君になら、たとえ壊されたって、本望だ

　目が覚めて、頭だけじゃなく身体もダルいことに気付いた。
　寝起きでまだあまり動いていない手を伸ばしてベッドスタンドのところに置いてあるアンティークの時計を掴んで目の前に持ってくると、もう十二時だった。いくら何でも寝すぎだ、と起き上がろうとして身体がダルくてまたベッドに沈むと、隣でもぞりと布団が動いた。顔を向けると、そこにがいた。
　ああ、そうだ。昨日は暑い中彼を引っぱって出かけたんじゃないか。最後に六本木のバーで閉店まで時間を潰して、寂しい思い出を彼で全て塗り替えて。
「………あれ」
　ぽつりとこぼして額に手を添える。
　閉店時間でバーを出た辺りまでは記憶がある。だけどそこから先がぶつぶつだった。電車に乗った、ような気がするけど、憶えていない。記憶が飛んでいる。バーで飲んだのはカクテルを少しだったと思うけど、あんな程度で僕は酔ってしまったんだろうか。頭がダルいと思うのはそのせいだろうか。
　それに、身体がダルいのは、シたってことだ。が一緒のベッドで寝てるのがいい証拠。
　断片的な記憶で、お風呂でシて、ベッドでもう一回シたことを憶えている。そこから先がない。ってことは、僕はそのまま寝たってことか。
　上二つのボタンだけ閉じられたシャツで、視線を彷徨わせる。ベッドから落ちてる黒いジャージを見つけて手を伸ばした。今更とはいえやっぱり何もはいてないのは恥ずかしい。もぞもぞベッドから抜け出てジャージに足を突っ込んで、つけっぱなしのクーラーを一度切る。シャワーを浴びないといけない。ちらりと彼が寝てることを確認してからのろのろ部屋を出て、バスルームに向かう。
　黒いシャツのボタンを外せば、ところどころに赤い華の咲いた自分の肌があった。
「…こんなになるまで、シたっけ」
　断片的な記憶しか思い出せなくて、もうお酒は飲まないでおこうと心に決めた。
　シャワーのコックを捻る。ぬるい温度のお湯を浴びてボディソープを葉っぱの形のスポンジにつける。泡立てて緩く肌を洗いながら、ヴァーベナの香りに目を閉じる。
　今日はボディソルトも使ってきれいにしようか。昨日汗をかいたまま寝てしまったんならその方がいい。は、どうしたのか知らないけど。
　全てすませて着替えてリビングに行く。じわりと汗が滲んだから冷房を入れた。もう十二時だから、やっぱり暑い。
　あれだけ日焼止めを塗ったのに肌が少し痛かったから、ミルクの香りのするボディクリームを塗っていると、が起きてきた。「はよー」「おはよう」「何してんの？」「…肌が痛いからさ。あれだけ気をつけたのに、日光にやられたみたい」ミルク色のクリームを掌に落としてシャツのボタンを外し、胸元に掌を当てる。マッサージするように肌に馴染ませていると、ぺたぺた素足で歩いてきた彼が僕の額にキスをした。「襲いたくなる」なんて囁き声にそっぽを向いて「朝ご飯の準備でもしてよ」と言えば「へーい」と肩を竦めてはあっさり離れたいった。
　自分で促しておいて、あっさり離れた彼の背中を睨みつけた。なんだよ、襲ったっていいのに。
　一緒に朝食を食べ、洗い物は放置して、シーツを洗濯した。洗濯機の回る音がたまに耳に引っかかる。
　ソファに寝転んだの腕に抱えられながら一緒にテレビを見ていると、「甘いにおいだなぁ」なんてぼやいた彼が僕の手の甲に唇を押しつけた。意識しないようにして手を引っ込める。昨日の今日だから、今日はシない方がいい。僕の思考が分かってるように彼は苦笑いした。じろとその顔を睨んですぐ視線を逸らす。
　テレビだけ見て一日過ごすのなんて、最初の数日でもう厭きてしまっていた。
　家でできることなんて限られている。僕はパソコンはしないし、ゲームもしないし、テレビはあるけど暇潰し程度のものだったし、読書はするけどそれは一人の場合の話だし。つまるところ、二人でできることが映画鑑賞とか以外に見当たらないのだ。
「今日何しよっか」
　適当にテレビのチャンネルを回す彼の言葉に、「何しようね」と投げやりな返答をしたところ、また苦笑いされた。睨んでやると彼は首を竦める。ぶちっとテレビを消すと頭の後ろで手を組んで目を閉じるから、「じゃあ出かけようよ」なんて言ってしまった。そのまま眠られでもしたら僕はすごくつまらないし、どのみちそれくらいしか時間を過ごす方法が見つからなかった。ぱちと目を開いた彼が僕を見て「でも恭弥ダルいでしょ？」「平気。どうせ君歩くの遅いし、大丈夫」「そう？　んー、じゃあオレも頑張るけど」よいしょと起き上がった彼に抱き締められた。心臓がとくとくと速い鼓動を始める。「本当に無理してないね」「…大丈夫」「ん」気遣っている声に小さく返して目を閉じた。
　家でのんびりしてるのも、こうして抱き締められているのももちろん好きだ。ずっとこうしててもいい。だけどそれは、多分またベッドに行くことに繋がるから。シないつもりでいても結局お互いがお互いに惹かれて折れてしまうなら、屈しないように、するしかない。
　昨日はできなかった、地下街を歩いてデパートとかに行くっていうのを今日の目的にした。
　黒のデニムにストライプ模様の半袖のTシャツを着て、夏素材のワッシャー加工がしてある淡いブルーの長袖のシャツを羽織る。昨日よりだいぶたっぷり日焼止めを塗って、ついにでにも塗ってあげた。
「恭弥、そのかっこ暑い」
「うるさい。地下とか涼しいから大丈夫だよ。日焼けするよりずっといい」
　東京駅まで出て、暑さに参って襟に手をやるその手を叩き落す。「痛い」「伸びるだろって何回言えば分かるわけ」「だって暑い…」五分袖のシャツの前を全部開け放って、下に着てるVネックのTシャツを掴んでばたばたさせる彼の手を叩く。「痛い恭弥」と言われるけど無視した。服が伸びるのもそうだけど、肌が見えるだろこの馬鹿。
　駅に着いて、人の多さに辟易していると上着を引っぱられた。視線を上げると夏の空気に参ってるが「建物では脱いだら」なんて言うからそっぽを向いた。仕方なく袖を肘まで折ってやると、一応納得したらしい。陽射しがなければ上着を着ている理由は確かになかったけど、僕は一枚は落ち着かないから仕方がない。
　東京駅はどちらかというと観光客が買って帰るようなお店が多くて、いつも騒がしい。人の往来も半端がない。微妙にぬるい空気の地下街に、はだるそうだった。涼しくするならしろよって顔だ。
　たまたま目に入ったジェラートのお店でアイスを一つ頼んで二人で食べて休憩して、彼の体力を取り戻して、また二人で地下街を歩く。
「東京ってすごいなぁ。何でもある」
「…都内に住んでる人の台詞とは思えない」
「オレ端っこだしなぁ。こんなところ恭弥としか来ないよ」
　屈託なく笑った顔に視線を逸らす。
　…さりげなく僕としか来ないとか言った。少しは躊躇えばいいのに。なんで僕が照れないといけないんだ。
　ふいに手を取られた。「恭弥、あれおいしそう」なんて僕の手を引っぱる彼に「ちょっと」と声を上げるけど無視された。お店に飾られてるお菓子の方に歩いて行く彼に、ちらりと視線を上げる。看板を見上げるとフランスの洋菓子の店だと分かった。
　彼が気にしたのは焼き菓子の方ではなくて、夏らしいゼリーやプリンのギフトセットの箱の方だ。見本のプリンとかゼリーを見て「うまそう」なんて漏らす彼にはぁと息を吐く。僕はそっちよりもブランデーケーキとかティグレの方が気になったけど、それより意識してしまうのは、握られたままの手の方だった。かろうじて握り返すことはしていないけど、ぎゅっと握りたくてしょうがない。それを我慢して手を解き、鞄から財布を抜く。「どれがいいの」と訊けばきょとんとした顔で彼が僕を見た。「え。買うの？」なんて、おいしそうって言って僕の手を引いたくせに、今更なことを言う。
「どうせ夏場は食べるだろ。暑いと君の食欲は極端に落ちるし、デザート、あった方がいいだろうし」
　にこにこ営業スマイルの定員にブランデーケーキ一箱と焼き菓子の詰め合わせを一箱頼んで、視線を投げる。考え込んでる彼に一つ息を吐いて「勝手に頼むよ？」と言えば「あー待って、プリンもうまそうだけどゼリーもうまそうなんだ」「なら両方でいいじゃないか」「…恭弥、節約って言葉知ってる？」「うるさい」ぴしゃっと言ってからプリンとゼリーの一番大きい箱を頼んだ。
　持って帰るのは面倒くさいし暑い中持ち歩くと物が悪くなりそうだったから、宅配にした。受け取りは明日の午前中に指定する。カードで支払ったらが微妙な顔をしてたけど気付かないフリを通した。使えるところで使うのがお金だってこの間も言っただろ馬鹿。
　東京駅は人が多すぎるし、デパート巡りと言えば新宿だ。
　山手線で駅に降りて、デパートの扉に微妙に遠慮がちになるの背中を押して店内に入る。涼しい空気に息を吐くと、彼が額を手の甲で拭って「あぢがった」とか漏らすから鞄からハンカチを出して拭いてあげた。「暑がりだね」と呆れると彼が笑う。苦しそうだったけど、それも五分すればなくなるだろう。
　ルイ・ヴィトンとかティファニーとか、聞いたことはあるだろうブランドの店構えを前にすると「ここは用事ないだろ」と手を引っぱられた。「見ないの？」「見てもしょうがないし。あんな馬鹿高いとこ」「一つくらいなら買えるけど」「買わなくてよろしい」エスカレーターまで手を引っぱられて歩いて、慣れればいいのに、なんて思った。僕が彼の金銭感覚に慣れた方がいいんだろうか。無理だろうけど。
　レディースものと彼の言う高いブランドのお店はスルーしているうちに、手が繋いだままだということに気付いた。その手元を見つめて少し考える。腕時計も何もしてない手は、少し寂しい。
　僕も彼もあまりアクセサリの類をしない。ネックレスくらい何かあった方がいいのかもしれないけど、彼は暑いうちはそういうものつけないだろうし。
　三越を回って、髙島屋に移動した。少しの距離でも外に出れば途端にだらしなくなるの背中を押す。
　午後二時過ぎだから陽射しは一番強い。タクシーを呼ぼうかと言ったら歩くよこれくらいと言われたから、歩みの遅い彼の手を引っぱったりしながら十分の道のりを徒歩で移動した。
「ねぇ」
「んー」
「は携帯ないんでしょ」
「ないよ」
「腕時計とか、ほしくない？」
「時計ねぇ…。またバイト始めるならあった方が便利だろうなぁ」
　そんな会話をしながらデパートに辿り着いて、食品フロアとレディースとかを抜かしながら順番に見て回った。腕時計が何かないかと探したけど、値段を見たら絶対拒否されそうなものしか扱っていなかった。
　何も買わないままなのもな、と思って彼の手を引っぱって寝具を扱ってるコーナーに行く。ちょうどいい感じの模様のものがあったから触ってみた。肌触りもそれなりだし、白い生地に薄く区別がつく程度の色合いで花が散らしてある。派手すぎないし地味すぎない。しばらく色の違いに慣れないだろうけど、これにしよう。
「持って」
　シーツの入ったビニールケースを彼の腕に押しつけた。「買うの？」「うん」「黒くないけどいいの」「黒じゃ買い換える意味がないだろ」不思議そうに首を捻った彼はどうやら何も気にしていないらしい。「…洗濯が、大変じゃないか。黒いのは」ぼそぼそ付け加えると、ああと納得した顔をした彼が改めてシーツを見た。「ベッドシーツだけでいいの？」「いいよ」なんだか照れくさかったから背中を小突いて「レジ」と急かす。
　荷物になるからまた宅配で送ろうと思ったけど、彼が持つと言ったから宅配の手配はやめておいた。
　それから二つデパートを巡って、夕方になった。「夕ご飯どうする？」外に出てからああ中で訊けばよかったなと思った。すっかりぐでっとなってるが「あー…どこでも」と気のない返事しかしないから。
「じゃあコースでもいいの？」
「それは無理…入らない」
「なんだ。どこでもよくないじゃないか」
「ごめ…。できればちゃんとしたとこより、恭弥の隣に座って食べれるとこの方がいい」
　ぐでっとしてるわりにさらっとそんなことを言われてちょっと言葉に詰まった。
　そんなこと言われたって、僕にどうしろっていうんだ。適当なレストランとかじゃ向かい合う二人席に案内されるに決まってる。カウンターのある席は、カフェとか、落ち着けない場所が多いし。
　新宿駅まで戻る道すがら、暮れてきた景色の中にあったレストランに窓辺に面したカウンター席があるのが見えて、結局そこにした。
「ほら」
　ぐでっと感が増してる彼の背中を押して入店する。カウンターの席を希望すると通された。「体力が底尽きそう…」情けない顔でテーブルにもたれかかった彼に一つ息を吐く。「もう気温上がらないよ。夜になるから」「んー」苦しそうな顔をしてるから、メニューの方でぱたぱた扇いでやる。ハンカチで額を拭ってあげる。今日何回そうしたか、もう忘れた。
「きょーや」
「何」
　気だるそうに伸びた手が僕の髪を撫でた。その手が何度も僕の髪を撫でては滑り落ちてを繰り返していると、水のグラスを持ってきた女の定員が注文も聞かずにコップだけ置いて慌しく退散した。
　それが見えていなかったように彼は僕だけを見つめて髪を撫で続けた。
　まっすぐ僕だけを見つめるから、視線が。剥がせない。
　…今日はまだ一度もキスしていないんだと、とっくに気付いていた。
　半日外に出てたんだから当たり前なのかもしれないけど、まるで遠慮でもしてるみたいだ。昨日壊れるほど僕のことを抱いたわけでもないだろうに、どうして遠慮なんかするんだろう。
「ねぇ」
「ん」
「キスしようか」
　カタンと席を立ってカウンターに手をついて顔を寄せる。そっちがしてこないなら僕からするまでだ。
　ぱちと一つ瞬いた彼が「人見てるけど」「いいんじゃない、見せてやれば」「大胆だなぁ」笑ったも十分大胆で、舌先で僕の唇をぺろりと舐めた。三秒前自分で言った言葉を忘れたんじゃないかと疑ってしまったけど、唇の端を持ち上げて笑ってるに負けてやるものかと唇を押しつける。
　遠慮はしてるし直視はしてこないけど、オーダー待ちの店員とレジにいる店員は絶対にこっちを意識していた。
　触れるだけの口付けで顔を離す。「もうおしまい？」なんてテーブルに頬をくっつけて笑う彼を睨んだ。
「僕ばっかりにやらせないでくれる？」
　今度はそっちからしろと睨みつけると、肩を竦めた彼がのそりと起き上がって、伸びた腕に抱き締められた。
　ヴァーベナに少し汗の混じったにおいは、夏だ、って感じで。同じものを使っててもやっぱり違うんだなと思いながらキスをした。髪を撫でるゆっくりとした掌と、触れることしかしてこない唇にもどかしくなったけど、人がいる。できてもここまでだ。そういう店なら別だけど、ここは普通の店だから。他にお客さんとか来たら追い出されそうだし。
　唇が離れて、腕も離れた。まだ若干だらしないまま椅子に腰かけた彼がぺらりとメニューをめくる。「恭弥何にする？」「…何でもいいけど」椅子に座ってガラスに映る店員を観察してみた。女二人だからどっちも分かりやすい表情で僕らのことを見ていた。
「じゃあオレはー、フルーツジュースでいいや。さっぱりしてそう」
「…それは飲み物でしょう。食べ物決めてよ」
「なんか胃に入る気がしないんだよなぁ」
「食べさせてあげるから、何か決めて」
「えー。んーじゃあ恭弥決めていいよ。頑張って食べるから」
　はい、とメニューを押しつけられて、仕方なくメニューを斜め読みして店員を振り返った。睨んでいると、オーダーだと遅れて気付いた店員が駆け寄ってくる。
「失礼しました、ご注文はお決まりでしょうか」
「これとこれとこれ一つずつ。あとミックスジュースと紅茶のアイス」
　適当だろうと思ったオードブルのプレートとふわふわらしいチーズオムレツとほうれん草のヘルシーハンバーグっていうのを指して、飲み物二つを付け足した。慌しく注文を復唱する店員から意識を外す。テーブルに頬をつけて目を閉じてるはまだだるそうだった。
「…ねぇ」
「んー」
「帰り、またDVD借りてこうよ。どうせ帰ったら暇なんだから。ホラーはなし」
「ん」
　苦笑いした彼がのそりと身を起こす。「ハラハラドキドキの冒険ものにするかなぁ」とかぼやく声を聞きながら頬杖をついてガラスの向こうの景色を眺めた。
　昨日きれいな夜景を上から見たばかりだったけど、彼が隣にいるならどこから見た景色でもわりときれいだ、ということに今更気付いた。