ボンゴレファミリーのドン・ボンゴレと称される我らがトップである沢田綱吉は、僕から言わせてもらうなら、ただの甘い人間で、馬鹿で、直感頼りで理論的な解釈がなく、感情に左右されやすく、押しに弱く、挙げ出せばほかにもキリがないのだが、まぁつまり全然ちっとも歴史あるボンゴレの頂点に立つ男にはふさわしくなかった。
 そんな男だと分かっていながらその下で働き、ぽんぽんと判子を押す作業をしている僕も僕だ、という話でもあるのだが。
 今日も今日とて吟味すべき取引がいくつもある。僕が処理行きと判断するもの、指示を仰いで沢田まで回すもの、その他もろもろに書類を分けつつ、ボンゴレの印と僕が目を通したという意味で書類の下の方にフルネームでサインを入れる。
 彼女がボンゴレの傘下に入ってからというもの、うちのご機嫌取りをしようと無駄な商談もぐっと増えた。総じて面倒ごとが増えた。
 だから彼女は疫病神だと言ったのに、沢田ときたら。今度まとまった時間が取れたときはもう一度、君が今回取った無謀な行動について、改めて叱りつけてやろう。
 書類に目を通してぽんと判子を押し署名をする作業を繰り返していると、コンコン、と行儀のいいノックの音がして、判子を押す手が止まった。
 ノックの仕方一つでも分かる。片目を失くしてから、それを補うために視覚以外の聴覚や嗅覚、触覚といったあらゆる部位を可能な限り鍛えてきたせいだろう。こんなやわらかいノックをする男はボンゴレ内にはいない。
「どうぞ」
 一呼吸置いてから入室を促すと、予想の通り、扉の向こうにいたのは彼女だった。
 表では若き天才生物学者、裏では金の亡者とまで呼ばれる女、。そしてその傍らに常にあり続ける彼女のボディーガード、裏では不死身とまことしやかに噂される男、雲雀恭弥。
 僕は沢田に頭を下げられて、食べ切れないほどのチョコの賄賂と共に二人の素性を調べ上げる仕事を内密に引き受けた。が、未だ肝心なピースが見つからずに文書はまとまっていない。箇条書きのように時系列の出来事をまとめているものの、ところどころが欠けた、不完全なものにしかならない。
 応接用のソファに着席を勧めつつ、扉の向こうで控えている部下に紅茶の用意を命じて、沢田が寄越した食べ切れないほどあるチョコの箱の一つを開封した。
 いくら僕がチョコが好きであるといっても、沢田の馬鹿さ加減にはほとほと呆れるばかりだ。こんなにたくさんもらって僕が一人で食べるだろうと本当に思ったのだろうか。
「どうぞ。頂き物なんですが、たくさんありましてね。僕だけでは食べ切れないので、遠慮なく」
「ありがとう」
 彼女は朗らかに笑ってチョコの一つを指先でつまんだ。金の亡者とまで言われる女性にしては、爪にはマニキュアの類もなく、細い指には宝石のついた指輪もなく、金に憑かれているイメージなど湧かない。
 おいしそうにチョコを口にした彼女とは違い、雲雀の方はチョコに手をつけずに僕のことを睨んでいた。それをあえて流し、彼女の向かい側に着席する。
「それで、本日はどういったご用件で?」
 訊ねつつ、自分の方も指先でチョコの一つをつまむ。一つ目を満足そうに平らげた彼女は、二つ目のチョコをつまみつつさらりと「義眼のこと。完成したわ」と言って隣の雲雀に視線を上げた。彼が持っていたスーツケースを机の上に置き、鍵を外して開ければ、中にはガラス管に入った眼球が一つ。
 ごほん、と咳払いをする僕に、つまんだチョコをかじった彼女はいたって不思議そうな顔をした。
「お気に召さないかしら」
「いえ…それ以前にですよ。あなた、チョコを食べつつそんな話をされて真剣になれますか」
「あら。わたしはいつだって真剣よ?」
 ねぇ、と雲雀に囁いて笑う彼女は確かに悪魔めいていたが、とびきり美人というわけでもない。彼女を愛したまま抹消されたという軍人の話を思い出しつつ、彼女の笑顔に応えて唇を寄せる雲雀から視線を外す。溜息を吐き、気持ちを改めて、ガラス管の中にぷかぷかと浮いている眼球へと視線を移した。
 …確かによくできている。本物を取り出して収めたのだと言われれば納得してしまいそうなほどだ。
 けれど、収まっている眼球の瞳は赤く、よくよく見れば、六、という字が入っていた。決して手を抜いて他所から調達したのではない、と主張するように。
「…なぜ瞳に文字など」
「安心して、見るのに支障はないから。そうね…だって道も骸も、ちょっと難しすぎて無理だったの。六ならいけたのよ。理由はそれくらい」
 そうでもしないと手作りだって分からないでしょう、と笑った彼女は確かに悪魔のようだった。
 僕の瞳は本来ただの青なのだが。これはこれで、眼帯をしているより目立つ結果になるのではないだろうか。
 片方の視界だけで取り上げたガラス管の中の眼球を上下左右から隙なく観察する。彼女は彼に身体を預け、そんな僕を眺めている。裏も表も自在に駆け抜けるだけあって、なるほど、場慣れはしているし、度胸もあるようだ。彼女に対してそんな感想を抱いてガラス管をスーツケースへと戻す。
「沢田は何か言っていましたか」
「うーん…特に何もないわ。というか、一度見ただけでちゃんと見ようとはしなかったもの。代わりにリボーンが見ていたけど」
「そうですか」
 俺こういうの無理、と口を押さえている沢田が容易に想像できる。全く使えないトップだ。
 彼の代わりにリボーンが検分したというなら僕も文句はない。この義眼は間違いなく彼女がその頭脳をフル回転させて僕に見合うようにと繕ったものであり、六と刻印された文字の入ったものなど、世界中のどこを探しても見つからないことだろう。
「…きちんと見えるんでしょうね? これ」
 あとはそれだけが心配で、コツンとガラス管を叩いた僕に、彼女は笑った。その笑顔はどちらかというと天使のように清純な笑みだった。
「安心して。機能は保障するわ」
 笑顔でそう言い切られれば、僕には断る理由もない話だった。
 運ばれてきた紅茶を一口すすり、最後にもう一つチョコをつまんで、長居をすることもなく、彼女は彼と連れ立って執務室を出て行った。
 はぁ、と息を吐いてソファに身体を埋める。
(…なるほど。見事手玉にされた軍人の男は、彼女のあの笑顔にやられたというわけか)
 甘いチョコをもう一つつまんで口に放り込む。
 その甘さで、僕は彼女の甘い笑顔を忘れることにした。
◇  ◆  ◇  ◆  ◇
 若き天才生物学者。日本人らしい黒髪と色白と細さを備えた女は、現在の所属をボンゴレとして、今日も本部の廊下を歩いている。
「十代目、失礼します!」
 その日もオレは十代目のもとに抗議にきていた。「やはりオレは納得できません!」と声を上げると、書類を睨んで眉間を揉み解していた十代目が困ったように笑う。「最近ずっとそれだね、獄寺くん」「無論です! 納得できるまでオレは食い下がりますよっ」ぐっと拳を握って主張すると、十代目は弱ったなぁという顔をする。
 十代目の手を煩わせるのはオレだって不本意だが、これは譲れないことなのだ。このままあの女をボンゴレ内でのさばらせておいてなるものか。そのうちどこぞの金庫からごっそり金塊がなくなっているなんて事態になってからでは笑えないのだ。その前に手を打たねば。
はよくやってくれた。おかげで骸の視力は回復しただろ」
「そ、それは、そうなんですけどね…しかしっ、それとこれとは話が別というか!」
 十代目がと雲雀恭弥の身柄を引き受ける条件として提示したのは、数年前に任務先で片目をなくした六道骸のための義眼の作製だった。
 世界屈指の生物学者であり、裏では現代科学にさえ精通しているとされるは、確かにやってのけた。回復は不可能だと言われた骸の右の視界を蘇らせた。義眼という特異な例ではあるが、一度見えなくなったものが再び見えるようになる例は少ない。オペで骸にどんなことをしたのかは知らないが、本人はいたって元気だし、あの骸が頭を下げて感謝を述べていた。その点から見てもはよくやったのだと、思うべきなのだが。
 だがオレは納得できないのだ。どうもあの女が好けないというか。あの女もそれでいいと思っている節がある。さすが裏表を自在に使い分けるとされているだけあってさっぱり読めない奴だし、隣には必ずあの雲雀がいる。それもまたオレが奴を好けない理由の一つになっている。
 世界屈指の科学者という名誉を手にしていながら、それだけでは飽き足らず、裏社会にまでどっぷりと足を浸し、ボンゴレからも金を搾り取って、自分のことだけ愛する男さえ伴って、あの女はすぐそこで笑っている。
 地位、名誉、金。恋人ですら、どうしてあの女はこうも何もかもを手に入れて笑っているのか、と、思ってしまう。
「獄寺くん」
 オレの思考を見透かしたタイミングでの諌める声に、ぴっと背筋が伸びた。十代目はやんわりとした笑顔で「君が彼女のことを好いてないことは分かる。だけどね、どうしても必要なんだ」と言う。
「は…しかし、骸の目ならもう心配いらないのでは」
「うん、当分はね。ただ、義眼なんてボンゴレ内じゃ他の誰も経験してないし、メンテナンスってものもいるだろうと彼女は言ってた」
「…そう、でしたね」
 いつかにガラス管の中に浮いていた眼球を思い出す。限りなく本物だと思えたあれは、一応精密機械だとかで、メンテナンスってものは必要らしい。確かにそれをいじれるのはだけだろう。
 しかし、と食い下がるオレに、十代目は緩く頭を振って至極残念そうな顔をした。
「それに、悪い報せが入った。ディーノさんがとあるファミリーとの抗争の末、左の膝から下をなくしてしまったらしい」
「な…っ、跳ね馬がですか!? 一体どこの組織にッ」
「向こうも色々とモメてるみたいだ。ただ、この件に関してボンゴレは同盟ファミリーであるキャバッローネに最大の助力をすると約束した。つまり、ディーノさんの義足を、彼女に繕ってもらうんだ」
 十代目の言葉にオレは絶句するしかなかった。
 確かに骸の義眼の件は大成功で、本人も納得しているし、あいつはやるべきことをやった。そうしてここにいる権利を得た。だがそれはボンゴレにとっても痛いといえる金額の金と引き換えだった。そんなボンゴレに入り立ての奴に重大な仕事を任せるなんて。
 拳を奮わせるオレに、十代目は困った顔をしている。
 だが言葉は撤回しない。それがドン・ボンゴレの決定なのだ。
「リボーンさんは、なんと」
「リボーンなら、になら妥当だろうって…ただ、あいつも二人のことはよく思ってるふうじゃない。そういう話なら、俺よりもあいつの方がしやすいかも」
 苦笑いした十代目に、俺は肩の力を抜いた。
 粘って粘ったこの二ヶ月だったが、これ以上は時間と労力とオレのエネルギーの無駄でしかないだろう。
 私怨は抱かない。それにこれは、私怨というより、ただの妬みにも近い。オレから見れば何でも手に入れているように見える女に対する妬み。そんなものをいつまでも引きずって十代目の手を煩わせるようじゃ右腕は失格だ。
 燻ぶるものがあるのなら、見返す方がずっと前向きで正当な行為だ。
「いえ。すみませんでした。十代目の決定にいつまでも異議を唱えてしまって…」
 頭を下げたオレに、十代目が席を立つ。オレの前に来てぽんと肩を叩き「いいんだ。そうやって食い下がってくれる方が、俺も色々と考えられる。いつもありがとう獄寺くん」と言われて、不覚にもじわっときたが、歯を食い縛って堪えた。
 オレはこの人についていくと決めたのだ。それでよかった。本当によかった。
 失礼します、とドン・ボンゴレの執務室をあとにして廊下を歩いていくと、いつものように雲雀を連れ立って歩いているを見つけた。雲雀の手はでかいトランク二つで埋まっている。
「なんだその荷物」
 オレが訝しげに声をかけると、気付いたが笑う。「同盟ファミリーに負傷者が出たんですって。わたしに診てほしいって、ツナから頼まれたの」どうやらさっきの話は本人に渡ったあとだったらしい。その大荷物はそのために必要なものなんだろう。
 ち、と舌打ちして腕組みし、から顔を逸らす。
 相変わらずこいつのことは気に入らない。が、もうボンゴレに入ってもう二ヶ月目だ。そしてこれから大きな仕事がある。ファミリーの一員を、無下に見送るわけにもいかない。
「まぁ、頑張ってこいよ。間違ってもボンゴレに泥塗るなよな」
 ぼそぼそっとそう言うと、はぱちぱちと瞬きしてから不思議そうに首を傾げた。「あら。いつもみたいに詰らないのね」と言われてかっと顔が熱くなったが、堪える。俺の嫌味をいつも聞き流して笑ってばかりいるから気付いてないのかと思ったが、天才生物学者がそんな馬鹿であるはずなかったか。
 たんたんと靴底で床を叩く。雲雀が俺を睨んでいるが、はそれに気付いてないらしい。
「いいから行けよ。いいか、くれぐれも、ボンゴレに泥塗るなよっ」
「はいはい。善処しますわ」
 優雅な動作でスカートの裾を持ち上げて一礼したが歩き出すと、俺を睨んでいた雲雀が彼女に続いて歩いて行く。
 他の誰に対しても愛想の欠片もない奴だが、にだけは笑う。今も、に話しかけられ、微笑を浮かべて応えている。
 …そういえば、あいつが不死身の化け物だなんて謳われるようになったのはいつからだったか。
 消息不明だった一年と半。その空白の時間のあと再び姿を見せた雲雀恭弥。それまで所属していた組織を捨てた奴が選んだのはの隣に立つこと。あいつの手となり足となり剣となり盾となること。
 洗脳でもかけられたか、なんて笑ったあとで、それもありえないことじゃない気がして寒気を覚えた。
 あの女は底知れない。その頭脳の未知数だけじゃなく、何を基盤としているのかが分からない、考えていることが読めない、という底知れなさがある。
 それに、そうだ。あのときボンゴレから搾り取った金は一体どこへ消えたんだ。十代目はにはあの金額の金がどうしても必要だったんだろうと言っていたが、湯水のようにあの金が消えるなんて、一体何に費やせばいいのか、オレなら考えもつかないが。
 ボンゴレ本部を出て行く二人の背中を見送っていると、僅かにこちらを振り返った雲雀の目が俺を睨んで鋭く光ったような、そんな気がした。