梅雨をほぼすっ飛ばして、今年の夏が来た。
 オレは暑いのが大の苦手だ。
「あぢー……」
 エアコンなんて贅沢な品は存在しないおんぼろアパートの一室で、扇風機を抱えるようにして風に当たっていても、暑いものは暑い。
 今にも蝉の声が聞こえてきそうなうだる暑さの中、座っていることさえ限界になってばたりと畳の床に転がった。
 あ、埃。そういや暑くてしばらく掃除なんてしてなかったな。いくら一人暮らしとはいえ、これじゃあ駄目だよな。
 扇風機の風を浴びてぼけっとしていると、おんぼろアパートの鉄の扉がぎいと軋んだ音を立てて開いたのが横になった視界に見えた。ああ、鍵かけてなかった。そもそもチャイムを鳴らさない時点で相手もどうかと思うんだけど。
 この暑いのに日光を吸収する黒い色を着てやってきたのは、暑さなんて感じてないみたいないつも通りの顔をしてる幼馴染だった。寝転がってるオレを見ると開口一番、
「だらしない。何その格好」
「ごめーん。オレ暑いときは使い物にならないから、マジで…」
 顔を顰めた相手にへろへろと手を上げてばたりと下ろす。目を閉じて扇風機に髪をなぶられたままでいると、バタンと扉の閉まる音がして、それから足音が続いた。古いからなぁここ、軋むんだよないちいち。だから目を開けなくても相手が今そばに立ったことくらい分かっていた。
 それに、いいにおいがする。訊ねるとシャンプーじゃないのと素っ気なく返されるけど、控えめな香水みたいに鼻をくすぐる。夏らしいさわやかな香りは純粋にいいにおいで、すぐそばにいるんだろうなって分かる。
「ねぇ」
 降ってきた声に薄く目を開ける。屈んだ幼馴染が手を伸ばして風になぶられる俺の髪を掴んで引っぱった。
「痛いって」
「そんなに暑いなら僕のうちに来ればいいって、何度言ったら分かるの?」
「いや、だってさ。ただの幼馴染が毎日家に入り浸ってたら顔顰められるよ」
「誰に」
「誰って…ご両親とか?」
 ふっと息を吐いた相手が畳に膝をついて片膝を立てて座った。俺の髪を引っぱったまま「随分今更なことを言うんだね。アレは僕が何しようと気にしないよ。出来のいい兄達しか見てないから」「…雲雀」「その呼び方やめて」ぐいーと髪を引っぱられて「イタイイタイ、ごめん恭弥」と声を上げるとようやく髪を引っぱるのをやめてくれた。
 雲雀恭弥って幼馴染には上にお兄さんが二人いて、どっちも個性があって、一人は絵画で有名な人になり、一人は海外で会社を成功させた。そしてその二人を兄に持つ恭弥は、そういった家庭環境から兄二人ばかり見ている両親に反抗的で、反面、甘える部分を全て幼馴染のオレに頼って生きてきた。
 ぶちっと扇風機のスイッチを切られて、風がなくなる。途端にじわっと暑くなった。恭弥がそばにいることも手伝ってるかもしれない。
「暑いんだけど…」
「そうだろうね」
「恭弥はオレに死ねと」
「まさか」
 両親からあなたもお兄ちゃんのように立派な人にと耳にタコができるくらいの台詞を物心ついたときからずっと聞かされ続けて、頑張っていた恭弥は、ついに疲れてしまった。両親の応えきれない過剰な期待に応えることより、そうして認めてもらうことより、見放されることを選んだ。その方がずっと疲れないと、オレにそう言った恭弥は少し泣きそうだった。
 手を伸ばす。表情のない顔にぺたりと掌を添える。「恭弥さ、暑くないわけ」「暑いに決まってる」「じゃあ暑いって顔すればいいのに」そう言ったら恭弥はふいと顔を背けた。手が離れる。「負けたみたいで嫌だ」「負けるって何に」「…暑さ?」負けるみたいで嫌だと言ったわりに、敵の名前は曖昧だったらしい。疑問符の混じった答えにちょっと笑ったらまた髪を引っぱられた。だからそれ痛いって。
 結局、恭弥がうるさいから適当に着替えておんぼろアパートをあとにした。
「食べてないの」
「何が?」
「ご飯とかだよ」
「なんで?」
「君、痩せてる」
「あれ。そっかな」
 言われて、自分を見下ろした。そういえばちょっとデニムが緩くなった気がする。ちょうどいいサイズを買ったつもりだから、そうか、じゃあオレの体重が落ちたってことか。「あと眠れてないんでしょ」どこか詰問するような口調に知らず苦笑いがこぼれる。「こんだけ暑いともう…そういう恭弥は?」「僕は変わらないよ」「そっか」表情なしに春夏秋冬淀みない足取りで歩く恭弥に、オレの方がだんだん遅れていく。背は俺のがあるんだからイコール俺の方がコンパスがあるはずなんだけど、この暑さでそれも帳消しみたいだった。
 どんと電柱に肩をぶつけて一息吐いたところで、暑さが消えてくれるわけもなく、頭上からじりじりとこっちを照らしてくる太陽が陰ってくれるわけもなく。ああ駄目だ、オレ夏の間は昼間寝て夜に起きる夜型人間になろうと心に決めたとき、足を止めた恭弥が呆れた顔でこっちを振り返った。
「何してるの」
「暑くてさ……オレ夏の間夜型人間になる。朝昼は寝て夕方から起き出すんだ。今決めた」
「駄目だよそんな不健康な生活。だいたい夜起きて何するっていうの」
「えー、コンビニで雑誌の立ち読みとか? …ああ、いっそ夜の街に出てみるとか。バイトとか、あんのかなぁ」
 よく分からない夜の世界を考えながらふらりと一歩踏み出して、こっちを睨んでる恭弥のもとまで歩いた。我ながら歩みが遅いったらない。その間ずっと恭弥がこっちを睨んでたから、はてと首を捻る。オレは睨まれるようなこと言ったろうか。
 隣に並ぶと、恭弥がオレから顔を逸らして歩き始めた。さっきよりゆっくりの、オレと同じくらいのスピードで。
「…じゃあ、さ」
 ぼそっと聞こえた声に「ん?」と首を捻る。恭弥は前方を睨みながら「涼しければいいんでしょう? 君は」「涼しければっつーか、暑くなければ?」「なら僕の家にいればいいじゃない。どうせ誰もいないんだから」ぼそぼそした声に何度か瞬きした。額を伝って目まで到達しようとした汗を手の甲で拭う。恭弥は相変わらず暑さを感じさせない顔をしてたけど、じんわり汗が滲んでる辺り、ちゃんと暑いと感じてはいるようだ。それに何となく安心した。
 それから今の言葉の意味を考えてみた。「お手伝いさんいるよね?」「家事炊事をするときだけだよ。普段はいない」「あれ、ご両親今は?」「…アレは兄さんに呼ばれて海外だ」吐き出すように言われた言葉に口を閉じる。恭弥はあまり家族の話題は好まないから、これ以上は訊かないでおく。
「恭弥んちかぁ。いいなぁ。いっそあのおんぼろアパート引き払って恭弥の家に住みたいなぁ」
 なんて、冗談半分で笑ったのに恭弥は笑わなかった。「いいんじゃない」なんて肯定されてがくと肩が落ちる。「冗談だよ」と言っても恭弥は笑わなかった。ただ、冗談だと笑ったオレを気に入らないとばかりに灰色の瞳が一瞥した。
 七階建てのマンション丸ごと一つ。駐車場には高級車が並び、ガードマンが常駐しているそのマンションは、雲雀の名義でいつものようにそこに建っていた。
 わざわざ電車を乗り換えて、恭弥は都心から離れたオレのおんぼろアパートまでやってくる。そして今日はオレが恭弥の家までやって来た。少し久しぶりのマンションを見上げて、顔見知りのガードマンと軽い挨拶を交わして、さっさと自動ドアをくぐった恭弥に睨まれてエントランスをくぐり抜けた。
 ガードマンが常駐してるからロビーには誰もいなくて、壁には階ごとに誰が住んでいるのかを示すプレートとポストにインターフォン、あとあるのは中へと続く大きくて丈夫そうな扉だけだ。
「いつも思うけど、ここにもあった方がいいよな。受付とか」
「いらないよ。個人宅だよここ。それに監視カメラなら角から四つついてる」
 言われて顔を上げた。天井付近に視線を投げたけどそれらしいものを見つけられず、じゃあ上手く隠して分からないようにしてあるんだな、と一人納得する。お金持ちってすごい。オレはいつ何時でも金欠です。自慢することじゃないけど。
 指紋認証が終わるとオートロックの扉が施錠を解いて両方に開いていく。置いてかれないうちに続いて入ると、扉はすぐに閉じた。当たり前のようにエレベータがあって、それに乗り込む。
 恭弥が住んでるのは五階だ。一階は駐車場とガードマンや監視カメラその他の機能がある制御室だっけ? があって、二階と三階はご両親の部屋で、四階が二番目のお兄さんのアトリエと化してる部屋で、五階は恭弥、六階は今は使われてない一番上のお兄さんの部屋で、七階が多目的ルームとか、だったかな。
 ぼけっとしてるとポーンと音を立てて五階についた。四角い小さな箱から出れば、すぐ前にドアが一つ。
 恭弥がポケットから鍵を取り出す。複製の難しそうな鍵だった。ロックを外して中に入る背中に続いて、久しぶりに恭弥の部屋に入った。部屋っていうかこの場合家? かなぁ。
 室内は相変わらずの殺風景さだった。散らかっているところが少しもなくて、それが寂しいくらいの部屋だ。
 さすがに留守にするときは冷房を切ってるみたいで暑い。シャツの襟のボタンをぶちぶち外して中のTシャツの襟を引っぱった。「あづい」「はいはい」靴を脱いだ恭弥がすたすたリビングに歩いて行く。それに続いてサンダルを脱いで、恭弥のと揃えておいた。
 区切るもののない広い空間に、スイッチを入れられた天井にあるエアコンが息を吹き返したように稼働を始める。
 どさっと黒いソファに座り込んでワイシャツを脱いだ。Tシャツだけになってもやっぱりまだ暑い。襟を引っぱってばたばたさせてると、呆れた顔をしてる恭弥が「そんなに暑いの?」と言うから「あづい」とうなだれるオレ。十分もすれば涼しくなるんだろうけど、こんなに暑いのにそんな涼しい顔をしてるお前の方がイレギュラーなんだよ恭弥。
 息を吐いた恭弥がリビングを出て行った。Tシャツを引っぱってばたばたさせながらソファでぐでっとしていると、戻ってきた恭弥が何か放ってきた。ばさっと顔に被る。受け止める気力すらなかった。
「何これ」
「着替えたら。少しは涼しくなるよ」
「恭弥のじゃオレには小さいよ、多分」
「君のサイズだから心配しなくていい」
 言われて、顔に被ったままの服を剥がしてみる。黒いシャツはMサイズだった。恭弥はいつもSサイズだ。深く考えずにじゃあいいかとTシャツを脱いで黒いワイシャツを羽織る。いい肌触りだった。きっと物がいいんだろう。何せ雲雀の家だから。こう言うと恭弥は怒るから言わないでおくけど。
 リビングにある大きなテレビは沈黙していた。「恭弥ぁ」「…何」恭弥がスイッチ一つ押せば側面にある大きな窓には自動でカーテンが引かれていく。それを眺めながら「お腹空いた」と言うと呆れた顔をされた。だけど恭弥は動いてくれる。「何が口に入る?」「冷たいのがいい」「…冷たい食べ物なんて今アイスくらいしかないんだけど」「それでいいよ」はぁと溜息のようなものを吐かれたけど、仕方がない。夏の間のオレはずっとこんなんだ。正しくは暑いとこにいるオレは、なのかもしれないけど。
 ぐでっとしていると、恭弥が戻ってきた。「はい」と渡されたのはハーゲンダッツのカップ。贅沢だ、と思いながらありがたく受け取って蓋を剥がす。スプーンを突っ込んでぱくっと一口。甘い。カフェオレだからまだいいけど、チョコとかだったらすんごく甘いんだろうなこれ。
 隣に腰かけた恭弥は何も持っていなかった。「食べないの?」「それしかなかった」「え。じゃあほら半分こしよう」「いいよ別に」「悪いもん。ほらあーんして」アイスをすくってスプーンを差し出せば、恭弥は変な顔をした。それからアイスを食べて、「冷たい」と漏らす。そりゃそうだ、アイスだもん。熱いアイスなんてアイスじゃない。
 オレが食べたら恭弥にスプーンを差し出して、を繰り返しているとアイスのカップはすぐ空になった。食べてるうちに気付いたけど、当たり前に間接キスだった。まぁいいか、気にしなくても。
 カップをガラスのテーブルに置いた頃には少し涼しくなってきていた。それだけでも気持ちが楽になった。ああ本当、恭弥の家に住みたくなっちゃうなこれ。
 恭弥はこんなに整った環境にいるけど、恵まれてはいない。だからオレのところに来る。都心から離れた僻地のアパートへ、オレのところへ。

「んー?」
 間延びした返事を返すと、隣にいる恭弥が言った。「ここにいなよ。夏の間」と。幻聴かと思って頭を叩くと、こっちを一瞥した恭弥が「もう一回言おうか。ここにいなよ、夏の間」と、さっき聞いた言葉と同じことを口にする。
 いやでもそれはご両親が、と言いかけた口を閉じる。それはさっきも言った気がする。恭弥はできないフリをしてるけど本当は頭だっていい。オレが今日口にした言葉くらい憶えてるはずだ。何回も言ったら多分怒るだろう。機嫌を損ねたくはないので、逆鱗に触れる言葉は言わない方が懸命だ。
「そりゃ、嬉しいけど。恭弥はそれでいいの?」
「…僕は、君なら。構わない」
 ぷいと顔を背けての言葉に、オレは小さく笑った。
 そのとき恭弥がどんな決意とどんな想いを抱いていたかなんて知りもせず、昔からの友達だから、幼馴染だからなんて言葉で納得して、恭弥のことを深く考えず、この夏を雲雀家で過ごすことを決めたのだった。