一緒に行けるなら別にどこだってよかったから、六本木は気後れするから違うとこにしよ? と言うに折れて、じゃあ表参道ヒルズと言ったらそこに決定した。原宿駅から少し歩かないといけないけど、今日は頑張るつもりらしいから、余計なことは言わないことにした。
 東京駅から山手線に乗って、午前十時でも十分強い陽射しの中に出る前に、壁際に彼を押しつけて鞄から日焼止めを取り出した。ぱたぱた手で自分を仰ぎながら彼が首を傾ける。その首筋を汗が伝っていった。
「恭弥いちいちそんなの塗るの?」
「うるさいな。僕は日焼けすると皮膚が赤くなるんだから仕方ないだろ。ほら手出して」
 彼の掌に日焼止めの乳液をたっぷり落とす。「顔とか首とか腕とか、肌見えてるとこは塗って」「んー」両の掌に液体を擦りつけた彼がぞんざいに塗り始めた。ハンカチを取り出して額に浮いてる汗を拭いてやる。本当に暑いのが苦手な彼はなんかもう苦しそうだった。
 やっぱり言わなきゃよかったろうか、出かけようなんて。デートしようなんて。僕は彼を苦しませたいわけじゃないのに。
 でも、嬉しかったんだ。暑いのが苦手なことと僕とデートに行くこと、秤にかけて、僕を選んでくれたことが嬉しくて。本当に嬉しくて。
「あんがと」
 暑さに参りながらも、彼が僕に笑いかける。ハンカチを引っ込めて鞄に突っ込んだ。なんか、照れくさい。
 一緒に歩き出したけど、駅の屋根の下を出たのは僕が先だった。陽射しに怯んでるみたいに微妙に躊躇ったあと、彼が僕の隣に立つ。「あぢぃ」「はいはい。歩くよ」暑いとすぐTシャツの襟を引っぱる彼の手を叩く。「それするなって言っただろ。服が伸びる」「うう。だって暑い…」「じゃあ脱いだら」半分呆れて言ったんだけど、本当に実行しようとするから慌てて止めた。「馬鹿、本気に取らないでよっ」「だって…」ぱたぱた自分を仰いでる彼にはぁと息を吐いて手を離す。
 五分袖にベスト、薄手のカーゴパンツって格好なのに彼にとってはすごく暑いらしい。対して僕は、日焼けするとかなり肌が痛くなる体質だったから、白いワイシャツにグレーのドレープを羽織って、黒のスキニーだって折り曲げてないし、足元も彼みたいなサンダルじゃなくて普通に靴だった。暑いことは暑いけど、日焼けして肌がヒリヒリするよりはずっといい。
「ほら、頑張って」
「恭弥早いー…。元気だなぁもう」
「いつもと同じだよ。君がすごく遅いだけ」
「じゃあ手でも引っぱって歩くの手伝ってよー…」
 引きずるようにしか歩いてこない彼を、色んな人が抜かしていく。みんな暑くてもそこまでだらしなくはならない。はぁと息を吐いて仕方なく彼のところに行って、少し迷ってからだらりとしたままの手を取った。
 僕にとっては唯一で最大の弱みだ。この間みたいな連中が僕らのこういう行動を利用しない手はないだろう。調べれば彼が僕の幼馴染であることなんてすぐ分かるし、それ以上であることも、この夏でもう証明されてしまったようなもの。写真取って脅されたりとか普通にありそうだ。
 でもいいよね。これくらいならきっと人前でも許される範囲だ。手を取って歩くことぐらいなら。
 彼の遅い歩みを理由にその手を引っぱりながら先を歩いて、ようやくヒルズに到着した。
 すっかりぐでっとしてる彼の背中を押して自動ドアをくぐれば、涼しい空気が吹き込んできて髪が揺れた。
「ほら着いた」
「…人が、多いね。休日でもないのに」
「東京ってこんなものだよ」
 ハンカチを取り出して彼の額を伝った汗を拭う。「休憩する?」「じゃあ三分だけ」近くのベンチに行ってぺたんと座り込んだ彼から視線を外して、久しぶりに来たなとヒルズ内を仰いだ。
 全ての階が吹き抜けになっている空間を囲むスパイラルスロープと、そこに立ち並ぶショップは、全部でいくつだったかな。
 まずどこに行こう。メンズのところと雑貨かな。お昼もここにしようか。どこか移動してもいいけど、がまた疲れてしまうだろうし。
 考え込んでいると、通路の手すりに肘をついてお店を眺めていた僕の両側を塞ぐようにの手が置かれた。背中に体温を感じて心臓が跳ね上がる。
「もう大丈夫。どこ行こう?」
「…下から順番に行こうか。お昼もここでいい?」
「ん。どこへなりと」
 ああくそ、振り返ってキスしてやりたい。その衝動をぐっと堪えて、離れた彼を振り返る。
 どんな人混みの中にいても、君はきっと僕を見つける。僕も、きっと君を見つける。
 足を止めたが僕を振り返った。「恭弥?」と呼ばれて大股で彼に追いつく。その腕に腕を絡めたい衝動が身体を駆け巡った。それを抑え込む。そんな僕に顔を寄せて、彼は言う。「ねぇ恭弥、いいにおいだね」「何が?」「恭弥が。花みたいな香りがする」囁く声と顔の近さに心臓が一気に加速した。試しにロクシタンの新しい香水を使ってみたんだけど、いいにおいなんだ。キツくないかなってちょっと心配してたからよかった。
「女の子みたい」
 くすりと笑ったに鉄拳を叩き込もうとしたら避けられた。あはと笑って「冗談だよ。ほら行こう」と歩き出すから、震える拳で空中を一回殴っておいた。
 くそ、余裕かまして。今に見てろこの馬鹿
 たまには行きつけ以外のものだって色々買ってみようと、ソープセットを購入して、アロマキャンドルっていうのを初めて買ってみた。だけど肝心のファッション関係はあまりピンとくるものがなかったと漏らしたところ、が鞄から東京観光の雑誌を取り出した。野菜に突き刺したフォークの手が止まる。「何それ」「トイレ行ったときついでに売店で買ってみた。あるといいかなーって」「ふぅん」ぱく、とブロッコリーを食べる。夏野菜にボロネーゼみたいなソースのかかってるグラタン仕立てのランチは、値段的にこんなものかなという味だった。
 前髪をかきあげた彼が雑誌をぱらぱらめくった。
 ……どうしてそんな動作でさえ僕の意識の中で大きく見えるんだろう。なんてことない、いつものなのに。
「池袋のパルコでも行く? 駅出てすぐだ。外歩かなくていい」
「…君は本当暑いの苦手なんだね」
 決め手がそこなんだと息を吐くと、向かい側にいる彼は「ごめん」と笑った。
 そんなことより、だ。こつと彼の受け皿を指で叩いて「食べなよ」とさっきから何度も促してるんだけど、お店が涼しくても食べ物が熱いからか、彼の食はあまり進まない。「あーうん」と返事はするけど野菜を食べるのは一口ずつだし、さっきから水ばっかり飲んでるし。
 …こうしてもらったら、僕は嫌でも食べちゃうな、と思いながら自分のフォークでお皿の野菜を突き刺した。ソースと絡めてから「口開けて」と言えばきょとんとした顔の彼がいる。フォークを突きつけて「ほら早く」と急かすとようやく口を開けた。
 さっきまで少しずつしか食べなかったくせに、僕が食べさせればはすんなりグラタン皿を空にした。
「なんだ、食べれるんじゃないか」
 少し呆れて、自分の残りの野菜にフォークを刺す。向かい側で彼は笑った。「恭弥が食べさせてくれたからだよ」なんて甘い言葉を言われてふんとそっぽを向く。照れてなんかやるもんか。
 昼食を終えてからヒルズを出て、駅までの道を戻る間に彼がまたぐでっとなって、だらしない背中を押したり手を引っぱったりしながら駅に戻って電車に乗った。
 一日券て便利なんだなと初めて思った。今までは目的地に行ったらそれでおしまい、帰るっていうのが多かったし、こんなふうに出歩いたことがなかった。一人で行っても人混みが鬱陶しいだけだし、行きたい場所もそうなかったし。はお金がないって遠慮するから、こんなふうに買い物したのはだいぶ、久しぶりだった。
 パルコに行って、遠慮なくお金を使って買い物をして、荷物は全部持つっていうからに任せて、紙袋で片腕が塞がった彼を引っぱって最後は六本木に決めた。やっぱりあそこからの夜景を一緒に見ておきたいと思ったから、渋る彼をメトロに引っぱり込む。
「往生際が悪い」
 空いてる席に座り込んでぐでっとなってるの額を小突く。「だってさぁ、物価が」「うるさいよ」いちいちそればっかりだな君は。思い切り睨むと彼はそれ以上は言わないと肩を竦めて、がさがさ紙袋を鳴らして荷物をなるべく小さくまとめ始めた。「面倒なら宅配で家に送るのに」「これくらい持つって。もうちょっと節約しようよ恭弥」「知らない」ぷいとそっぽを向いて腕を組む。こっちを見てる女子高生っぽい集団と目が合った気がしたけど無視した。なんかひそひそ言われてる気もするけど、どうでもいい他人の評価になんて興味はなかった。
「六本木で買いたいものあんの?」
「それは特にないけど…」
「けど?」
 首を傾げたが地下鉄の騒音に掻き消される僕の声を拾おうと身を乗り出した。
 何となく言い淀んでしまうのは、女子高生の視線のせいだと思う。
「上から見た景色、きれいだから。と一緒に見たいなと思っただけ」
 ぼそぼそそう言ったらきょとんとした彼が口元を緩めて笑った。あどけない笑顔に顔を逸らして女子高生の集団を睨んでやると、わざとらしくあっちへこっちへ顔を逸らされた。…なんだあれ。
 六本木ヒルズに到着した頃にはすっかり夕方だった。
 五十二階にあるバーは一度だけ行ったことがあった。何のパーティだったか忘れたけど、雲雀の人間が全員顔を出さないといけないパーティで、僕も嫌々ながらに出席した憶えがある。
 退屈な時間も静かでつまらない音楽も興味なんて湧かなくて、一人で外向きのカウンターの席に座ってただ景色を眺めていたあの日の自分。地上から二百五十メートルの高さだということを思い出して、だからきれいなんだなと一人納得して、パーティが終わるまでの時間、ただぼんやりと夜景を眺めて過ごしていた。
 夕方の時間のバーは空いていた。まばらな人影の中、窓際の席に案内された。探していたカウンターの席は、あの頃と違って存在しなかった。
「わー、高いなここ」
 もふとソファに埋もれて下を覗き込んだが腕をさすった。考えもしなかったけど、高いところ、苦手なんだろうか。
「高いの駄目だった?」
「ああいや、そんなことないけど。恭弥こんなとこ知ってたんだね。なんか意外だ」
「悪かったね意外で」
「悪い方に取るなよ。いい意味だよ」
 笑った彼にぷいとそっぽを向いてソファに埋もれるように腰かける。
 幼い頃ここから見た景色は夜の風景だったけど、あの頃と違って窓際のカウンター席はなくなっていた。そうか、あの頃とはやっぱり違うんだな。そんなことを思いながら暮れていくオレンジの景色に目を細める。
 まだまだ時間がある。いくらでもチャージ代払うから、できれば夜が更けるまでここにいたい。
 暮れていく景色を見ていると、「きれいだね」と言われた。「うん」と返して視線を流す。ここは随分涼しいのに、向かいにいる彼はまだ苦しそうだった。「暑いの?」「んー、あと三分いる…」ぐでっとうなだれる彼にふうと息を吐いた。メニューを開いて「とりあえず何か頼んでおこうか」と言うと、メニューの下にあった季節のメニューみたいなのをとりあげたが「じゃあこれでいんでない」とグラスを指した。プラネタリウムをイメージした特別メニュー、らしい。
「まだお腹空かないでしょ?」
「んー、そうだなぁ。もうちょっとあとがいい」
「…君、甘いものは食べる気ある?」
「ん。このノンアルのやつ?」
 気だるそうに伸びた長い指がノンアルコールのカクテル二つを順番に指した。浅く頷くと、彼は「いいよ」と言って目を閉じた。こんなところたまにしか来ないから、珍しいものは頼んでみたかった。
 店員を呼んで惑星と天空って名前のカクテルを一つずつ頼むと、一瞬よく分からない顔をされたけど、すぐに営業スマイルを浮かべて僕の注文を繰り返して下がっていった。…一瞬の間というか、最初の顔が気になるけど。
 眉根を寄せている僕に手を伸ばしたがテーブルに手をついて身を乗り出した。「変な顔してるよ恭弥」「…さっきの人も変な顔してたよ」「ああ、してたね」「何あれ。ちょっと失礼じゃない?」「そりゃあれだよ、不思議だったんだろきっと」「何が?」彼の言わんとしていることが理解できずにまた眉根を寄せた。眉間を撫でていた指が額をなぞって顔のラインをなぞる。
「恭弥が男なのか女なのかってことじゃないの。女だったらふつーにカップルで問題なし。でも男だったら男同士の、って考え方。だから変な顔したんだよ」
「………何それ」
 ぷいと顔を背けて彼の指先から逃げた。前を開けていたドレープを何となくたくし寄せる。
 ぼふとソファに腰かけた彼が目を閉じた。どうやらまだ苦しいらしい。
 そりゃあ、変かもしれない。こういう空間は、女同士ならお友達っていうので何となくこういうところに来るのも分かる。男同士でっていうのは、やっぱりただの友達には見えないのかな。見えなくたって、別にいいけど。
 ソファがそれなりに余裕のある大きさで、テーブルもあるし、までが遠い。身を乗り出さないと触れられない。昔みたいに窓に面したカウンター席があればよかったのに。そしたら隣り合って、くっついていられたのに。
「…昔さ。何歳だったか忘れたけど、ここに来たことがあるんだ。雲雀の人間が全員出席しないとならないパーティがあって」
 薄目を開けた彼が僕を見た。夕陽の色が眩しくて、の顔が滲んで見える。
「子供の僕にはバーの空間なんて退屈なだけだった。他に子供なんていないから一人だったし。誰もそばにいなかったし。ただ夜景だけがきれいで、ずっとそれを見てた」
「…だからここ選んだの?」
「だからっていうか……と一緒に、塗り替えたかった、のかな。寂しい思い出を」
 ぽつりとこぼすと、は苦笑いにも似た表情で「あー、すごく抱き締めたいなぁ」なんて言うから盛大にそっぽを向いてやった。
「恭弥」
「…何」
「愛してるよ」
 さらりと臆面もなく言われて思考が固まった。隣を通った店員が思わずという顔でこっちを振り返ったのが分かってさらに思考がぎこちなくしか動かなくなる。
「ば、な、にを、人前でっ」
 回復した思考で噛み付くと、彼は笑った。「かわいいなぁ恭弥」なんて言われて羞恥心で顔が熱くなってくる。どうやら暑さから回復したらしい彼が組んだ足に頬杖をついてじっと見つめてくるから、視線から逃げるように外の夕暮れを見る。十秒二十秒三十秒、一分数えた辺りで視線を無視することに限界が来た。ソファの肘掛けを叩いてきっとを睨んで「何、変だよ急に。何なの、何がしたいわけ」「だって塗り替えるんでしょ? その思い出」さらりとそう言ったがあまりしない表情をする。唇の端を持ち上げて笑う、ベッドの中で見るのにも似た、不敵な笑顔を。
「忘れさせてあげるよ。オレが」
「っ、」
 囁き声があまりにもベッドの中のものすぎて、僕の頭からは、ひょっとしたら煙が出てたかもしれない。
 顔が熱くて仕方がなくて、とにかくそれを誤魔化すために、夕暮れの景色を睨みつける。視界の端でがまだ僕を見てたけど知るもんか。落ち着くまで無視してやるから。この馬鹿