俺には大学時代からの親友がいる。名前は白蘭。姓を示すものはない。
 それでは日本の大学入学にあたり困るという話になったとき、その場にはなぜか俺がいて、白蘭はなぜか俺を選んで、留学生なんて受けつけないはずの家族さえ白蘭を受け入れたので、白蘭はその日から俺と同じ姓を名乗っている。
 白蘭。海外風だと白蘭・
 白蘭は人当たりもいいし成績も優秀で、日本語もよくできて、よく喋ってよく笑う。
 最初こそ白蘭という急に日常に飛び込んできた存在に困惑したものの、留学生だからって手のかかるということもなく、むしろ勉強のできない俺を白蘭が面倒見てたくらいで、あいつは気付いたときから何でもできる奴だった。

「コーヒー? 、コーヒーが好きなのぉ? いつもブラックだよね? よくあんな苦いものふつーの顔で飲めるよね。僕は甘党だからなーコーヒー単体はなー」
「まぁ…。だからカフェインの講義も取ってるだろ」
「はー、あれね。なんであんなよく分かんない授業受けてるのかなーと思ったらそういうことかぁ」

 コーヒーねぇとぼやきつつ目の前でパフェを食べている白蘭は確かに甘党で、コーヒー単体を飲むことはあまりない。コーヒーを飲むにしてもミルクを入れるか砂糖を入れるかカフェオレにしてしまうのだ。そんな白蘭に大学を卒業したらコーヒー関係の仕事に就きたいと吐露したのは、大学生の半ばになってからだった。
 その日は夏間近の暑さだった。路面からの照り返し、頭上からの陽射しの攻撃に参った俺達は手短な喫茶店に入り、俺は暑いけどホットコーヒー、白蘭はパフェを頼んで、こうして向かい合わせであーだこーだと他愛のないことを話し合っている。
 だらっと姿勢を崩している白蘭は、そうしていても結構かっこいい方だ。外人なんだろうけど、彫りが深いってわけでもないし、色が黒いわけでもない。髪は脱色したのか白いし、左目の下はオシャレっぽいマークで飾ってるけど、身なりほど中身が逸脱してるわけでもない。
 そんなわりとイケメンな白蘭の隣に立つにはそれなりに覚悟と勇気がいる。なんでって、やっぱり、比べられるからさ。あまりにもダサい格好とかしてられない。そういう意味では白蘭はとてもいい刺激になっている。
「んー、コーヒーかぁ。でもさ、日本てけっこーテキトーじゃない? ほら、この喫茶店のコーヒーもさ、君はさっきからにがーい顔して飲んでるしね。コーヒーの本場ってどこか知らないけど、豆が作られるのって南半球か赤道辺りでしょ。日本で本格的にやろうって思うとある意味狭い門だよ?」
「…そうなんだよなぁ。ほんとは海外へ行きたいんだ…コーヒー消費量の多い国ならそれだけおいしいものもあると思うし……やっぱり無理かなぁ」
 カチャン、とカップを置いてはぁと溜息を吐く俺をパフェを食べつつガン見する白蘭。「…なんだよ」「別に。どーしてもコーヒーがいいのかなって」「どうせ働くならな。好きなことしたいだろ」「今もコーヒー店でバイトだもんね〜」けらけら笑った白蘭がふいに笑みを消して顔を寄せてきた。近い近い。
「ね、が本当に本気なら、手伝ってあげなくもないよ」
「はっ?」
 上ずった声を上げてとりあえず距離を取る俺。そんな俺を見つめていた白蘭があはっとハジけた笑顔でにこにこ笑う。…さっきまでの無表情と差がありすぎてくらくらしてくる。「どーしてもコーヒーやりたいっていうんなら僕も手伝ってあげるって言ってるのー」気楽そうな軽い声はいつもと同じだ。「どうやって」「それはまぁあとのお楽しみ。それにさ、コーヒーの知識だけあったって無理だよ? 海外なんだから、最低限の英語はもちろんだし、どの国に行くかでその国の言語だって多少できた方がいいわけだし」ぺらぺら日本語が達者な白蘭は簡単そうに言うけど、これでも英語は講義を取ってやれることをやってる。…そのわりにあんまし上手じゃないけど。
 にゅっと伸びた白い手がわしゃわしゃと俺の頭を撫で回した。「こら、」せっかくセットした髪が。ぐしゃぐしゃになる。
 俺が払う前にあははと笑って手を退けた白蘭は、いつもの軽い笑顔で言うのだ。
「イタリアだったらねー、ツテがあるから、なんとかなるかも。お店とかあげられるかも」
「は…?」
「かもだよ、か・も。IF話。でも、多分あげられる。僕は個人的に君が好きだから、できることしてあげたいしね」
 んね、とにこにこ笑う白蘭にどう反応すればいいのか分からず、とりあえず、ノリが外人だな、と呆れておいた。
 そのときはそれだけの話だった。俺は今後の自分像を話したけど、白蘭は将来の自分について何も言わなかった。まだ迷ってるのか言い難いことなのか、無理に聞き出す必要もなかったし、それだけの話、でこのときは終わった。
 それが今。
「カフェオレの甘いの淹れたよ」
「はーいはーいちょうだーい」
 ソファからにゅっと伸びてぱたぱた振られる手に、動く気はないってことか、と吐息しつつカップを持っていく。ソファと机に書類を広げて何かしらの仕事をしている白蘭に「ほい」とカップを差し出すと「ありがとー。のカフェオレ雑味がないから大好き」と満点の笑顔と言葉で称賛された。
 そりゃ、インスタントなんかと比べてほしくないけど、とか若干照れつつ、英語の文章が散乱しているソファを避けてシングルソファに腰かけた。…ふかふかだ。俺の部屋にあるぺたぺたのとはだいぶ違う。きっと高いブランドものなんだろう。
 白蘭がなんの仕事をしてるのかは知らない。ただ、すごく偉い役職に就いてて、いい部屋といい家具、いい食材を揃えるくらいにはお金があるらしい。
 そして、毎日俺に白いアネモネを贈ってくる。
 俺が大学を卒業したのがつい一年前だなんて信じられないな。いい意味で。白蘭が手伝ってくれたおかげで、家族をすんなり説得できて、住む家も店も得られて、トントン拍子で前に進めて。白蘭と出会った大学時代から、俺は人生の波に乗りっぱなしな気がする。
(ここに来て、恭弥さんにも出会ったし…)
 純日本人を示すような黒い髪。切れ長の瞳。整いすぎてるくらい整った顔はだいたい無表情で、たまに機嫌が悪そうで、俺の店に度々訪れてはコーヒーをオーダーしたりブレンドその他をテイクアウトしていったりする常連さん。
 男の俺でドキッとしちゃうんだから、女の人からはさぞモテるんだろうな…と思い出していると、君だって悪くないと思うけど、とぼやいた横顔を思い出した。お世辞言っちゃってーと笑って返したら本気なんだけどと低い声で言われたから、ちょっとびっくりしたな。あんな美人さんに悪くないとか言われたらさ、ドキッとしちゃうもんだよね。うん。
「おやつはないのー?」
 カフェオレをすする白蘭がそんなことを言うから、はぁ、と息を吐いて肘掛けに頬杖をついた。「白蘭、甘いものばっか食べてると糖尿病になるよ。そうでなくても栄養が偏る。ふつーのご飯なら作ってあげるけど」えーと抗議気味に頬を膨らませた白蘭が面白くてふっと笑ったら、白蘭も満足そうに笑った。「じゃあいいよ、ふつーのご飯で。作って」「はいはい」しょうがないな、とソファから腰を浮かせ、ぐっと伸びをしてからキッチンに向かう。
 パカ、と開けた冷蔵庫には今日もいい食材が詰まっていた。白蘭は自分で調理しないっていうのにだ。
 そのうち賞味期限的に優先させるべきものを取り出して、眺めて、タブレットで検索して今日のメニュー決めをする。
さぁ」
「ん?」
「お店、続けたいよねぇ」
「…そりゃあ。常連さんもちらほらでてきて、軌道に乗ってきたとこだし…。何? なんか都合悪いことあった?」
 ちょっと不安になって野菜を洗う手を止めた。
 あの家兼店、豆の調達ルートその他を手配したのは白蘭だ。白蘭が無理だと言えば俺は店じまいするしかなくなる。小さなコーヒー店だし、破綻しないように経営は回してるけど、一人で何もかもをやっていく自信はまだない。
 違うよーと笑った白蘭はソファから明るい声で続けた。
「ちょっとね、場所を変えないかなーと思って」
「どこに?」
「ほらぁ、僕が立ち上げた会社あるでしょー。ミルフィオーレ!」
「ああ、うん」
「今のところ会社内にカフェ的な店がないんだ。だからね、ちょっとスペース作って、のお店をそこに移動させよっかなぁって。そしたら僕ら毎日顔合わせられるし、郊外で経営するよりはずっとお金入るよ?」
 もやもやとオフィスビル内にある自分の店を想像した。
 そうなったらもう一人で切り盛りはできないから、何人か人を雇って、これまでよりずっと行き交う人の多くなる場所で、自分の味がどこまで通用するのか知れる。
 けど。そうなったら。あの場所にあったからこそ来てくれていた人達とはもう顔を合わせることがなくなるだろう。
(恭弥さん…)
 あの人に会うことも。なくなるだろうな。
「…まだ、あそこで続けたい、かなぁ。いや、できればだけど。せっかくご近所さんと顔見知りになってきたし…できればもう少し……」
 ぼそぼそ返すと、ふーん、と淡白な声が聞こえて少しどきりとした。白蘭はいつも明るいけどたまに無表情になったりこんなふうに淡白になったりする。そういうときのあいつが怒ってみせるあいつより一番怖い。気がする。
 カードキーを通さないと出入りできない防犯ばっちりの最新マンションを出ると、もう二十二時を回っていた。
 放っておくと食を適当にすませる白蘭の面倒を見るためと銘打って、俺は食費その他を浮かせるために白蘭のところにたかっているにすぎない。あいつもそんなこと分かってるだろうけど、俺の淹れるカフェオレが大好きだとか、俺の作る料理が大好きだとか、いつも俺を肯定するから、それに甘えている。
 白蘭がいなければ、こんな外国の地で一人やっていくことなどできなかっただろう。その意味で、白蘭には本当に頭が上がらない。
 そんなこと気にしなくていいのにって、あいつはいつも笑うけど。
「ふー」
 何となく深く息を吐いて、まだ耳に慣れないイタリア語が飛び交う風景の中を歩き出す。タクシーを捕まえるほどお金はないし、腹ごなしに歩いて帰ろう。
(そりゃあ、経営がもっと軌道に乗れる場所に店を開けるなら、それがいいんだろう。今の暮らしが最低限だってことは理解してる。月の半分くらい白蘭とこで世話になってるし…。自立して生活していくには、もう少し、収入面が安定しないと)
 考え事をしつつ、夜、これからが営業時間というバーも多い駅前を歩いていると、黒い髪が目に留まった。別に、珍しくはない。イタリアは観光客だって多いし。そのまま通りすぎようとして、目を離そうとしたとき、その黒い髪がショートカットでスーツを着ている姿が見えてしまって、一度離した視線を戻した。
 恭弥さんだ。スーツを着てる。紫の生地のシャツに黒いネクタイ。薄く目立たないストライプの入ったスーツ上下に身を包んで、どう見たってかっこいい。白蘭とはタイプの違う人だけど、二人とも、隣に並ぶのを躊躇うくらいにはかっこいいんだよな。
 仕事、かな。取締役みたいなものだって言ってたけど、接待か何かだろうか。
 気になって歩みが遅くなり、ついに足が止まった。
 こっちへ来てあの人に出会ってからというもの、俺はどうもおかしい。それまではだいたい白蘭のことで埋まってた頭が今は恭弥さんで埋まりつつある。営業以外ではろくに知りもしない人なのに。
 スーツ姿の何人かと会話していたらしい恭弥さんがふと口をつぐんでこっちを振り返る。ぱち、と目が合って、彼は驚いた顔をして、俺はしまったと今更顔を背けたくなり、それを我慢して、へらっと笑いかけた。
「こんばんわ」
「…こんばんわ」
 ぼそっとした声だったけど、聞き慣れていたせいか、それとも日本語であるというせいか、自然と耳に届いていた。
 スーツの人何人かにイタリア語で指示を出した雲雀さんが解散を命じて、俺のもとへやって来た。「何してるの」「恭弥さんこそ」「僕は仕事だよ」もう終わったけど、とぼやいた彼がネクタイを解いた。たったそれだけの仕種に道を行く男女の何人が目を奪われていることだろう。
「恭弥さんて、お酒飲みますか」
「嗜む程度には」
「じゃあ、ちょっと飲みませんか。今日はそういう気分で」
 提案した俺に、恭弥さんは丸めたネクタイをポケットにねじ込んで「いいよ」と簡単に了承してくれた。
 とは言っても、俺は酒の良し悪しは分からないので、気分で方向性を決めた。
 景色が高くて雰囲気のある場所がいいなと検索したらそれっぽいのはホテルの上の方のバーしかないと分かってぐぬぬと歯噛み。チェックのついたどの店を見ても同じだ。駅前の値段よりさらにワンランク上。正直俺の財布では厳しい。
 駅前のゴテゴテ詰め込んだ場所で飲むのもそれはそれで楽しいと思うけど、それじゃ、雰囲気までは求められない。こっちは飲めや歌えや騒げやが基本の外人さん達ばかりなのだ。粛々とお酒飲める場所なんてそうはないか。
 俺がタブレット相手に歯噛みしていることを見て取ったのか、唇を歪めて笑った恭弥さんは「別に奢ってあげるけど」と大胆なことを言う。いやいや、と首を横に振って「大丈夫です。から、ここにしましょう」店内の写真でいい感じの雰囲気の場所を見せると、ふぅんとこぼした恭弥さんがタクシーを呼ぼうとするから慌ててその手を掴んで止めた。「歩いて、行きましょう!」そのタクシー代が俺の酒代になると知ってか知らずか、ああそう、とぼやいた恭弥さんが曖昧に手を払う。
 わりとラフな格好の俺とスーツの恭弥さん、二人で目的のホテルまで歩く間、当たり障りのない話をした。
 バーに入ってからも同じだ。お互いに突っ込んだ話はしなかった。上品な空間で、上品な値段の上品な味のお酒を飲んで、ぽつぽつ喋りたいことを喋るような感じ。
 けど、なぜだろう。
 別に泣きたいわけでもないのに、大きな窓からイタリアの夜景を見下ろしながら、涙がこぼれていた。
 悲しいのか。嬉しいのか。寂しいのか。懐かしいのか。恭弥さんと一緒にいると、寂寥にも似た想いが胸を、頭を、身体を埋めて、支配して、仕方がない。
 ぱた、とテーブルに落ちた雫の音で、恭弥さんが俺の異変に気付いたらしい。
「…?」
 どうかしたの、と声をかけられる。その声音は少し困っているようだった。いえ、別に、と返す声が震える。欠伸ですよなんて笑って流したかったのに、肩に触れた手の温度に、余計にぼろぼろと涙がこぼれてきた。
 どうして悲しいんだ。どうして嬉しいんだ。どうして寂しいんだ。どうして懐かしいんだ。どうして。どうして。
「恭弥さん」
「何? それ、泣くほどまずいの? なら僕が文句言ってくる」
「ちが…っ。ちが、くて」
 グラスを指す細長い指に触れる。
 イタリアに来て、自分の店が持てて、自分でまぁまぁかなと思う味のコーヒーが提供できるようになって、それが好きだと言ってくれる人達に出会って。

 あなたに出会って。俺は、たまらなく、淋しくなりました。