雲雀恭弥には側付きがいる。片時も僕の側を離れない、僕の世話を焼く存在。同い年で、同じ男で、僕よりもずっと世間や世界のことを知っている、という名前の奴だ。
 は一般市民の出だ。雲雀の人間が密かに彼のことを悪く言っているのは知っている。平民の出だというそれだけで疎まれている。彼は、それを知っていても、遠回りに罵られたとしても、笑う。笑って誤魔化す。彼は僕と同い年ながら上手に息をする方法を心得ていた。
 僕は、彼が家を捨てて雲雀の家にやってきたことに、正直に言って、安心していた。
 僕は目の病気だ。けれど本家の一人息子で跡取りだ。分家に生まれた僕より年上の義理兄がどれだけ健康でも、雲雀の家を継ぐのは僕なのだ。そのことに負い目を感じていた。だから目のことを遠回しに悪く言われるのは結構堪えていた。両親が強くありなさいと僕の背中を支えるから、頑張っていたけど、正直、もう疲れ始めていた。
 どれだけ強がったところで僕は子供だった。だから、甘えたかった。わがままくらい言いたかった。けどそれを許す両親でも周りでもなかった。
 叫びたいくらいに周囲が厳格で、まるで背の高い壁に囲まれているように息苦しくて、呼吸が止まりそうだったとき。彼が弾丸みたいに飛び込んできて壁を破壊した。崩れた壁の向こうには相変わらず両親や親戚がいたけれど、僕と彼らの目をが遮ったから。自分が晒し者にされることをよしとしたから。悪いものは全部彼にいって。僕の方へはこなくなった。
 そのことに安堵した自分がずるいと思った。
 彼が畏まらずに自然体だから、その在り方が雲雀家の中にあるのは変だと、普段の態度からして反感を買っている彼は、わざとそうしているのかもしれない、とときどき思う。大人の目が僕に向かないように、わざと目立っている。悪目立ちすることでそれに比べて恭弥様はやはりできた子でいらっしゃる、と最終的に僕が持ち上げられるようにしている。…最近、そんなことを思うようになった。
「よーし、いないぞ」
 今日もそうだった。ちょっと散歩に抜け出そう、と言った彼に最初は反対したけど、彼がいいものだと話して聞かせる、あまり真面目に見たこともない外の景色が見てみたくて、僕は結局彼の手を握って着物の裾を蹴飛ばして走って門を抜けていた。
 どこへ行ったって、どうせ僕らはまたあの家に戻る。そして、彼が怒られる。僕は無理に連れ出されただけ、という形を取られる。罰として晩御飯を抜かれるのは彼だし、掃除を命じられるのも彼だ。僕は、何も咎を受けない。口頭で注意はされるけどそれだけ。
 最近、それがひどくもどかしい。
 規則を破っているのは僕も彼も同じなのだから、平等の罰を与えてくれればいいのに。
「どこいくの?」
 でも、その思いに反して僕の声は少しだけ上ずっていた。なんだかんだと理屈を並べたところで、知らない世界を知ることは教科書での勉強よりは楽しかったし、何より、一人ではなかったから、絶対に味方になってくれる人がそばにいたから、それに安心していた。
 と二人なら大丈夫だという強い確信があった。それがどこからくる根拠なのかは今も分からない。雲雀の家に不法侵入した彼が僕を見て泣きついたときから、ずっと感じている。このひとだ、という、何かを。
「どこがいい? どこだって連れていってあげるよ」
 笑った横顔を眺めてブーツの足で地面を蹴飛ばす。
 どこだって。
 じゃあ、君は、僕を光の中に連れ出せるのだろうか。暗闇に怯えなくていい光の世界へ連れていけるのだろうか。
(…なんて)
 ここは行った、あそこも行った、じゃあ今日は、と地図を見ながら話して、川と庭園があることで有名な区画へ向かう。雲雀の家には庭があって、小さいながらも庭園もある。今更庭を見たところでと思ったけど、そこは和の庭園ではなく、大陸の反対側にあるという外国の庭園が広がっていた。色も種類もたくさんある花が咲き誇っていて、いい香りがする。
 普段は見ない鮮やかな色がたくさんある。流れる川は人工だけど、それでも水の色をしている。種から頑張って育てられたという花は、人工だけど、作り物ではない。
 色が溢れている視界が眩しくて目を細めた。
 この目は徐々に見える景色を狭めていっている。…なくなる前に、見れて、よかったな。
「……みえる」
「え?」
 こぼれた言葉に反応した彼にふるりと一つ頭を振り、外国の庭園を堪能すべく、彼の手を引っぱって、見えるもの全てを脳裏に焼きつけながら、歩いた。この歩みの一つを忘れないように。この香りのする花の姿を忘れないように。この水の音をさせる川の流れを忘れないように。
 そして、僕の隣で笑うこの人の顔を、仕種を、その一つ一つを、忘れないように、自分の中に刻む。
 僕らは着物という目立つ格好だったから、当然人目を惹いた。捜しに来た家の人間が着物を着た子供二人という特徴を告げれば、僕らはすぐに情報を飛ばされて捕まった。家まで連行されて親の前に連れていかれ、僕はやっぱり口頭での説教だけで解放された。勉強をしなさい、という名目で。
 彼はといえば、その後も一時間は叱られ続けていた。僕が柔道の稽古をしないとならない時間になってようやく戻ってきて、「着替えようか」と箪笥から柔道着を出してくる。
「…は、おこられても、へいきなかおしてるね」
 指摘した僕に、彼は困ったなと笑う。「いや、一時間正座で説教はけっこー堪えるよ?」「そういうかおしてないよ」「えー、そうかな」そうかなぁとぼやいた彼が着物の帯を解いて外した。合わせてある着物の襟を取るその手に、最近、心臓が騒ぐ。肌を見られることが恥ずかしいと感じる。でも、嫌じゃないから、拒否はしない。
 慣れた手つきで柔道着を着せられて、道場に行って、彼はそこで「じゃあ、掃除あるんだ。終わった頃に迎えに来るよ」と残して引き返してしまう。
 ぽつんと残されて、なんとなく、寂しくなった。けど、「恭弥様」と師範の太い声に呼ばれると、やっぱり帰るなんて言うこともできず、彼が去っていった渡り廊下にくるりと背中を向けるしかなくなる。
 年々上達していると師範に褒められた授業を終えた頃、がやってきた。「お疲れさま」と差し出されたタオルを取って汗の伝う顔を拭う。
「暗くなる前にお風呂に入ろう。汗かいただろ」
「…うん」
 どこか苦い顔をしている師範に頭を下げて「ありがとうございました」と形式の言葉を述べて、道場を出る。
 先に行ってて。着替えを持っていくからと言われて、廊下で道を別れて、一人で浴場に向かった。
 もう二時間もすれば艦の照明スイッチが切り替わって夜間モードになる。そうしたら僕にはもう何も見えなくなる。今はそれなりに見えているけど、夜になると、本当に、何も。今だって強い影になっている部分は暗闇にしか見えないのに。
 渡り廊下の先にある脱衣所は灯りがついていなくて、気持ちが怯んだ。入り口までは外の光が射していて見えるけど、一歩先は全てが闇の中に沈んでいる。
 ごく、と唾を飲み込んで、落ち着け、と自分に言い聞かせ、入り口から近い位置にあるはずの電灯のスイッチを思い浮かべる。確か、入って右手にあったはずだ。そろそろと闇の中に手を伸ばし、浸からせながら、壁を伝って手探りでスイッチの場所を探す。ない、と焦り始めた頃にコツンと指先に硬いものが当たって、押すと、パチン、という音のあとに電気が灯った。ほぅと安堵の息を吐いてから浴室の中の電灯もつける。
 昔より、見えなくなった。
 親は誤魔化すけれど、僕の目は悪くなっていってるのだと思う。だから側付きなんてつけたのだと思う。不自由なこの目の代わりとなる人。かわいそうな、僕の、
 僕のために全てを捨てた彼は、それでも僕と一緒にいたいのだと言った。だからこれでいいのだと。自分の人生を捧げることになったっていいと、言った。
「ばかなひと」
「誰が?」
 唐突な声にびくっと震えて振り返ると、彼がいた。着替えの着物を抱えている。「電気のスイッチ、場所分かった?」と首を捻る彼に浅く頷く。
 独り言を聞かれてしまった。恥ずかしい。
 でも、これから裸になることを考えたら、その方がずっと恥ずかしい。
「…は、はいらないの?」
 柔道着の帯を外しながら、なんとか間をもたせるため、そんなことを言ってみる。「まぁ、一応使用人ですからね」と苦笑いをこぼす彼は立場的に無理だと遠回しに遠慮した。普段はそんなこと気にしないくせに。
 僕がもたもたしていると、「ほら、冷えるよ」と白いズボンを脱がされてかあっと顔に熱が集まる。下着くらい自分で脱ぐと彼の手を払いのけ、恥ずかしさを堪えながら全部取り払って、ハンドタオルを掴んで逃げるように浴場に走った。「こらきょーや走らない! 滑って転んだら大変!」「うるさいっ」余計なことを心配する声に噛みついて返して、ガラスの引き戸を開け放ってかけ湯を被ると熱かった。その熱さにぶるりと震えてから慌てて水と調整して被る。
 カラカラカラ、と自然に閉まったガラス戸で、僕と彼とが遮られる。
 ぽたぽたと雫を散らす髪をかき上げて、ちらりと視線をやる。彼はしばらくもそもそしたあとに「身体洗うの手伝うよ」と声をかけてきた。迷ってから「いい」と返して一人で洗い場に行く。それくらい、まだ一人でできる。
 シャンプーでもそもそと髪を洗い、泡を流して、リンスをして洗い流し、置かれている洗顔用石鹸で顔を洗い、ボディーソープをハンドタオルにつけて泡立てる。
 …いつも隣にいるからだろう。彼の存在が絶えないからだろう。僅かな時間でも彼と離れていることが、今が、耐え難くなってきた。
 身体の泡を洗い流してガラスの戸口に行くと、彼がこちらに背を向けて座っているのが分かった。「」と声をかけるとこちらを振り仰ぐ。曇りガラス越しではその表情を見ることはできないけど、彼がどんな顔をしているのかは、頭の中に描くことができる。「どーした?」「…かみ、あげたい」ぼそぼそこぼした僕に立ち上がった彼がガラス戸を引き開ける。「タオル貸して」と伸ばされた手に濡れたタオルを預けた。タオルを固く絞ってから頭に巻きつけて僕の髪を固定するを見上げる。
 そういえば、背。の方が伸びるのが早いな。なんでだろう。
「はい、できた」
 ぱたりと手を下ろした彼から逃げるように小さな釜風呂に足を浸し、肩まで浸かる。役目を終えたと思ったのか彼がガラス戸の向こうへ引っ込むから「あ」と声がこぼれた。「ん?」再び顔を覗かせた彼にぱくぱくと口を動かす僕に不思議そうに首を捻る。
「恭弥?」
「…そこ」
 びし、と釜の近くの床を指す。「そこに、いて」とこぼす僕に、ますます首を捻った彼が自分の格好を見下ろした。大して迷った素振りも見せずに携帯している紐で着物の裾や袖をくくって中に入ってくる。
 そんなことをねだった自分が子供で、恥ずかしくて、ぶくぶくと口までお湯に浸かって息を吐き出す僕に、が笑っている。
「いいよ、別に。気にしなくて」
 ……どうしてそんなに大人なんだろうって、僕は、遠い彼をもどかしく思ってばかりいる。
 僕が微妙な顔をしていることに気付いたのか、ぱちと手を合わせた。「あ、じゃあねぇ一個いい?」その言葉に顔を持ち上げた。お湯から口を出して「なに?」と訊くと、にっこり満面の笑みを浮かべたが一言。
「キスがしたい」
「…?」
 きす、ってなんだ。
 首を傾げた僕に彼はショックを受けた顔になった。「え? あれ? キスって分からない? 接吻だよ」「せ…?」「あー」なぜか頭を抱え出すからますます困惑する僕。「それは、なにをすることをいうの?」と問うと、はっとした顔を上げた彼が「そう、それだ。つまりね、俺の口ときょーやの口をくっつけたいんだ」大真面目な顔をしてそう言った彼に頭が追いつかない。たっぷり十秒くらいしてから「え?」とこぼした自分の顔が裸になったときの比でないくらいに熱くなる。
のくちと、ぼくのくちを、くっつける?)
 もやもやとした想像は、顔だけでなく身体も全部熱くさせる。
 お風呂に入っている、せい、だけじゃない。
 それって、すごく顔が近くなるってことじゃないだろうか。口と口をくっつけるんだから、の息遣いだって感じることができるんじゃないだろうか。
 君とそんなに近づいたら、僕、顔が熱くて火傷でもする気がする。
 とん、と釜の淵に手をついた彼が僕の顎に手をかける。彼が触れた肌がぼわっと燃えた、気がした。「恭弥」と呼ばれてぎこちなく顔を上げると、彼が目の前だった。近い。とても近い。どうしよう、って思うくらいには近い。
 目を閉じてしまいたくなる。瞼の裏の暗闇に逃げてしまいたくなる。
 けど。でも。どうせ近いうち暗闇に沈んでしまう全てを思うなら。僕は、視界いっぱいのも、刻んでいたい。
「目は、閉じないで。俺とこうしたってこと、憶えておいて」
「、」
 答える前に、唇にやわらかいものが当たった。それが彼の唇だと理解するのに少し時間がかかって、肌に触れる誰かの吐息に、頭がのぼせたように熱い。
 キス。これをキスっていうのか。知らなかった。
 僕は、と比べたら本当に何も知らない。与えられたことしかしてこなかったから、余分なことを何も知らない。
 …もっと。もっと知らなければ。この目が見えるうちに、もういいってくらいのことを詰め込んで、知って、脳に刻みつけなければ。

 いずれ失ってしまう景色。彼の笑顔。その姿。
 いずれ暗闇に落ちてしまうと背を向けるのはたやすいし、一人だったならきっとそうしていた。知ってから失ってしまうことの重みに耐え切れず、知ること自体を拒否していただろう。
 けど、君がいた。
 僕のために人生を捧げた、君がいる。
 僕の手を引いて歩き、暗闇に沈んだ世界の中でもぬくもりをくれる、声をくれる、存在をくれる、君がいる。

「好きだよ恭弥」
 離れた唇がそう言った。その言葉を、幻想のようにぼんやりとした心地で聞いていた。
 僕にそうこぼした彼の笑顔は、なんだか、泣きそうだった。