今の時期特別にやってるっていうメニューのイカ墨カレーをスプーンですくって食べる。ご飯がわざわざ月みたいな色にしてあって、三日月型に盛られていた。さすがバーの食事、オシャレだ。
 心ばかりのサラダをフォークで突き刺して口に運ぶ。向かい側で恭弥は気に入らないって顔で三日月の先っぽと一緒に黒いカレーをスプーンですくったところ。
 恭弥はイカ墨は嫌だと言い張ったけど、これ以外はちゃんとしたコースのディナーしかなかったから、オレはそういうのあんまり好きじゃないと言ってみたところ同じカレーにしてくれた。イカ墨の味が嫌なのかと思ったけど、食べると舌とか黒くなるから嫌だ、が理由らしい。オレは別に気にしないけどなぁそんなこと。
 陽が沈んだ窓の外の景色は夜の色で、恭弥が言っていたとおり、きれいな夜景だった。
 そういえば今何とかって高い建物が建設中なんだっけ。それができたらもっと上から東京を見渡せるようになるんだろう。オレはここでもう十分満足だけど。
「黒いカレーって初めて食べた。結構おいしいね」
 イカ墨カレーをすくって食べる。すっかり涼しい場所に身体が慣れて、食欲も回復していた。外に出たらきっとまたうだるような暑さなんだろうってことは今は考えないでおく。
 恭弥は眉根を寄せて浅く頷いただけで、相変わらず気に入らないって顔でカレーを食べていた。
 人の目を気にしてるのか、ドレープの前をしっかり閉じて、足も組まないでカレーを食べ続けている。そうしてると女の子に見えなくもないかなぁ、なんて思いながら先にカレーを平らげた。サラダの方も片付ける。
 最初に頼んだノンアルのカクテル二つは甘かった。カクテルというかデザートって感覚。あと二つ、月と流れ星ってこっちは普通にアルコールのカクテルがあるけど、どうするのかな。特別メニューを制覇するのにあとそのカクテル二つとドルチェが残ってる。北斗七星に見立てた、マカロンとかを使ったスイーツってやつ。別に制覇する必要は全然ないんだけど、半分までくると何となく制覇したくならないかな。あれ、オレだけかこれは。
 水のコップを傾けると、カランと氷がいい音を立てた。
 席は八割方埋まっていた。今何時か分からないけど、カップルばかりなところを見るに、そういう時間帯に入ってるんだろう。
 そういう人達から見ると、パッと見オレらってどう見えてるんだろう。どう見えてたって関係ないんだけどさ。
「ね、これ食べる? ドルチェ」
「…甘いと思うけど」
「ドルチェ頼んでカクテル二つ頼んだらこのメニュー制覇できる」
 そう言ったら恭弥は呆れた顔をした。「制覇したって何ももらえないよ」「そうだろうけどさー。頼まない?」「…いいよ頼んで。君も食べてよね」「イエッサー」片手を挙げて人を呼んで、ドルチェとカクテル二つをオーダーした。
 恭弥がようやくカレーを食べ終わる。最後まで気に入らないって顔のままの完食だった。
 視線を窓の向こうに投げれば、夜の空があって、ずっと下の方に車のライトの光とネオンの街並みが広がっている。
 恭弥はここへ随分昔にやってきて、一人でずっとこの夜景を眺めていたらしい。
 オレはそのとき何をしてたろう。ガキの頃の話なら、母親と父親の喧嘩に何もできずに拳を握ってた、あの頃くらいだろうか。それとも父親がいなくなって母親が泣き崩れたのを懸命に支えていた頃くらいかな。
 その頃オレと恭弥はまだ出会ってなかったろうか。どうなんだろう。
 ぼけっとしていると、「」と呼ばれた。窓の景色から視線を剥がす。「なんか話してよ。退屈だ」と伸ばされた手に少し身を乗り出して手を伸ばし返した。細い手を取って指を握り合う。
「そう言われてもなぁ。んーどんな話がいい?」
「何でもいいよ。君が話してくれるなら」
「それはまた困る…。ああ、この席間すごい不便だなってしみじみしてる。恭弥の隣がいいのになーとか」
「それは僕も一緒」
「そっか」
「うん。そう」
 控えめな照明の下で、恭弥の黒い髪がときどき冷房の風に揺れる。そうすると長めの前髪の間から灰色の瞳が見えて、潤んでるように見えるのは、多分照明のせいだろう。「空いた食器の方お下げいたします」と声をかけられて視線を上げ、店員さんに適当な営業スマイルで「どうも」と返して恭弥の指を指の腹で撫でた。
 オレと違って酷使されてない指は細いし白い。
 ああでも恭弥黒帯とか持ってるじゃん。喧嘩強いし。でも細いなぁ。なんでだろう。
「デパートとか地下街は行けなかったね」
「また行けばいいよ。暑いから君が大変だけど」
「そうだなぁ…あと二ヶ月はこの温度だもんなぁ。本当参る」
「…疑問なんだけど、どうしてそんなに暑いのが駄目なの?」
「生まれつき? 体質かなぁ。もう諦めのレベルですよ」
「慣れなよいい加減。日本の夏は何年たってもずっとこんなんだよ、きっと」
「うへーヤなこと言わないで」
 うなだれると、恭弥が笑った。くすくすと笑いをこぼしてから「君、本当どうしようもないよね。いいけどさ、別に」なんて言いながらまた笑うから、細い指を撫でながらオレも笑う。
 恭弥のそういう笑った顔、好きだな。いつもの表情押し殺してるような顔よりずっといい。
 できることならこの先もお前がそうやって笑ってくれる、そういう時間が多くなってくれればいい。オレが増やしてやれれば一番ベストの形。
 それから少ししてドルチェとカクテル二つが運ばれてきた。他愛のない話をしながら一緒にドルチェをつついて、二人で交換こしながらカクテルをゆっくり飲んで、またしょうもない話を繰り返して、閉店の一時までオレ達はバーに居座り続けた。
 そう度数のあるアルコールではなかったはずなんだけど、耐性がないのか、恭弥の足元がおぼつかない。支払いをすませた恭弥が店から出たと同時に何もない場所で蹴躓いたから反射で抱き止めた。
「ちょっと恭弥、しっかり」
 緩く頭を振った恭弥が「大丈夫」とオレの腕から抜け出す。白い光の下にいる恭弥の顔は眠たげな感じで、頬が少し赤い。カクテルのせいで体温が上がってるようだった。それと酔ってるなこれは。気付いてないんだろうけど。
 エレベータに乗って一階まで下りて、帰宅のための道を辿るものの、その間恭弥が危なっかしいったらなかったからもうしょうがないと割り切って手を繋いだ。深夜でも相変わらず暑い空気に嘆きたくなるけど、今はオレがしっかりしないといけないので無理矢理背筋を伸ばす。
「恭弥、オレについといで。転ばないように」
「…子供じゃない」
 むくれたように頬を膨らませる恭弥に頬が緩む。そういう顔もできるんだな。いいことだよ、恭弥。
「いいからついといで」
 手を引いてメトロを降りて乗り換え、日付けが変わってたから切符を二枚買って環状線で東京駅を目指す。
 人のまばらな深夜の電車で席に座る。隣で眠たげにうつらうつらしていた恭弥がオレの肩に頭を預けた。やっぱり少し体温が高いな、と思いながらしっかり握られてる手を緩く握り返す。「恭弥、着いたら起こすよ。起きてよ?」「ん…」吐息混じりの声と少し赤い頬は、劣情を抱くには十分だった。キスしたいなと思ったけどその気持ちは自分の中に押し込んだ。駄目だ駄目だ、目の前にくたびれた風体のサラリーマンがいるんだから遠慮しようオレ。誰か知らないけどお仕事お疲れ様です。
 しばらく無言で電車に揺れて、東京駅の一つ前で恭弥の肩を揺らした。「恭弥、もう着く。起きて」少し待ってみたけど返事がないので顔を覗き込んでみたところ、寝ていた。呼吸の仕方が完全に眠ってるそれだった。参った。すっかり寝てるし恭弥。
 あーもうと嘆きたくなりながら恭弥を背中に背負った。紙袋の荷物を忘れないように腕に全部引っかける。恭弥の鞄と自分の鞄をもう片腕に引っかけて、どうにか電車を下りることができた。
 ベンチに恭弥を下ろして座り込む。熱帯夜の空気と電車が運んでくる埃っぽい空気になぶられて全身がダルい。
「恭弥」
 ぺちぺちと頬を叩いてみても、恭弥が起きる気配はなかった。
 ああ参った。駅前でタクシーに乗るにしたってまだ少し距離があるのに。おぶってくのだって楽じゃないんだぞー。
 なんて泣き言を言ったところで仕方がないし、首に鞄二つを引っかけて恭弥を背負い直し、紙袋を腕に引っかけて頑張ってエレベータのあるところまで歩いた。乗り込んで降下。改札は機械じゃなくて駅員の人に切符を渡して通過した。大変だねぇと中年のおっちゃんに苦笑いされて苦笑いを返しておく。うん、まぁ大変だけど頑張ります。
 タクシーを捕まえて、この際料金はもうこだわないことにして、恭弥を先に車に押し込んだ。転がらないように注意して肩を抱き寄せながら乗り込む。なんかすごく疲れてきたぞオレ。
「きょーや」
 駄目もとでタクシーの中で何度か起こそうとしたけど、全然起きる気配がなかった。そのくせオレを探すように細い指がシートの上を這うから手を握ると緩い力で握り返された。…オレの声にでも反応してるんだろうか、恭弥の身体って。そんなわけないか。
 満足そうな顔でオレの肩に頭を預けた恭弥にはぁと息を吐いて、タクシーの料金表のとこに小さくある時計を睨んでみると、もう午前二時を回ったようだった。そしたら帰りは二時半前で、そこから風呂入ろうと思ったら三時か。そりゃあ眠くても仕方がないのかな。
 夜景の中を走り抜けたタクシーが雲雀家のマンション前に到着した。
 ぴったり料金を払ってから先に出て、恭弥を引っぱって抱き寄せながら紙袋を一度手離す。背中に恭弥を背負ってからもう一回紙袋を持って、「じゃあどうもでしたー」と運転手の人に頭を下げて踏ん張って立ち上がり、多少重心がぐらつきつつもマンションの入口へと向かう。
 ガードマンの人がいない。きっとこの時間は控え室とかなんだろう。誰もいないエントランスを抜けてロビーに入り、片腕で頑張って抱っこしたまま恭弥の片腕を探す。指紋認証だから恭弥じゃないとこれは開かないのだ。
 ぺたりと恭弥の掌を機械に押しつけると、『雲雀恭弥様、お帰りなさいませ』と合成みたいな音声が響いてから分厚い扉のロックが外れて左右にスライドして開いた。よいしょと雲雀を背負い直して扉を抜けてエレベータを呼ぶためぽちとボタンを押す。
 そこでふと気付いた。エレベータが四で止まっていることに。
 四階って言えば、二番目のお兄さんのアトリエと化してる部屋だっけ。ってことはお兄さんが帰ってきたのかな。
 ポーンと音を立てて静かに開いた箱に乗り込み、五のボタンを押す。十秒もしないうちに五階についた。エレベータを出て、そろそろ限界だったから一度恭弥を床に下ろして壁に上手に背中を預けさせた。倒れてこないことを確認してから恭弥の鞄から鍵を探す。
 あれ、ないな。これは日焼止めでこっちがハンドクリームで、ハンカチとかティッシュに財布だろ。あれ、鍵はどこにあるんだろ。
 困ったなとがしがし髪をかいたとき「かぎ。は、そっち。ポケット」と声がした。顔を上げると眠そうな目で恭弥がこっちを見ていた。「なんだ、起きた? ポケットね」言われたとおり探すと発見した。複製の無理そうな鍵を差し込んで回せば、ロックの外れる音が大きく響いて消えた。
 自力で立ち上がった恭弥はまだふらついていたけど、歩けるようだ。鞄二つと紙袋を抱えて一緒に帰宅する。
「恭弥大丈夫? 頭痛い?」
「それは大丈夫」
「そんなに強いもんじゃなかったと思うんだけど、恭弥にはキツかったのかな」
 リビングのソファに鞄と荷物を下ろす。恭弥がふらふらした足取りで部屋に向かうから心配でついていった。

「ん?」
 扉が開いたままの部屋に入れば暗いままで、電気をつけようとしたら止められた。そのくせ蒸し暑い部屋の冷房のスイッチはしっかり入れられて。
 じわりと背中に汗が滲む。暑さで、首にも手にもじわじわ汗が滲む。じわりと滲んだ汗が額を伝った。今日は頑張って外に出たからちゃんと風呂に入らないといけない。
「抱いて」
 囁くような声と一緒に鎖骨の辺りを噛まれた。「恭弥」と咎める声を出しても恭弥は止まらなかった。自分からドレープを落としてオレの首筋を舐め上げながらシャツのボタンを外していく。「しょっぱい味」とくすくす笑う声と、ボタンの外れたシャツがはだけて白い肌が覗いた。それを見たら、我慢しようって努力が無駄になってしまった。一口とはいえアルコールも手伝ったんだろう。今日は花みたいないい香りのする恭弥を強く抱き締めてしまう。
「さっきまで寝てたろ。眠いんじゃないの」
「もう眠くない」
「そー? じゃあ遠慮しませんが」
「いいよ」
 くすくす笑う恭弥に噛み付くようにキスをして、自分のベストを脱ぎ捨てた。ちゅ、と音を立てて唇を離す。熱っぽく揺れた目と目が合って、じっとその瞳を見つめ返した。
 本当に、お前はきれいだ。黒い髪も灰色の瞳も白い肌も、本当にきれいだ。熱に浮かされて微笑む顔も、魔性のものみたいで、本当に。きれいだ。
「恭弥」
 全てを取り払って、バスタブにお湯を入れながらぬるいシャワーを浴びて、恭弥を後ろから抱き締めた。
 ああ、これはオレもわりと酔ってるなと思いながら白い肌に噛みつく。恭弥の白い手がオレの腕を撫でる。煽るような、慈しむような、そんな手つきで。
 くすくすと笑う声が「くすぐったい」と言うから、「すぐに忘れるよ」なんて囁く辺りやっぱりオレは酔ってるらしい。泣きそうに潤んだ瞳を見つめてからまたキスをすれば、カクテルの甘い味がした。
 アルコール飲んだのなんて、バイト先で奢ってもらったとき以来な気がする。酒なんてオレにとっては贅沢な嗜好品だからな。自分で買うことなんてなかったし。
 ドボドボお湯を吐き出していた蛇口をコックを捻って止めた。恭弥が白い入浴剤を落とすと、丸かったそれはあっという間に溶けて崩れてお湯を乳白色に変えた。甘いにおいがする。
 するりと離れた身体がバスタブに足先を入れた。
「ミルクだよ。他にもあったけど、この色の方が都合がいいでしょう?」
 ねぇ、なんて甘い声に誘われるままバスタブに足を突っ込む。オレのおんぼろアパートの狭い浴槽とは違って、男二人が入っても大丈夫な広さのそこで恭弥の唇を奪う。まどろむように目を閉じた恭弥の黒い髪を指で撫でた。
 暑いし甘ったるいにおいで頭がだんだん機能しなくなってきた。そのくせアルコール効果のせいか、身体の熱が治まる気配はない。
 ぬるい温度の湯銭の中で恭弥の身体を抱いて、濁って見通せないお湯をいいことに、光の下でも遠慮なく細い身体に手を這わせた。オレの肩に頭をぶつけた恭弥はくすくすと笑っている。
「寂しい思い出、オレは塗り替えられた?」
「まだ、でしょ。まだ…っ、これから、でしょ?」
「それもそうか」
 お湯に浸かったからあの花のにおいは消えたのかなと思ったけど、白い首筋に顔を寄せたら甘い香りが鼻をくすぐった。始終こんな甘い香りで誘惑されたら、オレはすぐに堕ちてしまいそうだ。オレからこんな香りしたって微妙なだけだろうけど、恭弥には似合ってる。誘惑する花の香り。誘惑されるまま白い首に唇を押しつけるオレは、きれいな花に誘われた蝶、かな。
「ん…ッ」
 鼻にかかった吐息を漏らす恭弥がいつもよりダイレクトにエロい。これもアルコール効果だろうか。
 ここは暑い。身体も熱い。意識も、多分熱い。
 いつもより血色のいい唇に舌を這わせると、くすりと笑みをこぼした恭弥がオレの首に腕を回して熱い身体を寄せてきた。
「早く、をちょうだい?」
 耳元で囁く吐息混じりのその声で、ぐらついていた理性という壁はあっさりと崩壊。そこから先は自分の欲望と恭弥の快楽のためにお互いに溺れるだけの時間が訪れた。