、と呼ばれて意識を醒ますと、まだ夜の中だった。暗い中で遠慮がちに着物の袖を引かれている。「ふぁい?」と寝ぼけた声で返事すると、「トイレいきたい」と小さな声に訴えられた。
 ああ、そうか。素直に納得してのそりと布団を抜け出し、片手で恭弥の手を引き、もう片手を腰に添える。それでも不安なんだろう、恭弥は限界まで俺にくっつきながらそろそろと歩いた。行儀は悪いが手が空いてないため爪先で襖戸を押し開けて廊下に出る。
 ふと視線を流すと、向こうの方にある天窓から縞模様の大きな星が見えていた。
「ジュピターが見える。真上だ」
「え?」
「ああ、いや。何でもないよ」
 星空に浮かぶ大きめの星のことを言ったんだけど、目を凝らす恭弥の目には入っていない。同じ夜空を見上げても恭弥の視界には何も映らない。ただ暗くて怖いと不安にさせるだけだ。それなら言わない方がいい。恭弥と共有できないのなら、あのきれいさにもあまり意味もないし。
 恭弥をトイレの個室まで連れて行って、パチン、と電気をつける。その眩しさに目を閉じていた恭弥がそろりと瞳を覗かせて、ほっと息を吐いた。「外にいるよ」と声をかけてから扉を閉じる。
 12月。一定温度に保たれた宇宙の艦の中では寒さも感じず、雨も降らない。当然雪も降らない。雲雀家の庭園にある緑はずっと緑のままであり続ける。
 ここではそれが当然なのに、俺はずっと違和感しか感じない。
 感じない四季。安定した温度と湿度。それに慣れた人々。その姿は、気のせいか、生きていることが希薄だと思ってしまう。ここでは俺がイレギュラーなだけだ。俺が他の世界を知っているから感じる齟齬。それだけの。
(…最近変な話を聞くな。軍がどうとか……)
 待ってる間に携帯端末でウェブにアクセスし、情報サイトを閲覧する。それくらいなら社会勉強だと言えば通るレベルなので、今日のニュースなんかを見つつ画面を指で弾いた。…またある。『滅びた地球より謎の生命体現る!?』こういう見出しを見て毎度思うけど、この世界の地球は滅んだらしい。もともと大陸が一つしかなくて、それ故争いが絶えなかったというのは歴史で学んだけど、星を滅ぼすくらい現代文明をぶつけ合うなんて、人間って馬鹿なんだな。
 艦影に謎の姿が目撃されたとか、密かに軍が動いているだとか、どれも眉唾ものだ。信じるに値する情報はない。けど、何度潰されてもこれだけ出回っている情報なんだから、ソースが何もないとも思えない。
 まぁ、俺達に関係がないのなら、それでいいんだけど。
 ふう、と吐息したところで水の流れる音がした。携帯の画面をオフにして袖の中にしまう。そろりと開いた扉の向こうからこわごわとした歩みで出てきた恭弥は、俺を探すように視線を彷徨わせた。心細そうな顔。目の前にいるのに、恭弥には俺と暗闇の区別がつかない。灯りのもとに出て「恭弥」と声をかけなければ、目の前にいたって気付いてくれないのだ。
「またせて、ごめん」
「いいよ。おいで」
 手を差し出してしっかりと握り、「消すよ」と声をかけてからパチンと灯りを消す。すぐにその手を恭弥の腰に回して肩をくっつけた。そうでもしないと怖がるから。
 恭弥の病気は回復の兆しを見せないまま、その視力を奪い続けている。毎月の健診、処方される薬、できる限りの抵抗はしているし打てる手は打ってるけど治らない。治るまでいかずともいいから今の視力を保ってほしいところだけど、それすら期待できそうにないのが現状だ。
 最近は柔道や剣道なんかの授業で師範に負けることが多い。視野が狭くなったせいだ。見えるものが以前より限られてきている。それを補うためにも恭弥には鍛錬が必要だと、練習量の加減を願い出た俺に両親は冷たく言い放った。
 確かに、そうかもしれないんだけどさ。恭弥も負けたら悔しそうにするから、いいんだけどさ。無理をしてないかなって、心配になる。
 部屋に辿り着いて、恭弥を布団まで連れて行ってから襖を閉めに離れると、わし、と足首を掴まれて危うく転ぶところだった。「どこいくの」「戸を閉めるだけだよ」開いたままの襖戸を指したところで恭弥には見えない。眉間に皺を作った恭弥が渋々手を離した。
 たん、と戸を閉めてから布団に潜り込むと、もそもそと敷き布団を這ってきた手がぺたりと俺の腕に触れた。形を確かめるようにぺたぺたと触って、触れているのが腕だってことにようやく気付いたらしい。手首を伝って手を握って、指を絡めて握り合う。
 俺の顔を探すように彷徨う瞳の中に、俺はいない。
「…キスしていい?」
 内緒話をするように顔を寄せて耳元で囁くと、視線が伏せられた。こくんと頷く顔に掌を滑らせてから唇同士を重ねる。
 今年で俺と恭弥は5歳になった。それでもまだまだ、小学生にもなってない。知識と経験があるのに身体の成長がそれに追いつかないもどかしさ。恭弥のことを犯したいという思いと一人闘いながらやわらかい唇を食む。くすぐったそうに目を細める恭弥の視界に俺は映っていないけど、それでも見ようとしてくれていることは嬉しい。
 俺の真似をして唇を食もうとする恭弥に、一歩進んでもいいかな、と思う。
「ね、もっと気持ちよくなりたくない?」
「え?」
「俺がしてあげるから、口開けてて」
 頭の上に疑問符を浮かべている純粋な恭弥がそっと口を開けた。「舌出して」「…、」素直に舌先を覗かせる恭弥に生唾を飲み込んでから、頬に手を添えてその舌をこの舌で絡め取る。びくりと大きく震えた恭弥の舌が逃げるように引っ込んだ。それを追いかけて口を塞ぐ押しつけるようなキスをして、逃げた舌を掴まえる。ふ、と息をこぼす恭弥の手をきつく握り締めて、その温度を味わう。
 慣れ親しんだ舌がやわらかい。恭弥がまだ幼くて、その細胞も若いからだろうか。
 逃げる舌をその度に掴まえた。その度に震える恭弥の身体を愛でたかったけど耐えた。恭弥には今の俺が見えないからそれが救いだ。欲望に染まりそうな顔を見られずにすむ。
「ん…っ、ふ、ぅ」
 粘液の音を響かせながらキスをして、舌を吸って、絡めて、口の中を全部に俺の痕が残るようにと舌で奪い尽くす。すするようにして恭弥の唾液を飲んだところではたと我に返って口を離した。ぷは、と息を吸った恭弥が着物の袖で口を覆って隠す。
「なに、した、の」
「キス、の上級編かな。ごめん、怖かった?」
 震えている声に謝ると、ふるりと頭を振られた。「じゃー気持ちよかった?」そう訊くと恭弥がますます袖で顔を隠した。照れてるんだな分かってほっと息を吐いて満足する。じゃあよかった。初めての深いキスなのに怖がらせていたらどうしようかと思った。
 6歳になった頃、恭弥の視力はまた落ちた。窓や障子戸越しの光がある昼間でも、部屋の電気をつけないと光の下以外の視界に自信がないようになったのだ。
「俺の顔、見える?」
 窓からの陽射しが届かない位置に立って声をかけると、陽射しの下で勉強していた恭弥が顔を上げた。目を細めて俺の声のした位置を見つめる。「ぼんやり、みえるけど…ひょうじょうはわからない」「そっか」そう言った俺の顔も分からないのだろう。今はそれが救いだ。今の俺、きっと情けない顔してるだろうからさ。
 恭弥に教えたかった色々なことは、まだ半分くらい残っている。雲雀家から遠い区画にはまだ足を踏み入れたこともないし、太陽の光を見せてやれてない。光。自然の光を、恭弥の視界が捉えられるうちに見せてやりたいのに。
 そのうち俺のことも見えなくなるのだろうと思ったら胸が詰まった。
 この世界では俺が恭弥を導いて、愛するんだ。もういいってくらいに愛してやるんだ。そう心に決めたのに。
「…
 すっと細い手が伸びた。「ここへきてよ」と乞う声音にふらりと一歩踏み出す。光のもとへ行けば、恭弥の目がはっきりと俺を捉えて見上げた。教科書を置いて俺の両手を取って座らせる。「どうしたの」と言う困ってるような顔になんとか笑いかけて細い背中を抱いた。
 一番辛いのはお前だろう。視界を失っていくお前だ。抗いようのない闇へと落とされていくお前だ。俺はそんなお前とずっと手を繋いでいるんだ。導くんだ。
 分かってるのに、悲しいな。
 幸せになるために生きているのに、俺達に約束されているのは死ぬことと生まれ変わること、そして、不幸になることだけだ。
 困った顔に頬をこすりつけて「ごめん」と謝ると笑われた。「なんで」と。
「俺、お前に、もっと何かできることが…」
「じゅうぶんだよ。じゅうぶん、そばつきとして、よくやってる。それいじょうに、ぼくのこころをすくっている。じゅうぶんだ」
 耳元でこそっとした声で好きだよと囁かれて、何かに掴まれたように胸が苦しくなった。今すぐ押し倒してキス以上に気持ちいいことを教えてやりたい。犯してやりたい。けど、白昼にそんな行為を晒そうものなら俺は間違いなく雲雀の家によって処分されるので堪える。
 せめて二桁にならなければと思ってたけど、それを待っていたら、恭弥の視力はなくなってしまっているだろう。
 今よりはもう少しあとで。けど、十になるその前に、俺は恭弥を。
 思考を切り裂きそうになる激しい欲望をどうにか抑え込んで、細い肩を掴んで身体を離した。「ほら、勉強しなきゃ。テストがあるんだろ?」その手に教科書を預ける。渋々教科書に意識を戻した恭弥の向かい側で、俺はぼんやりと面影の出てきたその姿を眺めた。
 たとえどこに生まれようと、どんな時代に生まれようと、恭弥は恭弥だ。本を傾ける仕種に、文面を追う伏せられた瞳に、そう思う。
(俺は、俺で在れてるだろうか)
 自分の胸に手を当てて考えてみた。
 恭弥が好きだと言ってくれる俺は、俺で在れているだろうか。
 …その問いは、次の恭弥と再会したときに取っておこう。俺達の運命は螺旋のように続く。まだまだ先は長い、と思う。この辺りで終わってくれればそれもいいと思うけど。いい加減今までを一緒に生きてきた恭弥と一緒に俺は。
 ぺらり、とページのめくられる音にはたと我に返る。
 今ここに恭弥がいるのに、何を思ってるんだ、俺は。
「…掃除、しないといけないんだった」
 ふらっと立ち上がった俺に恭弥が視線を上げる。「どうして?」「この前間違って食器一つ割ったから、かな」はは、と笑って片手をひらりと振ってから光の下を離れる。恭弥は眉間に皺を寄せていたけど、俺の言葉が嘘だなんて疑うことはなく、仕方なさそうに目線を教科書に戻した。
 たん、と襖戸を閉めて、細く細く、そっと吐息する。
 今のは口実だ。本当は言いつけられた掃除なんてない。けど、手が空いたんですがと言えば掃除の一つくらい押しつけられるだろう。それでいい。
 放っておけば勝手に寂寥感や虚しさや切なさに支配されるこの幼い身体は、掃除にでも充てていればいいのだ。