彼女が提出する書類を代わりに持っていくと、沢田は「ありがとうございます」と書類を受け取った。さっさと出て行こうとする僕に「あ、雲雀さん」と声をかけるから、仕方なく足を止める。
「何」
にこれ持っていってあげてください。獄寺くんが久しぶりに日本へ行ったんでってみんなにお土産を買ってきたんですよ」
 はい、と渡されたのは、梅干と海苔と昆布の入った紙袋だった。
 …わざわざバラで買ったのか。というか、確かにこのチョイスは日本を感じさせるけど、お土産としてはどうなんだろうか。彼女をよく思ってない獄寺のことだから、お土産と見せかけたただの嫌がらせという可能性もある。
 僕がげんなりしているのを見て沢田は笑った。「みんなそんな反応ですから、まぁ、何とか片付けてあげてください」とか言われて、不承不承そのお土産の紙袋を提げて執務室を出る。
「よう恭弥!」
 少し行ったところで、そんなふうに馴れ馴れしく声をかけられた。…僕のことを名前で呼んでもいいのはここじゃだけだっていうのに。
 すっかり義足にも慣れた足取りでボンゴレ本部へとやって来た、跳ね馬という別名を持つ男に気安く名前で呼ばれて手を挙げられ、無視してやった。さっさと歩いて行く僕に「待てっ、待て待て悪かった雲雀っ、待ってくれ!」と、走ることはまだできないらしい跳ね馬に騒がれ、はぁと溜息を吐いて振り返る。
「何か用事?」
いるだろ、ちょっと連れてきてくれよ」
 ぴく、と片眉が跳ねる。「?」と低い声で彼女の呼び方を確認すれば、はっとした顔でぶんぶん首を振った跳ね馬が「っ、を連れてきてくれ! 足のことで相談したいことがあってだなっ」と必死に手を振って名前で呼んでなんてないとアピールするけど、僕にはしっかり聞こえていたよ。本当ならボコボコにしたいところだけど、そうすると沢田とか獄寺とかがうるさいし、もいい顔はしないから、仕方がないから、諦めてあげよう。
 沢田曰く土産の品を持って戻ると、彼女は笑ってそれを受け取った。「懐かしいわね。こっちじゃあまり見かけないし」と梅干の入った瓶を取り上げたから、このお土産はに対してはそんなにハズレではなかったようだ、なんて思う。
 ぱりぱりと海苔をかじる君を眺めてから思い出した。「ああそうだ。跳ね馬が来てる。足のことで相談したいって」「え? 何それ、早く言って。思いっきり海苔食べちゃった…」歯にくっついた海苔を気にしたが洗面所へ駆け込むのを見送り、海苔の缶の蓋を閉じる。
 しっかり歯磨きをしてから戻ってきた君を連れてさっき跳ね馬と会ったところに行くと、見当たらない。その辺にいた奴を捉まえて訊くと、ソファのある応接室でしっかりとお茶を出されてくつろいでいた。
 彼女はそんな跳ね馬が嫌いでないらしく、イタリア語で会話する。奴は日本語だってばっちり喋れるんだから気を遣わなくたっていいのに。というか、二人の会話のペースに僕がついていけない。
 やがて、むすっとしている僕に気付いたのか、「恭弥、そんな顔ばかりしてないで」と彼女が僕の頭を撫でた。やわらかい唇の動きを見ていると食べたくなるんだけど、さすがに冷やかしがいる前で君に噛みつくわけにもいかない。ぷいっとそっぽを向いて「話終わったの」と訊くと「終わったわ」と返されたから、早々に君の手を掴んで応接室を出た。「また来るわー」彼女のことを名前で呼んだ跳ね馬を振り返り様睨んでやると、奴はそそくさとソファの向こうに隠れた。
 そんな僕に、彼女は笑う。
「ヤキモチ妬き」
「うるさいなぁ。悪いの」
「いーえ結構なことです。嬉しい」
 にこっと笑った君に、はぁ、と息を吐く。
 そりゃあ結構なことだね。まぁ、僕だって、君にヤキモチ妬かれるなら本望だけど。そんなふうに君を煩わせたいわけじゃないから、余計なことはしないよ。
 ボンゴレに入っていつの間にか一年が経過して、頼んでもないのに仕事帰りに勝手に誕生日というものを祝われた僕は、そこで初めて気付いた。
 自分が今何歳なのかということがいまいちはっきりしないのだ。生年月日を辿れば年齢は算出できるけど、そういう意味とは何か違う。こう、今の自分の年齢に実感がもてない、というか。
「…僕は今年で28なの?」
「いや、訊かれてもな。そうなんだろ? えーと今の年から生まれた年を引き算すれば出るよな、年齢」
「そりゃ出るだろうよ。そーいうことじゃねぇよこの馬鹿」
 獄寺に突っ込まれた山本が笑ったが、僕にはあまり笑い事ではない。僕はそんなに歳を取っていたろうか、と本気で首を捻る。
「雲雀さん? どうかしたんですか」
 首を傾げている沢田から視線を外して考える。
 はっきりと憶えているのはあのときだ。自分でも死んだろうと思ったあの荒野での戦い。膝が軋んで、息が上がって、眩暈だってして、もう何年か前なら絶対こんなことはなかったと、自分が歳を取ったことを感じた。
 …今は? 今僕は自分の身体のことをどう思っているんだ。
 試しに屈伸したけど、それくらいでぎしぎしいってたら本当に空しいから、これはクリアできていい。「何やってんだお前」と呆れた顔をする獄寺に向かって全力で拳を打ち出すと、相手は間一髪で避けた。なかなかいい反応だ。続けざま蹴りや体術を本気でしかけ、「ちょっ、待て、おい待て本気で待てッ!」と声を上げる獄寺を壁際まで追いやり、避けられると分かってはいたが、全力で殴った。ドゴッ、という音と感覚は確かにあり、痛みもある。だけどこれだけ動いたのにちっとも息は上がらないし、眩暈もしないし、関節も軋まない。25のときよりも確実に歳を取っているはずなのに?
「おまっ、今の本気だろ! あっぶねぇなぁオイっ!」
 喚く獄寺を眺めて、壁にめり込んだ手を引っこ抜く。
 赤い色は見える。血だ。皮膚をめくれば筋肉や組織も見えるだろう。僕は確かに生きている。そうじゃないか。
 なのにこの違和感はなんだろう。
 勝手な宴会を用意していたその輪から抜け出す。走って廊下に飛び出し、その勢いで窓を蹴破って三階から一階まで飛び降りた。簡単に着地が成功した。それが自分でも少し空寒い。
 に会いたい。に会いたい。とにかく彼女に会ってこの腕に抱き締めたい。その体温に縋りたい。そうじゃないといられない。
(なんだ? 何か変だ。何が変なんだ。どうして、変だと思うんだ)
 出せるだけのスピードで廊下を横切り階段を飛び下り、君がいるはずの場所に向かう。バンと扉を開け放つと、中は真っ暗で、僕は不安に駆り立てられて「」と大きな声で君を呼んだ。寝室の方で物音があり、駆け込むと、眠そうな目でベッドサイドのテーブルの照明を灯した君がいた。
「恭弥? どうしたの、そんなに慌て」
 て、と続ける君のことを全力で抱きすくめた。どくんどくんとうるさい自分の心音。生きている音。触れ合あった肌からは君のぬくもりを感じる。
 は、と上がった息は、どちらかというと精神的な問題であって、身体的に息が上がったわけではなかった。
「ねぇ、僕は今年でいくつ?」
「…ええと、28だったかしら」
「僕は、そんなに、生きていたっけ?」
 問いを重ねる僕に、彼女は細い指で僕の髪を梳いた。「生きていたわよ。怪我とかが多かったけど、わたしとずっと一緒だったでしょう」と囁く声に、ざわざわと胸を騒がせていたものが静かになっていく。
 そうか。怪我。そうだった。だから、僕の空白の時間は、その怪我のせいだ。
 わりと大きな怪我で意識が戻らなかった。傷の方は君が手を施してくれたからどこにも残っていないけど、僕は怪我のせいで記憶が曖昧になっているだけだ。そうか。そうだ。
 そうだ。僕のことを不死身の化け物だとか、そんなわけがないのに、騒ぎ立ててさ。あれはただ悪運が強かったってだけの話なのに。
 ぺたりと頬に添えられた手に、ゆるゆると腕を緩めて身体を離す。淡い橙の光を受けて微笑んでいる君はきれいだった。
「こんなに一緒にいるのにね」
「…うん。そうだね。そうだ……」
 キスをして、緩く君を抱き寄せて、その体温に安堵して、目を閉じる。
 歳を取っても動く身体。結構なことじゃないか。どうせその方が都合がいいんだ。だったらその理由なんて、僕は知らないままでもいい。
◇  ◆  ◇  ◆  ◇
 子供みたいにわたしに抱きついて眠った恭弥に、わたしは微笑みを浮かべて彼の髪を指で梳いている。
 ときどき、自分が狂っているようだと思う。盲目的に彼に愛されて、彼を愛して、そんな自分がおかしくなったのではないかと思うことがある。
 けれど残念なことにわたしの頭は通常回転しかしていなくて、求められた論文の解釈の仕事はもうすませてあるし、次の週はアメリカに飛んでサイエンス番組にゲストとして呼ばれる予定もしっかり組んでいるし、骸の義眼の状態もディーノの義足の状態も把握している。わたしはどうしようもなくいつも通りだ。
 コツ、と微かに耳に届いた靴音に視線を上げる。そんな些細な音にさえいつもなら飛び起きる恭弥は、よっぽど安心しきって眠っているのか、目を覚まさない。
 どうぞとは言ってないのだけど、相手は入室してきた。わたしたちがいる寝室の入口で足を止め、壁に肩を預ける。
「珍しい取り乱しようだったらしいな」
 リボーンの声だった。ベッドサイドの照明に手を伸ばしかけて、やめる。暗闇の方が、わたしにも彼にも、きっと都合がいいだろうから。
「そうだったみたいね。どうしたのかしらね。本当、恭弥には珍しいことだわ」
 静かに彼の髪を指で撫でる。黒い色。艶のある髪。男の人にしては白い肌。端整な顔立ち。わたしの、恭弥。
「知ってるぞ。他の組織に取られはしたが、雲雀にはオレも目をつけてたからな。確かにそいつの身体能力はズバ抜けてる」
「そう」
「だが、三十代目前ともなれば、多少なりとも落ちて当然なんだよ」
「そう?」
「ああ。オレが何言いたいかお前なら分かるだろ」
 闇の向こうからの問いかけに、わたしは笑う。「そんなに賢い女じゃないわよ」と。
 少しの沈黙のあと、彼は溜息を吐いて、多分、やれやれと肩を竦めたんじゃないかと思う。「まぁ、いいがな。だがオレらの足を引っぱることはよしてくれよ」と残して、彼は部屋を出て行った。
 パタン、と閉まった扉の音に、わたしはまた恭弥の黒い髪を指で梳く。
 …ここはわたしたちを受け入れた。きちんとした意味で受け入れてくれた。ここは個性があっていい人がたくさんいる。ボスのツナには親しみも湧いている。わたしは、居心地のいいここを離れないだろう。
 だから足も引っぱらない。ここを放り出された瞬間、前のような追われる生活に逆戻りだ。
「……いいじゃない。これで。このままで」
 眠り続けている恭弥の寝顔を眺めて、静かに息を重ねる彼に、わたしは微笑んでいる。
 あなたが愛おしい。わたしが常に思っていることはただそれだけ。
 わたしの底が分からない、と隼人は言ったけど、わたしって簡単な女なのよ。恭弥のことを愛してる。それだけで全部語れるくらいに愛してる。ただそれだけなの。
 視線を上げると、壁にかけられた額縁の絵をぼんやりと見ることができる。そこにはわたしの絵と彼の絵が収まっている。二つとも随分と汚れてしまったけれど、これが世界に一枚しかないわたしたちの絵であることは間違いない。
 血と砂で汚れてしまっているわたしの絵はもう猫が描いてあることも分からないくらいに汚れている。何度も何度も折り曲げられたからくしゃくしゃだ。
 でも、彼は持っていてくれた。大事にしてくれていた。約束を守ってくれていた。交わした指切りを、憶えてくれていた。
 それが分かったからわたしは決めたの。たとえ他の誰にどんなふうに言われようと、否定されようと、必ずあなたを、って。
 家族を裏切ることになろうと、恋人を裏切ることになろうと、愛してるあなたのためなら全てを捨て去ろうって決めたの。

 わたしはあなたのことが好きだった。結局ずっと好きだった。
 自分の新しい道を見つけてそこを歩き始め、学会に認められ、様々な名誉をもらって、色んな人に認められて、ようやくこれでいいんだと思えた日々。恋人だってできたし、家族はわたしを祝福したし、わたしは幸せだった。そのはずだった。
 だけどあなたがいなかった。そこにあなたがいなかった。ただそれだけの黒い染みが、わたしの心をいつでも曇らせていた。
 きっと破り捨てられるはずだと思っていたヘタクソなスケッチは、やっぱり破れないまま。
 わたしはあなたがいなければ駄目なのだと、わたしはようやく認めた。
 その頃には、全てが、遅すぎたけれど。

「恭弥」
 いつもなら起きてくれるあなただけど、今日は眠ったままだった。そんなあなたにわたしは微笑む。「愛してるわ」と囁く。わたしの腰に腕を回したまま眠っている恭弥は、何も知らず、そこで息を重ねている。それがわたしの救いだった。