物心ついたときが俺の思考が目を醒ましたときで、年齢にして3歳かそこらだったと思う。
 唐突にこみ上げた愛しいという概念。愛しているという強い想い。俺が愛している人がこの世界に生まれている、という確信に従って、利用できるもの全てを利用して探し回った結果、不法侵入を犯して、俺は愛しい人を見つけた。
「きょーや!」
 何度死のうと何度でも生まれ変わり、何度だって巡り合う約束。
 この世界でも果たされた。ああよかったとほっとしたのは束の間だ。和服で着飾っている小さな恭弥は目を細めて俺を見つめてちょこんと首を傾げた。生きている日本人形みたいな顔立ちは、変わらない。
「だれ?」
 その世界で、俺は恭弥を憶えていたけど、恭弥は俺を憶えていなかった。
 前の世界のときは、二人とも何も憶えていなかったから、まだ苦しくはなかった。出逢ってからは幸せで、お互いが欠けていた時間を埋めるように時間を過ごして、堕ちるまでは急な下り坂みたいなスピードで全てが通りすぎていったけど。
 ああ、憶えてる。最期に恭弥が俺を壊した一撃を。一緒に死んでと、背中から胸を貫かれた、あの愛の痛みを。
 俺は何も知らない恭弥に泣きついた。あの最期にごめんと謝りながら。心中を選んだ恭弥の心を思って胸を埋めながら会いたかったとこぼす。
(また、幸せにしてやれなかった)
 大人達に引き離されそうになったとき、「いい」とその手を振り払ったのは小さな恭弥で。よく分からない顔で俺の頭をぽんぽんと叩いて、「だいじょうぶだよ」と、そう言ってくれた。
 俺はそれからほどなくして、家を、家名を、家族を捨てるという条件を呑んで、恭弥の側付きになった。
 世界が変わる度に変わる家族に心を割いている余裕はなかった。俺には恭弥を幸せにする責任がある。あいつが笑ってくれる、そのためなら、家族だって捨てよう。それが俺に必要な覚悟なら。
 側女ならぬ側付きなんて存在を採ろうと考えるのだから、歴史ある旧家と言われる雲雀家というのはそれだけの立場や地位を確立させている家なのだろう。人類の理想郷と謳われる宇宙に浮かぶこの艦は、どこもかしこも同じ景色・同じ色の空間をしてるけど、雲雀家だけは違う。現代からしたら時代遅れと揶揄される着物を普段着として、不便だと言われる和の文化を体現した家に住まう。
 恭弥は雲雀家の本家に生まれた一人息子として大切に扱われていた。
 だからって側付きなんて普通は採らないだろう。雲雀家は特にその家の中での歴史を重んじる人達だ。血筋にこだわっている。けど、そのルールを破ってでも、恭弥には側付きが必要だった。
 それは、なぜか。
 恭弥は生まれたときから目の病気を抱えていた。『網膜色素変性症』という聞き慣れないものだ。医学的なことが書かれた資料も見せてもらったけど、この病気は未だに根本的な治療法がないらしい。そして、恭弥は年齢が二桁を数える頃には視力を失っているだろうと、現状の病の侵攻ぐあいからその非情な未来が予想されていた。
 だから、恭弥にはそういった存在が必要なのだ。己の目の代わりとなるべき信頼できる存在が。電気が落ちれば何一つ見えない真っ暗闇の中を彷徨うことになるあいつの手を取って、こっちだよと優しく導く、そういう存在が。それが同性同年代の賢い子供であればなおのこといいと恭弥の両親は以前から考えていて、俺が現れたことで、その俺を恭弥が受け入れたことで、全ては決定事項となった。
「少しでいいんです。恭弥に外の世界を見せてあげたいんです」
 その日も、俺は懲りずに恭弥の両親に願い出ていた。
 恭弥が4歳になり、俺が遅れて4歳になった、10月の終わり。季節的には秋だったが、宇宙を飛ぶこの艦には季節なんて上品なものはないので常に一定の温度と湿度だ。それでも日付を見て秋だなんて思うのは、その温度を思うのは、俺が他の世界を経験として知っているせいだろう。
 外の世界とは言ってみても、子供の足で行ける現実的な場所といえば、人工芝の公園くらいだ。それでもいずれ失われる恭弥の視界に入れておきたかった。できるならこの艦の端から端まで連れていって、たとえ見えなくなったとしても、その世界が分からなくはならないように、寂しくないようにしてやりたかった。
 けど、歴史と伝統を重んじる雲雀の家はそれをよしとしない。粛々とこなすことをこなして生きてゆけばいいと、厳格な両親は俺の願いを跳ね除けて退室させた。
 俺のすべきことは恭弥の補助であってそれ以上ではないのだ。
 頑固だな、誰かに似て。そんなふうに息を吐いてしょぼくれている俺に向かってとたとたと木目の廊下を歩く裸足の足音が響く。
「だから、むだだっていったのに」
「…きょーや」
 今日は雲雀という鳥が描かれている黒地の着物に萌黄色の帯を巻いた恭弥が、意気消沈している俺を見て首を傾げる。「そとなんて、ふねのみとりずをみていればわかるよ」と言うすましたその顔に小さく笑った。
 ああ、なんか、お前らしい言葉だな、それ。小さくたって恭弥は恭弥だ。
 たとえそこがどんな世界でも、俺とお前だけは、不変だ。
「恭弥、人工芝を踏んだことは?」
「…ない。そんなところ、あるかなくても、ほどうがある」
「じゃ、太陽を見たことはある? 艦の端っこにある研究施設へ行くとね、この目で見られるんだ。一際大きく輝くお陽様っていうのが。それはすごく明るくてね。星の中でも一番明るいんだ。だから、お前の目でも見られると思う。光がさ」
「…ひかり……」
「そ。なんでも経験するって大事だと思うんだ。お前の場合はなおのこと」
 ふぅん、と興味なさそうにぼやいた恭弥がしゃがみ込んでる俺の手を取った。細くて小さな手だ。その手で俺を引っぱって「ねぇ、きょうはみててよ。けんどうのけいこ」「あー、あーそうだった」すっかり忘れていた。恭弥の時間管理も兼ねている俺は携帯端末で時刻を確認してぎゃっと飛び上がる。もうそんなに時間がない。まだ着替えがあるのに。
「やばいやばい急ごう!」
 恭弥の手を引っぱって早足で歩く。走ることは禁止とされてるのでなるべく大股で歩いて恭弥の部屋に入り、箪笥の中から剣道着を引っぱり出す。そんな俺を、恭弥がぼやっとした顔で眺めていた。
は」
「ん?」
「どうして、ぼくのせわをするの」
「どうしてって、俺が恭弥の側付きだからだよ」
「どうして、そばつきになったの。ぼくとしろくじじゅういっしょで、つかれるでしょ」
 そんなことを言った恭弥に、黒い袴と紺色の上衣を手に振り返る。「おまけに、こんなめで」とこぼした恭弥が両の掌でぐっと自分の目を圧迫した。駆け寄って細い手首を掴んで引き剥がす。
 恭弥に側付きが必要だとされた何よりの理由は、その心の不安定さからだった。
 たったの4歳だ。不安定で当然なんだ。それでも恭弥は自分の目が普通とは違うということを悟っていたし、そのことを負い目に感じていた。聡い子だった。だからこそ苦しんでいた。
 俺の役割は恭弥の拠り所になること。その目になること。その手足となること。その心に沿うこと。
「俺は、恭弥と一緒にいたいから、これでいい。これがいいんだ」
 恭弥に言い聞かせるつもりで、半分くらい、ひっそりと、自分にそう言い聞かせていた。
 恭弥が否定したがる現実を俺まで否定してしまったら、そこで世界は破綻する予感がしていた。
 俺は必死になって現実を受け入れる。恭弥の今を受け入れる。これがこの世界、これが俺達。これ以外には今はない。
 そう肯定することで、泣きそうな顔をしていた恭弥の気持ちはどうにか治まったようだ。「…きがえ」と落とした袴と衣を指す指にはいはいと小さな道着を拾い上げる。
 恭弥は相変わらず頭がよくて体術なんかもよくできる。いや、むしろ磨きがかかっているかもしれない。視力が悪いということをカバーするように、幼さなど無視した動きで小さな身体を宙に踊らせて、さながら、舞う獣だ。余計な一言を添えるなら今のは剣道としては反則の技だとは思うけども。
 おー、と拍手する俺をごほんと師範が咳払いで諌める。そうだった、ここはそういう場所だったと正座の姿勢を正して口を閉ざした俺に、師範は苦い顔だったけど、恭弥はちょっとだけ笑っていた。
 夕方。時間帯を示すように艦内の照明が弱くなると、恭弥は俺にくっついて離れなくなる。
「恭弥、ご飯だって」
「…そとにでたくない」
「でもご飯」
「はこばせて。でたくない」
 ときどき、恭弥は頑なに部屋の外に出ることを拒む。煌々と明るく照らした部屋の、襖の向こうに広がる景色を、恭弥にとっては暗闇に等しい景色を、見たくないと譲らない。
 今日は少し不安定みたいだし、しょうがない、と吐息した俺は携帯端末で今日の夕食は部屋で摂りたいと伝えて、ぎゅっとくっついて離れない恭弥の黒い髪を撫でた。天井の光を受けてきらきらと輝く黒耀の色は指に絡めると冷たい色に反してやわらかく、線は少し細い。
 目を開けているのに、目を閉じているのと同じくらいの闇しか見えないと、並べて敷いた布団の中で恭弥が泣くことがある。
「今日はどうした?」
 給仕の人達が無言で、雲雀家ふうに言うと慎ましくお膳を並べている間に訊いてみた。「べつに」と答える声はいつもと同じだけど、人前だろうと俺にくっついたままだ。こんなところを告げ口されたら雲雀家の跡取りらしくと両親に諌められるから、普段はこうじゃないんだけど。今日はそれだけ心が弱ってるってこと、かな。
 給仕の二人が退室して、二人だけになった部屋で、恭弥はお膳を見て目を細め、ようやく握り締めていた俺の腕を離した。
「はい、いただきます」
「…いただきます」
「今日もおいしそうだなー」
 和風にこだわって和料理が多いお膳にぱちんと手を合わせていただきますをして、ありがたく食べ始める。
 おいしいおいしいと先に平らげた俺に、俺より運動して動いて腹だって減ってるはずの恭弥の箸が止まった。まだご飯が半膳とおかずがちらほら、味噌汁が残っている。「恭弥? どうした?」いつもならぺろりと平らげるのに今日は変だな、と俯いた顔を覗き込むと、泣いていた。え、と慌てる。なんで泣いて。
「みえない」
「え?」
「かげに、なったところが、まっくらで、みえない」
 肩を震わせてそうこぼす恭弥に、書机の上のテーブルライトを取ってきて一番強い光で点灯させた。「これは? 見えない?」と心配する俺に、ぐす、と鼻を鳴らして「みえる」とこぼし、きっと睨むようにしておかずをつまみ、口に運び始める。
(…そうか。こんなに明るい部屋なのに、もっと照らさないと、見えないんだな)

 十までもつかどうかと言われていた視力は、急激に、恭弥の視界を狭めつつあった。
 だから余計に、恭弥には、見せたいものが、世界が、たくさんあった。
 この狭い雲雀家の中だけじゃなく、怒られてでも連れて行きたい場所がたくさんあった。
 たとえば、広い艦のブリッジ。天井は全て強化プラスチックで覆われていて、そこからはいつも星屑の海が見える。恭弥の目にはあの小さな光は映らないかもしれない。それでも、もし運良く艦が太陽の方角を捉えたら、その光が届くかもしれない。人工のものじゃない、自然の光が。
 公園も行きたい。簡単な遊具と砂場と人工芝、人工木以外に何があるというわけでもないけど、緑のある風景を見せてやりたい。自然のものによく似せて作ってある、それだけの緑だけど、その形と感触を教えてやりたい。
 それから、娯楽施設が集まっている場所に行って、その場所の賑やかさを教えてやりたい。色とりどりの人工の光とか、看板とか。一緒に映画を見たいな。恭弥の視界が死なないうちに、大きな画面での物語を共有したい。

 夜、就寝時に部屋の灯りを落とすとき、恭弥は一番怯える。
 急に視界が真っ暗になったら嫌だと布団の中に潜り込む姿を確認してから、パチン、と光を落とす。光に慣れた俺の目には闇に沈んだぼやっとした景色が映っているけど、恭弥の目には真っ暗闇なのだ。物の輪郭など触れなければ分からない。触れたところでそれが何かと理解するのも難しい。そのくらい真っ暗に見えると言う。
「恭弥」
 小さな膨らみに触れると、布団の間から伸びた手に寝間着を掴まれた。こっちへ来いとばかりにぐいぐい引っぱられる。仕方なく恭弥の布団に潜り込むと、また泣きそうに瞳を潤ませていた。
「俺のこと見える?」
「…みえない」
 か細い声がして、もう片手がふらふらと彷徨ったあとに俺の胸に触れた。ぺたぺたと確かめるように触って、肩を、首を、そうしてようやく顔に触れる。「ここにいるよ。目の前だよ」と囁いて恭弥の小さな手を掴まえて唇を寄せてキスをした。
 恭弥が見えていない、分かっていない、この暗闇が、俺には少しの救いだった。
 まだ4歳だ。お互い性感なんてない。それでも俺は、恭弥の着替えを手伝う度に抱きたくて仕方なくなる。
 恭弥に俺が見えているうちに。俺が分かるうちに、セックスして、俺のことを刻んでやりたいなんて思っている。何も見えなくなってからじゃきっと怖がらせてしまう。だから、見えるうちに、俺は、お前を。
「…?」
 視界に不安のある恭弥の前髪は少し短めだ。影を作らないように、と短くなっている前髪をかき上げて、白い額に唇を押しつける。
「俺がいるよ、恭弥。ずっといるよ。ここにいる。そばにいる。だから、怖がらないで」
 ほろり、と一つ涙をこぼした恭弥がうんと細い声で返事をした。
 俺の言葉で安心したのか、疲れたように目を閉じて枕に頭を預けて、宥めるように小さな背を撫でていると、少しして眠りに落ちた。
 …その、無防備に眠った顔に顔を寄せて、キスをした。
 その世界での初めてのキスは、なぜか、涙の味がした。