてたりは?」「…ちょっとだけ」「んー、じゃまってて」また部屋を出て台所へ行く。あんまり何も入ってない冷蔵庫を覗いて、ペットボトルのお茶とポテチを持って戻った。
「はい」
 差し出せば、遠慮がちに受け取られる。「たべていいよ」と言っても戸惑った顔をしたままだったから、ポテチの袋を開けた。のり塩味だった。ぱりぱり食べていると、その子もまねして食べ始めた。ぱりぱりぱりと二人でポテチを食べる音と、窓を叩きつける雨音だけが部屋を満たしていく。
 ペットボトルのお茶を開けて呷って飲んだ。差し出せば、迷ったあとに同じようにボトルを傾けたその子がお茶を飲む。
「ああ、オレ。きみは?」
「…恭弥」
「きょーや」
 こくんと一つ頷いた恭弥に「おうち、でんわするならしたにあるけど」と言えばぶんぶん首を振られた。連絡、したくないってことか。
 困ったな。家出とかなのかな。連れ込んじゃってなんだけど、よかったのかなこれで。でも外は大雨だし、こんな雨の中放っておくなんてオレにはできなかったし。これも何かの縁ってことで、今夜くらいはここを貸そうか。
 ポテチの袋が空になる。ゴミ箱に放って、お茶のボトルの蓋を閉めた。
 もう十二時が近かった。明日はこの豪雨で学校がないだろうと踏んでたから、あまり急いで眠る理由もない。でもやっぱり眠い。日付けが変わるまで起きてることなんて、お正月前後くらいだし。
 欠伸を漏らして目を擦る。「きょーやぁ、オレねむいから、ねるよ?」「…ぼくもねむい」「じゃーねよう。ねようねよう」ベッドから下りて部屋の入り口に行って施錠を確かめてパチンと電気を消した。のそのそベッドに上がって、遠慮して端っこにいる恭弥の手を引っぱる。
「ほらねるよ」
「…うん」
 枕は一つしかなかったから恭弥にあげた。二人いると結構狭いなーと思いながらごろんとベッドに転がる。
 窓を叩きつける雨音が強い。そのうち割れそうだ。
「……ねぇ」
「んー」
、は。どうしてぼくを」
 ぼそぼそした声に窓に投げていた視線をずらす。恭弥は暗闇の中でじっとこっちを見てるようだった。
「どうしてっていわれても…このあめだろ? きょーや、かさだってさしてなかったし。びしょぬれだったし。りゆうってそんなもんでじゅうぶんじゃない?」
 ああ、あと、泣いてるみたいだったし。そう付け足すと恭弥は押し黙った。それからそろりと布団の中で手を伸ばしてオレの手を握った。震えている、小さな手だった。

「うん。なにきょーや」
 震えている声に、もう片手を伸ばして恭弥の黒い髪を撫でてやる。
 僕って言うし、恭弥って名前からも分かるように男の子なんだろうと思ったけど、恭弥は女の子みたいだ。オレより小さめの手も、白い肌も、黒いさらさらした髪も、そんな感じ。
「こわいんだ」
「なにが?」
「いろいろ。たくさん。ぜんぶ…こわくて。つかれちゃって。どうしていいか、わからなくて。もう、どうすればいいのか、ぼくには」
 滲んだ声と、外で光った雷鳴に照らされた恭弥の頬を涙が伝ったのが見えた。
 泣いてるのか。やっぱり泣きたかったのか。そういうときは、あれだ。誰かの胸を借りるのが一番泣けて、落ち着くんだよな。そう思ったから恭弥を抱き寄せた。抱き締めた。そうして母親に抱き締められたことはあるけど、誰かを抱き締めたのは初めてだった。
「だいじょーぶきょーや。オレがいるよ。だいじょうぶ」
 ひっくとしゃくり上げる恭弥の背中をよしよしと撫でる。
 縋りつくように背中に回った腕に抱き締められた。
 誰かの体温をこんなに近くに感じたのは、それが初めてだった。
 泣いて仕方ない恭弥に大丈夫と言いながら、まどろんで、意識が落ちるまで恭弥を宥め続けて、その日は眠った。
 それは滅多にない出会い方であると、幼いながら、頭のどこかで分かっていた。
 運命という文字は浮かばずとも、それと同じようなものを感じていた。
 それなりに平均的な日常を送っていたオレの家庭が崩壊を始めた頃と恭弥に出会った頃がちょうど同じくらい。
 奇妙な運命を感じながら、オレは恭弥の逃げどころとして、父親が蒸発し家をなくしたあとも、親に頼み込んで東京の端にアパートを借りて学校に通った。中学までは義務教育だからどうしても通わないとならない。それを終えたらバイトを探して本格的に一人暮らしをすると決めていた。今は朝刊配りのバイトくらいしかできないけど、義務教育を終えたらもう少しマシなことができるはずだし。
 おんぼろアパートの部屋で、教科書なんか広げる暇もなく、明日も朝刊配りのバイトだなぁとうつらうつらしていると、バタンと部屋の扉が開け放たれた。寝そうになっていたところから顔を上げれば、出会った頃よりずっと大きくなって、でも白いし細いし相変わらず女の子みたいなきれいな顔をした恭弥がそこにいた。バタンと扉を閉めて靴を脱ぎ散らかしてずんずん歩いてくると、オレの隣に座り込んで無言で床を睨みつけている。
 ああ、きっとまた親御さんに何か言われたか、何かあったんだろう。
 眠かったけどのそりと起き上がる。明日も朝刊配りのバイトがあるんだけどなぁと思いながら恭弥の髪を撫でた。相変わらずさらさらと触り心地のいい髪だった。
 恭弥はオレに甘えるために、都心にある自分のマンションからわざわざこのおんぼろアパートへやってくる。知っていた。だからオレはここにい続けると決めて、親に無理を言って一人暮らしをしている。自分のためではなく恭弥のために。オレの前では泣くくせに、他の誰の前でも泣かない、唇を噛み締めて床を睨みつける恭弥のために、オレはここにいるのだから。
 緩く抱き寄せると、息を詰めた恭弥が震える腕でオレのシャツを握り締めた。ゆっくり黒い髪を撫でつけていると、その腕が背中に回る。縋るように抱き締められて、その背中を緩く抱き返す。
 泣けばいいよ、と言えば誰がと毒づいた恭弥がオレの胸に額を押しつけた。
 もう昔のように泣き喚くことのなくなった恭弥が今泣いているのかどうか、顔が見えないから分からない。
 いつかの雨の日の夜を思い出しながら目を閉じる。
 気付いたら、オレの世界には恭弥がいて、泣き出しそうな灰色の瞳でじっとこっちを見つめていた。放っておいたら泣いてしまう恭弥のそばへ行ってその手を取ったのはオレだ。だから後悔みたいなものは今もない。
 きっとこの先も、オレはこうして生きていくんだろう。恭弥がオレを必要としなくなるような、自分でしっかりと地を踏み締めて立てるような、そんな日が来るまで。
 明日もバイトなんだ。ごめん、先寝るね。そう言って彼は布団に潜り込んで眠った。
 そんなこと言われなくたって知っていた。自転車で朝刊配りのバイトをして学校へ行って日々をこなして、彼は疲れている。そうだと分かっててここへ来たのだから、僕もどうしようもない奴だ。
 どうしてもに甘えたくて。どうしても彼の声が聞きたくて、体温を感じたくて、冷たいもの達から抜け出したくて仕方なくて。
 そっと手を伸ばして、眠っている彼の横顔を掌で撫でる。
 彼に甘えるためにここに来た。どうしてもその声で恭弥と呼んでほしくて、その体温で抱き締めてほしくて、僕に大丈夫だと笑ってほしくて。
 幼いあの日から、時間を重ねるごとに、君は僕の中で大きくなり、必要不可欠な存在となってきている。
 これは友情なんかじゃないのだろうと、彼の唇を見つめながら思った。
 僕はどうかしてるんだ。幼馴染にこんな心を抱くなんて、本当にどうかしている。
 どうかしてる。自分をなじりながら、目を覚まさない彼を理由に、その夜初めて自分の想いを形にして、彼の唇に自分の唇を押しつけた。
 ずっと知っている体温と、少しかさついている唇のやわらかさ。眠っている彼の息遣い。案外長い睫毛や緩く瞼にかかっているブラウンがかった黒い髪を見つめて目を閉じる。
 のことが好きだ。キスしてしまうくらいには、友人や親友としてではなく、一人の人間としての愛情を抱いていた。
 だけど、この想いは閉じ込めなくてはならない。そうでないときっと崩れてしまうから。そうでないときっとどこかで狂ってしまうから。
 顔を離して、自分の唇に拳を押しつけて蹲る。
 閉じ込めなくては。心の奥底にしまい込んで、忘れ去ってしまわなければ。
 彼が僕の気持ちに気付いたら、きっと、軽蔑する。
 そんな思い浮かばないけど、そうなったら僕は終わりだ。彼がいるからかろうじて頑張れている日常も、生きる意味がなくなる。
 君がいなくなるくらいなら僕はこの想いを殺す。何度だって殺してみせる。ただの幼馴染としてなら君のそばにいることが許されるのなら、そうしよう。好きだなんて伝えて彼が遠ざかってしまうくらいなら、僕はこの想いを胸の内にしまい込み、ただの幼馴染として、君のそばにい続けよう。
 大丈夫だ。昔から自分を殺したり我慢することは得意中の得意。勉強よりずっと簡単だ。
 だから、大丈夫。大丈夫。大丈夫。掠れた声で大丈夫と自分に言い聞かせながら強く拳を握った。その中に僕の心があって、それを握り潰すように、強く強く拳を握った。
 それなのに、恭弥と僕を呼んで笑ってくれる君が。どうしても消えてくれない。
 切ないくらいに。君は僕の中で大きくなりすぎた。
 時間の問題なのかもしれないとうっすら思いながら、のろのろ起き上がって部屋の電気を消した。一つの敷布団に男二人で寝るのは当たり前に狭い。だけど僕はその狭さが幸福だった。あの雨の日に君に抱き締められて眠った日から、広すぎるベッドが嫌いになった。広すぎるベッドより狭いベッドの方がよかった。そして何より、君のいる場所がよかった。
 ねぇ、と眠っている彼に小さな声で語りかける。
 君がいるなら僕は頑張れるよ。まだ頑張れる。高校を卒業するまでちゃんと学校に行く。それで、君のところにまた来るよ。次は休みの日に来てご飯に誘うから。たくさん食べていいよ。映画とかに行ったっていい。
 だから、ねぇ。僕と一緒にいてね。この気持ちを知らなくていいから。僕が殺すから。だから、僕のそばで、恭弥って呼んで、抱き締めて、髪を撫でて。大丈夫だと、僕に笑って。
 笑って。