親の転勤で並盛に戻り、並盛中学に通うことになったわたしは、入学式で懐かしい人を見つけた。なぜか中学の制服じゃなくて学ラン姿の雲雀恭弥くんその人だ。
 わたしは懐かしさで彼に駆け寄って「恭弥くん」と呼んだら、なぜか、周りがざわめいた。彼は驚いた顔でわたしを見つめて「?」とこぼし、彼が憶えてくれていたことが嬉しくて、わたしは元気よく頷いた。
 あれから家庭環境がまた変わり、母は父と離婚。わたしたちは今は新しい父と一緒に新しい家に住んでいる。並盛へ戻ってきたのは新しい父の仕事の関係だ。
 わたしは嬉しかった。父の転勤のせいで並盛を離れて、父と母の間にはさらにヒビが入って、やがて離婚に至り、わたしが縋れるものはと言えば、知らない場所で唯一知っている勉強ただ一つだけ。そうして母が再婚し、新しい父に連れられて並盛へ戻り、わたしはあなたと再会できた。わたしは、嬉しかった。
 憶えてるだろうか、あの猫のスケッチ。同じ塾に通って隣り合って座っていたこと。あなたはいつも眠そうに必要最低限のプリントだけ片付けて、それでも成績はいつも一番で、二番のわたしは、あなたに対抗心を抱いていたってこと。
 わたしはあの何気ない日々と時間がどんなに大切だったのかを知った。わたしは想い出に縋っていたのだ。
 恭弥くんは長いことわたしを見つめていたけど、ふいに視線を外した。斜め下辺りに固定した視線で「」と、わたしのことを、そう呼び直した。え? とこぼすわたしの横をすり抜けた彼が「入学式の会場はあっちだから。じゃあ」と人の集まっている体育館前を指差して、行ってしまう。
 慌てて振り返って「恭弥くんっ」と呼んでも彼は立ち止まらない。
 その後ろ姿がとても遠いことに、呆然としていたところから涙が溢れてきて頬を伝った。
 …裏切られた。そんな気持ちになった。
 想い出に勝手に縋っていたのは確かにわたしだ。あのとき交換した猫のスケッチ。あなたが描いたヘタクソな二匹の猫は、今もアルバムに大事にしまってある。色褪せてなんてない。わたしの中であの時間は少しも色褪せていない。あなたと過ごした少しの時間は確かにわたしの中で生きて、わたしを生かしてくれた。それなのにこの現実はなんだろう?
(どうして?)
 彼はわたしのもとへではなく、同じ学ランを着たリーゼントでまとめた髪型をした人達が整列しているところへ行き、何か言っている。その横顔は、遠いけれど、懐かしい。
 それなのにあなたはわたしを見なかった。
 入学式で泣いているわたしを先生たちが不思議そうに見ていたけど、わたしはやっぱり泣いたままで教室まで行き、割り振られたクラスでもぐすぐすと鼻を鳴らしていた。そんなわたしを、当然、クラスのみんなが避けていた。なんで泣いてるんだこいつって。
 わたしは並盛に、恭弥くんのいる場所に戻ってきた。だから、きっとまた恭弥くんと、あの頃みたいな時間が過ごせるはずだって。信じていた。
 過去に過ごした時間を再現したいわけじゃない。ただわたしは、あのときに縋っていた。それを否定しないでほしかった。
(だってわたしにはそれしかなかったんだもの)
 変わる家族、変わる家庭環境、父だった人、今の父、変わった母、変わった環境。
 唯一戻ってこられた並盛という場所。変わらないそこに、変わらないあなたを、信じていた。
 わたしはあの頃から変わっていないのに、あなたは、わたしを置いて、変わってしまったんだね。
 そう分かって、思い知って、ほとほとと泣いたわたし。ホームルームを終えた教室からとぼとぼと一人で外へ出て、さっそく友達作りをしている子達の間を抜けて階段を下りる。
 小学校からこういうことは苦手だった。
 でも、恭弥くんも同じだろうなって想像して、安心したりした。勝手な想像だ。けれどそれはきっと当たっていた。あなたとわたしは根本的なところが似ていたから。
 校門を出たところで、「帰るの」という声をかけられて足が止まる。相変わらずの学ラン姿で腕組みしている彼がわたしを見ると目を丸くした。
「泣いてるの?」
「…うるさいっ」
 わたしは彼に向かって噛みつくようにそう言った。そんなわたしに、彼は余計に驚いたようだった。
 誰のせいで。誰のせいでこんなに泣いたと思ってるんだ。あなたのせいだ。あなたのせい。わたしはあの頃から少しも変わっていないのに、変わってしまった、あなたのせいだ。
 変わらないなんて約束はしてないよ。でも、指切りしたでしょ。大事にするよって。約束したでしょう。わたしはちゃんと大事にした。あなたのスケッチ、あなたとの時間、想い出を、大事にしたのに!
 泣きながら彼の前をすり抜けて走って帰る。彼は追ってこなかった。それが胸にじくじくと痛かった。
(恭弥くんの馬鹿、恭弥くんの馬鹿、恭弥くんの、馬鹿)
 飛ぶように家に帰って部屋に飛び込んで、泣いた。
 今日までわたしを支えていたものは崩れ去った。
 信じていた彼は変わってしまっていた。きっと彼の部屋にはわたしが描いた猫なんてどこにもないんだ。指切りして約束したことなんてさっぱり忘れているんだ。きっと、そうだ。
 だったらわたしだって忘れてしまえ。
 暗い考えが頭をもたげ、蛇の形を取り、しゅるしゅると舌を覗かせる。
 のろりとベッドから起き上がったわたしは、本棚のアルバムを引っぱり出した。大して詰まっていない想い出の中で、一番大事な、ヘタクソな猫のスケッチ。それを取り出して、破ろうとした。ぴっ、と折れ目を一センチくらい破って、そこから手が動かなくなった。
 ほとほとと涙を流しながら、スケッチを遠くに投げ捨てる。ひらりひらりと部屋を舞ったそれは頼りなく、やがてフローリングの床に落ちた。
 ……破れなかった。
 だって。わたしの、大事な、想い出だ。彼にとってはもうどうでもいいことでも。わたしにとっては色褪せることのない大事な。大事な記憶だ。
「う…っ、ううーっ」
 床に伏せて泣いても現実は変わらない。
 淡い希望を見ていた並盛という場所で、わたしは絶望に打ちひしがれ、泣いて、泣いて、泣いた。 
◇  ◆  ◇  ◆  ◇
 はぁ、と息を吐いて羽織っていた学ランの上着をハンガーにかけた。部屋着の黒い着物に着替えてから、気付いて、学ランのポケットからそっと一枚の紙切れを取り出す。少し色褪せてきたその紙を開くと、中には模写されたような猫が二匹、寄り添って日向ぼっこをしている絵がある。
 憶えている。君が描いたものだ。僕のヘタクソな猫の絵と交換でくれたやつだ。
…」
 風紀委員のいる手前、君のことを苗字で呼び直したら、君はひどく驚いた顔をしていたっけ。
 一見すれば僕に従っているだけに見える風紀委員という存在は、雲雀の家が権力によって作り上げた集団だ。ときと場合によって名前を変えることはあれど、その実質は、雲雀家の駒であり、現当主である父の駒だった。
 後々雲雀の名を継ぐことになる僕を風紀委員長に命じたのは父だ。…どうやらあの人は僕の力を試したいらしい。
 その父の使いとも言える風紀委員がいる手前で、下手なことはできない。そんなことを考えたら君に対してぎこちなくしか接することができなくて、そんな自分に落胆していたら、君は入学式で泣いていた。涸れることのない泉のように涙を流して、教室でもずっと泣いていた。僕はそれを遠くから見ていることしかできなかった。
 昔だったらどうした? あの頃だったらどうしてたろう。僕は、どうしてたんだっけ。
 全員に仕事を出して風紀委員を分散させ、君が帰る頃合を見計らって校門の外で待っていたら、声をかけた君は、また泣いた。それは間違いなく僕のせいだった。僕が君を泣かせた。でもどうして。特に何かした憶えはない。ひどいことなんて言ってないししてないのに。どうして。
 ぐるぐるする頭で夕飯はいらないと拒否し、部屋にこもって考えた。考えられる限りのことを考えたけど、彼女が泣いた理由は分からなかった。
 うるさい、と僕に向かって吐き捨てた君のことが分からない。分からないよ。
 答えを教えてよ、と猫のスケッチに話しかけたって、答えてくれるはずもない。
 並盛から他所へと越してしまった君のことを考えていた。ちゃんと追って調べていた。うちには権力だけはあったから、君のことを辿るのも簡単だった。
 君が学校で一番の成績を取っていたこととか、高校過程の英語を終えてしまった君が次はフランス語を始めたこととか、両親が離婚して母方に引き取られ、その母親が再婚したこととか、ちゃんと全部知ってる。だから君が並盛へ戻ってくると分かって嬉しかったんだ。ちゃんと嬉しかったよ。だけど君が流した涙は、嬉しいからじゃないよね。あれは、傷ついて、悲しくて、苦しいから流す涙だ。
 僕が泣かせた。
 だけどどうして君が泣いたのか、その理由が分からない。
 ぐるぐるする思考でお風呂だけは入って、その日はすぐに寝た。
 次の日は早くから学校に行って、とりあえず昨日のことは謝ろうと決意した僕は、彼女が登校してくるのを待った。抜き打ちの身だしなみチェックだと風紀委員を動かして僕がいても不自然じゃない状況を作って。
 そうしてやってきた君は、僕に気付いたけれど、すぐに視線を外した。僕なんて見えないように横をすり抜けてしまうから、慌てて振り返って「」と君を苗字で呼ぶ。
 君は立ち止まったけれど、そのまま風紀委員の身だしなみチェックを受けて問題なくクリア、僕を振り返ることなく行ってしまった。
「どうして…」
 こぼれた声に口を閉じて、歯の根を噛み合わせ、遠くなっていく制服姿の君から視線を外す。
 ……昨日のことを謝ろうと思っていたのに。僕は完全にタイミングを見失ってしまっていた。
 それから何日、何ヶ月たっても、君は学校やクラスに溶け込むことなく、僕と話すこともなかった。学校へはただ勉強だけをしに来ているようだったけど、その難易度も彼女には低い。
 授業の間、休み時間も、その全てを通信講座の難しい教科書や違う教科の勉強に費やす君。
 そして、そんな君を遠くから眺めるだけの僕。
「委員長、よろしいですか」
「…ああ。何」
 窓の外、君のことばかり気にしている僕のところにやって来た草壁が耳打ちしてきた名前と、クラスと、いじめのその報告に、僕は舌打ちをこぼして振り返った。ぴっと敬礼した草壁に「校内放送。今すぐ呼び出せ」と言えば「はっ、しかし、授業中ですが…」渋った草壁の声に「呼び出せ」と再度言って力任せに机を叩くとばぁんと音が響いた。…まるでいつかの小さな僕のようだった。
 草壁が部下に指示を出す。校内アナウンスが流れ、生徒の呼び出しをする。該当の生徒が来るまでの間、僕は苛々と床のタイルを靴底で叩いていた。
 まただ。また君をいじめる奴らが見つかった。
 君が悪戯に勉強ができるからって、自分達の中から除外しておいて、さらに彼女を追い詰めようとする。そんな行為を僕が許せるはずがない。君の上履きがなくなったり、机にコンパスで消えない落書きがされていたり、ノートや教科書がなくなったり、そんなこと、僕が許せるはずがない。
 上履きはサイズが同じ新しいものを用意して、机も新しいものに取り替えて、ノートや教科書は見つけたら回収、使えないものは新品へと変えた。
 彼女の物に手を出した奴らは僕が直接脅しをかけ、次があったら咬み殺すと宣言し、ブラックリストに名前を追加する。
 ずらりと並んでいる名前の分だけ僕の苛立ちは加速した。
 そういえば最近父がうるさい。僕が風紀委員長として平等に人を見ていないとか何とか。どうでもいい。
 僕は風紀委員の中でも僕という人間についてくる奴を選び、この件を手伝うよう指示し、自らも動いた。
 …僕がを守らなくちゃ。
 他の誰も彼女のことを守ろうとしない。僕が守らなくちゃ。僕が。
 いや。そうしないと、僕が、いられないんだ。
 君と接する機会がないままだったけど、僕はそうやって陰日向から彼女のことを支えた。
 机に向かってひたすら勉強に取り組む君の姿は、見ていて誇らしくて、少しだけ寂しかった。
 そうしていると、君はまるであの頃のままのようだ。小さな塾に通って、僕の隣で算数や国語のプリントを解いていた君のままみたいだ。
 でも、あの頃より髪が伸びたし、かわいくなったよね。
 応接室の窓に指を触れさせて、遠くの教室で勉強している君を眺めるだけの僕は、唯我独尊の一匹狼でも、並盛で恐れられる風紀委員長でもなかった。ただの意気地なしの、どこにでもいる男子でしかなかった。
◇  ◆  ◇  ◆  ◇
 中学二年になると、わたしは父に海外の学校へ進学したいという話を持ち出した。今の父は語学に関心のある人で、勉強のできるわたしのことをよく褒めてくれ、認めてくれた。だからではないけど、わたしは勉強を頑張る意味を思い出して、改めて、わたしにはもう勉学しかないのだと思った。
 父とは話がとんとんと進み、母の説得は父が請け負ってくれたので、わたしは父の推薦をもとに大学を調べ、行きたいところを考えた。
 日本の勉強はつまらない。もっと自由でもっと縛られない場所で納得するまで壁を登ってみたい。
 二年生の終わりになったら見えてくる進路という文字をわたしは早くから見据えていた。
 だってわたしにはもう勉強しかなかったから。
 数式はわたしを裏切らないし、間違えたならそうだと教えてくれるし、正解をくれる。化学式もわたしを裏切らない。歴史は憶えたら一度だって覆されることはないし、知識があればあるだけ、解けるものは多くなるのだ。ならそれが一番いい。わたしは納得のできない裏切りは大嫌いだ。
 イギリスのオックスフォード大学に目標を決めたわたしは、入学に必要な受験の資料を集め、そのための勉強をする方向を固めた。
 二年生の夏休みは電車で行ける距離の講座に通い、大学受験のための勉強をした。かなりぎゅうぎゅう詰めの日程で、一週間のうち六日はその講座で一日が埋まり、それが夏休みの始めから終わりまでたっぷり続いた。
 最後の日には模擬テストがあって、それで七割しか取れなくて、それが悔しくて悔しくて、夏休み明けからはさらに猛勉強した。並盛中学なんてどうでもよかったけれど、出席日数が響かないとは言えないから、一応通う。そこで大学受験のための勉強をする。そんな日々が続いた。
 そんなある日のことだ。
 あちらの大学試験には最重要の英語を完璧にするため、わたしは教科書を読みながら道を歩いていた。とにかく一分一秒が惜しくて、ストレートの合格を目指すわたしはいつでもどこでもこうして勉強ばかりしていた。
 それで、ちゃんと前は気にしていたのだけど、人にぶつかってしまった。相手はわたしよりも大きくて、ぶつかったわたしが弾き飛ばされるくらいだった。
 教科書を死守したわたしは、痛い、と思いながら擦った膝を気にしつつ視線を上げた。相手は大柄で、いかにもガラの悪そうな人だった。
「ああ? テメェどこ見て歩いてんだよ。謝れコラ」
「ご、ごめんなさい。すみませんでした」
 ぶつかったのはどうやらわたしらしく、一応謝るんだけど、相手は最初からわたしを許す気などなさそうだ。ばきっぼきっと指の骨を鳴らして、相撲取りの人か、と思う体格で「声が聞こえねぇなぁ。もっと大きな声で謝れや!」とドスを効かせた声を上げる相手に、正直、めんどくさいなと思った。
 悲鳴でも上げて誰かに助けを求めようか。でもここは日本だ、これからわたしが行くイギリスじゃない、英国紳士な人なんていやしない。みんなこんないかにも怖そうな人相手に運悪くぶつかったわたしを助けてくれるわけがない。
 前を気にして歩いてたはずなんだけど。いくら時間が惜しいからって、教科書読みながら歩くのは、やっぱりやめよう。そう決意して「ごめんなさい、すみませんでした」と大きな声で頭を下げたときだ。大きなその人が横っ面を弾かれたように吹っ飛んだ。うん、まさしく、吹っ飛んだ。
 呆気に取られたわたしの視界から吹っ飛んだ相撲取りの人。代わりに飛び込んできたのは恭弥くんだった。「、怪我は? 何かされた?」と慌てた顔でわたしのあちこちに視線をやる恭弥くんに、わたしは半ば呆然としていた。
 どうして、という言葉が、この心情を表すのに一番近かったかもしれない。
 今まで学校で見かけたってうんともすんとも言わなかったじゃないか。わたしが陰湿ないじめにあってるときも知らなかったじゃないか。あなたはもうわたしのことなんてさっぱり知らないふりに徹したものだと。だから、わたしも、そうしようって。思って。だから。わたし。
 あなたは、きれいな男の子だったけど、今はかっこいい男の子になった。当然女の子から人気があった。それもわたしがあなたから離れる手引きをした。

 あなたにはわたし以外がたくさんいて、
 わたしなんかいなくたって全然よくて、
 なのにわたしは、
 あなたがいないと、
 全然。

?」
「…ぁ、」
 名前で呼ばれて我に返った。わたしの肩を掴んでいる彼の手の大きさが昔と違う。全然違う。声だって変わった、低くなった。
 あなたは変わった。だからわたしも変わると決意した。それでよかったと、思っていた。
 道の方に転がっていた大きな人が「テメ、やりやがったな…っ」と呻きながら起き上がると、わたしを心配していた彼の視線がすっと流れた。途端にその目は冷たくなって、立ち上がった彼は、ジャキンと鈍く光るものを手に持った。なんだったかな、中国の映画とかに出てきそうな。ヌンチャクじゃなくて。えっと。
 恭弥くんは、映画の中の人みたいな速さや動きで大きな人を叩きのめした。銀に光る棒みたいなものでそこかしこを殴った。蹴りもした。そして止めとばかりにもう動けないその人の頭に向かって銀の棒を振り上げるから、「恭弥くんっ!」と声を張り上げた。今までの人生の中で一番大きな声を上げた。そのまま放っておいたら彼はあの人を殺してしまう、と思った。
 わたしが叫んだことで、わたしがいることを思い出したように、彼は罰の悪そうな顔をして銀の棒を折りたたんでポケットにしまった。
 周囲はすっかり騒ぎになっていて、その騒ぎの輪の中から並中で見かける黒い学ランとリーゼント頭の人が何人か出てきた。「委員長」「分かってる。…馬鹿をした」はぁ、と息を吐いた彼がわたしを立たせた。制服の襟を払って「」と、また苗字でわたしのことを呼ぶ。さっきは名前で呼んだのに。
「学校、行けるね」
「…大丈夫」
「じゃあ行って。僕は始末がある」
「始末、って…あの人殺さないよね? あの、ぶつかっただけだよ。何もされてないよ。だから」
 おどおどするわたしに彼は少しだけ笑った。「殺さないよ」と。
 学校で噂に聞いていた並盛での彼の暴力統治のことを、わたしはこのときになって初めて現実のことなんだと呑み込めた。
 それと同時に。仄暗い絶望が生まれた。
 今更ながらにわたしのことを助けた恭弥くん。わたしのことを名前で呼んだ恭弥くん。わたしに怪我がないかって、何かされてないかって慌てていた恭弥くん。ほんの少しだけ笑ってみせた恭弥くん。
(ああ、わたし)
 その絶望に打ちひしがれたわたしは、掌で顔を覆った。とぼとぼと歩いていたところからとんと電柱に肩を預け、さっき彼に強い力で掴まれていたことを思い出して、余計に苦しくなった。
(ああそうか。わたし)
 恭弥くんのこと。好き、なんだ。