僕の天使は記憶を失くした。あんなに好きだったコーヒーに関心を示さなくなり、食生活が乱れている僕を見かねて料理するということもなくなった。
 僕の天使の最近の興味の対象は、僕や一部の人間が扱えるリングと匣だ。子供が玩具をねだるみたいに俺も俺もって言うから試しにBランクのリングと匣を与えてみたけど、当然ながら炎は灯せないし、炎が出せないことには匣だって機能しない。
「なんで白蘭にできて俺にできないんだろう」
 この日も同じだ。僕が匣から出した白龍と戯れながらぶすっと拗ねた顔をしている。まるで子供に戻ったみたいだなと思いながら顔ではあはーととぼけた笑顔を浮かべる。「さあ、なんでだろうね? 僕がすごいんじゃないかな?」おどけた僕に意地でも炎を出してやると眉間に皺を寄せてリングを睨みつける彼に、僕の横に並んだユニが曖昧な笑顔を浮かべた。
「…やはり、外れませんね」
「ご先祖様から続く能力でしょ。そう簡単になくならないし、変わらないさ。それだけに強力で侮れない」
 ソファに埋もれて、がおやつにして散らかしたマシュマロをつまむ。「でさ、どう? ユニちゃんの力で何か分かった?」努めて明るく訊いた僕に、ユニは顔色を曇らせる。それがもう答えにもなっている。
「最終的にあなたと同じ結論に至りました。幻覚汚染による脳への負担、強制的な記憶の再生、それらによって蓄積された疲労。そして、最後に強い揺さぶりをかけられたことによって、持ち堪えられなかった脳の大部分の糸の破壊…」
「それはさ、ユニちゃんでもどうにもならない?」
 一縷の望みをかけたけど、ユニはすみませんと首を横に振った。
 僕らの視線の先には白龍に跨ってふわふわ漂っているがいて、相変わらず眉間に皺を寄せてリングに届かない念を送っていた。
 まとめると、だ。は、僕と交流があることがバレて、ボンゴレに監禁され、六道骸に頭の中を弄られた。骸くんは僕に関する情報を引き出そうとしたのだろう。で、約束したのに来ないな〜と思った僕は、早く来てよと急かすためにタブレットに電話をかけてみたけど応答なし。これを不審に思って探ってみた結果、彼がボンゴレに捕まっている事実を知って、彼を救出しに行った。そこまではよかった。飛び込んだ先で骸くんと雲雀くんがやり合ってたけどそれだってどうだってよかった。を助けること、助け出せたことが第一だったから。
 彼の脳にそれなりの負担がかかっていたから、早くここから連れ出して休ませてあげないと。そんなふうに僕も少し焦っていたのだろう。骸くんがの記憶を掴んで壊した音を聞き逃していた。気を失っていたがようやく目を覚まして、声をかけて、何かぼっとしてるなと思って現状確認のための質問をしてるうちに彼の記憶が壊れていることに気付いた。
 口にマシュマロを詰め込む。とても甘い。コーヒー、というかカフェオレが飲みたいなと思った。彼が淹れたコーヒーにたっぷりの牛乳のカフェオレ。

「んー」
「コーヒー淹れてよ」
 そう声をかけたところで、彼はあっけらかんと笑って「コーヒー? インスタントそこにあるよ」とキッチンの上の粉コーヒーの瓶を指すのだ。
 俺の前でインスタントなんて飲まないでくれる? と苦い顔をしてコーヒーを淹れに席を立つ彼はもういない。
 僕でもユニでも駄目だ。途切れてしまった記憶の糸を紡ぎ直すことはできない。それは確かに脳内に残っているのだろうけど、鍵をなくした宝箱みたいに、ずっと、蓋を閉じてしまわれているのみだ。
 …こんなことなら、写真とかもっといっぱい撮っておくべきだった。記録媒体に残るのは賢くないって気を遣っていたから、彼と一緒に収まっている写真なんて、数えるほどしかない。
「……白蘭」
 小さな手がそっと僕の視界に蓋をした。「思いつめないでください。あなたのせいではありません」「そうかな」「そうです。あなたなりに、よかれと思ってやってきたことじゃありませんか。全て否定してしまってはかわいそうです」「…そうだね。そう思いたいけど……守ってたはずなのに、守れなかったなぁ」小さな手を握って下ろす。
 上手く丸くなった白龍の上で器用に昼寝体勢に入っているに、唇の端で笑みをこぼす。ちっとも炎が灯らなくて飽きたんだろう。飽きたから寝るなんて、本当に子供みたいだ。
「僕は愚かなんだ。この世界では主人公にはなれないって分かってた。それでいいって思ってた。でもさ、やっぱり主人公がいいみたいだ」
「…白蘭」
「ごめんねユニちゃん。僕は愚かなんだ。愚かだから……にちゃんと言えばよかったなぁ」
 ほろり、と涙が落ちて頬から顎へ伝った。好きだって言えばよかったなぁ。ぼやいて泣きながら、小さな手を離した。
 おいで、と囁くと、白龍は上に乗ってるを落とさないようスススと音を立てず水平に移動してきた。ソファの背もたれからブランケットを取って広げ、白いふわふわのそれを被せてやる。
 あどけない寝顔。記憶の大部分を失くした君は、持っている記憶相当の年齢まで幼くなった。残っている記憶もどこか脆くて危うい。目を開けて最初に見たのが僕だからか、唯一僕が僕だということは憶えていたようなので、そこから色々教えて、ユニの手も借りて、何とかやっていけている。
 僕の知っている君は死んでしまった。
 コーヒーが好きで、外面はのんびり屋でも、打ち解けると、実は結構ぶっきらぼうでどんくさいところもある、二面性を持った人で。どこかチグハグなこの世界の中心人物の一人。
 最初は興味の対象として彼に近づいた。この世界は何なのか、その意味を探ろうと自然な形で近づき、何か不備があったら僕が助ければいいだろうって、そんな軽い気持ちでいた。
 それがいつからか。多分、真剣にコーヒーについて語る彼を知ったときから、惹かれ始めていたのだと思う。イタリアにならお店あげられるかもなんて言うくらいには。
 コーヒー、なんて僕にとってはあってもなくてもそう変わらないものに心身と情熱を注ぐ彼の姿が、僕にはできないだろうその生き方が、とても眩しかった。
 けど、これは僕の物語ではない。僕の世界ではない。この世界の中心は彼だ。僕の想いは彼の未来の障害物にしかならないだろう。
 のことが好きだと思ったけど、その気持ちは胸に押し込めて。強い想いを彼を守る力へと昇華させて、何とかやってこれていたんだ。それがこんな形で奪われるなんて知りもせずに。
が壊れることになる…ユニの予知は当たった)
 絶対寝にくいだろうからと白龍を連れてベッドへ移動し、起こさないように注意を払いながら広いベッドに白い色で包まれた彼を横たえた。
 あまり、僕という存在で、彼を妨げることにならないように。そう考えておいた距離が仇になってしまった。
「白蘭」
 案ずるようにかかるユニの声に、自分でも白々しいと思う笑みを浮かべて笑って返す。
「ボンゴレ、潰すよ」
「……考えは変わりませんか」
「だいじょーぶだよ。ボンゴレという組織を潰すだけ。アルコバレーノを欠いてただでさえこの世界は不安定だ。リングを壊すなんてことはしない。僕の方ですぐにリングを持つにふさわしい人物を選ぶよ。問題ない」
「白蘭」
「彼のこと、一人でも守ろうとしてた、雲雀くんも殺さない。彼だけは連れ帰ってくる…そうすれば何かが変わるかもしれないから」
 苦しそうな顔をしているユニの頭を撫でる。ここに来てから君はそんな顔ばっかりだ。もしかしたら僕のこの未来さえ視えていたのかもしれない。「ごめんね。僕、馬鹿で、愚かだからさ」笑いかけて、を頼んだよとこぼして、眠っている彼の頬にキスをした。そこから頭のスイッチを切り替える。しばらく忘れていた、利己的な自分へと。
(なんだか懐かしいな、この感じ)
 彼と僕とユニだけが出入りできる部屋を出て、白い廊下へ。
 ドアの両脇に立って敬礼した人間二人ににっこりと笑顔を向ける。
「ねぇ、人を集めてくれる? 至急だ。大事な作戦会議を始めたい」

 僕は、君を壊した奴らを壊しに行く。