ツタヤにDVDを返しに行くのに、夜を選んだ。朝や昼間の陽射しに耐えられる自信がなかったから消去法だ。
 たまには散歩でもしようってことで、恭弥と二人で夏の夜の明るい街の中を歩いた。気持ちゆっくり、恭弥を気遣って。
 夜でもやっぱり暑いなとシャツの襟首を引っぱる。
 タンクトップ買おうかな。Tシャツで襟元が鬱陶しいと思ったらもうそれくらいしかない気がする。
「また何か借りるの?」
「んー、どうしようか。映画ばっかりでもつまんないでしょ。恭弥どうしたい?」
 返事が返ってこなかったから隣を見れば、なんでか頬を染めていた。…ちょっと考えてみて可能性に思い当たる。今のどうしたいっていうのが多分ベッドの中と重なったんだろう。ほんと、かわいい奴だよお前は。
 自分の片手を持ち上げて目の前に持ってくる。この手で恭弥を抱いたんだと思っても、以前と何も変わらない掌だった。汚れたと言われれば汚れたのかもしれないけど、オレはそれ以上に恭弥を汚してしまった。
「…暑い中、外に出るのは、嫌だよね?」
 小さな声にぱたっと手を下ろして顔を向けると、恭弥は俯きがちに隣を歩いていた。
「山とか海へ行きたいって言われたら無理って言うしかないかも」
「電車に乗って、地下街歩いて、デパートとか歩くのも無理?」
 上目遣いに見上げられて不覚にもぐさっときた。前髪をかきあげてからちょっと眉間を解す。落ち着けオレ。
「それってデート?」
「うん」
 …あっさり肯定されてしまった。そして重要な問題に気付く。オレは年中金欠なのである。「ごめん恭弥、オレお金が」「出してあげる」これまたあっさり言われた。むしろ当たり前とばかりの躊躇いのなさだった。地面から視線を剥がして恭弥を見れば、期待するような目でじっとこっちを見てるではないか。その時点でオレに拒否権なんてあるはずもなかった。
 お前がそんなふうに誰かを見るのはオレだけだと知っていた。普段は興味がないとばかりに冷めた目しかしてないお前をオレは知ってる。だから、断れるはずもない。理由だって見当たらない。ああ、暑いのは勘弁だけどさ。
「…いいよ。分かった、行こうか」
「うんっ」
 子供みたいに笑った恭弥がオレの腕に腕を絡ませて、はっとしたように距離を取った。さっきより赤く染まった頬を顔を俯いて隠そうとしてるけどバレバレだった。
 今のもオレの心にはダイレクトだったな。まだそうやって子供みたいな顔もできるんじゃないか。普段は感情を殺したような無表情のくせにさ。
 初めて恭弥を抱いた日から三日か四日が過ぎて、今まで自分を殺してるみたいな顔しかしてなかった恭弥があどけない笑顔を見せるようになって、オレはそれが何より嬉しくて、純粋にかわいいとも思った。オレにとってはその辺にいる女の子よりもずっと魅力的な笑顔だった。
 ただ、それでも恭弥は男だから。それから、雲雀家の人間だから。気軽に人前で手を繋ぐとかはできないけど。

 今まで一人で頑張ってきた恭弥をオレは知ってる。だからもう雲雀とわざと呼ぶことはしないでおこう。恭弥が忘れてしまわないようにわざと怒られる呼び方をしたりしたけど、恭弥が忘れるはずもなかったんだ。自分の家のことなんて、忘れたくても忘れられない。そんな簡単に消えてはくれない。
 消せないのなら、受け入れるしかない。受け止めるしかない。拒絶で消せないのなら、残るのはその反対だ。
 雲雀という家が名家であることはオレも知ってる。具体的にどういうものかは全然知らないけど、お金もあって権力もある有名な家柄だ。
 今はご両親もお兄さんも留守みたいだけど、そのうち挨拶させてもらおう。
 自分の子供を本気でどうでもいいと思ってるような両親なら、弟のことなんて知るわけがないなんて兄弟なら、オレが恭弥をもらおう。
 いや、えらいこと言えるようなお金なんて持ってないし、所詮ぼろアパートに住んでるしがないフリーターなんだけど、さ。もしも雲雀家がそういうところなら、俺はそんな冷たいところに恭弥を置いておくなんてこともうできないから。

「…
「ん? どした?」
 足を止めた恭弥に手を引っぱられて立ち止まる。
 気付けば前方に三人、後方に二人。合計五人のあっつそうな格好をしたいかにも不審者を体現したような男か女かがいた。オレ達の行き先と退路を塞ぐように。
 サングラスにマスクにそれぞれ帽子を被って、肌の見えないような長袖長ズボンを着用して、なんか、いかにもって感じ。
 はーと息を吐いてがしがし髪をかく。「久しぶりですねぃ」とぼやくと「そうだね」と同意した恭弥がオレの手を離した。
「恭弥、腕っぷしに自信は?」
「黒帯持ってる僕に訊くの、それ」
 唇の端を吊り上げて不敵に笑った恭弥に同じく笑う。「じゃあ大丈夫だね」と。じりっと包囲網を狭めてくる暑そうな格好の人達に視線を投げて「オレ喧嘩はちょっと久しぶり。自信ないなぁ」なんてぼやきながらとんとんとスニーカーのつま先でコンクリの地面を叩く。
 ツタヤにDVDを返却した帰り道、コンビニでアイスを買って外で立ち食いしてからのんびり裏道に入り、人通りの少ない路地で暑い空気に溶けそうになりながら恭弥とキスをして、手を繋いで帰路を辿っていた。はずだ。気付けなかったのは考え事してちょっと頭がぼんやりしてたせいかもしれない。あと暑いせいだ、きっと。
 オレと恭弥からは仕掛けず、あくまで被害者の立場を守った。「ところで」「んー?」「帰ったら」恭弥が言いかけた言葉を遮るように、一番太ってる奴が仕掛けてきた。それからあと四人が。腰を落としてじゃりとコンクリを踏み締めて蹴る。帰ったら、の言葉の続きは聞こえなかった。
 恭弥は雲雀の家の人間だ。兄弟の中で一番末っ子で、一番自由。今は何もしていない。上の兄二人は社会的に独立しているし、有名人だから、手を出しにくいんだろう。親を強請って金を奪おうとか最低なことを考えるなら、子供を攫って脅すのが一番早い。あるいは弱みを握るとか。そういうのは恭弥が小さい頃からの周りの常だった。だから恭弥は自分の身は自分で守れるようにと一通りの体術武術を会得しているし、こういう場面に居合わせることが多かったオレも自然と喧嘩には慣れた。むしろどうすればもっと効率よく倒せるか、怪我をせずに相手を無効化させられるかと本とか読み漁って研究したくらいだ。
 だから、夏のせいでダルい身体も、スイッチが切り替わったように動く。
 ごっ、と最後の一人に踵落としを見舞った。どしゃと人が倒れた音が響いたあとに足を下ろしてつま先でコンクリを叩く。ああ疲れた。
 振り返れば、恭弥は一人のサングラスとマスクを引っぺがしたところだった。「見憶えは?」「あるわけないでしょ」ぽいとサングラスとマスクを放った恭弥のところへ行く。伸されて気絶してる相手を一瞥してから恭弥の腕を取って立たせた。
「怪我は?」
「ないよ。君は?」
「オレもない。じゃあ帰ろ、汗かいちゃった。涼しい部屋でのんびりポテチ食べたい」
「はいはい」
 恭弥の手を取ってしっかり指を絡めて握り合い、動かない不審者を置いて、オレ達はマンションへと帰宅した。
「ところでさ、帰ったらの続きはなんだった?」
 そんなことを思い出したのは寝る前だった。うつらうつらしてるオレの言葉に恭弥は呆れたような顔をして「もういいよ」なんて言うから、「そー? じゃあオレ寝ちゃうよ」とこぼして快適な室温の部屋でシーツに頬を預ける。
「…シてよ、って言おうとしてた」
 ぼそっとそんな声が聞こえて、落ちかけた意識で唇の端を持ち上げて笑う。明日デートするんだろ? なら今日はなしだよ。
 全く、恭弥は淫乱だね。誰に似たんだろうそこんとこ。まさかおにーさんとかまでってことないよね? いや、どうなのかな。ちゃんと会ったことがないから何とも言えないな、なんて思ってるうちにすっかり眠って、気付いたら朝だった。夢も見ないで熟睡したらしい。きっと暑い中久しぶりに喧嘩したせいだろう。
 思ったよりオレの体力は落ちてるかもしれない。そりゃあ最低限しか動かない生活してたらしょうがないんだけどさ。
 暑さが一段落してきたら、またバイトを探して頑張ってお金を貯めよう。
 眠気の残る頭を振って起き上がる。隣のベッドでは恭弥がまだ眠っていた。その寝顔に顔を寄せて額に唇を押しつける。さて、じゃあ朝ご飯の用意をしようかな。
 キッチンで朝食の用意をしていると恭弥が起きてきた。「あれ、今日は早いね」と声をかけると、眠そうな目を擦りながら「君のキスで起きた」なんて言うから思わず笑った。
 トースターにシナモンロールを放り込んで一分だけ加熱する。冷たいままでもいけるレトルトのスープを器にあけて、一つを恭弥に、一つを自分に。あとは冷蔵庫にあるツナとトマトとほうれん草のサラダを出した。食べてていいのに、焼けたシナモンロールを皿にのせてオレが隣に来るまで恭弥は食べずに待っていた。
 カウンターの背の高い椅子に腰かけて、手を合わせていただきますをする。
 二人で朝食を食べて、片付けはやってくるお手伝いさんの仕事らしいので食器は流しに重ねて放置。歯磨きしながら「どこ行くの?」「六本木?」「いや訊かれても。つか六本木とか物価違いすぎる…」ちょっと遠い目をしたら肘で小突かれた。「僕が出すって言ってるでしょ」「や…いつも悪いなぁと」「君はお金ないんだから素直に甘えてればいいんだよ」「そりゃそうなんだけどさ。でもなぁ」しゃこしゃこ歯を磨きつつ息を吐く。お前はそう言うけど、男として、なぁ。事実で真実なんですが、だからこそいただけないというか。
 先にうがいした恭弥が「それに」とこぼすから、続いてうがいしつつ首を捻った。タオルに口元を埋めてるせいか聞こえにくい。
「何?」
「…僕がにしてあげられることは、お金のことくらいしかないもの」
 ぼそぼそとした声に口の中の水を吐き出してから息を吐く。
 手を伸ばして恭弥の細い腰を抱き寄せた。びっくりしたようにその手からタオルが落ちてぱさと音を立てる。
「あのさ。お金で時間買える?」
「…買えるんじゃない。そういうところに行けば」
「愛も買えると思ってる?」
「……それは、分かんない。けど」
「たとえばだけど。オレが大金積まれて抱いてくれって言われて、他の誰か抱くと思う?」
「やだ。っていうかそれ許せない。何それ、そのたとえ」
「オレにとってそれくらいない話だって言ってんの。どれだけお金積まれてカタチだけのことを重ねても、心から愛することなんてできやしない」
 言い淀んだ恭弥の唇を奪えば、灰色の瞳は熱に揺れていた。だけどこれから出かけるからあくまでキスだけで顔を離す。「だから、オレはどっちも買えないと思う。恭弥ができるのがお金のことだけなんて、自分で決めないでよ。ね?」「……うん」オレの腕の中でこくりと頷いた恭弥を緩く抱き締めてから離す。
 さて、着替えて、出かけるなら気合い入れていかないとね。主に暑さ方面で頑張らないとな、オレ。