『お話、それだけかしら』
 彼女の口から少々気だるげなフランス語が発せられるのを聞いて、閉じていた目を開ける。何度か瞬きして今を確認する。
 応接セットに座っている僕、隣には君、向かい側には男が一人。白髪とも黒髪とも言えない髪は手入れが行き届いていないし、スーツの着こなしもイマイチで、品がない。どう見ても彼女が仕事をOKするような相手じゃなかった。事実、出された安そうなケーキにも紅茶にも手をつけず、彼女は退屈そうな顔すらして壁にかけられた絵を見ている。彼女のその態度で、潮時だな、と思った。
「恭弥。次の予定は?」
 流し目で振られてポケットから手帳を抜く。付箋がしてるページを開いて「15時に入ってる。リヨン」と言うと彼女はソファを立った。向かいの男が慌てて立ち上がる。『待ってくれ、お願いだ、妻を助けてくれ』と彼女に縋ろうとする腕を掴んで捻り上げる。
 こちらが提示した金額の金も用意しないで、こいつは最初から情に訴えかけてOKさせるつもりでいたのだ。そんな奴がに触れることなど許さない。
 痛みに顔を歪め、それでも彼女に縋ろうとする男を床に組み伏せて黙らせる。「うるさいんだよ」と背骨に膝からの体重をかけて軋ませたとき、「恭弥」と僕を呼ぶ声が聞こえた。それでこの男に対する感情が全てが失せて、部屋の扉口で待っている彼女のところへ戻る。
 痛みに呻き、勝手に泣いている男のことなどもうどうでもよくなっていた。
 無駄な商談だった。相手が中小企業の社長だからそれなりに絞れるんじゃないかなんて思っていたけど、調べが足りなかった。借金ばかりで会社は傾いているし、その社長は妻が病にかかったと仕事を放り出す始末。妻さえ治せたら、と掻き集めた会社の金も、僕らが提示した金額には届かなかった。無駄な時間を過ごした。本当に。
 気だるげに階段を下りる彼女の手を取り、先導しながら、「調べが足りなかったね。無駄足踏ませた」と言うと彼女は小さく笑った。「そうねぇ、哲もまだまだね」と笑う彼女に、「今度叱っておくよ」と僕も少しだけ笑った。
 。彼女は世界から引く手数多の科学者だ。担当しているのは主に生物学とか生命科学。そしてその知識から魔法のように様々なことを解決する、らしい。専門的すぎて僕にはよく分からないけど、彼女のことを欲しがる奴はいくらでもいる。そのことだけは理解している。
 決して一人にはできない、ということ。いつどこで何をしていても君は狙われている、ということ。それだけはよく理解している。
「…三人。いや、四人。五人か」
 僕がそうぼやくと、コツンとヒールを鳴らした彼女が溜息をこぼした。「そうなの?」「うん」「そう…わたしはどうする?」「そのヒールで走れる?」「馬鹿にしないでよ。走れる」「じゃあ走って。あの角を曲がるんだ。全力で」少し先にある角を視線だけで示す。彼女は浅く頷いた。こんなことにはもう慣れっこで少しも慌てることのない落ち着いた表情だった。
 繋いでいた手を離す。彼女は前方に向かって駆け出し、僕はトランクを手離し、スーツの裾を払って携行しているオートマチックを抜いた。
 …トンファーは近接戦でしか使わないと決めたのはいつだっけ。
 飛び道具相手にトンファーは不利なんだ。カバーしようと改造して玉鎖をつけてみたりもしたけど、銃には不利が埋まらないから、仕方がない。
 練習を重ねた射撃は、正確さより、タイミング。何度も撃つうちにそれを学んだ。
 五人分の人が倒れる音を聞いてから構えていた銃を下ろした。はぁ、と息を吐いて彼女が消えた路地裏に行くと、は僕を待っていた。「片付いたの?」「ああ」「そう」特に感情を込めずに呟いた彼女は、何事もなかったようにまた歩き出す。僕はそんな君の隣を歩く。
 表社会から賛美され引く手数多の彼女は、裏の社会でももちろん有名だ。その頭脳を手に入れようとさっきみたいな追っ手が腐るほどやって来る。そして、それを僕が片付ける。そんなことをもうどのくらい続けたろうか。
 そろそろどこかに落ち着いた方がいいということは、僕も彼女も薄く思ってはいる。けれど、自分達がいて居心地がいいと思う組織とはまだ出会っていないのが現状だ。
 どこかの傘に入ればこんなふうに頻繁に追われることはなくなるだろう。それだけでも日常に余裕が生まれるし、毎月決まった給金があるなら、仕事を探して国を渡り続けることもしなくていい。楽になる。
 適当なホテルに入って部屋を取る。今日の予定を終えて疲れている彼女を連れてエレベータに乗り込み、寂れたホテルの廊下を歩いて、鍵と同じ番号の部屋に入る。壁紙がところどころ剥がれていているし、きれいとは言いがたい部屋だったけど、有名ホテルではどこも僕らのことを待ち伏せしている輩がいるから仕方がない。
 ヒールを脱いだがベッドに靴を放った。疲れた、という顔をしてベッドに腰かける彼女の顔を覗き込む。
「平気?」
「疲れた…」
「そうだろうね。頑張ったよ」
 緩く抱き寄せると、彼女は抵抗せず、スーツの胸元に顔を埋めた。
 黒い髪を指で梳く。今日もきれいだ。よかった。
「恭弥」
「うん」
「わたしを、呼んで」

「もう一回」

 呼ぶのと合わせて髪を撫でる。もういいと言われるまで彼女の髪を撫でて「」と君の名前を呼び続ける。
 ただそれだけの時間。それが僕にとっては。
「こういう生活も、ちょっと疲れたね。歳かな」
「どうかな。でも、疲れたと思うなら、落ち着いた方がいいのかもしれないね」
「そうね…。適当なところ、ないのよね」
 はぁと溜息をこぼす彼女の髪を撫でる。前髪をかき上げてキスをすると、彼女はようやく顔を上げた。
「探すならさせるけど」
「…そうね。でも、下手なことしたくない。受け入れる条件としてとかそういうの嫌」
「分かってるよ」
 歳かな、と言ってみせた君の肌を撫でる。僕には昔と変わったようには見えない。僕に笑いかけたあの頃の君から、その輝きは少しも色褪せることがないままだ。
「恭弥?」
 僕を呼ぶ声。薄いピンクの口紅を塗ったその唇は誘うような艶を纏っていた。
 食べたいな、と思って噛みつく。君は抵抗しないで目を閉じる。いつもそうだ。
 僕らは昔の隔たりを埋めるように今このときをお互いだけで埋めて、埋めて、それで過去の空白さえ埋めようと、そんな勢いで、お互いだけでお互いを埋めていく。
 その日はフランスからイタリアへと渡った。理由は、彼女が本場のピザを食べたいと言ったから。
 ピッツァで有名なナポリを訪れ、代表的なマルゲリータとマリナーラを頼んで二人で半分ずつにして食べた。こちらは一人一枚食べるのが普通らしく、は頑張って一枚分を食べた。
 本場の味に満足した彼女を連れて今後の予定を話し合い、治安的な理由で首都ローマへと戻る道すがら、気付いた。僕らが乗り込んだ車両だけ人の出入りが極端に少ないことに。
「……
「うん?」
 観光気分でガイドブックをめくっている彼女の手に掌を被せる。少し声のトーンを落として「いいかい、よく聞いて」と囁けば、彼女が少し表情を硬くした。けれどそれも一瞬のことで、ガイドブックに落とした視線も変わらない。
 恐らくこの車両はどこかの組織によって占領されている。気をつけていたつもりだったけど相手もやり手だ。ああ全く、面倒なことだ。
 彼女の手を引いて席を立ち、ドアの上の路線図とガイドブックの地図を比べるような会話をして、手短に立っている男に寄った彼女が『この駅はあそこで合ってるかしら』という感じの言葉をイタリア語で話しかける。男は笑って答え、そして、次の駅に滑り込んだ地下鉄のドアが開き、閉じる、その直前に彼女の腕を掴んで外へと飛び出した。
 相手も黙っていない。当然扉をこじ開け追いかけてくる。
 地下構内に響き渡るイタリア語と英語の警告音。
 何事だと僕達を避ける人だかりの合間を縫って地上を目指す。地下はとにかく駄目だ。音も反響するし視野も限られてくる。加えて、僕らはここの地理に疎い。とにかく地上へ。
 カンカンカンと高いヒールの音に、彼女が靴を脱ぎ捨てた。慣れたものだった。あのヒールの高さが合ってるからと気に入っていた靴さえ脱ぎ捨てる、君のその覚悟した潔さに憧れている。今も。僕は気に入ったものを捨てる潔さなんてきっと未来永劫持てないままで終わるだろうから。
 角を曲がった先のエスカレータを駆け上がる。人を押しのけ、迷惑がる人の合間を縫い、とにかく上を目指して。
 そのときだった。第六感というやつが働いたのは。
 ピンと頭に引っかかった感覚に「っ!」と叫ぶ。先を行っていた君が驚いた顔で振り返る、その腕を掴んで、エスカレータの向こうの階段へと突き飛ばした。
 その瞬間バリッとした電気が身体を走り、どこにも力が入らなくなって、僕はその場に膝をついた。何とかエスカレータの手すりの腕を引っ掛け、倒れることは回避する。
 エスカレータに乗っていた誰も彼もが気を失って倒れている中で、遅れて聞こえたどさっという音。君が階段に落ちた音だ。
 痛かったかな。ごめんね。ごめん。
(逃げろ。逃げるんだ。僕を置いて)
 言葉を発することもできない中で、視覚や聴覚が機能していることが恨めしい。
 一つ下のエスカレータを駆け上がってくる男達。それに悲鳴を上げる一般人。
 男の手には拳銃。その銃口は当たり前のように僕に向けられる。
 そう。彼女を手に入れるためなら、彼らは連れの僕のことなど簡単に殺してみせる。
「恭弥? 恭弥っ」
 君の、声がする。
 ちゃんと聞こえている。聞こえてるよ。返事をしたい。だけど口は動かないし、手も足も、どこも動いてくれない。
 君が階段の手すりに手をついて僕のことを見上げる。その目と目が合う。
 逃げろ。逃げるんだ。僕を置いて。
 その意思を、君はちゃんと汲み取った。
 泣きそうになりながらも僕を置いて階段を駆け上がっていく裸足の君。
(今度、新しい靴を、買いに行かなくちゃね。前のよりももっと気に入るものを探さないと。あとは、できれば、ヒールはあまり高くないものがいいかな。こういうとき走りづらいし、ヒールの高い音で、居場所を知らせてるようなものだし)
 君が見えなくなる。どうにか地上へ抜け出してくれたようだけど、この大掛かりな仕掛けがあったことを考えるに、あまりいい予感はしない。
(僕がもっとしっかりしていれば…)
 彼女の観光気分にすっかり浸っていた。一緒に楽しんでいた。僕がもっと気をつけていないとならなかったのに。君には、僕だけなのに。
 遅れて階段を駆け上がる男達の中で二人が離れて僕に近づき、何か会話をする。拾い上げられた単語から想像するに『ヤツの連れだ。どうする?』『殺っちまえよ。不死身の相棒とかいう話だが、頭撃ち抜きゃ終わりだろ』って感じか。
『餌にして呼び出すってのはどうなんだ』
『ああ、ムダムダ。悪女って有名なヤツには無駄な交渉だよ』
 そんな会話のあとに眼前に突きつけられる黒い銃口。焦点の合わない目でその穴を見返して、僕は笑う。
 弾けて響く銃の音。
 こんなふうにして、不本意ながら、僕は死んだ。