件の麻薬密売組織との接触は成功した。彼女は新しい麻薬の効力その他に学者として興味を示した形で組織に取り入り、僕は彼女のボディーガードとして彼女の傍らにつく。いつもと同じ外向けの僕らの形。
 言うまでもなく、組織内では彼女の力添えだけが必要なのであり、荒仕事など自分達でやってのける輩には、僕の存在など笑い種でしかなかった。
 つまり、僕がそこにいてできることは、組織の笑い種になることぐらいだった。
 無駄に体格があって腕力のある連中に、僕は華奢に見えるんだろう。何度となく訛った英語で挑発されたりからかわれたりしたが、僕はそれには乗らず、主人の帰りを待つ忠犬みたいに彼女と帰れる時間だけを待った。
 が悪女なんて揶揄され裏社会で名を馳せることになったきっかけを、こいつらが知らないわけではないと思う。彼女に対しては慎重になっているはずだ。
 ただ、アメリカ人は正義感ってものが好きだし、自分なら問題ないって意識も強いから、そこを利用すればいい。
 彼女は上手くやるだろう。それは疑っていない。
 ただ、僕は、彼女が穢されるのが心配だった。
『おうおう、おめぇ口ついてねぇのか? あ? ただ突っ立ってるだけがボディーガードの仕事かよおい』
 どっと野太い笑い声が耳を突くのが不愉快だった。訛った英語も、薬中しかいないこの汚い空間も、吹きかけられる煙草の煙も、みんな不愉快だった。
 ああ、苛々する。
 僕はもともとこういうのを堪える奴じゃない。苛立ちは外へ発散するタイプなんだ。
 だけど、我慢しなくちゃ。は揉め事は起こすなと言ったんだ。それが信頼に繋がるって。
 例の麻薬について研究者と討論をしている君は、まだ会議室から出てきてくれない。
 がっ、と胸倉を掴まれて踵が浮くぐらい持ち上げられ、反射的に手が出そうになった。それをぐっと堪え、ヤニ臭い金髪親父を睨みつける。
『おおい見ろよ、俺の片手で浮くぜぇ? 軽い軽い! こんなに軽くちゃ俺の片腕でうっかり投げ飛ばしちまえるなぁ』
 またどっと野太い笑い声が上がる。
 ああ、苛々する。
 、少しでいいから君の顔が見たい。そうでないと僕はこの苛立ちを抑え切れずに、こいつらをボコボコにしてしまうよ。
 苛立ちが加速したとき、ガチャン、と会議室の扉が開いた。『お前らぁ、こっちが会議してるときは静かにしろ!』と中から怒鳴ったこの組織のリーダーである男の向こうに彼女がいた。僕に気がつくと何とも言えない表情で眉尻を下げる。そこで、僕を掴んでいた男が『へぇいすんません』と僕を壁に投げ飛ばした。おっと手が滑ったぁ、という格好をしてみせて。
 受身を取るべきかどうか迷ったけど、ここは使えないボディーガードを演じた方がいいだろうと判断し、まともに壁に背中を打ちつけた。一瞬息が詰まって、どさっと埃の舞う床に倒れる。「恭弥っ」と慌てて駆け寄ってくるの声だけが僕の全てだった。
「恭弥? 恭弥しっかり…!」
 君のそれも演技だろう。でも、君に心配されていると思うと、悪い気はしない。
 よろけて立ち上がるフリまでしてみせると、リーダーの男は僕を嘲笑って『おいおい、そんなんで大丈夫なのか? 、お前のボディーガードだろう? 何ならうちのガタイがいいのを一人貸し出してやろうか』にやついた笑みを一睨みした僕に彼女が標準語の英語で『遠慮しておくわ』と返し、僕の手を取って外へと抜け出した。
 くそ、背中が痛い。やっぱり少しくらい受身を取ればよかった。
 外に出た君がはぁと息を吐いて「恭弥大丈夫?」と心配そうに僕を見上げる。どうやら本気で心配してくれているようだ。そんな君を抱き締めたくなったけど、いけない。ここでは。僕と君は科学者とボディーガードという設定で、そこには恋愛感情を挟まないことになっている。
 でもそれって難しいよ。僕は君が好きなんだから。僕の中から君への好きを排除したら、僕には、何にもなくなる。人形のようだと言われた幼少時代に逆戻りだ。僕はもうあんな自分にはなりたくない。
 君に縋ってしまいたくなる手で拳を握る。間違ってその手を握ってしまわないように。
「まだなの? いつになったら終わるの」
 誰に聞かれてもいいように会話をする。「もう少しよ」と言う君はまっすぐ僕を見ていた。その目で、どうやらさっきの会議で新しい情報を得られたらしいということに気付く。
 僕の背中を労わって撫でる君の掌に、ぐっと言葉を呑み込む。もう嫌だ我慢できない、今すぐ帰ろう、と叫び出したいのを堪え、浅く頷く。彼女は申し訳なさそうに僕の背中を撫でて、またあの場所へと戻っていく。
 もう嫌だ。我慢できない。今すぐボンゴレに帰りたい。なんだって君が、僕が、こんなことをしないとならないんだ。
 胸に渦巻く気持ちを抱え、憤り、苛立ち、それらを全部押し込めて、もう一度あの汚い場所に戻って。僕はまた罵られ貶されながら、君のことだけを待って、無為に時間を過ごした。
 組織に取り入って一ヶ月め。
 彼女が麻薬の改善点をデータとしてまとめて提出したことで、組織は彼女の存在を本格的に認め、結果的に栽培場を全て見て回るということもできた。
 あとはデータだ。全てを消さなければならない。あのアジトのパソコンから書類文書の全て、データが保存されているディスクも残らず破棄しなければ。複製などされないように。
 やっとこの仕事も終われる、という段階に入ったその日。はいつもより濃いメイクをしていた。それを訝しげに思って「どうしたの」と訊ねると、彼女は曖昧に笑った。「何でもないの」と。どうやら僕には言いたくないことらしい。
 メイクを変えたくらい、別にいいけど。僕は濃いメイクよりほんのりとした薄いのが好みだ。その方が素材が活かされてると思うし。君の場合は特に。
 いつものようにあの汚い建物へと入って、いつもみたいに会議室へ消えていく君を、唇を噛んで見送る。
 いつもなら振り返ることのない君が、扉が閉まる直前、僕を振り返った。そんな気がした。
(…?)
 いつもはしないことを今日に限ってする君。メイクもそうだし、今僕を振り返ったのもそうだ。
 胸の中で膨れ上がった疑問は、いつもからかってくる男が静かに仕事している姿を見て、さらに膨れ上がる。
 何か変だ。何か。
 ざわざわと胸の内が騒がしくなる。
 そういえば、いつもなら何人かでする会議の場に、リーダーの男と、彼女しかいなかった。
 今日は、データにアクセスする権限をもらうんだって。上手くやるわって、君はいつもみたいに笑ってみせた。
 ピン、と頭の中で何かが引っかかる。
、まさか君は)
 その現実に拳が震える。
 わたしが何をされても怒らないでねと君は言った。
 わたしはもうきれいじゃないって君は自分を卑下した。
 だからこんなこと平気なのって、君は。自分を。売ったんだ。

 彼女は僕を愛してる。分かってる。僕も君のことを世界で一番、誰よりも何よりも愛している。
 でも、だからこそ、他の男に抱かれる君なんていうのは受け止め切れない。理性が焼き切れてしまう。感情が振り切れてしまう。そうなったら自分がどうなるのか分からない。
 僕はそんなふうに生きてこなかったから。君だけが僕をこんな人間らしい奴に変えるから。僕は、人間の自分がどんな行動を取るのか、想像できないんだ。

 内ポケットに手を突っ込む。しばらく使っていなかった手馴れた武器、鈍く銀に光るトンファーを両手にして回転をつける。僕の動きに気付いた男達から制止の野太い声が上がるが、僕にはもう彼女のことしか頭になかった。一ヶ月かけた仕事のことだって吹っ飛んでいた。
 扉を破壊する。渾身の力で。
 ばらばらになった扉の向こうには会議室という名の狭い部屋があり、中央に机と数台のパソコン、そしてその向こうに不自然に広いベッドがあって、その上に男がいて、その下に君がいた。
 ぶつっと思考のどこかが焼き切れたのが自分でも分かった。
 もう駄目だ。もう無理だ。我慢なんてしてられない。限界だ。
『何してる追い出せ! 痛みつけろ!』
 振るったトンファーの腕に男が一人飛びつく。ガタイがいいだけに振り払えない。くそ、ともう片腕を振るったところで銃声と共に右腕が撃ち抜かれた。機能不全に陥った手はそれでもトンファーを手離すことはなかったけど、振るうだけの力が入らない。くそ。くそ!
『やめてっ、彼には手を出さないで!』
 彼女はそう言ってリーダーの男に縋ったけど、無駄だった。こいつらは最初から僕のことが邪魔でしかなく、僕もそんなことは理解していた。男は僕の無様を嘲笑い、『あんたには悪いが、あいつには消えてもらうぜ』と彼女に向けて悪人らしく笑った。
を返せっ、返せ!」
 噛みつくように叫ぶ僕の鳩尾に重い一撃が入る。胃の中が逆流して吐き出したけど、胃液ぐらいしか吐けなかった。
 右腕が動かない。左も拘束された。おかしいだろう。僕はこんなに弱くない。僕は強い。そうだったろう。孤立無援唯我独尊の一匹狼で、これまでやってきたじゃないか。この僕がこんな奴らにやられるなんて、そんなこと。
 くそ、視界が霞む。
 咳き込む僕の首にどっと手刀が入った。結構な力で飛ばされ、パソコンのある机に派手な音と一緒にぶつかる。机の淵か、パソコンの本体か、硬いものに頭をぶつけ、その痛みで意識が飛びかける。
「恭弥っ!」
 やめて、と叫ぶ君の声。
 揺れる視界で君を探すと、男に組み敷かれ、強要されようとしている姿が見えた。
 そのための濃いメイクだった。だから君は僕を振り返った。本当は嫌だ、って。
(くそ。くそ。くそ。くそ…っ)
 僕の意思に反して、意識はゆっくりと現実を遠ざけていく。
 動け。身体、動け。僕の身体だろう。を助けなきゃ。あの男を殺さなきゃ。
 僕の思いも空しく、ぼやける視界がさらに霞む。
 動け。頼む。動いてくれ。
「咬み殺すのっ!」
 唐突に彼女がそう叫ぶ。
 え? と掠れた声を漏らす僕に「恭弥っ、咬み殺すのっ! 咬み殺しなさいっ」と叫ぶ君の声に、カチ、と頭の中でスイッチが入る音がした。
 その声で、僕は自分が機械であるということを思い出した。
◇  ◆  ◇  ◆  ◇
 ごおおと燃え盛る建物内で、わたしは何とか無事でいた。
 煙にまかれて咳き込むわたしに、彼は着ていたスーツの上着を被せてくれた。表情のない彼に唇を噛んで、その上着で口と鼻を覆う。
 彼は平気だ。この空気を少し吸うことくらい、もう何ともない。
 たん、とキーを押す。デリートを受けつけた最後のパソコンに、とどめとばかりに恭弥がトンファーを振り下ろし、燃え盛る炎の中に壊れたパソコンを投げ入れた。
 今のがここにあるデータの全てだ。データの保管先にはウイルス入りの添付メールを送っておいた。時間がたてば自動的に添付メールが開いてウイルスが散布される。それで、おしまい。
 …終わった。
 げほ、と煙に咳き込んだわたしを抱き上げた恭弥は、自分が何者かということを思い出した。だからこの煙にも動じない。炎が遮る中を蹴って歩いて行くことに躊躇いもないし、撃ち抜かれた右腕も、まるでなかったことのようにしてわたしを抱き上げて、燃え盛る建物の中を歩く。
 自分には限界がないこと。際限がないことを思い出した彼は、その力でこの施設を破壊した。
 幸いにして麻薬栽培の倉庫が近かったこともあり、わたしたちは今日ここで、長かった仕事を終えた。
 …結果的に、今回の麻薬密売に関わっていた人間ほとんどを殺すことになってしまったけど。
 ああ、きっとツナやリボーンに怒られる。またド派手にやってきたなって。伊米間はマフィアの存在が長年指摘されていることもあって、最近何かと面倒くさいって、骸も言っていたのに。

 わたしがわたしの声でキーワードとした『咬み殺す』というあなたの口癖で、あなたにかかっていた人らしい行動のための本来の機能の抑制は失われた。
 ……あなたはきっとわたしに絶望している。そう思った。
 わたしは自分のためにあなたをこの世に呼び戻したのだ。あなたのためではなく自分のために。自分が生きていくために、あなたの脳の記憶を機械の身体へとコピーして、何度あなたが壊れても、何度も再生させて、あなたの記憶の空白を誤魔化し誤魔化し、ここまでやってきた。
 あなたにはずっとこの真実を伏せていようと思っていたんだ。
 …だけど。悪戯に傷つけられたあなたを目の前で見せつけられて。それを防ぐためにこんな謙ったことまでしていたのに、それがまるきり無意味になって。それでもわたしに強要しようとする男に、苛立って、つい言ってしまった。みんな壊してしまえって。この仕事を終えてしまえって。どうせこんな人達なんだもの、始末しておいた方が誰にとっても都合がいいって、彼の手を無駄に汚させてしまった。もっと平和的にいく方法はいくらでも考えられたはずなのに。

 燃え盛る建物の中を、熱など感じないと炎を蹴って外へと出た彼が足を止める。そこにはリボーンとツナがいた。ここにはスケジュールの都合で来れないと言っていたのに、だ。
「悪いな」
 リボーンはそう言った。わたしにはなんのことだか分からなかったけど、恭弥は理解したようだ。小さく笑って「ああ…そういうこと。つまりは君達のおせっかいか」とぼやいて剣呑な目を二人へと向けた。
 ツナが頭を下げて「すみませんでした雲雀さん。も。俺達、どうしても真実に辿り着きたくて…」という言葉に何度も瞬きする。
 真実。真実って、どの真実? この組織の現実という真実? それとも、彼が気付いてしまった、自分の真実?
「本当余計なお世話だったよ。正直な話、を危険な目に合わせた君達を殺してやりたいぐらいだ」
 そうぼやいた彼がわたしを地面へと下ろす。膝をついて視線を合わせ、「痛いところはないかい」と訊ねる彼は、変わっていなかった。真実を知る前も、後も、何も変わっていなかった。やわらかい笑みをわたしのために浮かべ、やわらかい眼差しでわたしに笑いかけていた。
「どうして…?」
 思わずそうこぼれた声に、彼は燃え盛る建物を背景に首を傾げた。「どうしてって何が」と砂埃のついたわたしの髪を払う。
 その仕種はちっとも変わらない、あなたのままだ。
「だってわたし、あなたを、呼び戻したわ」
「そうだね。それが何かいけないの?」
「だ、だって、恭弥、眠りたかったでしょう? こんなふうに悪戯にわたしのそばで目を覚ますなんて、したくなかったでしょう? 人以外の存在にされて、そんなわたしのそばで、生きるなんて、」
 言葉に引っかかるわたしに彼はキスをした。血の味の滲んだキスだった。それは、言葉上手でない彼の、変わらない愛の伝え方だった。
「これでよかったよ」
 え? と漏らすわたしに彼は笑う。それはそれはとても幸せそうに笑う。
 想像でしかなかったあなたのその幸せそうな顔は、わたしの胸をあたたかくする。
「僕は君のそばで息をしたかった。君のそばで生きたかった。それが機械の身体だろうと関係ない。僕はね、ずーっと、君のそばで生きたいと思っていたんだよ。これからだって、僕は君のために生き続けるさ」
 そんな簡単なことも言えなくて、今までごめんね。彼はそう言ってわたしを抱いた。「だから、泣かないで」と囁く声に頬を伝った涙に気付く。
 なんだ。…なんだ。
 わたし、馬鹿みたいね。やっぱりあなたのこと全然分かってないんだね。前より少しは理解できたのかもしれないけど、でも、全然、まだまだみたい。
 声を上げて泣くわたしを抱き上げた彼は、幸せそうに笑って、わたしの額に額をぶつけた。