その日、ナポリからローマへと至る道の途中でそれなりの規模で人が動いたらしいという情報を聞いた俺は、念のために山本に向かってもらった。
 動いたって組織は、そんなに大きくもないけどやっていることはマフィアのそれで、プラス、ボンゴレに楯突いている、まぁ、目の上のタンコブってやつだ。
「しかし、なんでまた山本なんて動かすんです? 偵察なら下っ端の部下で十分だったのでは」
 日本茶を淹れて持ってきた獄寺くんに困ったなと笑う。
 なんでと言われると俺も困る。あえて言うなら、第六感が働いた、のかな。やっぱり。
 何かあったなら俺の携帯に山本から連絡が入る。そのときどうするのかまではまだ決めていないけど、きっとまた第六感が働いてしまうんだろう。俺にはそういう血の力みたいなものがあるらしいから。
 だから、きっと電話がかかってくる。
 湯飲みをすすって書類の何枚かに目を通し、上手とはいえないサインを書いて筆を置いたとき、携帯が鳴った。すぐに通話ボタンを押して繋げる。
『おうツナ、なんかヤバいことになってるぜ。女が逃げてる。どっかで見たことある顔だ』
「女? 他には?」
『あー、男の連れがいたみたいだが、地下から出てきたのは女だけだな。見た限り日本人っぽいが、どうする?』
 山本の声が切迫している。事態は詰んでいるらしい。秒だけでも状況が決定する、ということだ。
「保護してくれ」
「十代目っ!」
『おっけー了解! 全力で行ってくるからまたあとでかけるわ!』
 獄寺くんの抗議の声もなんのそので、山本は笑って通話を切った。わしゃわしゃ髪を掻き乱す獄寺くんは「あーもーなんでそうなんスか! ただ下手しただけの一般人だったら? オレらアホみたいですよ!」「いいじゃないか、それはそれで」俺は誤魔化して笑うんだけど、獄寺くんは納得しない。まぁいつもこんな感じのやり取りをするから俺は笑って流しちゃうんだけど。
 そこへ、リボーンがやって来た。一応ボスの部屋なのにバンと遠慮なしに扉を蹴破って入ってくると、「いい判断だな。正解だ」と言って一枚紙を投げて寄越した。ひらひらと舞って落ちた紙切れにはモノクロの写真が拡大プリントされていて、山本が向かってくれた地下鉄の駅の出入り口の一つが撮影されていた。そしてそこに映っているのは。
「これは…あの有名な生物学者じゃないスか。なんでこんなもの…って、まさか?」
 プリント用紙を拾い上げた獄寺くんもどうやら気付いたらしい。
 俺はリボーンを見た。リボーンも俺を見ていた。
 あいつの言いたいことは分かる。これを借りにして彼女の智慧を拝借しようって言うんだろう。それは確かにマフィアらしいし理に適ってるのかもしれないけど、俺は、そういうマフィアっぽいことはなるべくしたくない。
 彼女がこっちの社会にも足を浸してることは俺も承知してる。でも、事は平和的にいきたい。
「…はー。てめェはいつまでもそんなんだな。全く、カツ入れるオレの身にもなれよ」
「はいはい悪かったよ。で、悪いけどこれからもカツ入れてくれよリボーン」
「ちっ。言っとくがスパルタだからな。覚悟しとけ」
 くるりと背を向けたリボーンが部屋を出て行く。俺達の会話についていけない獄寺くんがリボーンが出て行った扉と俺とを何度も見比べて「いいんスか、今の」と首を捻るから、俺は「いいんだよ」と笑った。
 二時間後、山本は彼女を連れて本部に戻ってきた。
 表の社会では世界屈指の生物学者として知られ、裏社会では、金銭のためなら何でもする狡猾な女として知られるその彼女は、とても狼狽していた。目の焦点がここじゃないどこかを向いていて、意識も、こっちには半分ほどしかないような状態だった。
 山本の話では、彼女が地下から出てきた少しあとに、駅へと下りる階段辺りから爆発があったらしい。死者はいないそうだけど大きな怪我を負った人は何人か出た。その爆発がなんだったのか、彼女を追っていた連中を含めて調べさせている最中だ。
「…ドン・ボンゴレ?」
「あ、はい」
 唐突に訊かれてするっと答えてから、ああしまったなと思ったけど、流した。俺の第六感的にこの人は悪い人じゃないと思ったからが一番大きな理由だ。
 彼女はさっきまでのどこか危うい状態から抜け出して、代わりに泣きそうになっていた。「そうなのね。ボンゴレファミリーのボス。あなたが」「ええ。これでも一応…あ、沢田綱吉と言います」手袋をしたままだったけど手を差し出すと、彼女は縋るように俺の手を掴んだ。「わたしは、。知ってて人を寄越したんでしょう」「…まぁ、そうなりますかね」困ったなと笑うと、彼女は淡い微笑みを浮かべた。今にも消えてなくなりそうな笑い方だった。
「わたしの頭脳が欲しいなら、提案があるの」
「…どんなものですか」
「紙とペンをくれるかしら」
「獄寺くん」
 控えていた獄寺くんを呼ぶと、彼は白い紙と万年筆を持ってきた。受け取った彼女は、その紙にゼロをたくさん書き込んで、最後に1の数字を入れて俺に押しつけた。
「これだけ用意してくれるなら考えるわ」
「えっと…」
 いかん。俺は数字が苦手だ。ぱっと見ていくらなんて分からない。紙を獄寺くんにパスして「つまりいくら?」と訊くと、彼は数字が示す金額を理解してわなわなと震えた。「な…っ、てめ、ふざけるなよ! ボンゴレ潰すつもりかっ!」と怒り出したところを見るに、相当高いってことだけは伝わった。
 彼女は泣きそうな顔で獄寺くんに言い返す。「何よ、用意できないなら他へ行くわ。わたしの力添えが欲しいって人はいくらでもいるの」と言葉だけは高圧的な彼女に、獄寺くんが舌打ちする。「噂通りに金の亡者ってわけか」と悪態を吐くからさすがに聞きかねて「獄寺くん、そういう言い方はよくないよ」と言葉を遮った。
 …彼女はただお金が欲しいわけじゃない。それは見ていれば分かる。
 彼女は真剣なんだ。本当に切迫した状況で、これだけの金額のお金を必要としている。
 金銭のためなら何でもするという言葉とは裏腹に彼女の身なりは清楚なもので、派手なドレスでもなければ、宝石の指輪をしているわけでもない。今までにも莫大な金額を手に入れてきただろうことを考えるなら、彼女はそういったことのために金銭が必要なわけではないのだろう。もっと何か大事な。俺達なんかでは想像もできないことに、提示した金額が必要なのだ。
「…必要なんですね? これだけの金額が」
「ええ」
「何に必要かは、教えてはくれませんよね」
「そうね。それは無理だわ」
「ではお訊きしたいんですが。これだけの金額を用意して、あなたがボンゴレの傘下に入るという保証は?」
 訊ねると、彼女は顔を曇らせた。「そうね…何がいいのかしら。わたし、家財や私財はないし、代わりに預けられるものがないわ」とこぼす声が俺の確信を促す。
 嘘は感じない。彼女がただ真剣にこの金額を必要としていることだけが伝わるもの。
(あー、あとですっごく怒られるんだろうけど。しょうがないよなぁ…)
 うん、と一人こぼして、スーツの内ポケットからまだ何も金額の入ってないまっさらな小切手を取り出す。請求元はここ、ボンゴレになっているものだ。
 さっと顔色を青くした獄寺くんが「ま、まさか十代目、そんな話本気で…待ってください、十代目!」最初に1を書いて、ゼロの数を数え、同じ数のゼロを書き込んだ。それを彼女に手に預ける。「はい、どうぞ」と笑うと彼女はぽかんとした顔で俺を見上げた。
「わたし、預けるものが何も…」
「それでもいいですよ。あなたを信じます。ボンゴレが本気になればどうなるかなんて、あなたなら分かるでしょうし」
「…脅し、ということ?」
「違いますよ。言ったでしょ。俺はあなたを信じます」
 やんわりと微笑むと、彼女は押し黙った。小切手を大事に胸に抱えて「ありがとう」とこぼし、泣きそうな顔で俺の頬にキスをくれた。
 すぐに行かないとならないという彼女を山本に送らせて、俺はまず獄寺くんに怒られ、骸にさんざんぐちぐち言われて馬鹿にされて怒られ、リボーンには呆れた顔で一発殴られたあとに飛び蹴りまでお見舞いされた。
 すぐに戻ると彼女は言った。
 俺はその言葉を信じて彼女を待ってみようと思う。
 ボンゴレはイタリアでも主力のマフィアだ。そこを敵に回すということがどういうことか、分からない彼女ではないはずだから。
 誰もいなくなった執務室でふうと息を吐き、つけたままのパソコンに視線を投げる。試しにと彼女の名前を入れて調べてみると、裏でも表でも有名な彼女は色んな記事が引っかかった。骸が今資料を作成しているはずだけど、ぱっとネットで引いただけでこんなにも彼女の記事がヒットする。
 表で新しい化学式を発見したと発表会を開いているときの写真、裏で彼女の生物学と現代科学を掛け合わせて作られた人工頭脳の話、スーツの連れと手を繋いで楽しそうに笑っている写真エトセトラ。
 スーツの男。連れ。そういえば山本がそんなことを言っていたっけ。
 だけど保護が確認できたのは彼女だけだった。連れの男の情報はまだこっちに入ってきてない。一足遅れて処理されたあとだったか、それとも。あの場で起きた爆発に、その連れが関係あるのかどうか。
 写真で見る限り、その連れの人は端整な顔をしていた。検索すればすぐに出てくる。それに俺も知っている人だ。こっちの業界では有名だった人。リボーンがボンゴレに勧誘する前に他の組織に入って、そして、一度消息を絶って、空白の時間を残して彼は戻ってきた。属していた組織には戻らず、あの頃には考えられなかった笑顔を浮かべて彼女の隣に並んでいた。
 手を繋いで、恋人のように寄り添って歩いて。二人とも幸せそうな写真だ。俺が思わず笑ってしまうくらい。
 …その彼がいない。それは彼女にとってどれだけ不安を駆り立てることだろう。
 ここへ連れて来られたときの彼女の様子を思い出して、目を閉じる。
 彼女にとって彼は大切な存在なのだろう。恐らく、彼にとっても彼女は大切な人のはずだ。
 だけど。俺達がこれだけ捜しても見つからないということは、多分、彼は。
(…、戻ってくるだろうか)
 あのとき働いた自分の第六感というものを信じてはみたが、この写真を見てしまった今、俺の確信は少し鈍っていた。
 手を繋いでパリの大通りを歩いている、ただそれだけの写真だ。だけどそこから感じるこれをなんと言えばいいだろう。
 愛してる、という感情が画面の向こう側から俺に突き刺さってくる。一緒にいられる、それだけでいい、と笑い合う二人が眩しくて、とても切ない。もしかしたらその風景はもう二度と現実にはならないかもしれない。そう思うと俺の方まで苦しくなってぶつっとパソコンの電源を落とした。
 細く息を吐いて椅子の背もたれに深く背中を預け、ありがとう、とこぼして俺にキスをくれた彼女のことを思い出す。
 …信じよう。俺は彼女にそう言ったんだから。
 あの人は無意味に人を騙す人ではない。悪名高いことは確かだ。骸が資料をあげてくるまでは何とも言えないけど、彼女が裏の社会に進んで足を浸したのは確かだ。
 それでも思うんだ。いや、感じるんだ。彼女はそれを望んでいたわけじゃないんだろうって、第六感が言うんだ。
 ……もしのっぴきならない理由があったとするなら、それは多分。彼だ。