恭弥と同じベッドで眠ることが常と化してきた部屋で目が覚めた。
　目をこすって時計を掴んで目の前に持ってくると、まだ六時。
　こんな時間に目が覚めたのは、カーテンの向こうから射し込む朝陽のせいだった。眩しいのもあるけど、夏の陽射しは痛いのだ。少し開いてたせいか運悪く顔に光が当たってて痛いし眩しいことこの上ない。閉めようと思ってベッドから抜け出すと、シャツの裾を引っぱられた。首を捻って振り返ると恭弥が寝ぼけ眼でこっちを見ていた。「…」ぼんやりした顔で呼ばれて苦笑いして顔を寄せてキスをする。
「まだ寝てていいよ。ほら、眠って」
　シャツの裾を握る手をゆっくり剥がして握ってやる。まだ半分寝てる恭弥はこくりと頷くと、オレの手を胸元に抱え込んで頬を寄せて目を閉じた。ゆっくり髪を撫でていると、十秒くらいで恭弥は眠りに落ちた。
　…しっかり手が握り込まれてたから、そろそろと手を外した。
　少し開いてるカーテンをきっちり閉めて、恭弥が寝てることを確認して部屋を出る。
　今日は芸術に疎いオレだって聞いたことのあるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートに行く日だ。
　世界最高峰のオーケストラだ。恭弥の次男のお兄さんがもらったけどいらないから行ってくるといいよなんて言って押しつけてきたS席のチケットがちょうど二枚。一体いくらするのか知らないけど、無駄にすることなんてできなかったオレは、恭弥と一緒にコンサートに行くことにした。
　開演は十九時。場所は六本木だから、時間には余裕を持って、夕方辺りから出かけないと。三十分くらい前に着いてた方がいいだろうなとか考えながら洗顔とかをすませてリビングに行って、冷房を入れた。朝が来たばかりなのにもう暑い。本当夏勘弁。
　ぼふとソファに腰かける。ガラスのテーブルに置いてある焼き菓子の袋を適当に一つつまんで封を破った。この間地下街で買った洋菓子の詰め合わせの中の一つ。さくさくしてるクッキーを食べながら、ぼけっと天井を見上げる。
　お兄さん達は、ちょっと癖はあるけど弟の恭弥のことを考えてくれていた。うん、それはよかった。けど、そのお兄さん達から見てもご両親っていうのはあまりいいように映っていないらしい。恭弥がひねくれたのはオレのせいだと思ってるって話だし。オレは恭弥の逃げどころであってそれ以上ではなかった、んだけど、最近はそうも言ってられないしな。ただの幼馴染で逃げどころでしたと言えたのは梅雨までの話だ。夏からは、オレ達の関係はそれ以上になってるから。
　ぼけっとしていると、ふいにルルルルと電話の鳴る音がした。リビングの壁に取りつけてある白い電話だ。今まで宅配が来たときくらいにしかに繋いだことがなかった電話。恭弥が寝てるんだったと思い出して慌てて駆け寄ってガチャンと受話器を取る。
「はい」
『やぁ好き者』
　…オレのことをこう呼ぶのは上のお兄さんの方か。
　こめかみに手をやってぐりぐりしつつ「何時だと思ってんですか。六時過ぎですよ」『起きてるじゃないか』「いや、たまたまです。恭弥まだ寝てますから」『それは都合がいい。適当なものに着替えて下に来てくれる。弟は置いて』「は？」『さっさとしてよね』「え、ちょ、」ブツッと通話が途切れた。ツーツーと音を出す受話器を見つめてガチャンと戻す。何なんだ今の。っていうか行かなきゃ駄目か？　これ。一応恭弥のお兄さんだし、オレは雲雀の人間には頭上がらないし。な。
　そろりと恭弥が寝てる部屋に戻る。電話の音では起きなかったみたいで、恭弥はまだ眠っていた。
　怒るかな。起きてオレがいなかったら怒るだろうな多分。いや絶対怒るってこれ。でもお兄さんの命令だし仕方ないじゃないか。
　適当なものと言われたとおりデニムとでっかいプリントのあるTシャツ一枚に着替えて、リビングの冷房を切ってメモに書置きを残した。『上のお兄さんに命令されたからちょっと出かけてくる』…我ながら正直な文面である。ペンを置いてところでまた電話が鳴った。慌てて取れば『遅い』と毒づかれて、「今から行きますってば」と返せば『早くして。待つの嫌いなんだ』と一方的に通話が切られる。
　溜息を吐いて部屋を出た。ごめんね恭弥と心の中で何度も謝りつつ。
　エレベータで一階まで行って玄関ロビーの外に出たらさっそく暑さに参った。まだ陽が出て間もないとはいえ、暑い。癖で襟元を引っぱってばたばたさせて、やめた。恭弥がいたら怒るや。いないんだけどさ。
　お兄さんの姿が見当たらない。視線を彷徨わせると、駐車場から勢いよく車が飛び出してきて目の前で急停車した。びっくりしていると窓が開いて、運転席にお兄さんがいた。「乗って」「え」「ほら早く」そろりと車に近づいて、埃一つないピカピカの高級車のドアを開ける。高級車の中は当たり前に高級で、レザー色のシートに恐る恐る腰かけてそろっとドアを閉めた。「半ドア。ちゃんと閉めて」「あ、はい」もっかいドアを開けて、覚悟してバンと閉める。シートベルトを締める前に遠慮なく車が発進したからちょっとシートに身体が埋もれた。
「あの、どこへ？」
「今日はコンサートに行くんだって聞いたから、調達」
「なんのですか？」
「…キミ、まさかデニムとTシャツでホールに行くつもりじゃないよね」
　呆れたような視線を投げられて空笑いする。「あの、オレそういうとこ行ったことがなくて…」「そうだろうね」吐息したお兄さんが「それじゃ格好がつかない。それなりのものを着てもらうよ」と拒否権なしに言って車のアクセルを踏み込んだ。
　沈黙が居心地悪くて、車に乗ってる間にした会話。そのいち。
「この車高そうですね」
「高かったかな。ポルシェだけど」
「ポルシェ…」
「まぁ一千万ちょっとじゃないの」
「いっせんまん……」
　会話そのに。
「あのー、お兄さんてどんな仕事してるんですか？　海外に会社があるんですよね」
「アメリカにね。でも失敗だった」
「え、失敗？　って？」
「想像はしてたけど、あの街は落ち着かないんだよ。顧客幅が広いし人種もたくさんいるからちょうどいいと思ったんだけど、その分落ち着きがない。日本に帰ってきたのは休暇なんだ」
「へ、へぇ…」
　会話そのさん。
「あの、スーツ暑くないですか…？」
「別に」
　会話そのよん。
「そういえばキミ」
「はい」
「今までで一番高い買い物って何。自分で払ったヤツで」
「え。えーっと、一万くらいしたデニムかな。多分」
「ふーん。一万なんて外出したらすぐ使っちゃうな」
「あはは…」
　結果総括。
　恭弥の金銭感覚の狂いは、どうやらお兄さんから来てるようだと思った。
　で、連れて行かれたのはメンズものの洋服店だった。まだ七時過ぎなんだけど店は開いていた。変だよなぁと首を捻りつつバンとポルシェのドアを閉めると、「ああ、開けさせたんだ」さらりとそう言ったお兄さんが車をロックして歩いて行く。
　…なんていうか、恭弥の将来とお兄さんの将来が少し心配である。いや、お兄さんは社会的に成功してる人なんだから心配する必要とかないんだけど。なんだろう、なんか心配だよほんと。お店って十時からだろ普通。三時間も前に開けろって、どんな権力があればできることなんだろう。
　自動ドアの前で足を止めたお兄さんがこっちを振り返るから、あづい中走って追いついた。Tシャツをばたばたさせてからやめる。恭弥怒るんだった。いないけど。
「雲雀様！　お待ちしておりました」
「悪いね、朝早くに。急用ができたんだ」
　営業スマイルが若干引きつってるオーナーさん？　から視線を外して、まだクーラーが入ったばかりの店内を見回した。
　そうだな、きれいめなものが揃ってる感じだ。オレでも着れそう。値段は、それなりかな。高いけど馬鹿高いことはない。いや、オレには買えない値段だけど。
「適当に選んであげるからちょっと着て」
「へ、わっ」
　腕を引っぱられて慌ててついていく。「キミ、普段のサイズは」「あ、Mですけど」歩きながら適当な服を取り上げたお兄さんがオレにそれを預けていく。「え、ちょっと」夏らしく襟元が大きく開いた黒の薄いジャケット、デニムの色合いのシャツ、黒の生地に薄くヒョウ柄の入ってるカーディガン、次々と服を預けられてすぐにいっぱいいっぱいになってきた。
「あの、お兄さん、こんなにはいらないですって。今日着る分とかあればもう十分ですから」
「…まぁいいか。それでも」
　手にしたベストをカシャンと戻して「着てみて。試着室あっちだから」「へ。あ、はい」従う以外ないオレはいっぱいいっぱいになりつつ広い試着室に行った。組み合わせがありすぎて悩んでいると、スラックスの黒のパンツを持ってきたお兄さんが放ってきた。慌ててキャッチする。ちょ、これ商品。
「あのー、どれとどれ着ればいいのか…」
「じゃあこれとこれ。にこれ」
　押しつけられた服を持って着替える。早くしないと急かされそうなのでなるべく急いだ。ドライのVネックのTシャツとヒョウ柄のカーディガン、下は淡いグレーのてらっとしてる生地のズボンに足を突っ込む。鏡に映った自分が眠そうだったので一つ頬を捻る。いて。
　カーテンを開けると、お兄さんにさっそく上から下まで見られた。「うん、合格。じゃあ次これとこれ。下はそれでいいから」「へーい」「サイズ合ってる？」「だいじょーぶです」ちょっと余ってる裾は靴に引っかかってくれるだろう。引きずりそうだったら折ればいいし。屈伸してみたけど特に問題なし。
　着てたものを脱いで、白い半袖のシャツを着てボタンをぞんざいにはめる。上から黒のジャケットを羽織ってカーテンを引くと、お兄さんがいなかった。探してみると、細いネクタイを持って戻ってきた。「これつけて」「え？　えーっと」ネクタイなんて結んだことがないオレは細長いのを持って首に回すくらいしかできなかった。「あの、できないんですけど…」「は？　ネクタイ結んだことないの」「ない、です」呆れたような顔をしたお兄さんがネクタイを取り上げて「じゃあ変更」と言ってそばを離れた。
　というか。なんでこんな着せ替え人形みたいになってんだオレ。
　今頃恭弥どうしてるだろう。まだ寝てるかな。だといいけど…オレがいないって分かったらどんな顔するかな。
　ぼけっとしているとお兄さんが戻ってきた。「ストールなら巻けるだろ」「あ、はい」くるっと巻いてみる。また上から下まで観察された。「まぁいいかな。じゃあ次」デニム色のシャツとグレーのベスト、黒のスラックスを預けられた。全部着替えろってことらしい。
　カーテンを閉めてはーと息を吐く。
　何してんだろオレ、なんて嘆きたくなりながら、今を突破する最善の道としてご所望の組み合わせで着替えをするオレであった。
　服に靴に帽子に鞄に。目が回るほどあれこれ言われてへろへろになりながらポルシェのシートに身体を埋めた頃にはすっかり暑さが本格的になっていた。何時だ、とついてるナビの時計を見ると、もう九時前になりつつあった。恭弥絶対起きてるなぁこれ。
　運転席に乗り込んだお兄さんが「そういえばキミ、何もつけないの？」「はい？」「アクセサリ」「ああ…」腕にも首にも何もつけてないのが目に留まったらしい。「オレお金ないんで」「今更だね。ない奴に払えとは言わないよ」「あはは」太っ腹すぎてもう笑うことくらいしかオレには残っていなかった。
　恭弥もそうだけど、もうちょっと節約した方がいいと思います雲雀家。お金が動くから経済が動くとか、分かってるけどさ。ある人が使うのがお金なんだけどさ。
　シートに埋もれたままでいると、「暑いの苦手なんだっけ」とこぼしたお兄さんがポルシェのエンジンをかけた。クーラーが入って、途端に涼しくなってくる。すごいな高級車。
　のそりと起き上がって、「なんかないと変ですかね」と言うとお兄さんがスーツの手を伸ばしてオレの首に触れた。
「キミは胸元の開いてる服も着るみたいだから、何かあった方がいいね。…どうせだから弟とお揃いにでもしてやったら」
　するりと言ってから口を噤んだお兄さんが流れる動作で車をバックさせて路上に出る。ちらりとお店を見れば、わざわざ外に出て頭を下げてるのオーナーさん？　が見えた。うん十万の会計だったから、朝早くから無理に出勤してお店開けただけの利益があったらいいんだけど。
　涼しくなってきた車内にほうと息を吐いて目を閉じる。冷たい風が気持ちいい。
「シルバーの適当なものを買おう」
「え」
　息を吐いたのも束の間、シルバーなんて言葉に戸惑った。「いや、そんな高いものオレには」「二つ買ってあげるよ。一つ弟にあげな」「はぁ…あの」「何」信号を左折して大通りに出たお兄さんに「恭弥のこと、怒ってたりしませんか」と訊くとちらりと視線を投げられた。「別に」とだけ言われる。それも、なんだかな。
　シートに埋もれて皮の肌触りを掌で確かめていると、「愛してるんだろ」と言われた。太陽の陽射しの眩しさに目を細めながら「愛してますよ」と言えば、「なら問題ないんじゃないの」なんて言うお兄さん。心が広いのか、関心がないのか。
「…ボクは愛なんてもの抱いたことがなくてね」
　ぼそりとした声に視線を隣に向けた。お兄さんは相変わらず前を向いたままだ。「親がいい加減結婚しろってうるさいんだけど、女なんて面倒くさいだけだし、相手できるほどボクも暇ではないし」「はぁ」「ボクも弟も下手に成功したから、人脈をさらに広げたいんだろ。そのために結婚させたいわけさ」「はぁ…大変ですね」「完全に他人事だね」「あはは」実感の湧かない話に笑うことしかできないでいると、お兄さんには呆れた顔をされた。
　一つ息を吐いたお兄さんの表情がなくなる。この人はだいたい読めない無表情を浮かべてることが多い。
「ねぇ、キスって気持ち悪くない？」
「え？　えー、そうですか？」
「相手の息遣いとか分かるだろ。そういうのって気持ち悪いと思う。ディープとか絶対無理」
「はぁ…えっと、すいません？」
「……別にキミ達のことを言ったんじゃないよ。キスしろって言ったら本当にするしさ。よくやるなって感心したよ。気持ち悪いとか微塵にも思わないから、弟とキスなんかできるんだろ」
「そう、ですね」
「ああ。キス以外も当たり前にしてるんだっけ」
「あ、ははは」
　空笑いすると、お兄さんはふうと息を吐いてハンドルを指で叩いた。
「キミは本当に庶民だね」
　ぼそっとした声にオレは苦笑いする。「仰るとおりです」「…少しは慣れたらいいじゃないか。弟に言えばなんだって買うと思うけど」ポルシェからの景色を眺めながら「特にほしいものとかないですし」と言うと「物欲に欠けるね」と返される。「それじゃキミがどうして笑うのかが分からない」と言われて視線を景色からお兄さんに向けた。首を傾げて考える。どうして笑うのか分からないって、そんなこと言われるのがどうしてか分からない。
　ハンドルを指で叩いたお兄さんが「人は無意味には笑わない。ボクなんかは笑顔なんて使い分けるものだと思ってる。商売用とかね。そういう笑い方しか知らないから、キミがどうしてへらへら笑うのか理解できない」…オレってへらへら笑ってんのかな。今度から気をつけてみよう。
　それで、言われたことを考えてみた。すぐに答えに辿り着く。
　オレが笑うのは、恭弥がいるからだ。恭弥の笑顔はオレの動力源。離れているときでもいつも想ってる。君が笑ってくれるようにと祈ってる。君が幸せになれますようにと願っている。
「恭弥の幸せが、オレの幸せです。恭弥が笑ってくれるならオレも笑える。オレが笑って恭弥が笑ってくれるなら、オレは笑います」
「…そう」
　それが愛か、と呟いたお兄さんに小さく笑う。「多分」なんて答えしか返せなかったけど、今のところそうだと信じている。
　それからアクセサリを扱ってる店に行って、まだ開店前なのに無理を言って開けてもらった。牛革の紐にシルバーの炎みたいなペンダントがついてるやつを二つ買った。あと紐の余分も。
　店先で長さを調節してもらって、鎖骨の少し下辺りにシルバーのペンダントが当たる。
　次にガードマンが立ってる読めないブランドの店に連れ込まれた。遠慮しまくったけど問答無用と引っぱり込まれて、触れるのを躊躇うくらいにピカピカきれいな腕時計をいくつか巻いては外され、Tシャツとデニムっていうかなり場違いな格好の自分が浮いてるなぁと実感した。…お兄さんがちゃんとした服着ろって言ったのが分かった気がする。コンサートホールに行ってスーツとかしっかりした格好の人ばかりの中デニムとTシャツ姿でいたら、浮くよなぁ絶対。うん。夜はきちっとしていこう。
「あのー」
「何」
「オレ千円とかの腕時計でいいですから…」
　一体いくらするのか知らないけど、値段なんか見ようとしないお兄さんがじろりとオレを睨んで「キミにはそれなりのものを身につけてもらうよ。雲雀の名前に泥がつかないようにしたいだろう？」「う」そうこられるとオレにはもう何も言えなかった。口を閉じると、気に入らないとばかりに時計を外したお兄さんが「もう少しパッとするデザインのものはないの」なんてスーツの店員さんを睨みつけた。雲雀って出したからか、店員さんが若干慌てながら新しい腕時計を持ってくる。
　なんかもうキラキラしてて、オレはできれば触れたくないようなものばかりだった。指紋つけたら怒られそうなんて思ってしまうオレとは別に、躊躇いもせず腕時計を手に取ったお兄さんがオレの腕に時計を巻いた。「…ブレゲの新作？」「はい、その通りでございます」若干狼狽してる店員さん。お兄さんが腕組みして「ねぇそれ気に入る？」と時計を指すから、そろりと自分の左腕を持ち上げた。
　…気に入る気に入らないって、オレはこんな高いものになんて言えばいいんだろ。
　文字盤は1から12の馴染みのある数字じゃなく、�気�らXIIの文字で表してあった。XIIの数字の下に日付けが出てて、VIの文字のあるべき場所に都市名でTOKYOと出てる。多分東京以外にもタイムゾーンの設定があるんだろう。パリとか。右側に太陽が顔を出してる場所があるけど、夜になると月が出てくるんじゃないかな。なんか他にも機能とかありそうだけど使いこなす自信がない。本当、オレには千円の安物の時計でいいのに。時間が分かれば時計なんてそれでいいのに。
　でもきれいだなぁと眺めていると、「気に入ったのか気に入らないのか」と棘のある声に急かされて首を竦めた。「えっと、きれいだと思います」「つまり？」「はい気に入りました」「じゃあそれにしよう」あっさり決定した。半分無理矢理だったけど。
　一体いくらするんだろうと思ったけど、金色のカードでの支払いだったし、おいくらになりますなんて言葉はなかった。「失礼します」と外された時計は丁寧にチェックされ磨かれてから専用のケースに収められて、お兄さんの手に渡って、それがオレの手に押しつけられる。
「あの、これ、一体いくらで」
「ポルシェよりは安いから安心しなよ」
　にやりと笑ったお兄さんに冷や汗さえ感じた。つまりいくらなんだろうと思ったけど、聞かない方がオレのためだ。
　店を出てマンションに戻った頃にはもう陽射しが強くて仕方なくて、荷物を抱えてエレベータの五階で降りた。お兄さんは「じゃあね」と残してエレベータの扉の向こうに消えた。下げていた頭を上げて、そろりと振り返る。しーんとしてる部屋がすごく怖い。
　恭弥どうしてるだろうか。怒ってるだろうか。
　ごくんと唾を飲み込んでそろりとチャイムを押した。ピンポーンと音がする。どうしよう締め出されたりしたら、とどきどきしながら待っていると、ばたばたとした足音と一緒に勢いよく扉が開かれた。息を切らせて飛び出した恭弥がオレを見てほっとした顔をする。
「ごめん。ただいま恭弥」
「どこ行ってたの」
「いや、お兄さんがさ、オレの普段着じゃコンサートは無理だって色々買ってくれて…あ、そうだ」
　荷物を一度下ろして、小さな袋を取り出す。オレがしてるものと同じネックレスを恭弥の首に巻いた。あとで長さを調節しないといけないけど、似合ってないってことはない。ただ恭弥にはちょっとごついかもな。「何これ」シルバーのペンダントを弾いた恭弥に「オレのとお揃いだよ」と言うと、オレの胸元に視線をやった恭弥がぷいと顔を背けた。その頬に唇を寄せる。「怒ってる？」と囁くと眉間に皺を寄せていた恭弥が「少しね」と言うから困ったなと笑った。弟の機嫌はキミが取りなよなんて、簡単に言ってくれるよお兄さんてば。
「…兄さんに、なんにもされてない？」
「されてないよ。なんだ、そんな心配してたの？」
「うるさい。僕は怒ってるんだよ」
「ごめんなさい、謝ります。ごめんなさい恭弥」
　手を合わせて平謝りすると、床を睨んでいた恭弥がはぁと息を吐いて踵を返した。バタンと閉じた扉に自動ロックがかかる。締め出されたかな、と思ってたらガチャンと扉が開いた。「さっさと入りなよ」ぶっきらぼうな言葉と斜め下目線で恭弥が大きく扉を開ける。
　どうやら入ってもいいらしい。よかった、ここはクーラーなんてないからじんわり暑くてもう体力が奪われて奪われて。
　荷物を抱えて部屋に入って、リビングのソファにどさっと下ろす。
　疲れた。暑かった。また夕方出ないといけないのに、少し眠らないと体力が戻らないかも。早く起きちゃったせいもあるなこれ。
　目をこすって「恭弥、オレ少し」寝るかも、と言おうとしたら背中側から抱き締められた。腰に回った腕に掌を添える。
「寂しかった」
　ぽつりとした小さな声に首を捻って振り返る。オレの背中に顔を埋めて、恭弥は動かない。
「ごめん恭弥。土下座する？」
「しなくていい」
　ぎゅっと抱き締められて、ふわりと香るシャンプーのにおいに身体が疼いた。恭弥の腕を剥がして遠慮なく抱き締める。息を詰まらせた恭弥の額にキスをして頬にもキスをして、唇にする前にしてもいいのかなと恭弥の顔色を窺った。答えは聞くまでもなかった。熱さえ感じさせる灰色の瞳で恭弥の方から唇を押しつけてきて、それに応えてキスをする。
　深いものになる前に両頬を挟んで一度顔を離した。まだ足りないって言いたそうな恭弥に「愛してる」と告げると灰色の瞳が揺れる。
「僕だけ？」
「お前だけ」
　あとは噛み付くように口を塞ぐキスをして、お互いの感覚が曖昧になるまで舌を絡め、その息遣いも吐息も全部一つになるくらいまで、ただ恭弥を堪能した。