「は? 何それ、冗談?」
「そんな冗談言いに来るほど暇じゃないよ。新しいビジネスを始めてみようと思ってね。キミと彼にモデルになってもらおうと思って」
 突然やって来て何を言うかと思えば。ずきずき痛む気がする頭に手を添えて「何それ…本当意味が分からない」とこぼした僕とは違い、は苦笑いのようなものを浮かべて「それってあれですか。間違ってもオレが始末されないように、周囲に知らしめとくってやつですか」「察しがいいね。要はそういうことだ」ソファで偉そうにしてる兄に、彼はわざわざコーヒーを淹れて持って行った。当たり前みたいに受け取った兄を睨みつける。
 そりゃあ、両親が彼に対してまだ許してない部分があるのは僕だって分かってるつもりだ。でもだからっていきなり、モデルってなんだ。新しいビジネスってつまりどういう。頭が、ぐるぐるする。
 首を傾げた彼が「で、詳しい中身っていうのはあるんですか」と訊ねると、兄はカップに口をつけて唇の端を吊り上げた。一口すすってからカップを離し、「キミさ、カメラ相手に脱げる?」なんて言う。きょとんとした彼が「はぁ、程度によりますけど…恭弥の前以外で脱いだことないんで何とも」兄を罵倒してやろうと開きかけた口が、の言葉で何を言うのかを忘れてしまった。何正直に言っちゃってるんだこの馬鹿
 ぶるぶる腕を震わせていると、ちらりと僕に視線を寄越した兄がせせら笑う。
「安心しなよ。お前も一緒だから」
「……何それ。意味が、分からない」
「こういうものを計画してるんだ」
 持っていた紙袋をガラスのテーブルに放った兄。が手を伸ばしてその紙袋を取り上げた。「きょーや」と呼ばれたけど、兄が面白いものを見るような顔でこっちを見ていたから動けなかった。それでも顔を上げた彼にもう一度「恭弥」と呼ばれると、抗えなくて、結局そばに行ってしまう。
 兄の視線を無視しながら彼の隣で紙袋の中身を見る。雑誌になる前の企画書のようだった。だいたいの構造は決まってるくせに肝心の写真は空の部分が多い。…つまり、この空の部分に僕らが入るってことか。
 じろりと兄を睨む。涼しい顔でコーヒーを飲んでる兄は何も言わない。
「えっとー、それで、これってどういう雑誌なんですか?」
 の疑問に、兄は流し目で僕と彼を見た。カップを離すと「キミ達、どっちにも受けそうな顔だからね。世の中広いし、BLとか流行ってるし、同性愛はもう珍しくないし。つまりそういうこと」言うだけ言って兄は嫌な笑い方をする。握った拳が震えた。つまりこいつは、僕らに身体を売れと言ってるんじゃないか。冗談じゃない。僕が身体を渡すのはにだけだ。こんなもの破り捨ててやる。
 そう思ったのに、ひょいと僕から企画書を取り上げた彼は冷静だった。ぺらぺら中身を見て「さすがに人前で抱けとか言いませんよね。キスくらいまでならオレは許容できますけど」「ふーん」「着せ替え人形も別にいいです。あー、恭弥は?」顔を覗き込まれてぐにと弾力のない頬をつねった。「いへ、いはい」「何普通に対応してるの。君馬鹿? ねぇ」ぐいーと頬を引っぱって離す。痛いって顔で頬をさすって「いや、だってさ。これ半分以上ファッション誌だよ、ほら」ばさりと改めて紙面を見せられる。確かに見出しは最新のファッションをうんたらってなってるけど、それを着るのは僕らってことになるのに。
「モデルって最初に言ってた。二人で服着て写真撮られて、たまにキスする感じ? ですよね」
 後半は兄に向けられた言葉だ。コーヒーをすすった兄が「変なところで物分かりが早いね。まぁそういうことだ」とか彼の言葉を肯定する。
 どうして。もっと戸惑ったっていいのに、どうしてはいつもの顔で企画書の方を眺めてるんだろう。
「で、どうするの。拒否権は一応あるけど」
 兄を睨みつける。断れるものなら断ってみろとでも言いたげな余裕の笑みにぎりと歯の根を食い縛ったら、「恭弥」と彼に呼ばれた。片手をするりと絡め取られて指先で指や手の甲や掌を撫でられる。こんなときにふわりと香るヴェルドンの緑の香りが憎たらしい。どうにか視線をずらせば、こんなどうしようもない身勝手な話を持ってきた兄に怒ることもせず、は微笑んでいる。
「おにーさんはさ、オレとお前のこと思ってるんだよ。ね?」
「…そんなわけない。都合よく使いたいだけでしょ」
「否定はしないけどね」
「ほら」
「もー。兄弟揃って素直じゃない…」
 ぼやいた彼の鳩尾にごすと一撃見舞っておいた。咳き込んだ彼が身体をくの字に折り曲げる。「い、た…っ」「自業自得」ふんとそっぽを向いて腕を組んだ。謝ってなんかやるもんか。
 息を吐いた兄がカップを置いて立ち上がった。「じゃあそういうことだから。返事はまた後日でいいよ」返事なんて決まってるのに兄はそんな言葉を残して勝手にやって来て勝手に出て行った。
 げほと咳き込んだ彼が見送る暇もなくバタンと扉が閉まってロックがかかる音が響く。
「いつ…」
 咳き込みながらソファに座り込んだ彼が、また企画書の方を眺め出した。「やらないよそんなの。そうでしょ」と言えば困った顔をされる。
「…脱ぎたいの?」
「そういうわけじゃないけど…命綱なんだろ、これ。きっと」
 ぼやいた彼がソファに寝転がった。書類を掲げて「よく分からないけどさ。多くの人にオレ達を認識させようっていうんだろ? それでオレの首が繋がる。いいじゃんか。自分にできることがあるならやりたいなと思うし。恭弥は何がやなの?」見上げられて、言葉に詰まる。何が嫌って…それは、色々。ある。
 握っていた拳を解いて、ずかずかソファに歩み寄ってぼすと腰かけた。腰に回った腕に抱き寄せられて、彼のお腹に寄りかかる。
「あのね、一番目。赤の他人に写真を撮られるなんて無理。僕はモデルとかいうのには向いてない。カメラに向かってスマイルなんてできない」
「うん」
「二番目。そういう雑誌なら、キスもあるし、違うこともあるんだろ。…君が脱いだり、僕が脱いだり、女装? したりとか。そういうのも嫌だ」
「うん」
「三番目。君が広く人に知られるのは、まだいいけど。でも、君は僕のものなのに…他の誰かが君の雑誌を手元に持ってて君のこと眺めてるなんて思ったら、相手を殺してやりたくなる」
 言葉を吐き出す。彼は黙って相槌だけを打つ。僕が黙るとうーんと唸って「そうか。恭弥がそう言うならやっぱり断ろうか」とあっさり方向転換した。じろりと睨めば、企画書を眺めながら「恭弥が嫌なことはしたくないし。でも見たかったかも」「…何を」「そーいう恭弥」へらりと笑った彼にもう一回拳を叩き込もうかと思ったけど、さすがに痛むだろうと思ってやめておいた自分を褒めてやりたい。
 ねぇ、試しに見学とかさせてもらおうよ。オレちょっと興味あるな。スタジオとかカメラとかさ。そんなことを言ってにこにこ期待した笑顔でこっちを見る彼に、結局流されてしまった僕は、本当にどうしようもない。に甘すぎる。
 兄が寄越した車に乗ってスタジオとやらに行くと、いかにもモデルしてますって歩き方の女とすれ違った。スタイルはいいけど香水の趣味は悪い。どうして女物ってこう媚びる香りなんだろう。ぱたぱた手で目の前の空気を払いつつ、兄の護衛の人に通されて広い空間に移動する。
 兄は仕事着のスーツ姿で書類をめくっていて、僕らが来ると嫌な笑みを浮かべてぱちんと指を鳴らした。途端、どこからか現れた護衛にが両腕を掴まれた。「え? へ、あのちょっとっ」抵抗しながらずるずる連行されていくに、幾分か迷ってから仕方ない相手をしてやろうと屈強な男相手に拳を打ち出す。片手でパンと受け止められた。こっちを一瞥する黒いサングラスを睨みつけて「を返せ」と続け様に拳を打ち込んで、別の護衛に平手で突き飛ばされて間一髪で避けてばっと距離を取る。伊達に護衛やってないってことか。
 っていうかだ、どうして兄の護衛がを攫うんだ、意味が分からない。本気になれば目の前を塞いでる一人くらい倒せるだろうけど…でも、はいい顔しないんだろうな。
 問い質すように兄を睨んでも涼しい顔で流される。
「どういうつもりだよ愚兄。を返せ」
「着替えさせるんだよ。あれじゃ普通の格好すぎる」
「はぁ? 僕らは見学だって言っただろ」
「いいだろ別に。見たくないの? 彼のデキた姿」
 せせら笑う兄に拳を握って唇を噛む。
 待ってれば彼は戻ってくる。分かってるけど落ち着かない。
 彼の笑顔に折れてスタジオまで来てしまったのが間違いだったんだ。兄はこういう人間だったじゃないか僕。忘れたわけじゃないだろうに。
 自分の浅はかさを呪いながら兄を睨みつけて待っていると、「いや、あのオレこういう格好は」との声がした。はっとして振り返る。屈強な護衛が道を開けると、彼がいた。夏には季節外れすぎる黒いパンクのジャケットを着て、飾りベルトのたくさんついたストレートのパンツに黒いブーツを履いていた。僕と目が合うと足を止めて困った顔で笑う。「やっぱ変?」なんて言葉に、そういう格好だって似合うんじゃないかと見惚れていたところからはっとして視線を逸らす。
「似合ってるよ。で、君にしてもらいたいんだけど」
 僕が言うより早く兄に先を越された。むっと眉根を寄せて睨みつければ、僕の視線なんか気にしてない兄は「愚弟こっち」と僕を呼んだ。動いてやるもんかと思ってたのに、歩いてきた彼の掌に背中を押されると、抗えなくて、呆気なく一歩二歩と踏み出している。
 暑いんだろう、襟元をくつろげた彼が「で、どうすれば?」と若干しんどそうな顔で兄を見やる。
「こういう感じにやってみて」
 兄が護衛の人に持ってこさせた大判の写真には、男女のカップルが写っていた。ソファでうとうとしている女を覗き込んだ男がそれを見て微笑んでいるっていう、ただそれだけの写真だ。
 …これは、僕が、女役になれってことか。写真を睨んでいると、「オレが男の方でいいんですかね」「そうだよ」「へーい。だって恭弥」「……やるの?」壁際のソファにすとんと座らされて見上げれば、やんわり微笑んだ彼がそこにいる。
 少し屈んだ姿勢になると、長くなってきた前髪が額を滑った。ふわりと香るグリーンの爽やかさが彼の笑顔を一段と魅力的なものにする。
 黙って見つめてしまうくらいには、僕にとって破壊力のある笑顔だった。
「たったあれだけでしょ。試しにオレやってみる」
 それでそんなこと言って顔を上げてしまうから、はぁ、と息を吐いて諦めた。
 僕はただ目を閉じていればいいだけだ。写真の女のようにしてればいいだけ。それで彼が満足するなら、そうしていてあげよう。それくらいならできる。そう思って目を閉じたままでいると、なぜか靴音が離れた。「じゃあこの辺から歩いてやってみてもいーですかね」「好きにしたら。シャッター勝手に切るけど止まらないでね」「はーい」え、写真撮るのか。っていうか普通に楽しそうだなは。なんだか逃げたくなってきた。
(我慢、我慢だ。目を閉じてるだけなんだから)
 自分に言い聞かせていると、こつんと響いた靴音がゆっくりしたペースで僕のそばまで来て、こつりと音を立てて止まった。僅かな衣擦れの音で、彼が屈んだのだろうと想像する。きっとさっきみたいな笑顔を浮かべてるんだろう。
 写真はそこで終わりだった。女を覗き込んだ男が微笑んでる部分で終わり。だから終わりだろうと思ったのに、額に触れたやわらかいぬくもりに驚いて目を開いてしまう。僕の額に口付けたがそこにいて、ソファに浅く腰かけて薄い微笑みを浮かべた。「起きちゃった?」なんて、最初から目を閉じてただけで起きてた僕に、分かりきってることを訊く。
 ジャケットに包まれた手がさらりと僕の前髪を揺らした。僅かに首を傾けた彼の額を少し長くなった髪が滑り落ちた。
 何か言ってやりたいのに、何も言葉が出てこない。どうしてそんなに乗り気なんだとか、なりきってるんだよとか、その格好暑いでしょとか、似合ってるから心臓に悪いからやめてとか、言いたいことがあったのに。彼の笑顔に心を奪われて言葉が出てこない。
「はいオッケー。撮った?」
 その空気も、兄の声で終わった。「ばっちりです」「ん。見てみよう」気付かなかったけど、しっかり撮られてたらしい。ふうと息を吐いた彼が「けっこー難しいな」と眉根を寄せてからジャケットの前を開けた。やっぱり暑いみたいで、ぱたぱた手で自分を扇ぎ始める。
「…なんでそんな、乗り気なの」
 ぼそりと訊けば、彼は笑った。「いい機会だと思って。こういうことしたことなかったからさー。恭弥は興味ないの?」「…僕は別に……」ふいと顔を逸らす。逃げるように彼から距離を取ってソファに座り直した。
 くそ、心臓がどきどきしてる。今の彼にシたいって言われたらこっくり頷いてしまう気がする。
「よし、もう一回いこう。愚弟、君着替えて」
「は? ちょ、ちょっと」
 兄の命令で脇を固めた護衛に腕を突き出しかけて、「恭弥はオレが」という声でぴたりと全てが止まった。静かだけれど他の追随を許さない、そんな、響く声。
 護衛の人が三歩下がって、代わりに彼が僕のそばに来ていつものように手を取る。「恭弥おいで」と微笑まれて、イエスもノーも何も言えなかった。
 僕は着替えるつもりなんて毛頭なかったのに、いつもと違う彼の後姿を見ていたらメイクルームまで着ていた。「恭弥、着替えよ?」と笑いかけられて「じゃあ着替えさせて」と命令すれば、僕の手の甲に唇を押しつけた彼が「仰せのままに」とこぼして僕の服に手をかける。
 五分後。不機嫌になる以外、できる顔が見つからなかった。
 トルソーにかけられていた僕が着るべき服は、黒いアシンメトリーのキャミワンピだったのだ。
 サイズがぴったりなところがまた悔しくて仕方ない。どうして僕がレース素材のワンピなんて着ないとならないのか。彼の暑い格好に比べたら僕は肩とか背中の露出がひどいし。何これこの差。あの愚兄、絶対殴ってやる。
 むすっとしている僕の足に白いサンダルを履かせた彼が立ち上がって手を差し伸べる。「お手をどうぞ、お姫様」なんて、似合わない台詞にはぴったりのにこりとした笑顔を浮かべて。
 不承不承その手に自分の手を重ねた。
 こんな格好で人前になんて出たくないし写真なんて撮られたくない。それでもそうしなければこれは終わらない。
 それに、が楽しそうだから。嫌だと強く出ることもできない。
 メインルームにぺたぺたサンダルで入っていけば、撮った写真を見ていた兄がちらりとこっちに視線を寄越した。絶対笑うだろうと思ってたのに無表情しか返ってこなかったのが逆に不気味で眉を顰める。なんだよ、笑うなら笑えばいいのに。
「さっきと同じこともう一回ね」
「へーい」
 ソファのところまで連れていかれて、そろりと腰かける。スカートの座り方なんて知るはずがない。「ああ、待って変更。愚弟」「うるさい愚兄」「寝ててもおかしくない体勢に変更」むすっとして動かないでいると、困った顔をした彼が「きょーや」と僕の素足に触れるから、かぁと頬が熱くなった。アシンメトリーになってるスカートの左側は膝が見えそうな丈で、彼の手が直に触れて、肌が熱くなる。「ソファのふち、寄りかかって」ソファに足を上げた手が離れた。その温度を恋しく思いながら、言われたとおりにしてみる。背もたれと肘掛けの間に背中を預けて、黒いワンピースから伸びる足を重ねた。
 なんでこんな女みたいな格好しないとならないんだとソファを睨みつける。本当、なんで僕がこんなこと。
「こんな感じでどうでしょ?」
「じゃあそれでいいよ」
「へーい」
 僕の髪を撫でた彼が額にキスしてからそばを離れた。その背中を無意味に視線で追ってしまう。
 写真を一つ振った兄が「じゃあもう一回。撮るけど止まらないでね」「はーい」ひらりと手を振った彼が部屋の入り口でくるりとこっちを振り返った。ぱちりと目が合って、はぁ、と息を吐いて、諦めて目を閉じる。
 さっきと同じ、と言われたけど、彼はまた変えた。ソファの前まで来て屈んで僕の顔を覗き込むところは同じなのだろうけど、そのあとソファに腰かけて、僕の髪を何度か梳いて、額にキスをして、そこで薄目を開ける。首を傾けて微笑んだ彼が「起きちゃった?」とさっきと同じ台詞を口にする。
 今度はさっきより余裕があったから、僕も違うことをしてみた。触れそうで触れない位置にあった彼の手に指を這わせる。応えた彼と指を絡めて手を握り合った。
 前髪を梳いていた手が離れて、微笑む彼からどうしても視線を逸らせなくて、どうしようこのままじゃキスしちゃう、と思ったときに「はいオッケー」という声でその空気が壊れた。首まで閉めたジャケットのチャックを全開にした彼が途端にぐたっとする。「あ、暑い…」ソファに手をついて寄りかかってぐたっとしてるくせに、僕と握り合った手だけにはしっかり力を込めている。
 普段と違う服装をしてる君が魅力的に映って仕方がない。…こんな格好だけど、いつもと違う僕は、君にどう見えているのだろう。
 結局、見学だって言ったのにあのあともばっちり写真を撮られて帰宅した。
 見学だって言ったのに、これじゃあもうやるって言ってしまったようなものだった。
「カフェオレ淹れるよ。座ってて」
 ぶすっとしてる僕の機嫌を取ろうと、冷房を入れたばかりの暑い部屋でも彼が自分から動く。
 …頑張ってるのは認めるけど、いただけないのは、シャツを脱いでタンクトップ一枚になったところか。なんだよそれ誘ってるの。
 背筋のむずがゆさを堪えながらリモコンに手を伸ばしてテレビをつける。適当にチャンネルを回して、何もやってないから海外の旅行番組で止めておいた。
 一応、写真にするなら送れと命令はしておいた。嫌な笑みを浮かべた兄にしてやられた気がして胸がむかむかしている。
 冷蔵庫からプリン二つを取り出してお茶の用意をしたが戻ってきた。この間買ったウエッジウッドのカップにコーヒーを少し注ぎ、氷の入ったバケツの中に突っ込んである牛乳瓶を取り出して中身をカップに注いでいく。
 わざわざめんどくさいことするんだなと思いつつ、「はいどうぞ」と手渡されたカップを持ち上げる。氷の効果で冷たいカフェオレが味わえた。プリンのカップの蓋を外して、これおいしかったなと地下のお店を思い出してみる。また頼んでみようか。焼き菓子もおいしかったし。
「結構大変だった」
 隣に座り込んだ彼がぽつりとこぼした言葉に顔を向けた。脱力してカップを傾ける彼は主語を言っていない。プリンにスプーンを入れつつ「何が」と訊けば、「色々」と苦笑いされた。なんだそれ。
「怒るかもしれないけどさ。似合ってたよ。スカート」
「…嬉しくない」
「そっか」
 カップをソーサーに戻した彼がぐてっとソファに埋もれて動かなくなった。どうやら体力が尽きたらしい。冷房が行き届くにはもう少し時間がかかる。
「…君も。似合ってたよ。ああいう格好」
 ぼそっと言うと、口元を緩めて笑った彼が「ありがと」と言って細く息を吐いた。苦しそうだ。本当に暑いの駄目なんだな。日本の気候、君には合ってないんじゃないかな。そんなことを思ったのはテレビでイギリスのことをやってるせいかもしれない。
 ぼんやりテレビを見ながらプリンを食べ終えた。手をつけようとしない彼に、仕方なくプリンの蓋を外してスプーンを入れる。
「口開けて」
 目も開けないまま小さく口を開いた彼にプリンを食べさせる。ほぼ飲み込んでるようだ。プリンを全部食べさせてからカップを持っていってやれば、カラメルソースも飲み干した。「…大丈夫?」「んー」へろりと持ち上がった手がすぐにソファに落ちる。
 この先もと一緒に暮らすことを思ったら、本気で海外移住とか考えた方がいいんだろうか。それには僕も何かしないとならないのだけど。仕事とか。結局僕が使ってるお金は僕のものではないし。僕が使っていい範囲のお金としてカードも現金も与えられてるけど、それは僕が自分で稼いだものじゃない。バイトをして生活を立てていた彼からすれば、僕なんてきっとまだまだだ。
 兄が持ってきた話は。自立の一歩目なのだと考えれば。確かに、僕のためにもなるのだろうか。