慣れない砂地に足を取られて無駄に関節が軋む。膝がさっきからぎしぎしいってる気がする。以前ならもう少し柔軟だったはずなのに。
 それから肺だ。どうやら肺活量が落ちているらしい。このくらいで息が上がってるようじゃ僕もまだまだだ。
 あと、腕も。イマドキの時代やっぱりトンファーっていうのは不便だな。手には馴染んでいるんだけど、いかんせん、銃と比べたら標的までの距離の差がありすぎる。
 …あと頭。さっきからぐらぐら揺れてる。一日飲まず食わずで眠っていないともうこんなふうに身体に出る歳になったらしい。ああ全く、嫌な話だ。
 回転をつけて捻ったトンファーが最後の一人の頭を粉砕した感触が腕に重い。
 飛び散る赤い色さえ今は邪魔だ。昔はこの色が好きで、こうしていた気がするんだけど。
 歳は取るものじゃないな、と初めて思った。人は25から急速に衰えていくとはよく言ったものだ。確かに僕は今年で25だ。なるほど、よく当たっている。
「は、」
 息をこぼして外れていた肩の関節を直した。ごきん、という音と多少の痛みを伴ったあと、鈍痛を残しながらも左腕が回復する。
 見た限りでは誰もいなくなった荒野で、は、と息をこぼしてたった今咬み殺した相手を見下ろし、は、と息を吐いて、空を仰ぐ。昨日の夜に来て太陽が昇って沈むまでを見送り、次の夜が来て、もう朝焼けで東の方が染まっている。また夜が明ける。その前に片付けられてよかった。眠ってないと朝陽に目がやられる。
 ざく、と砂を踏む。日本の砂と違ってからからに乾いている砂は足をすくわれる。これに何度膝が軋んだことか。
 自分でも分かる。よろけているな、という感じでしか歩けていないことが。
 ああ全く。本当。人として規格外みたいに生まれたのに、僕には関係のないものばかりだったのに、細胞はしっかり老いていくわけだ。再生して成長する、木のようにはなれなかったわけだ。…当たり前か。こんな規格外でも僕はちゃんと人間に生まれ落ちたんだから。
 人間に。人間として。
 恭弥くんはわたしと同じ、人間だよ
 思い出した声に視界が霞んで、一瞬だけ、明けていく夜を背景に、ありえない姿を見た気がした。
 小さな僕と。小さな君。
(……随分と、会ってない)
 ざく、と砂を踏んで足を止め、スーツの内ポケットに手を突っ込む。
 そっと取り出したのは一枚の紙切れ。何度も折り曲げたせいでたくさんあとのついたA4紙。時間の経過によりあちこちが黄ばんだりしてきた、古いものだ。
 そこに描かれているのは、丁寧、正確に描かれた白い猫と黒い猫。二匹が寄り添ってベンチの上で日向ぼっこをしている、鉛筆描きの、この世に一枚しかない絵。
 自分なりに大事にしてきたつもりだったけど。やっぱりアルバムか何かに入れて、取っておくべきだったのかもしれない。ポケットの中に入れていたせいで余計にくしゃくしゃになってしまった。鉛筆が擦れてあちこち黒い色が移ってしまっている。こんなふうに汚したかったわけじゃないのに。
 そっと指で触れても、鉛筆の鉛色は消えない。白い猫を黒い猫の鉛筆塗りが侵蝕している。
 ああ、ごめんね。そうこぼしてA4の紙をそっとたたむ。

 僕はどうしてこんなところにいて、
 君と離れて、
 息を重ねているんだろう。

(簡単さ。どっちか一択だ。君が僕を嫌いになったか、僕が、君を嫌いになった、か)
 ざく、と砂を踏んでふらりと歩き出し、後者はありえないな、と薄く笑った。
 …なら尚のこと僕らしくない話だ。
 君のことが嫌いでないのなら、離れたくなかったのなら、近づけばよかったんだ。歩み寄ればよかった。それだけだったろう。
 君に嫌われているんじゃないかなんて女々しいこと考えて、手を伸ばすのを躊躇っていたら、君との距離はあっという間に開いてしまった。
 そうだな。例えるなら、地球と月くらい。手を伸ばしたって届くことはないし、埋めようと思っても、簡単に縮まる距離じゃない。この星と月の距離は約38万4,400km、赤道半径の60倍も遠くて、おまけに月は一年に少しずつ地球から離れていると推測されている。それを信じるなら、月は、君は、どんどん僕から遠ざかっているということになるわけだ。

 しばらくぶりに君の名前を声に出して呼んでみたら、胸の辺りが苦しくなった。ぎゅっと誰かに掴まれたように。
 まだ息が整ってないのかと肺活量の落ちた自分を恨めしく思ってどんと胸を叩く。
 …こんなはずじゃなかったのに。
 少なくとも、君にこの絵をもらったときに僕が思い描いていた未来は、こんなものじゃなかった。こんな荒野で孤立無援の戦いをして、君を懐かしく思っているだけの僕じゃなかった。
 僕みたいな奴は喧嘩することでしか生きていけないから、基本的にこの道すじから外れることはなかっただろうし、僕もそれでよかった。
 だけど、一人きりで今もずっといるつもりはなかったんだ。
 隣にはきっと君がいる。僕はそう、思っていた。
(だけど君は。やっぱり、違ったのかな)
 ざく、と砂を蹴ってもう片方の足を踏み出し、ざぶ、と埋まった。砂が流れている場所だったらしく、足を引っこ抜いて引き返す。そうしたら転んだ。朝陽に視界が眩んだせいかもしれない。馬鹿みたいに正直に転んでしまった。
 スーツ、これで砂埃で汚れたな。もともと返り血で汚いんだから、いいか。
 もう気張る力もなくて、砂に手をついて顔を上げて。荒野にときどき見える岩。そこから突き出されている銃口に今更ながらに気がついて、その向こうから視界を射す朝陽に、全てがやられた。
 もう遅い。
 相手はずっと潜んで僕を狙っていた。仲間が殺られてもただ黙って気配を殺し、僕を殺れる瞬間を狙っていた。その執念の勝ちだ。
 朝陽にやられた視界に、いつかの君の後ろ姿。
 一人で、僕から離れた、君を見た。最後の日。
 僕からは背中しか見えなかったけど。君はあのときどんな顔をしていただろう。
 殺人を前提として作られた銃は派手な銃声などしない。
 パス、と気の抜けたような音と、視界に突き刺さる朝陽の眩しさ。
 左胸。心臓を迅速、的確に撃ち抜かれて、僕は死んだ。