小学生になるまで通っていた塾で唯一友達になった子がいる。
 その子は名前を雲雀恭弥といって、たいていのことはこなしてしまう天才肌の持ち主だ。なのだけど、天才に欠陥は付き物なのか、その分だけ人付き合いが苦手で、塾の中でもいつもぽつんと一人だった。
 それを不憫に思ったとか、そんな理由ではないのだけど、わたしはそんな彼の隣の席に好んで着いた。
 …はっきり言うなら、その方が静かで、周囲に構わずに勉強に集中できたからだ。
 それに、塾内では彼が一番でわたしが二番の成績。自分に気合いを入れるためにも、わたしはあえて彼の隣を選んだ。
 次こそは負かしてやる、なんて強い決意で机にかじりついて時間中ずっと勉強をしていたわたしは、先生に声をかけられないと終了時間にも気付かずに勉強ばかりしている子だった。
 たいていそんなわたしを隣の彼が暇そうに眺めていて、提出が定められているもの以外は手もつけていない彼は、眠たそうに欠伸をこぼして筆入れを鞄に突っ込んだ。
 どうしてこの子に勝てないんだ。真面目に勉強もしてないのに。最低限のものしか手をつけていないのに。
 ギリギリと歯を食い縛りたい気持ちで乱暴に筆入れにシャーペンと消しゴムを突っ込み、先生に「さようなら」を言ってから、わたしと彼と先生以外に誰もいなくなっている小さな教室から出た。
 今度こそ。今度のテストこそ、満点を取る勢いで、あの子を負かしてやる。
「ねぇ」
 それで、ぎゃふんと言わせてやるんだ。いつも眠そうに問題眺めて簡単にさらっと解いちゃってさ。わたしが結構間違える二桁の足し算だって簡単に、いつもいつも。それに英語。わたしより上手に発音できてる気がする。お母さんに英語の勉強がしたいって通信の講座を頼んでもらったから、それで今度こそわたしが一番だ。
「ねぇってば。耳ないの」
 ぐい、と髪を引っぱられて眉を顰めて振り返ると、わたしの中で打倒の文字とイコールで浮かび上がる雲雀恭弥、くん、がいた。声をかけられたのはこれが初めてだった。
「何? 痛いから引っぱるのやめて」
 一房掴まれた髪を引っぱり返すと、彼はぱっと髪を離した。もう片手を突き出して「さっき落としてた」と何かを顔前に出されて、目を凝らして、それが赤のボールペンだと分かった。自己採点のときにわたしが使っているものだ。
 いつも眠そうにしてて、隣のわたしのことなんて眼中にないのだとばかり思っていたけど、どうやら違ったみたい。
 ペンを受け取って「ありがとう」とぼそぼそお礼を言う。彼は僅かに首を傾げただけで、緩く流す動作で靴箱の黒い靴を取った。ペンをポケットにしまって、残っている自分のスニーカーを取る。ぱこんと床に置いて足を突っ込んで履きながら、二度目になるけど、教室に残ってわたしたちの宿題の採点をしてるだろう先生に「先生さようならー」と大きな声を出すと、「はいさようならー。また明日ね」と男の人の声が返ってきた。雲雀くんは何も言わなかった。いつもそうだけど、彼は極端に喋らない。声を聞いたのはさっきのが初めてだ。
 塾を出て、左に曲がる。
 今日はなんだか喉が渇いた。帰りにジュース一本くらい。自分へのご褒美ってことで、いいよね。
 公園に寄り道して、自販機で買ったコーラの缶を片手にちびちびと飲んでいると、ベンチで仲良く並んでいる二匹の猫が目に入った。白い猫と黒い猫が仲良く並んで、日向ぼっこだろうか。そろそろ陽はかげってきてしまうけど。
 目を閉じたまま動かない二匹を遠くから観察していたわたしは、試しに、と近づいてみた。猫二匹はわたしの足音に気付いて片目を開けたけれど、一メートルの距離になるまで動かなかった。そこからは早くて、もうちょっと、と爪先をじりじりと近づけたら、ぱっと二手に分かれて逃げてしまった。
 コーラの缶を傾けて、あーあ、と猫二匹を交互に目をやって見送る。
(かわいかったなぁ…。そうだ、今度白い紙を持ってこよう。それでスケッチしてみよう)
 ピーンと思い立ったことに自分で頷く。うん、それはきっといい気分転換になる。
 そんなわけで、その日のわたしはコーラの缶片手に上機嫌に家へと帰った。
 帰る家があまりいい家庭環境ではないと理解はしていたけれど、わたしの帰る家はここだった。だから、ここがどんなに荒んでも、お父さんとお母さんの喧嘩の声が聞こえてきても、わたしには、ここしかなかった。
 二人が少しでも機嫌よくなってくれるようにと勉強を頑張っているけど。わたしの努力は、点数的な意味じゃない方面で、報われていない。
 だけど、ここまできたら、頑張るしかない。よね。
 次の日。塾に顔を出すと、雲雀くんが先にいた。
 彼もよっぽど暇なのかな、と思いつついつものように隣に座ると、伏し目がちの瞳がわたしを見上げる。確認するように。
「…何それ」
「え?」
「それ。頬の、傷」
 言われて、絆創膏をべたっと貼りつけた場所を掌で隠した。「うん、ほら、ちょっと転んでね。血が出ちゃったから。それだけ」下手な芝居だったろうかと笑いながら言うと、彼はふうんとこぼして算数のプリントに視線を落とした。
 そっと絆創膏から手を外して、鞄から筆箱を取り出す。
 昨日、飛んできた定規が当たってできた傷。絆創膏貼ったら目立つだけだったかな。失敗だった。
 先生が座っている机まで行って今日やるプリントを受け取り、席に戻って解く。
 昨日と同じ、作業の繰り返し。

 だいたいお前がを塾に行かせるなんていうから! それにこれはなんだ! まだ小学生にもなってないってのに英語の講座だと? 教育費が無駄にかさんでるに決まってる! 削るならそこからだっ
 あなたねぇ、そうは言うけど、毎月のあなたの酒代がの教育費のどれだけになると思ってるの? お酒を節約して、少しは家計を助けてください!

 頭を過ぎる昨日の会話。
 その辺りにあるものを手当たり次第に投げた父の姿が思い浮かんで、ツキンと頭が痛くなる。ちくちくとまるで針で刺されているよう。
 は、と息をこぼして呼吸して、大きく息を吸って、吐いて、昨日の会話を頭から追い出そうと必死になる。
 わたしは勉強をしなくちゃ。勉強していい点取ってお父さんとお母さんに喜んでもらうんだ。
 …でも、教育費、だって。
 お父さんとお母さんに重要なのはテストの点じゃない。いい点が取れるかどうかじゃない。そこにかかるお金のことだったんだ。だからわたしが塾で二番の成績を持って帰っても嬉しそうな顔をしてくれないんだ。きっと一番を取って帰ったって、同じような反応しか、返ってこない。
 じゃあわたしがここでこうして頑張ってる意味ってなんなの?
?」
 は、は、と呼吸の早くなってきた胸を押さえる。隣で気だるそうに問題を解いていた雲雀くんがシャーペンを手離した。
 カタカタと震えているわたしは、さっきから息を吸ってばかりで吐ききれていない。何か変。変。どうして。
 震えるわたしに「過呼吸か」と呟いた彼が上着のパーカを脱いで、必死に息をする私の口を押さえ込んでくる。何するの、それじゃあもっと苦しくなる、と言いたくても息をするのに手いっぱいで声が出ない。
 何か変。変だよ。泣き出す前みたいにしか息ができない。わたし、どうしちゃったの。
 私の肩をぐっと掴んで支えながら、押しつけられたパーカを剥ぎ取ろうとする手を握り込まれた。雲雀くんは落ち着いている。同じくらいの子とは思えないくらいに。
「いいかい、過呼吸っていうのはね、息を吐くことが大事なんだ。分かる? 君は息を吸ってばかりいる。だから吐くんだ。息を吐く。分かるだろ」
 、と促す声に、パニックに陥りそうな頭で、とにかく息を吐いた。雲雀くんの灰色みたいな瞳と「息を吐くんだ」と何度も促す声に、とにかく、息を吐いた。それだけをするつもりで。
 周りがざわついている。何事かって。やって来た先生が心配そうな顔でわたしたちを見守る。
 先生が見ているだけなら、雲雀くんのこれは正しいのだ。パーカで口も鼻も塞がれているこの状況は、変ではないのだ。そう思ったらやっと、息を吐くことだけに集中して、彼の腕に身体を預けて、とにかく息を吐いて、吐いて、吐き続けた。
 ようやく落ち着けたのは、だいぶ時間が過ぎたあと。
 わたしが落ち着いたのを見て雲雀くんはパーカを外した。普通に息を吸って吐く。よかった。治った。よかった。涙の滲んでいる視界を袖で擦る。先生がわたしの頭を撫でて「落ち着いたかな?」とやわらかい声をかけてくれる。わたしはこくんと頷いて返した。
 雲雀くんが何事もなかったようにパーカを羽織り直してプリントに向き合うのを見て、わたしも勉強しようと思ったけど、先生にプリントを取り上げられてしまった。
「今日はもう帰りなさい。体調がよくないようだし。私がくんの家に電話を入れるから。親御さんにお迎えに来てもらおうね」
「え」
 先生の言葉に、電話を取った母が溜息を吐く姿を想像したわたしはぶんぶん首を横に振った。「大丈夫です、先生、わたしだいじょぶですからっ」机に戻って名簿を広げた先生に慌てて駆け寄って訴えるけど、先生は聞いてくれない。
 昨日の両親の姿が脳裏をフラッシュバックする。目の前がそれで眩みそうになる。
 嫌だよ。また溜息を吐かれるなんて、わたしは。
 先生が携帯を取り出して名簿からわたしの名前を見つけたとき、わたしの横から伸びた手が名簿を取り上げた。それは雲雀くんの手だった。いつもの眠そうな顔とは少し違う、なんていうか、表情のない顔をしていた。
 取り上げられた名簿は壁の方へと叩きつけらればぁんとすごい音を出してひしゃげ、床へと落ちた。その音に教室がしーんと静まり返り、先生でさえ、少しの間呆然としていた。
 その空気をものともせずに、彼はわたしに視線を寄越して口を開く。
「本人がいいと言ってるんだ。ここにいればいい」
 それだけ言うと雲雀くんは自分の席へと戻って、眠そうにしながらプリントを解き始めた。
 わたしはそろそろと先生を見て、「雲雀くんの、言う通りなので。大丈夫ですから」と先生に言って、そろそろと席に戻った。みんなの視線がちくちく痛い。だけど雲雀くんがいつも通りの顔でそこにいる。ならわたしも、きっと大丈夫。
 今日は、あまり頑張らずにいよう。先生はわたしを心配してくれているんだし。そう思って、鞄からA4の白い紙を出し、筆箱から鉛筆を取り出す。
 今日はもう頑張らないで、ラクガキでもして遊ぼう。そうしよう。
 他の子がひそひそとわたしたちのことを言っているのが分かったけど、雲雀くんは無関心そのものを通しているので、わたしもそれを真似した。
 そうしていて思った。彼はすごいんだな、と。
 勉強のことだけじゃない。大人に向かって強く出られることもそうだけど、他の子とは全然違う。
 そんな彼に負けてしまうのは。仕方のないことなのかもな、とちらりと思った。
「…何それ」
 わたしが白い紙にラクガキばかりしているのを見て、雲雀くんが呆れた顔で訊いてきた。わたしは笑って鉛筆を振る。
「ラクガキ。今日はもう勉強しないの」
「それはいいけど。何描いてるのか全然分からない」
「え? 猫だよ」
「猫? それ、足がないよ」
「足はたたんでて見えないの。日向ぼっこしてるの。……そんなに変?」
 昨日公園のベンチで見た猫を再現して描いていたのだけど、彼にはわたしが描いたものは猫に見えないらしい。浅く頷かれて、むぅと眉根を寄せて自分の描いた絵を睨みつける。
 わりと上手に描けたつもりだけど、やっぱり見本を見ながら描きたいな。
 よし。じゃあ今日も公園に寄ろう。それでびしっと描いて雲雀くんに見せてやろう。これでどうだ、ってね。
 一人上機嫌にラクガキを続けるわたしに、雲雀くんは首を捻っていたけど、やがてプリントに視線を戻して今日提出分だけをきっちりやって、時間を終えた。
 さて、ここでまた先生の登場だ。いい人なだけに「くん、今日は特別に私が家まで送るよ」と快く申し出てくれるのが、とてもありがたいのだけど、とても、断りたい。普通に遠慮しても先生は一人の帰り道は心配だと言う。ほんの近所なのだから、そんな心配いいのに。わたしが、なんだっけ、過呼吸、を起こしたせいなんだろうけど。どうしよう、どう断れば。
「あの、大丈夫ですから先生。一人で帰れます。本当に」
 ぱたぱた手を振って先生に笑顔を向ける。それでも先生が譲らない。「さ、私と一緒に帰ろうね」と背中を押されて、どうしよう、どう断ればと焦ったとき、わたしの横に雲雀くんがやって来た。そのままわたしの手を掴むと先生を睨み上げて「は僕と帰る」とだけ言って歩き出すではないか。わたしは慌てた。急な流れだった。でも、これに乗らないと先生を振り切れない。「そう、そうでした。雲雀くんと帰るので、先生さようなら!」流れに乗って教室を出る。先生は、追ってこなかった。
 ほっと一息吐いたとき、雲雀くんが流し目でわたしを見て「芝居が下手だね」なんて言う。むっと眉根を寄せたわたしに彼は肩を竦めて手を離した。
 助けてくれたのは嬉しいけど、なんだろう。そう、一言多い、だ。
 下駄箱のスニーカーを履いて外に出たところで、そういえば、と思い出した。
 くるりと振り返ると、雲雀くんがいる。他の子よりもずっと落ち着いていて、子供らしくない、わたしと同じような人が。
「雲雀くん」
「…何」
「ありがとう」
 笑ったら、彼は首を傾げた。とても不思議そうだった。「何が?」「過呼吸。助けてくれた。今も、先生かわすの手伝ってくれた」「ああ…」別に、とこぼした彼がわたしに並ぶ。吹いた風に黒い髪がさらわれてさらさらと流れた。
「一緒に帰ると言った手前、付き合うよ」
 そう言った彼に、わたしは笑う。
 誰かと一緒の帰り道。道路の端を歩いて、決まりだから、と手を繋いで、横断歩道を渡って、近所のおばさんやおじさんに挨拶しながら、公園までの道のりを歩く。
 彼は基本無口で、わたしが誰かに挨拶しても何も言わず、無感動な瞳で相手を見やるだけだった。
 そんな彼と手を繋いで歩く。
 それはとてもささやかで、穏やかな時間だった。

「雲雀くんはさ」
「…名前の方で呼んでくれる」
「え?」
「苗字は、呼ばれ慣れてない。呼ぶなら名前」
「…? えっと、じゃあ、恭弥くん」
「うん。で、何」
「うん、わたしと似てるなーって」
「どこが? 全然似てない」
「見た目じゃないよ。なんていうのかなー、中身。性格じゃなくて、もっと中の方が、きっと似てるよ」
「……意味が分からないんだけど」
「あはは、そうかも。わたしもよく分かんないよ。そう感じただけ」

 彼はよく分からない顔でわたしを見て、視線を外した。どこでもない遠くを見るように空と町並みとに視線を流して「僕は、出来損ないなだけさ」とこぼした。その声がとても、感情が入っていないのに、今にも叫び出しそうなほどの思いを秘めている気がして、わたしは言い返した。「恭弥くんはわたしと同じ、人間だよ」と。人だよと。彼はわたしの言葉が聞こえているのかいないのか、返事はなくて、その目もどこかへと向けられたままだった。
 そんな彼の手を引いて公園に行く。昨日はいた猫を探すと、昨日と同じベンチで、同じ場所で、黒い猫と白い猫が並んで日向ぼっこをしていた。
 恭弥くんの手を離して鞄をあさり、白い紙と筆箱を取り出す。彼は目を細めて猫を見て「もしかして、描いてたのってあれ?」「そうだよ。はい」恭弥くんにも白い紙と鉛筆を押しつけた。彼が顔を顰める。「僕にも描けって?」「わたしの絵下手だって言ったもん。だったら恭弥くんは上手なんでしょ?」「…下手なんて一言も言ってないんだけど。……はぁ」諦めたのか、彼は渋々鉛筆と紙を受け取った。
 そろそろと猫に近づいて、昨日のことを学習したわたしは、猫が逃げ出さない距離にそっと座り込んで、抱えた鞄の上に下敷きを敷いて、その上に紙を置いて、猫を描いた。ようし、恭弥くんをぎゃふんと言わせるぞ。
 はりきって描いたわたしとは違い、恭弥くんは適当な感じで鉛筆を走らせ、わたしよりも早く描き終わった。そしてわたしが描き終わるまでぼんやりしていた。
「できたっ」
 ばさ、とA4の紙を取り上げる。びしっと手を出して「交換こしよう」と言うと、彼はわたしの手に紙を押しつけてきた。そして、わたしが描いた猫の絵をさらっていって掲げ、顔を顰める。
「どう? 描けてるでしょ」
「……描けてるというか…美術の模写みたいなレベルだ」
「え?」
 どうだ、と胸を張っていたわたしは彼の言葉に首を捻った。彼は緩く首を振って「何でもない」と言うので、なんだかな、と思いつつ、その彼の絵を見てみる。
 …なんていうか。男の子のラクガキだった。
 はっきり言うと、ヘタクソ。わたしの方が全然上手だった。
 なんだ。塾で一番の成績で、大人に立ち向かうことだってできて、彼はわたしより何でもできるんだって思い込んでたけど、そんなことなかった。
「ふ…っ、何これー」
「うるさいなぁ。絵は描けないんだよ」
 ぷいと顔を背けた彼にくすくすと笑う。
 こんな、三歳児みたいな絵、描くなんて。思ってなかったなぁ。
 一人笑って、はぁ、と息を吐いて笑いを引っ込める。彼が描いた絵をひらりと振って「ねぇ、交換こしよう。これもらってもいい? 記念に」と言うと彼は顔を顰めた。「そんなのどうするのさ。晒すの?」「言ったでしょ、取っておくの。記念に」「…なんの記念になるのさ、そんな絵」呆れた顔をした彼が、わたしの絵を眺めて、四つ折りにたたんだ。「なら僕ももらっておく」とぼやいた彼に笑う。「そうして」と。
 まだ納得した顔をしてない彼に小指を差し出す。
 じゃあね、約束をしよう。この絵を大事にするって約束。そうしたら恭弥くんも分かってくれるよね。
「指切りして約束しよう? 大事にするよって」
「はいはい」
 投げやりな感じで私の小指に小指を絡めた恭弥くん。一緒に指きりげんまん嘘ついたら針千本飲ますを歌った。「大事にするよ」「分かったってば。…僕も大事にするよ」「うん」わたしは満足して手を下ろした。恭弥くんが描いた絵をファイルに挟んで鞄にしまって、まだ日向ぼっこをしている猫二匹とばいばいして、覚悟を決めて家へと帰る。
 彼は玄関先までわたしを送ってくれた。
 でも恭弥くんはどう帰るのだろうと心配して訊いたら、迎えが来るから心配いらないと言われた。その言葉の通り、リビングから外を見ていたら、黒塗りの車がやって来て、恭弥くんはそれに乗り込んで帰っていった。
 わたしは過呼吸を起こしたということを親に言わなかった。言っても仕方がないと思ったし、今以上に、わたしのことで親の負担になりたくなかったのだ。
 お母さんは疲れた顔をしていた。だからわたしは、なるべく親に世話をかけない子供でいようと、そう思っていた。
 それから少しあと、わたしは親の都合で引っ越すことになり、並盛から離れた。
 当然通っていた塾もやめることになり、恭弥くんとは、そこで一度別れた。
 彼と再会するのは、親の仕事の都合でまた並盛へと戻った、中学一年生での話になる。