ある日、いつものように応接室の扉を二回ノックしてからがらりと扉を開いていつものように「雲雀さーん」と呼んでぼすんとソファに腰かけた。それでいつもだったら何とかはいこれやってとか何かしら声が返ってくるはずなんだけど、いつまでたっても雲雀さんの声が聞こえない。そのことに三分くらいたってから気付いた。 何度か瞬きして、とりあえず応接室を見回した。いつも座っている椅子にも机にもソファにも彼の姿はない。ついでとばかりに天井を見上げて床の絨毯もめくってみたけど見当たるはずもなかった。当たり前か。 それで、首を捻りながらとりあえずパソコンのスイッチを入れて風紀委員の仕事をやり始めて数十分。 「雲雀さんが入院?」 「らしいよ。最強風紀委員長が珍しいよね」 朝、同じクラスの友達にそんな話を聞いた。目をぱちくりさせているとばしばしと背中を叩かれて、「お見舞い行ってあげなよ、きっと待ってるよ委員長」と含み笑いされる始末。私は適当に笑ってその話題を流してからちらりと時計に目をやった。朝の八時二十五分。もう五分で朝礼が始まる。 (…なんか嫌な予感するなぁ) どさりと手提げ鞄を机に下ろしたときだ。ぴーんぽーんぱーんとチャイムが鳴った。これは呼び出しのときの。 『2−Bのくん、至急職員室まで来るように』 「………きたよこれ」 ぼやいて、下ろしたばかりの鞄を掴んで教室を出た。好奇の目がいくらかこっちを見ていたけれど無視して職員室まで行ったら担任の白髪混じりの頭をした先生に迅速に駐車場まで連れて行かれて車に押し込まれた。あんまり急だったから助手席に座らされてご丁寧にシートベルトまでさせられてからはっとして「先生ちょっと何なんですかこれ」と抗議してベルトを外そうとすれば、がしりと脂汗の滲んだ手で静止させられた。見れば先生は気の毒なくらいに冷や汗とか脂汗とかよろしくない汗をかいて必死な顔で、それでも冷静さを保とうとしているなんとも微妙な表情で私を見ている。 「いいかねくん、君は今から並盛中央病院に行くんだ。私が送っていく」 「…何でですか。私は病院に用はありませんが」 「君を呼んでいるのだよ、彼が」 それだけ言って先生は問答無用にばたんとドアを閉めてしまった。それで迅速に運転席に乗り込み、決して安全運転とは言えない速度で病院へと車を走らせ始める。信号無視もなんのそのだ。 私ははぁと息を吐いて目を閉じた。 一体先生をどう脅したんだろうか雲雀さんは。しかも私に病院に来いと。お見舞いの品なんて何も持ってないし。っていうかあの人は一体何を考えているのかさっぱり分からない。 「…大変ですね先生も」 ぼそりと呟けば、「私は君にも同情するよ」と疲れた声が返ってきた。私は苦笑を漏らして一応笑っておく。 まぁ、雲雀さんに絡まれるのは今に始まったことじゃない。 「…それで。どうして入院なんてしてるんですか雲雀さん」 ベッドの上でいたって健康そうな顔で黒色のパジャマに身を包んでいる我が校の風紀委員長に話しかけてみれば、文庫本に視線を落としていた目がこっちを向いて「風邪をこじらせてね」と一言。私は思わず額に手をやって深く溜息を吐いた。持っていた鞄が手からすり抜けてどさりと白い床に落ちる。 よりにもよってこの人は、らしくもなく風邪なんてものを引いてしかもこじらせたらしい。そしてうちのクラスの担任を脅して私を寄越させた、と。だけど一体なぜ。 落とした鞄を拾い上げてとりあえず壁際に放置しながら「それで私に何かご用ですか雲雀さん」と言えば、彼は健康そのものの動きでベッドから足を下ろして普通に立って歩いてきた。それでぴしゃりと私の向こう側の扉を閉め切ってついでとばかりに私の方に顔を寄せて、私はぎりぎりまで壁に頭をぶつけて後退し、一種の膠着状態になる。 唇を動かせば息が触れ合うような距離。近すぎて雲雀さんの顔がぼやけて見える。 「なん、ですか」 「半日ぶり」 「そうですけど。近いです雲雀さん」 喋る度に薄皮一枚隔てただけの空気が揺れる。彼がよく分からないけど満足したように笑って何事もなかったかのようにベッドに戻っていったので、私はほぅと大きく息を吐いてどくどくいっている心臓を押さえつけた。 なんだかんだで、雲雀さんは元気そうだ。 (なんだ。でもじゃあ私が来た意味って…) 思わず天井を見上げれば、「そんなとこ突っ立ってないでこっちおいで」と雲雀さんの声。そんなとこって入り口ですけど何か、とか胸中だけで反論しながら「はーい」と返事してベッドの側に行く。雲雀さんは枕に背中を預けてまどろむように目を閉じていた。そうしていると窓から入る風に黒い髪が揺れて、そう、そうしていると雲雀さんはとってもジャニーズ向けな人に見える、のに。 (実際は…口を開くと群れるのがうざいだの咬み殺すだの……物騒だもんなぁ) 大人しく置いてあったパイプ椅子に脱力して腰かける。手持ち無沙汰だったので普段あまり凝視することのない雲雀さんの顔をじっと見てみた。人形みたいに精巧な作りの、人形みたいにきれいな人を。 「……雲雀さん」 小さく呼んでみた。彼の唇が薄く開いて「何」と言う。特に言うこともなかったので「早くよくなるといいですね」と月並みのことを言ってみた。彼は薄く目を開けて私を見て、それから笑う。 「」 「…、はい?」 一瞬のタイムラグ。だって今この人私のこと名前で呼んだ。あれおかしいな、今まで雲雀さんて私のこと名前で呼んでただろうか。いや、苗字だ。ってうるさく言われた憶えがある。 私がぐるぐる考えている間、彼は眩しいものを見るように目を細めて唇の端を持ち上げてこっちを見ている。 「実を言うと、僕は君に会いたかったらしくてね」 「……はぁ。そうなんですか」 いまいちしっくりこなくて返事が適当になる。彼が私に手を伸ばして遠慮なく髪を掴んでしかも引っぱるので、私は「いった、雲雀さん痛いっ」と抗議しながらも引っぱられるまま彼の身体に頭から突っ込んだ。ぼすりと白い布団の色で視界が埋まって、それから背中に誰かの腕が回る感触。誰かってこの場合、一人しかいないけど。 「ひ、ばりさん」 どう声をかければいいのか分からずに、顔を上げられないままとりあえず彼を呼んだ。背中に回る腕が一本から二本に増えて、掴まれていた髪がぱらりと視界に落ちてくる。 「。会いたかったんだよ」 その声の、落ちてくる声の僅かな震えに、私は気付いてしまった。それはもしかしたら風邪のせいかもしれないし、私の気のせいかもしれなかった。だけど震えていると思ってしまった私は、いつものようにつっけんどんに彼を突き放すことも知らないふりをすることもできずに、ただおずおずと腕を動かして彼の背中に腕を回して、細い背中を一つ撫でた。彼が余計に強く抱きしめてきたけれど、なんだか私は諦めた。何に諦めたんだか分からないけどとにかく諦めた。 彼はきっと風邪で少しだけ感情表現が豊かになっていて、きっと風邪で少しだけのぼせてしまっているのだ。きっと色々な偶然とかが重なって今のこの状況に至っているのだろうと、私はそう結論づけた。 私の背中に依然腕は回されたまま、ただゆるりゆるりと時間だけが過ぎていく。 |