どうしてか、散らかってる次男の兄の部屋でコーヒーをすすっている現在。自分の部屋に戻りたくて仕方がないのに、話があるとか何とか言って引き止められて、おまけに長男まで現れて、僕の苛々は増すばかりだった。
 それでもかろうじて落ち着いていられるのは、隣で胡坐をかいてるの存在があるからだ。
 僕との関係についてはとっくにバレてるようだったので、もう遠慮しないで腕を絡めてひっついている。がちょっと困ったような顔でたまに僕を見るけど知らないフリをしてコーヒーをすすった。薄いこれ。
「で、好き者に話があるんだけど」
だよ。好き者とか言わないでくれる愚兄」
「うるさいよ愚弟。キミには話してない」
 ごんと乱暴にカップを床に置いて睨みつけると「恭弥」と彼に宥められた。今のは全面的に兄が悪いんであって僕は悪くないのに。
 絵の具で汚れてるソファに座ってる長男が足を組み替えてそこに頬杖をついた。上から下まで彼を眺めた目にギリギリしていると、「どう見てもキミは庶民だね」なんてこぼれた声に、は指で頬をかいた。「まぁ庶民つか愚民つか、農民っていうか」「今はバイトしてないんだっけ」「オレ暑いの駄目なんで…冬から春うちにかけてバイト増やして、夏の間やらなくていいようにやりくりしてるんです」「へぇ。そんなに駄目なのか、暑いの」「駄目っすねぇ」…平和的な会話にさえ僕は嫉妬しているらしい。あの女のときもそうだったけど、僕は心が狭いようだ。
 苛々を少しでも誤魔化そうとカップを持ち上げてコーヒーをすする。やっぱり薄い。
「訊きたいんだけど」
「はい」
「男を抱くってどんな気分?」
 思わず、口の中のコーヒーを吹き出しそうになった。どうにか飲み下して咳き込むと、が僕の背中をさすった。
「どんなって言われても…」
「ああ、そうか。キミ、女の方を抱いたことがないのか。じゃあ比べようがないね」
「はぁ、そうですね」
 げほと咳き込んで涙の滲んだ目をこする。
 当たり前みたいに会話してるけど、何なんだ。なんで僕だけが戸惑ってるんだ。次男の兄は我関せずの顔で絵の雑誌なんか眺めてるし。
 背中をさすっていた手が離れる。長男は面白いものでも見るみたいな顔で僕を見ていた。その顔を睨みつけつつの腕をまた抱き締める。少しでも離れるのが嫌だった。
「まるで女だね、そうしてると」
 せせら笑った兄を睨みつけてそっぽを向く。
 否定しなくたって僕は男だ。女の方がよかったなんて思ったことはない。そりゃあ、女だったらもっとちゃんと彼と付き合えていたのかもしれないけど。きっと女はめんどくさいから、同じ男でよかったんだ。セックスだってできないわけじゃないんだから。
 の手が僕の髪を何度か撫でた。僕のことを気にしてくれている。やっぱり君は優しい。それで、僕の仏頂面は少しだけマシになったりする。
「お話ってそれだけですか」
「まさか。そんな野暮なこと訊くために足を運ぶわけないでしょ」
 頬杖を外した兄がスーツの内ポケットに手を入れて、小さな封筒を取り出した。ぴっとこっちに投げられたそれをがキャッチする。「開けていいよ」と促され、すでに開いている封筒を開封した彼が中から紙片を取り出した。一応僕も見てみる。堅苦しい英語の文章だった。斜め読みして、視線を兄に投げる。目が合った。
「…何これ」
「読めない?」
「馬鹿にしないでくれる。これくらい読める。そういう意味じゃない」
「ああそう。好き者は全然分からないって顔だけど」
「……オレ、勉強は得意じゃなかったんで」
 苦笑いしたに一つ吐息して、簡単に説明する。「君の生まれた年から今年の梅雨まで、どこに生まれてどういうふうに育ってどんなバイトをしてきたか、人付き合いはどうだったかとか、全部書いてある」「え。オレのこと?」浅く頷くと、彼は戸惑った顔で英語の文章を見つめた。
 一体どういうつもりで彼の素性を事細かに調べ上げたのかと兄をギリギリ睨んでいると、口を開いた兄はこう言った。

「キミからそこの彼を取ると何も残らないんだろう? ならもう公にしてしまおう」
「…兄さん?」

 初めて、この場で兄のことをちゃんと呼んだ。
 兄の言ってる言葉は理解できる。でもどこをどう解釈するといきなりそういう流れになるのか、兄が何を考えているのかが理解できない。
 ぱたんと雑誌を閉じた次男が、我関せずの顔をしていたくせに会話に口を挟んだ。「そろそろ痺れを切らす頃なんだよ。父と母がね」「……どういうこと」兄の言葉の意味を何となくは理解していたけど、はっきり言ってほしかった。ぐっとの腕を抱き締める。手入れしてない伸ばしっぱなしの前髪を手でかき上げて、兄は言う。
「雲雀の権力があれば、人一人なかったことにするのは簡単なんだ」
 英語の文書から顔を上げたが首を捻った。
「それってつまり…恭弥のご両親はオレのこと抹消しようとしてる、ってことですか」
 自分のことなのに、彼はひどくあっさりとその事実を口にする。
 ゆるりと頷いた次男が口を閉じると、代わって長男が口を開いて「そうなる前に手を打たないといけない。死にたくはないだろ、キミ」「そりゃあ。オレが死んだら恭弥追ってきそうだし」頭を撫でられて、ぎゅうと強く腕を抱き締めた。そんな僕に呆れたような顔をした兄が「本当情けないね。そんな愚弟のどこがいいの?」なんて容赦ない質問を彼に向ける。縋るように見上げれば、はきょとんとした顔で「どこって、全部ですけど」さらっとそう口にした彼に、思わず視線を俯けた。…縋っておきながら今更だけど、結構照れくさい。
 兄が息を吐いて「臆面もなく言うね。まぁいいけど」とこぼして内ポケットからもう一つ封筒を取り出してこっちにぴっと放った。ぱしとキャッチした彼が開いてない封筒に首を捻る。「開けても?」「いいよ」下げていた視線を上げる。開封された封筒の中の紙片はまた英語だった。彼が読めないだろうから代わりに目を通して、眉根を寄せる。
「これ…」
「何か異論でもあるの愚弟」
「……ないよ。ないけど。どうして兄さん達がそこまでするのか、分からない」
 英語の文書に難しい顔をしてる彼に、兄は一言でそれの説明をした。「キミの身柄を雲雀が引き受けるって書いてあるんだよ」とこぼして足を組み替えて頬杖をつくと口を閉じた。次男の意識はまた雑誌に戻っている。
 ちらりとの横顔を見上げた。「駄目だ、さっぱり読めん」とぼやいて眉間に皺を寄せていた彼と目が合う。やんわり笑いかけられて、大丈夫と動いた唇が見えて、たまらなくキスがしたくなった。
(優しいね。もっと慌てていいし、もっと情けない顔してくれていいのに、僕のために笑ってくれるんだね。
「ねぇ、じゃあ一個注文してもいい?」
 長男の声に邪魔されて、彼の意識は僕から離れる。じろりと兄を睨んでやれば、嫌な笑みを浮かべてるのが見えた。「できることならやりますけど」と律儀に応答した彼に、兄が笑う。
「キスしてみせてよ。今ここで」
「…えーと、恭弥とですか」
「ボクはそんな趣味はないよ。キミ達の愛ってヤツを確かめたいだけ」
 愛なんて欠片も似合わない口振りで、絶対からかってるだけなのに、「分かりました」なんて言うに彼の腕を抱く力が緩んだ。嫌な笑みを向けてくる兄を睨んでいると、頬に手が添えられる。
 ちょっと待って本当にするの、あれからかってるだけだよとか言葉を言う暇はなかった。部屋に二人でいるときと同じように口付けられて、唇を舌でなぞられて、兄から意識が遠ざかる。
 二人でいるときと同じように。同じようにすれば、いいだけ。
 触れるだけのキスをする。すぐに離れた唇はもう終わりという意味ではなくて、額にキスされて、頬にも口付けられた。リップ音を残す丁寧な口付けに意識が緩んでいく。
 兄がいると頭の隅で分かっているのに、今の僕に見えているのはだけだった。
 抱き締めていた腕を離して、もっとしてほしいと彼のシャツを掴む。顔を離した彼がやんわり笑って僕の背中を抱いて唇を塞いだ。
 丁寧さの消えた、乱暴とまではいかない、情熱的な口付け。
 お互いの鼓動が分かるくらいにきつく抱き寄せられて少し苦しかったけど、彼の鼓動が分かったから、それはそれで嬉しかった。
「分かったよ、もういい。十分」
 兄の声で、彼の動きが止まった。舌を絡めるキスが中途半端に終わってしまって、唇が離れる。もっとしたいのにとシャツを握り締めると僕の髪を撫でたが困ったように笑った。
 兄は呆れたような顔でこっちを見ていた。「そもそもさ、キミは自分が消されるかもってことに疑問を抱かないの?」言われたが首を捻って「ご両親にとってオレが邪魔ってことでしょう?」「簡単に言えばね。具体的にどういうことかって分かってるの」「全然」はぁと息を吐いた兄がうろんげな目を僕に向けた。何となく睨めなくて、彼の胸に顔を埋めて逃げることにする。
「弟が使えないのはキミのせいだって思ってるんだよ、あの馬鹿親は」
「…オレのせい、ですか」
「そう。責任転嫁も甚だしいだろ? 自分達に非があるなんてちっとも思ってないんだ。本当に馬鹿な親だ」
 ちらりと視線を上げる。彼は僕の頭を撫でながら、片腕で僕を抱いたまま、兄に顔を向けている。
 今初めて、兄が自分の親のことを貶してるのを聞いた。
 そんなふうに思ってたなんて知らなかった。僕のことを愚弟って呼んで興味なんかないって顔しておきながら、のこととか全部知ってて、考えていたんだ。あんな人でも人のこと考えてそのために何かするってことができるんだ。知らなかったな。
 そういえば僕はどのくらいの間家族から顔を背けて生活していたんだろう。
「質問、なんですけど」
「何」
「お兄さん達がここまでするのは、弟の恭弥が大事だからですよね」
 はっと短く笑った兄が「ありえないね」と彼の言葉を否定する。否定したあとに居心地悪そうに視線を逃がして「…キミが死んで弟が自殺なんてしてみなよ。雲雀の名前に傷がつくだろ。ただでさえ屍みたいな生活してるのに、これ以上廃人になられても困る」…どうやら兄達の中ではがいなくなるとイコールで僕は駄目になるらしい。まぁ、否定はしないけど。
 雑誌に視線を落としたままの次男が「私も兄も、そこまでひどい人間じゃない。少なくとも弟を見殺しにするほど心がないわけではないさ」と言ってこっちに何か放ってきた。ばさりと音を立てて落ちたのは白く分厚い封筒で、手を伸ばした彼がそれを取り上げる。のろりと顔を上げて彼が逆さにした袋から出てきたものを見て、息が詰まった。
 それは、ここ数日の僕ととを写した写真だった。
 ツタヤに行く道すがら、せっかく一緒にいるんだからデートに行きたいと言った僕に、暑いけど頑張ると笑ってくれた彼の腕に抱きついた瞬間の写真。子供みたいな顔で笑ってる自分と、そんな僕に微笑んでる彼が写っている。
 そのあとコンビニに寄って二人でアイスを食べてる写真があって、いかにも不審者に襲われて二人で撃退してる写真が何枚かあって、最後に手を繋いで帰るカットもあった。
 表参道を暑さでだれてる彼の手を引く写真、ハンカチで彼の汗を拭った写真、食の進まない彼にスプーンで食べさせている写真、六本木のバーでソファから身を乗り出してお互いの指を握り合ってる写真、カクテルを傾けて笑ってる写真、バーを出てふらついた僕を支えたの写真に、どうやら途中から眠ったらしい僕を背負って荷物を首に引っかけたり腕に引っかけたりして歩く彼の写真。
「それを見ているだけでも分かる。くんといる弟は本当に幸せそうだ」
 これ、ストーカー罪とかで訴えられるレベルだと半分呆れる。
 次男の兄に視線を投げれば、相変わらず雑誌を見たままだった。
 嫌がらせで誰かが送ってきたのか、それとも兄達が指示したのかは知らないけど、これだけ撮られてて気付かないなんて、僕も馬鹿だな。
 それとも、普段は気をつけていることが、彼がいるだけで、意識がふわふわして、どうでもいいなんて思ってしまうような。そんな幸せの中に、浸っていたのかもしれない。
 地下街でジェラートを一つ頼んで二人で食べてる写真。屈託なく笑った彼に照れてる自分の写真。手を引っぱって洋菓子の店に顔を出した彼の写真。デパートを回ってるときの写真。外を移動してるときにのろのろしか歩かない彼の背中を押してる写真。夕ご飯のために寄ったカウンター席のあるレストランでキスしてる写真。自分では食の進まない彼のためにハンバーグを食べさせてる写真。
 彼が手を伸ばして写真の一枚を取り上げた。レストランでの写真だ。僕が差し出したフォークから何かを食べたらしいが満足そうに笑っている。そして僕も、頬杖をついてめんどくさそうにしながら、口元は笑っていた。

 兄の言葉を借りるわけじゃないけど、僕はがいないとあまり何かをする気は起きないし、高校だって義務的に卒業しただけだ。小中高と一貫の学校だったから通わないといけなかった。大学なんて行く気はなかったから受験なんてしなかったし、他にやりたいこともなかったし、夏の間は彼がバイトしないと知ってたから、春に高校を卒業してからは彼のところに通う日ばかりだった。
 週に一度のバイトが休みの日に必ず彼のところに行って食事に誘う。
 悪いなって顔をしながらお腹いっぱいまで食べ溜めする彼に呆れながら、早く夏が来ればいいのに、そうしたら毎日会えるのにとずっと思っていた。
 彼に会えない日は適当な勉強をしたりテレビを見たりして時間を潰していたけど、苦しかった。本当はそばにいたくて今すぐにでも飛んでいきたいのにとずっと思っていた。そうやって日々を過ごす僕は、確かに死んだような生活をしていた。
 僕の生活に彼が加わる。ただそれだけの変化なのに、僕はもう死んでなどいなかった。間違いようがなく生きていた。写真の中で笑っていた。兄の言葉を借りるなら、本当に、幸せそうに。

 照れくさくなって、彼の手から写真を叩き落した。「いて」「こんなの見なくても僕はここにいるでしょ」「いや、いい笑顔だなと思って」「うるさいよ」ぼすと胸を叩くと笑われた。髪を撫でた掌がただ優しい。
「これからも笑顔をあげるよ。恭弥が笑ってくれるとオレも嬉しいから」
 照れもせずそんなことを言う彼が、優しいから。その胸に顔を埋めて頷いておく。「バカップル」ぼそっとぼやいた兄の声は聞かなかったことにした。
 家族のことなんてどうでもよかったのに、もうそうも言っていられない。そういう状況が近づいているのだと思うと少し背中が寒くなるけど、僕を抱いている体温の持ち主と、僕を生かそうとしている兄が二人いる。そう思っただけで、だいぶ心が楽になった。
 逃げるだけ、逃げてきた。そろそろ僕も前を向かなくちゃ。
 そうして変えられるものがあるなら。彼と一緒にいられる世界があるのなら、そこへ行きたい。