「仕事だ。ここへ行ってくれ」
 そう言ってリボーンが寄越してきたのは、アメリカまでの航空券が二枚と、ルイジアナ州ニューオリンズ市内の住所が書かれた紙切れだった。
「何これ」
 顔を顰めた僕に、リボーンは何も言わない。航空券二枚と住所の書かれた紙以外には何もない。仕事の内容を記した文書があるわけでもない。君が寄越すものが仕事だってことくらいは分かるけど、どんな仕事か、どうして僕との二枚分の旅券なのか、説明してくれなくちゃ分からないだろう。
 そこへ、タイミングよく席を外していた沢田が戻ってきた。僕の手に航空券と紙切れがあることに気がつくと「リボーンお前、待ってろって言ったのに」とか何とかごちて息を吐き、仕事用の顔を作って黒い革張りの椅子に座った。
「雲雀さんとに仕事をお願いしたいんです」
「それは分かったよ。で、どんな仕事なの」
「一つはただの取材です。空港で捉まると思いますけど、それには応えてあげてください」
「ああそう。で、他には」
 ポケットから引き抜いたペンで紙切れの空白に『空港、取材アリ』と書き込む。それからいつまでたっても何も言わない沢田に眉根を寄せて顔を上げると、相手は何ともいえない表情をしていた。迷っているのか、あるいは躊躇っているのか、言葉を濁している。それにイラッとする。
 君はドン・ボンゴレなんだからもっとしゃんとしろ。そうでないと見ていて苛々する。
「で?」
「えっと。危険な仕事です。でも、スケジュール的に、お二人にしか頼めません」
「ふぅん」
 カチ、とボールペンの蓋を閉めて紙切れをたたむ。航空券とたたんだ紙切れを内ポケットにしまって「つまり何」と睨めば、沢田は優男っぽく笑った。
「ニューオリンズ内で最近問題になってる新しい麻薬があります」
「ふぅん」
「最近それがこちらにも流れてくるようになって、正直困っています。規制しようにもこちらの張った網を上手く潜り抜けるばかりで、現状、先回りされている状態です」
「…ボンゴレ内部から情報を流してる奴がいるんじゃないの?」
 呼び出されたけど早々に退散するつもりだった僕は、どうやら長い話だと分かって、諦めてどさりとソファに腰を下ろした。
 にはすぐに帰るって言ったけど、もう少しかかりそうだ。
 胡乱げな目を向ける僕に沢田は曖昧に笑って「それについては現在骸が調査中です。が、問題はニューオリンズの方にあります」「…具体的には」「殺人です」「は?」「その麻薬は、殺人に使われるものです。とても強力なもので、劇薬と言ってもいいと思います。成分的には麻薬に分類されると骸が言ってたんですけど…」それで至極真面目な沢田が僕にその薬の説明をし始めるから、片手を挙げて遮った。
 対象が麻薬であろうがそれ以上の劇薬であろうが、どうだっていい。規制の網うんぬんって話も僕にはどうでもいい。
「で? 僕らがニューオリンズに行って、どうしろって?」
「はい。その麻薬を流していると思われる組織に的が絞れました。雲雀さんとは彼らに上手く接触して麻薬の栽培場、PCの記録など、全てを破棄してきてほしいんです」
 さらっと言ってのけた沢田に目を細める。
 普段から軟派だから決断力がないのかと疑うけど、沢田はこういうときは硬派だ。先を見据えて話をする。そうじゃなきゃ組織のトップなんて務まらないけど。
「破棄、ね」
 ぼやいて、薄く笑う。
 そういう荒っぽいのは嫌いじゃない。いや、むしろ僕向きだとも言える。
 僕はいつだってのために動くけど、正当な理由があっての暴力は嫌いじゃない。
 彼女を狙う輩にはボディーガードとしての『守る』という正当な暴力を振りかざし、それが所属する組織からの『依頼』ともなれば、僕の暴力はまた正当化される。やりやすいったらない。最近彼女を狙う輩も少ないし、もうちょっと動きたいとも思ってたとこだ。これはちょうどいい話でもある…けど。
「当然あっちもそれなりに人がいるんだろ」
「そうですね…。かなり荒っぽいと思います。ルイジアナ州、特にニューオリンズは、アメリカで危ない町って統計で毎年トップスリー内に入ってますから」
「随分物騒なところにを行かせようっていうんだね。僕はそれでもいいけど…は空港で引き返させる。それでいいなら行くけど」
 僕の言葉にノーが返ってくるなら、この話は蹴る。そのつもりで内ポケットにしまった航空券と紙切れを取り出す。
 暴れ回りたい気持ちもある。けど、僕にとっての最優先事項はいつだって彼女だ。そんな危険な仕事に彼女を巻き込みたくはない。
 僕の言葉に沢田はノーと言わなかった。が、それまで黙っていたリボーンが「それはノーだ」と言った。
「相手も馬鹿じゃない。オレらの張った網を掻い潜るくらいには能はある。ただ突っ込んでも危険なだけだ。運が悪きゃ袋叩きで、お前でも太刀打ちできないだろうよ」
「…だから?」
「そこでの登場だよ」
 ぱちん、と指を鳴らした彼の話はこうだ。
 は名の知れている生物学者だ。加えて、裏社会にも足を突っ込んでいることは裏に関わるたいていの人間が知っている。ここはそれを利用し、彼女と共にボンゴレを離反したかに思わせ、彼女が新しい麻薬に興味があるふうに見せて組織に取り入らせ、隙を突いて栽培場その他を破棄しろ、というのだ。
 ボンゴレは問題になっている薬を流していると思われる組織を特定するところまでは詰めた。が、麻薬の栽培場、組織のPCや文書として記録されているだろう薬についての情報その他は不明なままだ。そんな不明瞭な現状のまま、僕らに現地で組織と接触して情報を仕入れ、あまつ全てを破棄しろという。
 なんだそれ。どうして僕らがたかだか薬一つのためにそこまで懇親的にならないといけないんだ。くだらない。
 それに、その話の通りなら、が主に動くということになる。あちらは当然薬中の奴ばかりだろうし、ガラの悪いのばかりのはずだ。そんなところで彼女に仕事をさせるなんて僕が認めない。
 持っていた航空券と紙切れを投げ捨て、「話にならない」と席を立つ。ずんずんと歩いて扉のノブに手をかけてバンと開け放つと、部屋で待っているはずのがいた。僕は一瞬自分を忘れて、「なんで、ここに」とこぼす。
 彼女は僕に微笑むと室内に踏み入った。すっかりお気に入りになったブーツで赤い絨毯を踏んで「それ、わたしがいないと進まない話なのね」と朗らかに笑う。「すみません…」とうなだれた沢田と「やってくれるのか」と訊ねるリボーンに、僕は彼女の肩を掴んでこっちを向かせた。「駄目だ、そんな危険なことに君を巻き込みたくない」と言う僕に、彼女は笑うだけだ。
「恭弥、危ないことならわたしいくらでもしてきたわよ」
「そうじゃない。僕が言いたいのはそういうことじゃない」
「うん、そうね。でもね恭弥、わたしこれもらっちゃったから。やらなくちゃ」
 そう言って彼女がひらりと振ったのは小切手だった。まだ何も書かれていないまっさらのやつだ。「成功させたらね、結構な額をくれるって約束したわ」「いらないだろそんなお金。何に使うんだよ」やけくそになった僕に、彼女は少し傷ついた顔をした。その表情にどきりと心臓が跳ねる。傷つけ、た。
「…で? やるんだな、
「ええ。やるわ」
 くるりとリボーンを振り返った君がそう宣言する。
 僕は沢田よりもずっとうなだれて、君の決定に、それでも従うしかなかった。
 お金なんてあったって、君は最低限しか使わないじゃないか。それなのにどうして小切手と引き換えにこんな危ない仕事まで受けるんだ。
 僕がそう問うても、彼女は答えてくれなかった。
 それが僕には悲しくて、寂しくて、とても苦しかった。
 君のことなら何でも理解しているつもりでいた。過去の空白の距離を埋められていると思っていた。だけどまた今、昔のように、君との距離を感じる。君との心の隔たりを感じる。
 どうしてだ。僕はこんなに君を愛しているのに。君だけしか見えないのに。
 どんな君だって受け入れたいのは今も同じだ。でもそれは、やっぱり悲しくて、寂しくて、苦しいんだよ。
「…?」
 アメリカへ向かう前日、トランクの確認をしていた僕は、ベランダに出ている彼女を見つけた。どこかうなだれている君に「」ともう一度呼びかければ、肩を震わせた君が僕を振り返った。その目はどこか、僕を畏れているような、そんな目だった。
 君も、僕に距離を感じている。
 僕も、君に距離を感じている。
(駄目だ。埋めなくちゃ。僕はいいんだ。どんなにボロボロになったっていいんだ。それでも君のこと怒れないから。君のこと好きだから。だから、僕はいいんだ。大事なのは、君だ)
 ナイトドレス一枚で裸足の君の肩にガウンを羽織らせる。僕を見上げた君の前髪をかき上げて、キスをして、「愛してるよ」と囁いて君を抱き締める。
「……怒ってるでしょう? 恭弥」
 小さな声に「怒ってない」と返すと、彼女は「嘘」と否定した。「嘘じゃないよ」と囁いてひょいと君を抱き上げると、軽かった。「怒ってない」と僕が笑うと、彼女はじっと僕を見つめたあと、諦めたように笑った。
「そう? 怒ってない?」
「ああ。変わらずに愛してるよ」
「そう? そう、じゃあよかった…わたしも愛してるわ恭弥」
「知ってるよ。解ってる」
 愛しい君のことを抱いて部屋に戻り、ベッドへと下ろす。「眠らなくちゃ」と促しても彼女は緩く首を振り、「どうせ長いフライトよ。飛行機の中で眠った方が効率的」だから恭弥、遊びましょ。そう囁いた君が僕の首に腕を回す。羽織っていただけのガウンが滑り落ちて、月明かりに、君の肌が淡い青へと染まる。
 明日は、飛行機に間に合うようにここを出て、色々と打ち合わせをしないとならないって。君も言ってたんだけど。
 キスされて、唇を舐めた舌に、僕を求めて揺れる瞳に、明日があるという自分への抑制は簡単に決壊した。
 駄目だ。そんな顔をされたら僕は君を求めずにいられない。応えずに、いられない。
◇  ◆  ◇  ◆  ◇
 定期的に預金の確認をしているわたしは、そろそろ大きな収入が必要になる、ということを理解した。一般人からすれば目も眩むような金額のある口座だけど、それでも足りないのだ。もう少し増やしておきたい。そうでないと有事の際詰むことになる。
 そんなとき、リボーンが仕事の話を持ってきた。
 金額の書いていない小切手を切って、仕事を終えたらこれにわたしの希望額を書き込んでくれるというのだ。ちょうどお金が要りようだったわたしにこの話に乗らない手はなかった。
 恭弥は、もちろん反対だった。今まで危ない橋は何度も渡ってきたけれど、今回は少しケースが特殊なのだ。
 ルイジアナ州ニューオリンズ市は毎年アメリカが自分で統計して出す『アメリカで最も危ない町』のトップスリーに必ず入っている場所だ。ランキングの算出の仕方は、市の規模、つまり人口と6つの犯罪カテゴリの比率によって計算される。そこで上位にランクインするニューオリンズがどのくらい危ないかというと、分かりやすくたとえるなら、そこでは数分に一人が銃や刃物により命を落としている、ということになる。そのくらい危ない場所なのだ。
 そんな歩くだけでも危険な場所で、もっと危険なことをする。彼が心配するのは当たり前だ。
 …でも、わたし、あなたのためにも、どうしてもお金が必要なの。
 あなたはその理由に思い当たらないし、分からないだろうと思う。うん、それでいい。あなたは分からないままでいい。これはわたしが自分で背負っていくことだから。
 だから、今回は心配をかけてしまって、ごめんね。
 でもわたしはやらなきゃ。どうしてもお金がいるの。だから。
 今までだってやってきたことだ。ボンゴレに入ってからは目立った行動は控えていたけど、仕事はいつだって請け負っていた。
 ボンゴレの名を汚さないように、それでいてそれなりにお金が入る仕事を見極めるのもなかなか大変だと、最近になって分かった。

?」

 恭弥の声で、薄く目を開ける。ぼんやりした視界で彼の姿を確認する。「もう着くよ」と言うあなたの声は間違いなくあなたのものだ。黒い髪も、切れ長の灰の瞳も、わたしの指を撫でる細長い指も、スーツを着こなした姿も、間違いなくわたしの知っているあなただ。
 その現実に安堵して、わたしは笑う。「もう着く?」「うん」「なんだっけ。空港で、取材、だっけ」「そうだよ」やんわり笑う彼が愛しい。そっとわたしにサングラスをかけた彼が「マスクする?」と首を捻るから、ふふと笑みをこぼす。「それじゃあただの怪しい人じゃない」と。同じサングラスをかけた彼が「そうだね」と笑うから、わたしもまた笑った。
 空港での取材というものは簡単で、あまりに大々的に待ち伏せると周りにも目立つということで、空港のターミナルの隅で簡単な撮影をされた。わたしは慣れたものだったし、恭弥も慣れたように控えていたから、最近の発見された古代生物についてのコメントを求められて渡された資料に目を通し、向けられたマイクにつつがないことを言って、それは問題なく終了した。
 ここから先が問題だ。
 麻薬を密売しているという組織との自然な接触。そして、自然な交流。だいたいの目星はつけられている麻薬栽培の倉庫も、候補がいくつかあり、そこから絞りきれていない状態だ。その空白の情報をいかに訊き出し、疑われる前に素早く倉庫、情報等を破棄し、逃げ出せるか。
 今回の仕事に当たって必要な人材を引き抜く権利をもらったけれど、正直、最後に逃げるときの援護に必要なくらいで、他では使えない人たちだ。能力がというよりは、あちらにこちらの意図を気付かせないための処置として、動くけれど、動かせないのだ。
 要するに、今回の件は実質わたしと恭弥二人で片付けないとならない、かなり面倒なものなのだった。
 頭の中でいくつか計画は練ってある。あとは、向こうの人となり、出方次第でプランを変更しよう。
「恭弥?」
「うん?」
「わたしが何されても怒らないでね」
「…それは、とても、難しいんだけど……」
 かなり余裕のない返答だったので、わたしは笑って彼にキスをした。「わたしが愛してるのはあなただけよ」「知ってるけどさ…」彼はそっぽを向いてそれとこれとは話が別だと言うけど、その声には少し余裕が戻っていた。
 わたしはお金のためなら、あなたのためなら、何でもする。そういう女なの。だから、今は実らないどんなことも、いずれあなたに繋がるって、わたしはいつもそう思って何でもしているの。
 だからいいんだよ。ちっとも楽しくない時間を笑って過ごすことも、お金のためだけにセックスすることも、見つけた化学式を売り飛ばすことも、論文を書くことも、全部してあげる。それが巡り巡ってあなたになることだけを想って。