朝目が覚めたときに起きればよかったんだと後悔しながら、『上のお兄さんに命令されたからちょっと出かけてくる』とメモに書置きを残して消えてしまったの帰りを待っていた。ようやく帰ってきた彼は疲れ気味で、首にはシルバーのネックレスをして、腕にはたくさん紙袋を抱えていた。兄の厚意か故意か知らないけど、今度会ったら一発殴ってやる。
 お揃いだよと、首に同じネックレスを巻かれて。牛皮の紐を調節して切って結び直して、鎖骨の間で冷たいシルバーのペンダントに触れる。
 あづいとうるさいからクーラーを全開にしてるせいか、僕には寒いくらいだった。コンサートホールもこんなものだろうから、上着はしっかり持っていこう。
「…これ何?」
 兄が妙なものを買ってないかと紙袋を引っくり返してチェックしていると、ブランド名の入ったケースを発見した。ソファでぐったりしてる彼が「ああ、腕時計。なんだっけ…ブレゲ、の新作?」「……それって高いんじゃないの」「え、やっぱ高いの? だってさぁ、雲雀の名前に泥塗りたくないだろとか脅されたし…」がばっと起き上がってまたソファに沈んだ彼が頭を抱えた。
 試しにぱかりとケースを開けてみた。説明書を出してブレゲの新作らしい腕時計を見つめる。
 さすがにこの値段になると、僕が無断で使う範囲を超える。ものはいいしデザインも素敵だけど、それだけ高い。日本への入荷なんて数点だけだろうし。
 まぁ、いいか。兄が何を考えてこんなにたくさん買ってきたのか知らないけど、雲雀の名前に泥を塗るなってことなんだろ。
 そのくせ、言うほど雲雀の名前にこだわってるわけじゃないってことも知ってる。兄二人は雲雀とは無関係なことをして二人とも成功した。雲雀の人間じゃなくても、あの人達は成功していた。いや、雲雀の名前があったから、なのかなやっぱり。雲雀の名に埋もれるものかと抵抗した結果が兄二人の今なのかもしれない。
 紙袋を全部チェックして、兄がもっと馬鹿な人だったら笑ってやったのにと唇を噛んだ。次男はファッションなんてこだわってないけど、長男はそれなりのセンスをしてる。どれも彼に似合いそうなものばかりチョイスして、ずるい。
 ずるいってなんだろうと自分に呆れながら服を適当に紙袋に戻して、ソファでだれてる彼のところへ行った。

 ぎし、とソファに膝をついて、彼の顔の横に腕をついて覆い被さる。まだだるそうな彼が薄目を開けて僕を見上げた。伸びた掌が僕の頬を滑る。
 今日は久しぶりにオーケストラを生で聴ける。それもと一緒に。次男の兄に今は感謝しよう。S席のチケットをいらないなんて、兄の感覚はどうかしてる。予約したって取れるか微妙な席なのに。
 時間には余裕を持って家を出ないとならない。六本木だから移動に少し時間がかかるし、それから、ディナーをどこか予約しないと。
「ねぇ、夕ご飯どうするの」
「え? あー、そうか。微妙な時間だもんなぁ」
 Tシャツの胸に腕をついて体重を預けた僕に、ちょっと苦しそうにしてる彼が思案顔になる。「どうしよう。恭弥どうしたい?」「…ディナーは嫌? ホテルとかの」「うへ…堅苦しいの無理。コンサートだけで手いっぱい」勘弁してと苦笑いした彼に頭を撫でられる。姿勢を崩して彼に寄りかかりながらTシャツの胸に頬を寄せた。「駄目なの?」「オレマナーとか知らないしさ」「別に気にしなくていいのに」「そういうわけにもいかないっしょ。ね、だから今日は勘弁して?」…そこまで言うのなら、今日はやめておこう。口を噤んで、じゃあご飯はどこにするべきかと考える。
 こういうときに適当な場所が思いつかない。考え込んでいると、髪を撫でていた手が首を伝って背中をなぞる。そうされるとむずむずした。じろと睨めば、彼は淡く笑ったところで。そういう笑顔をふいに見せられると、心臓がどきりと跳ねる。
「恭弥はさ、もうちょっと繊細なものの方が似合うと思う」
「…何が?」
「これ」
 もう片手でネックレスに触れた手がシルバーのペンダントを揺らした。「たとえばどんなもの」「え。あー、女性もの?」べしと頭を叩いてやると痛いって顔をされた。「似合わないよ」「いや似合う。絶対似合う」「似合わない」「似合うってば」勢いよくソファから起き上がった彼に抱き寄せられて、それ以上言えなかった。「絶対似合う」なんて耳元で囁かれたら、もう否定ができない。
 Tシャツの胸に顔を埋めて目を閉じる。「そうかな」とこぼすと「そうだよ」と返ってくる。
 たったそれだけの時間でも、至福だった。幸福だった。幸せだった。
 こんな時間を日常にするために。この時間を永遠にするために、僕は前を向かなくてはいけない。兄二人に助けられてばかりではいられない。作った借りはいずれ返さなくては。
 出かける前にブランデーケーキを食べて少しお腹を埋めてから、コンサートホールへ行くために電車を乗り継いだ。
 コンサートだったから、黒のスラックスのパンツと白い七分袖のシャツを着て、上にベストを着た。ネクタイをどうしようか迷ったけど、彼が見てて暑いっていうからやめておいた。夕方だけど一応日焼止めを塗っておく。彼は日焼けしても大丈夫らしいから、今日はまぁいいか。
 電車に揺られながら、視線だけで隣を窺う。だるそうにしてるは、グレーのサテン生地みたいなパンツとドライ加工の素材の淡いストライプが入ったVネックのTシャツ、襟元が大きく開いた二つボタンの黒いジャケットを着てる。ロールアップした袖は裏側がボーダーになっていて、いいアクセントで目を引く。あまり飾り気がないだけに、胸元で存在感を主張しているシルバーのペンダントと腕時計がいい意味で目立っていた。

「んー」
 なんだけど、どうにもだるそうにしてるのがいただけない。「もっとしゃんとして」「だってあづい…」「会場は涼しいよ」「うー」ぐでっと姿勢を崩した彼が僕の肩にもたれかかってくるから心臓が騒いだ。休日で混み合ってる電車なのに遠慮なんかしてない。「ちょっと、だらしない」「ごめ…」ぱたぱた自分を扇いでる手がばたっと膝に落ちて、それきり動かなくなった。
 そんなに暑いだろうか。額を伝った汗が見えたから、仕方なく鞄からハンカチを取り出して拭ってやる。癖のようにそうしてから視線を感じてじろりと睨んでやれば、目の前に立ってるおばさんがわざとらしく顔を逸らした。別に見てもいいけど、もう少し遠慮してほしい。
 メトロに乗って六本木の駅で降りて、重い足取りのの背中を押してタクシーを捕まえた。「サントリーホールまで」と言えば、すぐにドアが閉まる。「歩いたのに…」疲れ気味の彼の声にじろりと睨んでやれば首を竦められた。もう疲れてるくせに、これ以上疲れさせるわけにはいかない。
 すぐに着いて、現金で支払ってタクシーを降りた。携帯で時刻を確認すると六時二十分で、少し早く着きすぎたくらいだった。ぱたぱた自分を扇いでる彼を連れてチケットを渡して入場する。まだぱたぱた扇いでるから睨んでやると首を竦めて扇ぐ手がぱたりと止まった。
「…何か飲む? ドリンクコーナーあるから」
「んー」
 だるそうに歩き出す彼の背中をばしと叩く。せっかくの格好もそんなだるそうにしてたら台無しだ。「」「はーい、はいはい分かったから叩かないでよ」いくらか背筋を伸ばした彼と一緒に大きなシャンデリアの下を通り過ぎる。
 グラス一杯分の紅茶と、彼はシャンパンがいいとか言うからそれにした。なんでシャンパン、と視線を投げれば気分だからって感じで肩を竦められた。
 カウンターに背中を預けてグラスを傾ける彼の隣で冷たい紅茶を口に含む。まぁこんなものか、ホールのものは。
「オレさぁ、コンサートとか多分初めてだよ。しかもこんなちゃんとしたとこ」
「そう。僕は何度目だったかな。ウィーンのフィルハーモニーは久しぶりなんだ」
「ふーん?」
 すっと差し出されたグラスに視線を上げる。少し長くなった後ろ髪をくくってるせいか、それとも単純に服装のせいか、いつもよりかっこよく見えた。腕で存在を主張してる時計を見つめてからシャンパンのグラスに口をつける。炭酸は胃が膨らむからあまり好きじゃないけど、喉越しは嫌いじゃない。
 カウンターの向こうに人がいるっていうのに、彼はぎりぎりまで僕に顔を寄せて「キスしたくなる」なんて囁いて、すぐに離れた。グラスを持つ手が意味もなく震える。
 くそ、殴ってやりたい。余裕かまして、この、馬鹿
 なんだっけ、前もこんなことを思った気がする。…本当、彼の不意打ちは心臓に悪い。僕の不意打ちも、同じくらい彼の心臓を騒がせているといいけど。悔しいから。
 時間的にも余裕があったから、ゆっくりグラスを空にして、広いエントランスの階段を上がる。その頃には彼も外の暑さを忘れたようで、ようやくコンサートホールを見回したりして辺りを観察し始めた。
「世界最大級のパイプオルガンもあるんだよ、ここ」
「へー。でかいんだ」
「大きいね。詳しいことは忘れちゃったけど、天井まで届いてるんじゃなかったかな」
「へぇ」
 かつんと階段を上がりきって、まだ開場されてない扉の近くで壁に背中を預けた。彼は手すりに腕をかけてロビーを見下ろしている。
 広いロビーにはそれなりに人が集り始めていた。マホガニーと大理石の質感に、落ち着いたシャンデリアが大人の雰囲気を出している。こういうところも嫌いではない。
 ぼんやり彼の背中を見つめていると、振り返った彼が「恭弥おいで」と言う。呼ばれるままに壁際を離れてそばに行く。「みんなちゃんとした格好だね」「そりゃあね」「ドレスの人もいるし。スーツ暑くないのかなぁあの人達」「…そんなこと考えてもしょうがないだろ」「まーね」手すりに手をかけると、掌を重ねられた。心臓がとくとくと鼓動しているのを感じる。彼を意識して、少し騒いでいるようだった。
 やわらかく微笑んだ彼が「今日のオレ変じゃない?」と言うから「変じゃないよ。似合ってる」と返せば彼が笑った。照れくさいってふうに。
 ああキスしたいと思いながら堪えて、重ねられた掌だけを思って視線をロビーに投げる。普段よりかっこいい彼を見つめてたらキスしたくなってしまう。
「ね、ちょっとトイレ」
 それで、なぜか手を引かれる。「はぁ?」一人で行けばいいのになぜか僕まで連れ込まれて、他に誰もいないそこでいきなりキスされた。唇を塞ぐ加減のないキスと強く抱き寄せる腕に息が苦しくなる。
「…っ、」
 誰か来たら、まずいのに。誰も来ないなんて限らないのに。最初こそ抵抗してどんと胸を叩いてやめろと言ってみたけど、彼はやめない。やめるどこかますます深くまで求めてくる。漏れる吐息と粘着質な水音がBGMのオーケストラの音楽と混じって鼓膜を刺激する。
 トイレって、口実か。キスするための。遅れてそんなことに気付きながら、開場案内のアナウンスが流れるまでずっとキスしていた。最初の十秒が過ぎたらもう抵抗する気なんてなくなっていた。
「は、」
 ようやく解放されて息を吐く。「いきなり、やめてよね」「ごめん」僕の髪を撫でるは笑っている。ちっとも反省してない顔だ。飲み下せなかった唾液をこぼしそうになった口元を拳で拭って、ついでに彼の鳩尾に一発キツいのを見舞っておいた。げほと咳き込んだ彼から離れて手を洗う。全く、いらないところで身体を暑くしてしまった。のせいだ。
「きょ、や、痛い」
「痛くしたんだろ。ほら行くよ、もう開場した」
「うーい」
 涙目の彼より先に歩いて、二階席の一番前に行く。チケットを確かめて席に腰かけてから、パイプオルガンを見上げた。やっぱり大きい。
 隣に腰かけた彼はまだ鳩尾をさすっていたけど、僕は悪くない。急にあんなキスしてくる君が悪い。
 夕ご飯は結局カフェになった。適当な場所が思いつかなくて、スタバにした。
 彼は適当なホットサンド、僕はキッシュとスコーンをオーダー。
 ひとしきりオーケストラの感想を言い合ったから話題が尽きたところで、都会の喧騒が少し遠い空気の中ブルーベリークリームのスコーンを手で割って口に運ぶ。おいしいけど甘い。もう少し甘くないのもほしい。
 ずぞ、とコーヒー味のフラペチーノをすすったが「帰りどこか開いてるアクセサリのお店ってあるかな」と言うから彼の腕時計で時間を確認した。「閉まってるかな。十時過ぎたし」「そっか。じゃあまた今度だなぁ」「…何か買いたいのがあるの?」「ん」暑さで気だるそうに伸びた手が僕の首から胸元へ下りた。指先でネックレスのペンダントに触れて「もっと恭弥に似合うもの探したいなって思ったから」なんて言って彼は笑う。
 ぷいと顔を背けてスコーンをかじる。手で割るのがめんどくさくなってきたからもうかじってしまおう。
 僕は、これでもいいのだけど。君とお揃いなんだし。でも君がこっちの方が似合うよって笑ってくれるものがあるなら、そっちの方がいい。
 外にある席には他に人もまばらで、そんな中男二人で食事してるっていうのは目に留まるんだろう。店内にいる店員がちらちらこっちを見てるのが分かる。まぁただ食事してるのなら特別視されることもないんだろうけど、わざわざ椅子を引きずってきて向かいじゃなく隣で食べてるってことが目立つのを手伝ってるのかもしれない。
「あーんして」
 それで、自重しない僕も僕だった。コンサートホールでのキスの仕返しがしたくてさっきから甘えている。椅子を引きずって隣に座ったのもそうだし、暑さでだるそうな彼に催促するのもそうだ。
 小さく開いた口にスコーンを押し込む。だるそうな彼のホットサンドは半分だけ食べられて放置されていた。「ねぇ、ちゃんと食べてよ」「ごめ。暑いせい…」背もたれに背中を預けてだらりとしてる彼に一つ息を吐く。これじゃあ夏を終えるまでにまた体重が落ちてしまう勢いだ。
 ホットサンドを手に取って、「ほら口開けて」と言えば、気だるそうに顔を持ち上げた彼が一応口を開ける。もそもそとゆっくりしか食べないから、その間僕は頬杖をついてを眺めた。スコーンをかじりつつ彼の食事を促す。こういう時間も嫌いじゃないけど、通りがかる人と店員の視線が鬱陶しい。
 ごくん、と喉仏が上下するのが見えて、フラペチーノをすすった彼が「なんか見られてるね」とこぼすから「見せておけばいいだろ」と返した。残り三分の一になったホットサンドを彼の口に運ぶ。乾いている唇を湿らせるように舌が覗いて、さっきの仕返しをしてやってるつもりなのに、やり返されてる気分になった。
 夏の空気のせいか、それとも控えめな照明の光のせいか。いつもよりがきれいに見える。
 僕の手からホットサンドを少しずつ食べているに、僕の方が先にスコーンを食べ終えてキッシュも片付けてしまった。マンゴーのフラペチーノをすすりながら、本当に気だるそうにしてる彼に「大丈夫?」と声をかける。伏せがちの瞼の睫毛は案外長い。顔を上げないまま「だいじょーぶ」と言ってみせるけど、その笑った顔は無理矢理感が否めなかった。
 今日は午前中を兄に、午後を僕に連れ回されて、疲れているんだろう。帰ったら先にお風呂に入ってもらって、大人しく寝てもらおう。
「もうちょっと。頑張って」
「んー」
 もそもそホットサンドを頬張った彼は、最後の一欠けらを口に押し込んだ。フラペチーノをすすって、ほとんど飲み込むみたいにして食事を終える。
 フラペチーノだけ持って食器とかを片付けてスタバを出た。だるそうに歩く彼に合わせてゆっくり夏の夜の中を行く。
 確かに、足は重くなる。夏の空気は湿気を含むと本当にむっとしていて、海外の夏が羨ましい。
 メトロに乗って恵比寿で乗り換え、山手線で東京駅へ。バスはもうなかったからタクシーを使ってマンションまで帰った。
 部屋のクーラーを全開にする。どさっとソファに座り込んだに「すぐ涼しくなるよ」と声をかけつつキッチンへ行った。冷蔵庫のアクエリアスを持って行くと、「あんがと」とこぼして苦しそうに笑った彼がボトルを仰いで中身を飲み始める。
 意識して視線を外して、着替えるために部屋に戻った。さすがに暑い。部屋着の白いシャツとジャージに着替えて戻ると、少し涼しくなってきた部屋で彼がだれていた。「、先着替えたら」「んー…」へろりと片手が上がってすぐにソファに落ちる。どうやらもう体力が尽きたらしい。
 一つ吐息して、彼の部屋着を持ってきた。黒いシャツとジャージを投げる。「ほら着替えて」「んー」のろりとした手つきでジャケットを脱いだ彼が、のろのろとTシャツから腕を抜く。視線を逸らしてキッチンに行って冷蔵庫を開けた。フラペチーノのトールを飲んだのに、まだ喉が渇く。それだけ暑くて身体の水分が持ってかれてるってことか。
 アイスティーをコップに注いで飲み干した。ぎしとソファの軋む音がして、ばさりと音が続く。振り返らないようにしながらコップに二杯目のアイスティーを注いだ。
 どさっとソファに座り込む音がしたから、ちらりと視線をやる。どうやら着替えてくれたようだ。
「シャワー浴びて寝たら」
「んー。そうする」
 のそりと起き上がった彼がのろのろと部屋に向かう。そこでリビングにある電話が鳴った。グラス片手に受話器を持ち上げると、『やぁ愚弟』とか声が聞こえた。さっそく切ってやると、次は携帯にかかってきた。舌打ちして出てやる。「よくも僕の勝手に連れ回してくれたね愚兄」『感謝して欲しいところだよ。キミじゃブレゲの腕時計なんて買えなかったろ、愚弟』せせら笑う声にぐっと唇を噛む。
「嫌味だけなら切る」
『まぁ待ちなよ。朗報だ』
「…何。早くして」
『馬鹿な親が二名、帰国したようだよ。ボクの文書さっそく読んだようでね。明日にはここに帰ってくる』
 …それのどこが朗報だっていうんだろう。兄がそこにいたら殴ってやりたい。「だから何」『彼を紹介しようって言ってるんだ』「紹介するも何も、とっくに知ってるだろ?」『お前の恋人だとは知らない』あっさり口にされた言葉に束の間思考が停止する。
「……あのさ。たとえば素直にそう言ったとして、あの人達が納得すると思う?」
『思わないね』
「…もう切るよ」
 会話するのが鬱陶しくなってきてピッと通話を切ってやった。そしたらまたリビングの電話が鳴る。電源を引っこ抜いてやろうかと苛々しながら受話器を取って「しつこい」と言えば『話の途中で切る方が悪い』とか言われる。ああ本当こいつ殴りたい。
『ボクも弟も自分のためにしか生きられない』
「…は? 何急に」
『いいから聞きな。ボクも絵を描いてる弟も自分勝手なんだ。自分にしか愛着がないし人を愛したこともない。ボクらはね、社会的にどれだけ成功していて立場が確立していても、その程度の人間なんだよ』
 …兄が何を言いたいのか理解できなかった。
 自分で起こした会社が成功した長男と、自分の描いた絵が世界に広まった次男。社会的に成功した人間が、自分のことをその程度だという。これも嫌味だろうかと拳を握ると、受話器の向こうで兄は言った。『だけどお前は違う。平均的に能力があって、抜きん出たものがなかった代わりに、人を愛することを知ってる』と。『ボクらにはどうやってもそれができない』と続けられた声に、何か言おうと思っていたのに何も言えなくなった。
『愛することを貫け。ボクらにできないことをお前はやってる。それで幸せなら、一番じゃないか』
「……そう、かな」
 確かに、彼がいれば僕はとても幸せだ。彼と手を繋いだりキスしたりするのが好きだ。体温を感じれば彼を意識した心臓の鼓動は早くなったり大きくなったりするし、囁き声に顔が熱くなったりする。僕は、のことがたまらなく好きで、大好きで、愛している。
 だけど。それを貫いて。それで、それだけで、いいはずはないのに。
『…一つ言っておいてあげようか。彼言ってたよ。お前の幸せが自分の幸せだって。お前が笑うんなら自分も笑えるし、自分が笑ってお前が笑うなら、どんなときだって笑うんだってさ』
 ほんと、馬鹿だよね。そうこぼして兄は黙った。
 とた、と廊下で止まった足音に縋るように振り返る。だるそうな顔で首を傾げたが口ぱくで電話? と受話器を示す。浅く頷いて、こっちに来いと壁を叩いた。だるそうに歩いてきたに寄りかかる。緩く僕を抱いて、彼の手が僕の頭を撫でた。何度も、何度でも。
 僕がいない間も、兄に振り回されてる間も、僕のことが頭の中にあるんだ。僕がそうやってのことを考えて生きてきたように。
 今兄はどこにいるだろう。六階の自室だろうか。次男の兄は、四階の散らかった部屋でまた絵を描いてるんだろうか。
 想像する二人はそれぞれ一人で、長男は受話器を持って夜の景色を見下ろしていて、次男はキャンパスに向かって一人黙々と絵を描いている。
 二人には恋人もいなければ特定の友達のようなものも存在しない。二人は孤独だ。それぞれ自分の道を突き進んだ結果、いらないものが排除されたような自分だけが立つ場所が残った。
 僕も同じようなものだったから知っていた。僕らは孤独だ。そして、それを振り切ったのは、僕だけだ。
 片手で彼の背中に腕を回してぎゅっと抱き締める。
『明日。リムジン呼んであるから、夜はマンダリン・オリエンタルでディナーだって彼にも言っておいてね』
「それ、兄さん達は?」
『行くよ。久しぶりに家族全員で食事だ。プラス彼だけど』
 じゃあね、と残して通話は途切れた。
 ツーツーと音を漏らす受話器を重い手つきでガチャンと戻す。「お兄さん?」聞こえた疑問文に首肯してから、彼のシャツに顔を埋めた。
 久しぶりに家族全員と、彼とで、食事。ホテルのディナー。どんな顔すればいいだろう。どんなことを言えばいいだろう。僕は親が嫌いだけど、それ以上に嫌だ。怖いから。期待に応えなければと必死になってた頃のことや、どれだけ努力を重ねても結局は認められなかったことを思い出してしまうから。だから嫌だ。本当は行きたくない。だけど兄さんが、来いって言う。そこで話をつけるんだと。
「恭弥」
 呼ばれて視線を上げた。頭を撫でられる。困った顔をしてる彼が「どしたの。なんで泣きそうなの」と言うから、背伸びしてキスをした。唇を甘く噛む。目を細めた彼が僕の頬を撫でた。一度顔を離してもう一度口付けて、深い方のキスをする。
 カチン、とリビングの時計が時間を刻む音が耳に入るまでずっとキスしていた。彼の首に腕を回して求め続けた。
 応える舌が僕の舌を絡め取る。もうお互いの境界が曖昧になるくらい温度が同じになっていた。
 カチン、と針の進む音がして、唇が離れる。引いた銀糸はやがて途切れて消えた。
「シャワー、でしょう?」
「うん」
「僕も一緒に入る」
「いいけど…恭弥大丈夫?」
「大丈夫」
 目元を拭う指を握って離した。泣いてる場合じゃないから唇を引き結んで彼の腕を抜け出る。
 戦うんだって決めたじゃないか。逃げてばかりじゃいられないって思ったじゃないか。だから大丈夫だ。一人だったら、独りだったら泣いてしまうかもしれない。だけど明日は間違っても独りじゃない。たとえ兄達が謀ったことだとしても、僕の隣には絶対に、がいるのだから。