少しは節電に協力する気があるなら同じ部屋で寝ろと脅したところ、は折れた。冷房の効いた部屋でぐっすり寝たいという願望が勝ったようで、二人で運んだシングルのベッドの上で、彼はすでに眠っている。 随分と、無防備なことだ。この人は。昔から少しも変わらない。こうやって誰にでも無防備なところを見せる。 だから甘えてしまう。彼なら僕の手を払いのけるようなことはしないと思ってしまうから。 今ここで眠るこの人はきっとこう思ってるんだろう。僕と君が幼馴染だから、僕は君にここで生活すればいいと言い出して、君はそれに折れただけなのだと。 本当はそんな軽いものじゃないってことを、彼はまだ知らない。 「…本当、痩せたよね。サイズ落ちてると思うよ、絶対」 お風呂から戻ってきてみれば彼はもう寝たあとで。無防備なその寝顔に一つ息を吐いて素足でフローリングの床を歩く。 暑さに参って眠れない食べれないを繰り返して、彼は痩せた。痩せたというよりやつれた。そのくせ僕が会いに行くまであの蒸し風呂みたいな部屋にい続けた。馬鹿な人だ。イマドキ携帯を持ってない君は僕に連絡する手段がないからイコールで僕のところに来るって考えを持たなかったようだけど、君が訪ねてきてくれれば、僕は喜んで迎え入れたのに。冷房ガンガンに効かせて君が満足いくまでアイスでも何でも食べさせてあげたのに。 ベッドを軋ませて膝をつくと、ふわりと柑橘系の香りがした。この季節に毎年出るロクシタンのヴァーベナの香りだ。石鹸やシャンプーから一式変えたところだから、この間まで使ってたものとの違いがよく分かる。結構似合ってるな、なんて思いながら手を伸ばして濡れたままの髪を指で梳いた。 彼はぐっすり眠っている。僕に妙なことをされるなんて思ってもいない。信じてる。疑ってない。だから眠ってる。 その信頼を、崩す行為を。僕はしようとしてるのに。 眠っている彼の手がブランケットからはみ出ていた。無骨な手に指を這わせて、ゆっくり指を絡める。力のない手は僕の手を握り返すことはしない。 彼は知らないだろう。言わなければきっとずっと知らないままでいてくれる。そうだと分かってた。だから今まで言わないできていた。このままいい友達で、幼馴染でいようと、そう努力してきた。 だけどこの間、君のアパートの前で右往左往してる女を見つけて。気持ちが変わってしまった。 君は今まで恋人を作らなかった。僕もそんなものはいらなかった。欲しかったのはずっと君だったから、そばにいてくれれば、それでいいと満足していた。さらなる欲からは目を背けて、君とはいい友達で、幼馴染で、と自分に言い聞かせていた。その努力をその女がぶち壊した。意を決した顔でアパートの階段を上って、チャイムを押して、だるそうに出てきた君に緊張と嬉しさの入り混じった顔を向けた女に、僕は嫉妬した。 話していた内容までは、離れていたから聞こえなかった。だけど僕がギリギリ保っていた均衡を自ら壊してしまうくらいには、その出来事はショックだった。 話してたことなんて知らない。だけどその女が階段を下りる足音は静かで、上りと違って意気消沈していた。 告白しに来たんだろうなんてこと、右往左往してる姿を見れば想像がついた。 適当なコンビニまで行ってアイスと適当なものを買って彼の部屋のノブに手をかける。また鍵がかかっていない。無用心だと思いながら開け放てば、夏の間はずっとそうしてるとでもいうように扇風機の風に煽られてる君がいた。 僕が突然やってくることにも慣れている君は笑う。やぁ雲雀と。その呼び方やめてと言いながら靴を脱いで古い畳を踏んで伸びた腕にビニール袋を預けた。ごめん恭弥。これ何? という声にアイスと適当なものと返せば、のろのろと起き上がった彼がひどくだるそうにしながらアイスのカップを手に取る。五つくらい買ってきたけど、もう溶け始めているようだった。冷蔵庫ぉとずるずる這っていく彼はだらしがない。暑いくらいでそんなにだらしがないと、女にはモテないと思うのに、実際そうじゃない。さっきのことを思い出してぎりと歯の根を強く合わせる。君はそんな僕に気付かない。 言わなければ。永遠に保たれるであろう君にとのこの距離間。 君を他の誰かに取られるくらいなら、もう戻れなくなるとしても、僕は。 ぎゅうと強く彼の手を握り締めて、ずっと見つめていた寝顔にゆっくりと顔を近づけて、キスをした。 初めてではなかった。いつかにもこうして彼にキスをしたことがある。多分、両手で足りない回数ぐらいは、勝手に唇を奪った気がする。 ここから逃げて君のところへ行った。バイトをしてる君はだいたい僕より早く眠る。そして僕は、そんな君に口付ける。 勝手にキスするなんていけないことだと分かってた。分かってたけど、止められなかった。一生懸命気持ちを押し殺すのに、君の無防備な姿を見ていると我慢ができなかった。 触れるだけの口付けを重ねて目を閉じる。 ゆっくりとした吐息は眠っているものだ。夏の間彼は苦しそうに息をしている。まるで夏ではまともに生きられない生き物に生まれついたように。 だから毎年家にくればいいと誘うのに、彼は毎度遠慮する。今年はようやく叶ったけど。 「ねぇ」 愛を囁くように彼の唇を甘く噛むと、閉じた瞼が少し震えた。起きるだろうか、と思ったけど彼は目を覚まさなかった。 今までは一度触れるだけで終わっていた。だけどもう我慢ができない。君を誰にもあげたくない。僕のものに、なってほしい。 眠っている君を理由に、唇を奪う行為を続ける。何度でも何度でも少し開いた唇に自分の唇を重ねて、舌を這わせ、その唇を舐めて、強く手を握って、乞うように彼を求め続けた。 だけど目を覚まさないから。面白くないな、と思いながら顔を離して繋いでいた手をゆるりと解いた。 本当に目を覚ましたとして、彼は僕になんて言うだろう。こんな僕に。昔から君のことを好きで、大好きで、求めることを拒んで拒んで拒んで、結局君を求めてしまった、どうしようもない僕に。 昔と変わらない寝顔を見つめてから自分のベッドに戻って布団に潜り込む。リモコンを手に取って冷房にタイマーをかけて黒いシーツに顔を埋め、視線だけで彼を見た。変わらない寝顔で、彼は眠り続けている。 「きょーや」 「…、」 呼ばれて、目が覚めた。 眠い目をこすりながらベッドに手をつくと、そこにがいた。寝起きの思考が固まって、そうだ、今日から彼はここにいるだったと思い出した。自分で望んでおきながら忘れてるなんて僕も馬鹿だな。 「さっきお手伝いさんが来てさ、チャイム鳴ったから出たら驚いた顔された。で、色々置いてったから冷蔵庫に適当に入れといたよ。さっそくゼリー食べちゃったけどよかった?」 「…そう。いいけど」 するりとベッドを抜け出して少しめくれてたシャツの裾を引っぱる。彼は僕が用意した黒いシャツと黒いジャージを着ていて、サイズもぴったりだった。 普段Sサイズの僕がMサイズのものを持っていたのは偶然じゃない。彼のために、ずっと用意していて、使う機会のなかったものだ。今は役目を果たしてるけど。 寝起きはあまり得意じゃない僕の背中を押す掌の温度。それを意識していると、昨日勝手にキスを重ねた自分に罪悪感すら覚える。 僕があんなことをしてると知ったら、今までの信頼は、崩れてしまうのだろうか。そんな脆い関係しか築いてこれなかったろうか。これは、そういう次元を超えた話だろうか。 「眠いの?」 「そうでもないけど、起きがけはあんまり頭が働かなくて……そういう君は、眠れた?」 「ぐっすりでした。ごめん、先寝ちゃってて」 「…別にいいよ」 申し訳なさそうな顔すらしてみせる彼に合わせる顔がない。 キッチンに併設してある黒いカウンターに導かれて、冷蔵庫から彼が朝食を持ってきた。市販品のサラダと、フライパンが出てるキッチンが見えて目を細める。そこから彼がベーコンエッグをよそってきた。「作ったの?」「あ、ごめん勝手に借りて。それだけじゃ足りないっしょ?」首を捻った彼がことんとお皿を置く。 なんだ、あれだけだらしない生活してるから、自炊なんてしてないのかと思ってたけど。してて当たり前か。買うよりも作った方が経済的に負担が少ないのだし。彼は長い間一人暮らししてるから、自炊できなきゃ困るだろう。 トースターでは食パンが焼かれていて、チーンと音を立てたトースターに寄っていく彼を何となく眺めた。 この夏は、彼がここにいてくれる。それはとても幸福なことだ。たとえば両親が僕に無関心になって兄の話題しか口にしなくなったことも、兄達が僕のことをどこか憐れんだ目で見ていることも、どうでもよくなるくらいに。 雲雀なんて家に生まれてしまったばかりにこんなことになった。受けるべき愛を受けずに育ち、重くのしかかる期待に応えることに疲れてひねくれて非行にも走り、どうしようもなく泣きたくなったとき、僕にはがいた。決まってあのおんぼろアパートまで僕は逃げた。自分しかいない部屋で立ち尽くしているより、他に何もなくても、彼のいる場所へ行きたかった。 僕はもらうべき愛を彼に乞うていた。彼は僕を見捨てないし僕を心配するし僕のことをちゃんと見てくれる。雲雀の末っ子だとかそんな目では見ない。嫌だと言えば雲雀と呼ぶことはしない。名前で呼んでくれる。不安だと縋りつけば大丈夫だと僕を抱き締めてくれる。そんな優しいところがたまらなく好きだった。 愛を乞う以上に、僕はいつからか彼のことを愛していた。 「せっかくここにいるんならさ、一回家戻ってもいい?」 「…どうして」 「ブレーカー落とした方がいいだろうし。あと着替えとかもいるし」 「外暑いよ?」 「うぐ。それを覚悟して行くんだよ…」 がくりと肩を落とした彼の作ったベーコンエッグを食べる。持ってきてくれたパンにバターを塗って砂糖をかけた。かじりつけばシュガートーストで、僕は結構これが好きだ。「ついてく」と言ったら「いいよいいよ、電車賃余分にかかるだけだし」「ついてく」二度目の主張をしてじろりと睨むと、彼は肩を竦めた。「帰りにスーパー寄ろうよ。君が作ってくれるなら材料買わないと、完成品しか冷蔵庫にないでしょ」「あー。まぁなぁ。恭弥料理しないの?」「僕はしないよ」サラダにフォークを突き刺して口に運ぶ。 冷蔵庫の中身を覗いてた彼が貼りつけてあるメモ帳に買出し品のメモまで始めた。…暑い間は使い物にならないくせに、ここが涼しいから、彼は機能している。外に出たらまただらしくなくなるんだろう。僕はそれでもいいけど。 だから、君を見る女なんて、本当に、世界からいなくなればいいのにね。 「何?」 じっと見てたらぱちと目が合った。緩く頭を振ってから彼の用意した朝ご飯を全て平らげて、洗顔その他をすませて着替えるために部屋に戻る。我ながら何もないと思う広い部屋には昨日他の部屋から運び込んだシングルのベッドがあって、今は一人じゃないということを誇張していた。 白いシャツにジーパンに足を突っ込んで、ベルトを締める。ふいにガチャとドアの開く音がしてびくっと大げさに驚いてから振り返ると、「オレどうしよう。このまんまは太陽の餌食になる…」黒いシャツとジャージを引っぱる彼にちょっと息を吐く。着替えてたんだけど、そんなこと彼には関係ないんだろう。昨日だって惜しみなく僕の前でTシャツ脱いじゃってさ。どきっとしたのが僕だけなんて、腹の立つ話だ。 「僕のじゃ小さいでしょう?」 「んー、多分。下は昨日のでー、上はなんかない?」 言われて、仕方なくクローゼットを開けた。彼が着れそうなものを探してる間に、僕の後ろで衣擦れの音がしていた。落ち着かない胸で黒と白ばっかりの中身を睨んでいると、ひょいと後ろからクローゼットを覗き込んだ彼が「相変わらず色のあるもん着ないね恭弥」「…似合わないからね」「そうでもないと思うけどなぁ」笑った彼が近い。心臓がどきどきとうるさくなってくる。 近い。背中が触れてる。体温が分かる。この部屋の冷房を切ったせいか、とても暑い。熱い。 何も纏ってない腕が伸びて、グレーの七分袖のシャツを手に取った。「着ていい?」「どうぞ」どきどきする心臓を悟られないように、努めて平静を装った。僕の後ろにいる彼がシャツのボタンを外していく。クローゼットを閉めながら、後ろで着替えなくたっていいのにと彼のフリーダムさをちょっと呪った。 「ん、何とか着れそう。借りていい?」 その言葉に顔を上げて振り返る。やっぱりちょっと小さそうだった。「いいよ」と言うと笑った彼が「サンキュ。じゃー行こう」と歩き出す。僕はその背中を眺めてから鞄を掴んで部屋を出た。 電車を乗り換えて辿り着いたアパートは相変わらずだった。暑さですでに参ってるだったけど、「着替えと、戸締りと、冷蔵庫のものと、」のろのろ歩き回って必要なことはしている。僕は扇風機に煽られながら彼の用事が終わるのを待っていた。 冷蔵庫の中のものを片付けるという手伝いで、待ってる間にアイスを食べる。百円アイスはそんなにおいしくもない。僕がハーゲンダッツに慣れてるせいだろうか。 彼の冷蔵庫にはあまり何も入っていなくて、食パンが一枚冷凍庫に残っているのと、チンすれば食べられるものがいくつか、冷蔵の方には野菜と適当なものがいくつかだけだった。食べられないものは持って帰ろうとビニール袋につめて、電源を抜いた冷蔵庫はさっきから静かになっている。冷凍庫の扉は開けたままで、外の温度にやられて氷が溶け出し、つめたタオルがその水分を吸っていた。 アイスを食べ終えて、普段の彼の真似をしてごろりと畳に転がる。風になぶられた前髪がうざったい。 古くさい天井から視線を外す。壁を伝っていけば半透明のボックスから着替えを鞄に突っ込んでる彼が見えた。 「ねぇ」 「んー?」 口を開こうとしたとき、ピンポーンとチャイムの音がした。自然と眉間に皺が寄る。「へーい、へいへい」とふらふら玄関に行く彼の姿を目で追いながら、何となく、嫌な予感が胸を占めていた。それでも寝転がったままでいる。宅急便とかならそれでもいい。だけどきっと違うと、僕は予想していた。 「どちらさまー」 ガチャンと扉を開けた彼の足元に視線を固定する。 嫌な予想は当たっていた。そこにあったのは女物の靴だった。「あ、いた」なんて嬉しそうな声まで聞こえてぎりと歯を食い縛る。 どうして、なんて思う。どうして彼は変なところでモテるんだろう。 知ってるよ。分かってるよ。彼の父親が借金に追われて蒸発したことも、その返済に家を売らなきゃならなくなったことも、母親がパートでどうにか生活のやりくりをしてることも、そのために彼が中学からずっとバイトをしてることも。だからこんなおんぼろアパートで一人でいるんだってことも僕は知ってる。 君が、僕の逃げ場所を作るために東京に留まってくれていることを、知っている。 君が優しいから。それは僕への愛情なんじゃないかと錯覚してしまうくらい、君が優しいから。 恵まれた環境でもなかったのに、君は自分の家族のことで手いっぱいだったかもしれないのに、僕のことまで抱え込んで。そんな君のことだから、きっと好きになる奴だっている。不思議じゃない。だって君は優しいから。 僕は環境には恵まれた。愛情なんてものにはこれっぽっちも恵まれなかったけど、がいた。だから生きてこられた。 できることをしたくて、彼をご飯に呼んだり、外で食事しようと誘ったり、たまには休憩しようよと娯楽に誘った。お金を持つのは僕だ。それでよかった。それくらいしかできることが見つからなかった。お金くらいしか、彼に与えられるものが僕にはなかった。 「サキちゃん。どしたの」 「これ、バイト先から。夏場も出ないかってお誘い」 「無理だっつったのになぁ…わざわざあんがと」 「んーん。ね、くん、よかったら今日花火見に行かない?」 「へ? 花火? あるんだ」 「うん、電車で行ったところなんだけど。バイトの人みんなで行くんだって」 「あー…オレはいいよ。あづいの苦手だし」 苦笑いをこぼしたが「それに」とこっちを振り返った。視線を上げる。聞くに堪えない会話に耳を塞ごうと思っていた。そうじゃないといられないと思った。目が合って、緩く笑った彼が顔を戻す。「友達来てるから」そう言われたことで、盲目に彼のことだけ見ていたいつかの女は初めて僕に気付いたらしい。 「ごめんね、邪魔しちゃった」 「んーん。オレこそごめん。できれば暑くないときにまた誘って」 何それ、と笑った女と、それから何度か言葉を交わして扉は閉まった。 ガチャンと響いた音に、塞いでいた耳から手を外す。…まだ声がこびりついている。苛々する。 部屋に戻ってきた彼が困ったような顔で畳に座り込んだ。「なんて顔してるんだよ恭弥」と言われてじろと睨む。「何が」「だから顔。なんでそんな顔なの」「…自分じゃ分からない」「じゃあ言うけどさ。泣きそうだよ」彼の掌が僕の視界に蓋をする。その手を掴んで、ぐっと強く握り締める。 「ねぇ」 「ん?」 「さっきの女何。誰」 「梅雨までクロネコでバイトしてたの知ってるだろ? そこの子だよ。会話聞いてた通りの話」 気に入らない。ぐっと強く手を握っていると、「痛いよ恭弥」という苦笑いと一緒に手の甲を掌で包まれた。それだけで棘でいっぱいだった気持ちが緩む。さっき僕は何を言いかけたんだったか忘れてしまった。あの女のせいだ。 「…早く終わらせてよ。帰り、スーパー寄って買い物して、ツタヤ寄って、DVD借りるんでしょ?」 「分かってるよ」 くしゃくしゃと髪を撫でられた。視界に蓋をしていた手が離れる。 再び動き出した彼の額を汗が伝っていく。 扇風機の風に髪をなぶられたまま、寝転がったまま、僕は彼を眺め続けていた。 邪魔な誰かの来るここよりも、二人きりになれる自分の家に帰りたかった。 …あの家に帰りたいなんて、彼がいなければ絶対に思うことはないのにね。現金だな、僕も。 |