どのくらい久しぶりに会ったのか分からない両親は、当たり障りのない会話から兄達の近状について訊ね、最後に母親が「あなたは相変わらずのようね、恭弥」とぽつりとこぼしたのを聞いた。反応に困る言葉だったからスルーして、代わりにナイフとフォークを反対に持ったに「それ反対」と指摘すれば「あ、」と漏らして彼が銀食器を持ち替える。
 せっかくの料理だけど、あまり食が進まない。
 兄二人は平然とした顔で中トロのあぶりだったかを片付けたし、だって慣れないコース料理に頑張っているのに。まだ肝心な話なんて何もしていないのに、両親がそこにいるというだけで、僕の胃だか腸だかはキリキリと何かに締めつけられているようだった。
「恭弥」
 教えたとおりナイフとフォークを右側に揃えた彼が小さな声で僕を呼んだ。食べなきゃ、という意味だ。止まっていた手を動かして、脂っこいと感じるマグロを口に運ぶ。まずいはずもないのに、おいしいと感じる舌が今はない。
 と二人でウィーンのフィルハーモニーの演奏を聴いた、あのときの空気が懐かしい。
 誰よりも好きな人と、指を絡めて手を握り合って、ずっとオーケストラの演奏を聴いていた。世界最高峰の音楽を聴きながら、他の一切を忘れて、隣にいる、愛してる人のことだけを想える時間。
 遅い手つきでマグロにフォークを突き刺すと、小指で控えめに光を反射している、今日買ったばかりの指輪が目に留まった。
 大丈夫だと、隣にいる彼に言われている気がした。
「ところで、この文書が何なのか。説明してくれるね」
 それまで黙っていた父親の方がスーツの内側から見憶えのある封筒を取り出した。キリキリとお腹が痛くなってくる。それを意識して殺す。
 声は僕ではなく兄達に向けられていた。両親は僕と目を合わせようともしない。知ってたけどさ。
 ワイングラスを傾けていた兄が「ボクが送ったものだけど」と言えば、父親の目が長男に向く。その視線を受けても兄は怯むこともなく平然とした顔で言葉を紡ぐ。
「そこに書いた通りだよ。は雲雀恭弥にとって必要不可欠な存在だ。昔からそうだった。あなた達も理解していると思ったのだけど」
 重苦しい沈黙が訪れた。両親は徹底して彼の存在自体を無視していた。この場に入ったときから彼もその空気を感じていたようで、何も余分なことは喋らず、僕にテーブルマナーを訊くときに小さな声を発するのみだった。その彼を、両親が初めて視界に入れた。表情の抜け落ちた、重苦しい空気のままで。
 最後のマグロを一口で食べて、水で飲み下した。お腹が痛い。
「私達はね。恭弥が道を外れたのは彼のせいだと思っている」
 重苦しい空気のままの重苦しい声の父親に、長男は呆れたような息を吐いて目を閉じた。代わりに口を開いたのは次男の兄で、普段はぼさぼさにしてる髪をワックスで固めて後ろで一つにくくっている。そうしていると普段のだらしない散らかった部屋の兄とは別人のようだ。顔だけはいいんだよな、僕ら兄弟って。
「彼のせいではないよ。そんなこと、もう解ってると思っていた」
 静かな兄の言葉に、父親が眉を顰める。母親も同様の顔をした。
 お腹が、痛い。
「解る? どう解れと言うんだお前は」
「そうよ。恭弥は雲雀家の三男坊。今まで幼馴染だからと甘く見ていたけれど、成人を控えているんだもの。恭弥にはしっかりしてもらわないと困るのよ」
 話の中心は、僕と、彼のことのはずだった。けど両親がさっきから見ているのは兄の方ばかりで、僕のことなんてちっとも見ようとしない。僕の名前を出して僕のことを語りながら、僕は置いてけぼりを食らう。
 ぐっと膝の上で拳を握る。さっきからお腹が痛くて仕方がない。
 唇を引き結んで白いテーブルクロスを睨みつけて我慢していたのに、精一杯強がっていたのに、僕はやっぱり弱いようだった。
 堪えきれなかった雫が落ちて、涙がこぼれた。照明のぐあいのせいか、きらりと光って落ちて、クロスの上で小さい珠として光り続ける。
 そのとき、重苦しい空気を切り裂くようにばんと大きな音がして大きく身体が震えた。両親を恐れた身体はすっかり畏縮していた。
 静かだった空間に突然響いた物音は、彼がテーブルに手をついて席を立った音だった。
 それまで静かだった彼の突然の行動に家族の声がなくなり、一斉に視線を受けても怯んだ顔を見せないが、なんだか眩しかった。
「オレのことはどう言ってくれても構いません。だけど」
 すっと伸びた手が僕の頬を伝って、目尻を指先が撫でた。
「だけど、恭弥を泣かせないでくれませんか」
 彼がそう言ったことで、両親は初めて僕を見たようだった。やんわり笑顔を浮かべて涙を拭う彼に、縋りつきたくなった。必死でそれを堪えて拳を握り続ける。掌に爪が食い込んで痛みを感じるくらいに。「大丈夫だから」と絞り出した声は小さく、震えていた。大丈夫だと言ったのに涙は余計に溢れてきてぽろぽろとこぼれてしまって、全然、大丈夫じゃなかった。
 抱き締めてほしかった。苦しいくらいの抱擁で、痛んだお腹も泣き出しそうな心もあたためてほしかった。
 縋るものかと思っていたのに、結局縋ってしまった。白いシャツの裾を掴んでしまった。は僕の求めに応えて緩く抱き締めてくれた。その背中に腕を回してしがみついて、皺になるくらいきつくシャツを握って、涙をどうにか誤魔化そうと努力する。
 に抱き締められただけなのに、キリキリ痛んでいたお腹が少し楽になる。
「…キミ達は本当に、困った奴らだ」
 ぼそっとそう言った兄の声が聞こえた。「まぁ、そんなこと今更だね」とこぼしたもう一人の兄の声も聞こえた。
 そして、この場で大した発言もできない僕に代わって、兄は言った。
「単刀直入に言うよ。彼らの関係を認めて欲しい」
 ディナーを終えた頃にはもう九時が近かった。
 なぜか部屋のキー投げられて、今日はそこで過ごせと言われて、言われるままにカードの番号の部屋にやって来てしまった。
 ぼんやりしてる僕とは別に、広い部屋の中を歩き回っているは元気だ。ホテル内が快適な温度だからだろう。外に出たら途端にだらしなくなるに決まってる。「すっげ、スイートだって。オレ初めて入った」とクッションがたくさん置いてあるソファにぼふと腰かけた。立ち尽くす僕に気付くと手を差し伸べて「恭弥おいで」と言うから、のろのろ歩いて行ってその手に自分の手を重ねてソファに膝をついた。伸びた腕に苦しいくらいに抱き締められて、体重を預けてカードキーを落とす。
「ねぇ」
「ん」
「僕、全然駄目だった。やっぱり怖いみたい」
「うん。分かってる」
「…どうしたら。いいのかな」
 シルバーのペンダントが顔に当たる。それは冷たくなくて、すっかり彼の体温と同じ温度になっていた。
 僕の髪をやわらかく撫でながら「いつもと同じでいいと思うよ」なんて声が聞こえたから、視線を上げる。「強がって背伸びしてたのが今までだろ。ならさ、素直になってみようよ。オレにそうするみたいに」「無理。できない」「だいじょーぶだよ。オレと一緒なら大丈夫」ね、と笑いかけられて口ごもってしまうのは、その笑顔の理由を思い出したからだ。
 僕に笑ってほしいからは笑う。が笑うから、僕も笑える。
「また、泣くかもよ」
「そしたらまた抱き締めるよ」
「…うん」
 抱擁の腕が緩んで、立ち上がった彼が僕の手を引いてベッドルームに歩き出した。キングサイズのベッドが置いてある部屋の外側に面した壁はその半分くらいが窓で、夜の東京を一望できた。光で溢れた夜。それを見下ろせる。これだけの景色はそう見られるものでもないだろう。
 部屋の一番奥に置いてあるソファに腰かけたに手を引かれ、ソファに膝をつく。彼に後ろから抱えられるような形で座って、足を崩した。
 抱き締められて、その体温にひどく安心して、すっかり腹痛を感じなくなった自分の身体。我ながら現金だなと思って小さく笑う。
「きれいだ。すごい」
「…そうだね」
「こないだのバーもよかったけど、他に人もいたし。今は二人きりでこの景色独占か。ね、きれいだね」
「うん」
「…でさ、やっぱ高いんだろうなこの部屋…スイートだもんなぁ」
「まぁ、それなりじゃないの。まだ上のランクの部屋、たくさんあるみたいだし」
「うへ」
 変な声を出した彼に思わず笑った。振り返ってキスをする。の首に腕を回して唇を離した。至近距離で見つめ合って「ねぇ」と囁く。の瞳に夜景の光がチカチカ光っていてとてもきれいだ。
「こんないいロケーション、滅多にないよ?」
 囁きながら、彼のワイシャツのボタンに手をかけた。「でも恭弥」と困った顔の彼の首筋に唇を寄せてゆっくり舌で舐め上げた。知ってる肌の味がする。噛みついて、分かりやすいところに痕を残して、僕のものだって印をつけてやりたいくらいだ。
 親が放ってきた鍵の部屋。ここに何かしら仕掛けてあっても不思議じゃない。たとえば盗聴器とか、監視カメラとか、そういうもので僕らを見張ってる可能性は十分ある。いや、この場合、それが当然だと思うべきか。

 男なのに男を愛した。それに理由なんてない。ただ、惹かれ合った。それが答えだ。
 騙されたわけでもなく、利用されているわけでもない。口で言っても両親に伝わるはずがない。雲雀家の立場を狙う人間はごまんといる。二人にはのことがそういう類の人に見えているのだ。野心に燃える者、あるいは道化師に。
 だけど違う。は違う。
 確かに出会ったのは偶然だ。今思えばできすぎていると思う偶然で僕らは巡り合った。立場なんて越えて、境遇なんて越えて、必然のように、出会うべくして出会った。
 僕らがこうして愛し合うのに、疑う理由なんて、一つもない。
 愛する以外に道があったなんて思えない。それくらい、好きなんだ。

 夜の夜景を映してキラキラしているの瞳がとてもきれいだ。宝石みたい。
 吸い寄せられるように顔を寄せて瞼の上にキスをした。「恭弥」と戸惑っている声は、ここに僕らを監視する類の何かがあることを考慮し、これ以上はマズいんじゃ、と暗に言っている。
 でもね、君が言ったんだ。素直になってみようって。
 君といるときの僕を曝け出せというのなら、これは何も間違っちゃいない。

 媚びるように名前を呼んで耳たぶを甘噛みする。唇で食んで舌で撫でる。顔を離せば、キスをされた。情熱のキス。夜景を映して煌めいていた瞳は今は動物的に獰猛な光を宿して僕を見つめている。それだけで全身が疼く。めちゃくちゃにしてほしい、なんて望んでしまう。
 恥ずかしいなんて思う心は、とっくの昔にどこかに置いてきて、そのままだ。
「恭弥」
 いつもより低い囁き声に頭がじんと痺れてくる。
 パーカーの内側にするりと手が滑り込んでくる。彼の舌を求めて貪りながらパーカーの袖から腕を抜いた。脱ぎながらも求め合う。そのときにはこの部屋にどんな仕掛けがあろうがお互いにもう気にしない、ということで暗黙の了解が成立していた。
 盗聴器だろうが監視カメラだろうが、何でも来いだ。今更隠したってどうにもならないのなら、曝け出す以外、できることなんてもうありはしない。
 キングサイズのベッドの上で身体を重ねる行為を繰り返す。何度も、何度でも。
 東京の夜景を背景に、照明を落とした部屋はベッドライトだけが光源だった。淡い橙色の光に照らされるの身体はいつもよりもきれいで、バイトで酷使された肉体は無駄がなくて、僕と違って筋肉がある。
 その腕に抱かれて、何度目か分からない悲鳴を上げた。ぐっと強く擦られて腰が弾ける。カタカタと腿が痙攣を起こし始めていた。膝を抱えているのもいい加減辛い。
 またイク。それが分かってるように彼の律動は激しさを増した。腰を掴まれて、何度でも感じる場所を擦られる。
「あッ! ゃ、…っ!」
「きょーや」
 低い声に呼ばれて、ぐっと深くまで貫かれて、無理な体勢でキスをした。「ん、ふ…っ」これは結構苦しいんだけど、舌を絡める。繋がっているのに、さらに繋がりを求める。彼の体温を欲する。いくらでもほしい。もっとほしい。もっと。
 絡まっていた舌がするりと逃げて、唇が離れた。瞬間、腰を打ちつけられて嬌声を上げて頭を振る。そこは駄目だと首を振るのに、何度も同じ場所を突き上げられて、目の前がちかちかした。
「アぁ、んっ…ダメ…っ! っ、む、り…ッ、も、ァ…く、ンっ…アぁっ!」
 激しい律動の最後に強く奥を抉られて、悲鳴を上げてイッた。どろりと溢れた蜜が自分を汚していくのが分かる。それでもなお離すものかと、僕の内側はいやらしく収縮して彼の精を求めた。眉を顰めて耐える顔をしていた彼が堪えきれずに僕の中に欲望を吐き出した。その熱にひくんと弾けて震えた腰がベッドに沈む。膝を抱えているのも限界で、力の入らなくなった腕をベッドに投げ出す。
 は、は、と引きつるような呼吸を繰り返しながら、ちかちかしてる視界でを見つめた。首から胸へと伝っていった汗が揺れる視界の中できらりと光って、伸びた手が僕の前髪を払う。「恭弥」と呼ばれて「」と呼び返して、震える指先でその手を求めた。指を絡めて手を握り合い、二人で笑う。
 できすぎた東京の夜を背景に、広いベッドでセックスして。こんなにベッドを汚して、自分も汚して、彼も汚して。
 は、と息をこぼして目を閉じる。深く大きくを意識しながら、まだ繋がってる彼の温度を意識して噛み締める。苦しいけど、痛いこともあるけど、それが繋がっているから感じられるものだというのなら、受け入れる。受け止める。
 僕の身体を慈しむように触れる掌が愛しい。
「かわいい恭弥」
「…かわいく、ない。嬉しく、ない」
「そっか」
 笑った彼の指胸の突起をつまんだ。ぴくんと身体が反応する。「まだ、ダメ。もうちょっと待って」「えー」くすくすとした笑い声を漏らした彼に瞼を押し上げて睨んでやれば、東京のネオン群を背景に、ベッドライトに照らされて不敵に微笑んでいるがいる。
「今日の恭弥エロいよ。犯したくなる」
 馬鹿じゃないの、と言おうとして指で強く刺激されて「あッ」と声を上げてからきっと睨みつけた。
 くそ、なんだよもう、犯したくなるって。馬鹿にして。馬鹿に…してるつもり、ないのかもしれないけど。
 あっさり胸を離れた手は緩く反応しかけていた僕の半身に触れた。その指と掌が熱くてぴくんと身体が跳ねる。「まだ…っ、ねぇ、まだ、待って」「…ごめん。無理だ」そうこぼした彼から笑顔が削げ落ちる。は人から狼へと変わってしまった。ころんと簡単に転がされて、片足を抱えられ、熱くて硬いのに貫かれて吐息と声をこぼす。
 熱い。暑い。
 どこで勉強してくるのか知らないけど、のテクニック、確実に上達してる気がする。僕のいいところも憶えてるみたいだし、この分だと今日は意識を飛ばすな。
「ん…ッ、あ、そこだめ…ッ! あァ、やだ、
 、と何度も彼の名を呼ぶ。その度に激しくなっていく行為は僕の求めに応えているみたいだ。
 身体が快楽によがる。何度も腰が跳ねる。ベッドの軋む音と水っぽく粘着質な音が鼓膜を絶えず刺激し続ける。
 強い衝撃は神経を伝達して脳に快感を伝えた。自分の口から女のような嬌声が上がる。ああ、イッた。
 今度は四つん這いの姿勢で後ろから貫かれ続けて、またイッた。今日だけでこれで何度目だ。
 快感が強すぎて涙がこぼれてきた。
 気持ちがよくてどうにかなりそうだ。
 その辺りで意識が曖昧になってきて、四つん這いの体勢が苦しくなって、ベッドに肩と頬を押しつけて、腰を突き出した格好で、僕はさらにに抱かれ続けた。
 繰り返し繰り返し身体を重ね続けて、限界が訪れて、意識を飛ばした。次に気がついたときには東京の夜景は朝焼けへと変わっていて、随分長く寝てたらしいと気付いた。
 ひたすらダルい身体で緩く頭を振って何度も瞬きを繰り返して、まだぼやっとした頭のまま、隣を見てみる。はバスローブ姿だった。確認すれば、自分の方もそうだった。きっと彼はあれからシャワーを浴びたんだろう。僕にも着せてくれたんだろうか。
 自分の身体を見下ろして、のそりとベッドから下りた。ちょっと腰が痛い。そりゃああれだけシたら身体も痛くなるか。
 ベタつきがないことを思うに、どうやら彼は僕の身体をきれいに拭ってくれたようだ。あんまり汚れてないように見えるのもそのせいだろう。
 手を伸ばして眠ってる彼の頬をつまんだ。ぐいーと遠慮なく引っぱっていると「い、っ」と声を漏らして薄目を開けたが何度か瞬きしてから寝ぼけ眼で僕を見上げた。「ひょーや」ぱっと手を離す。痛いって顔で頬をさすっている彼に、「起きた?」「起きた」若干掠れたままの自分の声に気付いて、ナイトテーブルに置いてあったコップの水を飲んだ。
「ごめん。なんか遠慮なくやっちゃった…」
 なぜかがうなだれるから、水を飲み干してからコップをテーブルに置いた。「反省してる?」「はい。すいませんでした。恭弥の待ってが聞けなかった…」必要以上にうなだれてる彼に一つ息を吐く。別に怒ってないけど、してやられた感は否めないから、ここは怒ったフリをしておく。
「おかげですごくダルいよ」
「すいません」
「どうしてくれるの」
「ごめんなさい。土下座します」
「…そんなものいらないよ。だから、身体洗って」
 うなだれたままの彼に手を突き出す。顔を上げたが眠そうな顔で笑って「仰せの通りに」と、僕の伸ばした手にキスをしてからベッドを下りた。
 バスルームへ行くと、そこからも東京のビル群が一望できた。贅沢な間取りだ。ちょっと外から見えすぎじゃないかと思うけど。
 ドボドボお湯を吐き出す蛇口を見つめてバスローブの紐を解く。はらりとはだけたそれは、肩をずらせば簡単に滑り落ちた。バスタブの淵に腰かけてからゆっくりバスタブの中に入って、まだ高さのないお湯の中に足を沈める。
「…何してるの」
「え、いや」
 なんでか後ろを向いたままの彼に首を傾ける。「きれいにしてくれるんでしょ?」「うん、するけど」若干戸惑った感じの声に眉根を寄せてその背中にお湯をかけてやった。「何、鬱陶しい」「…えっと。言っても怒らない?」「中身による」「んー…、じゃあ正直にいこう」くるりとこっちに向き直った彼がバスタブに手をついて僕にキスをした。片手を引かれて、その手がバスローブの上から彼の足の付け根に触れる。
 何を言えばいいのか少し迷った。…昨日あれだけシたのに。
 離れた唇が「朝から元気でごめん」とか言うから、跳ね除けてやろうかとも考えた。
 考えたけど、でも、せっかく景色がいい。東京の朝焼けを見下ろしながらイクのだって悪くない。そんなことを考えてしまった時点で僕もその気十分だった。
 どうせ今からきれいにするんだから、もう一度くらい汚れたって構わない。
 お風呂でもう一回シてから朝食のルームサービスを取った。卵料理一品にサラダとパンとフルーツと飲み物がついてくるセットで、僕はエッグベネディクト、はオムレツを選んだ。
「そういえば、帰りとかどうすればいいんだろ」
 ぱくぱくオムレツを平らげてパンにジャムを塗って大口でかぶりついて、と朝から食欲がある。いつもと違うなと思って、ああそうか、ここはずっと冷房が入ってて快適だからかと納得した。外の暑さのことなんてすっかり忘れてるのだ。ホテルを出たらきっとまただらしなくなるんだろう。
 クロワッサンをちぎって口に入れる。「さぁ。何も聞いてないけど…」渡されたのはカードキーのみだ。キーが挟んであった紙はもう支払いがすませてあることが載っていて、金額のところを眺めながらエッグベネディクトにフォークを突き刺した。他には何も書かれてないし、どうしろこうしろと言われたわけでもないし。この部屋で一夜過ごせと言われただけで、他には何も。
 朝食を半分ほど片付けたところで、電話が鳴った。昨日あれだけシたのとさっきもシたことが手伝って、すぐには動けない僕に代わって彼が受話器を取る。「はい、…あ。お早うございます」途端に畏まった口調になるから、嫌な予感がして椅子を蹴飛ばして立ち上がった。腰を叩きながら電話を取った彼のところに行って受話器を奪う。
「代わった」
『恭弥か』
「…そうだよ」
 父親の声だった。ぐっと拳を握った僕をが後ろから抱き締めてくるから、体重を預ける。バスローブ越しの体温に意識して拳を解きながら、長い沈黙に「何」と声を絞り出す。
 沈黙の間に想像した様々な罵声や怒声、僕をなじる声、落胆した溜息、嘆く声音。どんなものが来ても迎え撃つつもりで、父親の声を待つ。
『写真を見たよ。ここ数日の分だが』
「…ああそう。兄さんが勝手に撮ったやつだよそれ。撮らせたのか知らないけど」
 少しの沈黙のあと、父親はこう言った。『お前はこんなふうに笑うんだな。知らなかったよ』…そんなこと今更言われたって、戸惑うだけだった。そりゃあ、親の前であんなふうに笑ったことは一度としてないけど。
 いや。僕がああいうふうに笑えるのはの前でだけだ。きっと雲雀恭弥の本当の笑顔は彼しか引き出せないのだろう。
 僕が何も言わずにいると、父親は次にこう言った。『セックスはよかったか?』と訊かれて身体が固まる。盗聴器でも監視カメラでも何でも来いって思ってたけど、いざそう言われると、やっぱり、なんというか。照れるっていうか恥ずかしいっていうか。
「じゃなきゃ、しないでしょ」
『それもそうだな』
 受話器の向こうで、父親は少し笑ったようだった。『帰りは車を用意させてある。好きな時間にチェックアウトして帰りなさい』「あの、」何か言おうとして、父親のことをどんなふうに呼んでいたのかと束の間思考が止まる。兄のことを兄さんって呼ぶんだから、きっと父さんって呼んでたんだろうけど。今更そんなふうに呼ぶのは、気が引けるっていうか、なんていうか。
「あの。の、ことは」
『…彼のことはまた考えよう。お前を想ってくれてるようだしね』
 それじゃあこれから仕事があるから、と残して父親からの通話は途切れた。
 受話器を置いて、僕を抱き締め続けるの腕に手を添えた。「おとーさんなんだって?」と訊かれて「…なんだろうね」と曖昧な答えを返す。
 のことを認めたのかそうでないのか微妙な言葉しか言わなかったし、僕のこと、は考えてくれたみたいだけど。母親の方がどう思ってるのか話は出なかったし。ほんと、何なんだろ。
 というか、あの写真見たのか。馬鹿みたいに笑ってるばっかりの写真。一人だったら絶対あんな顔しないしできないのに、彼がいるだけで、僕は満ち足りたような顔をしてる。
「ご飯の残り、食べようか」
「ん」
 するりと離れた腕に手を取られて朝食の席に戻った。バナナのパウンドケーキをもふと頬張る。やわらかい。僕より先に朝食を終えたは頬杖をついて僕を眺めていた。最後の一欠けらを口に入れて「何?」と睨めば彼は笑う。あどけない笑顔で「んーん。そういえば恭弥はいつもこうしてたなって思ってさ」…それは、そのとおりだ。君がちょっとずつしか食べないのが悪いんだよ。暑くなければ僕より早く食べるくせに。
「…ねぇ」
「ん」
「僕のこと、」
「愛してるよ」
 全部言う前に言い切られた。にこりとした笑顔でそう言われて、なんか悔しかったから「もう一回」と催促する。フルーツの盛り合わせのお皿を目の前に引き寄せた。「愛してる」と臆面もなく言われて、「もう一回」と催促しながら赤肉のグレープフルーツを食べる。厭きもせず照れもせず「愛してる」と言われて、負けた。やっぱり恥ずかしかった。僕だって愛してるけど、そう言うのはセックスのときか心の弱ってるときでいい。
 苺を口に放り込んで「もういい」と顔を背けると、彼はまた笑った。その顔が大好きだったから、そっぽを向いたはずの僕の口元まで、自然と笑っていた。