がイギリスの大学を受験するために必要な試験で合格のA判定をもらったのは、中学三年生の夏休み明けだった。それまで話半分くらいのつもりで彼女の行動を見守っていた僕は、そこで我慢ができなくなった。どうしても君に真意を確かめたくなったのだ。
 まだ夏真っ盛りの始業式後、他の生徒が下校していく中で、僕は草壁にを連れてくるように命じた。
 君はすぐにやって来た。暑さに参った顔をしながら屋上の扉をくぐり、陽射しの眩しさに視界に手をかざす。
 そんな君にすら、僕は視線を奪われている。
 僕を見つけると、君は一メートルくらい離れたところまで歩いてきて立ち止まった。
 僕らの空白を埋めるのはミーンミーンとうるさい蝉の声と下校する生徒の雑音。
「風紀委員の人がうるさいから。それに、先生も」
「そうだろうね。この学校で僕に逆らう奴はいないから」
 晴れ渡った夏空の下、君は目を細めて僕を見ている。けれど笑顔はない。あの頃みたいに僕に笑いかけてはくれない。再会したときみたいに僕に笑ってくれることもなくなった。彼女が恭弥くんと僕のことを呼んだのも、もう随分昔のことみたいだ。
 彼女との距離は一向に縮まることはなくて、むしろどんどん離れて、そして君は、僕からもっと離れる道を選択しようとしている。
「教師に聞いたよ。君がオックスフォードを受けようと考えてるって」
「うん。そう」
「どうしてって、訊いてもいいかい」
 彼女は僕から校庭の方へと視線を移した。呼び止める誰かもいない人の群れを眺める彼女の目は、そうしていると、僕とよく似ていた。
 昔、君は僕と自分が似ていると言った。性格じゃなく、外見じゃなく、もっと深いところが似ているって。
 僕もそう思う。君と僕はよく似ている。
「わたし、他の子より勉強できるみたいだから。ほら、海外ってこっちで飛び級って言葉があるくらいで、受験に年齢は関係ないでしょ? できることに制限はしない。そういう空気の方が、わたしはいやすいと思うの」
 彼女はそうこぼして屋上のフェンスに歩み寄り、カシャン、と手をかけた。ぼんやりとした視線を投げかける彼女の横顔を眺めて、僕は何も言えず、君から視線を外すことしかできない。
 君が悪戯にできるから、と君のことを虐げた連中は全て僕が排除してきた。なるべく君がいやすい環境を優先してきたつもりだった。でもそれじゃあ、僕ができる範囲のことじゃ、君は満足できなかったんだね。
 君が海外へなんて行ってしまったら、僕の手は届かない。
 僕は勉強は普通にできるだけだ。むしろ、最近手をつけていないから、君の方が僕よりずっとできると思う。だから、君を追いかける、なんてこともきっとできないだろう。
 …懐かしいね。何年も前には、僕が一番で、君が二番だった。君は僕を負かそうと隣で真剣に勉強ばかりしていた。僕はそんな君に呆れて、感心もしていたんだよ。
(もう、届かないのかな)
 はぁ、と息を吐き出した彼女が「話ってそれのこと?」と僕を見やる。僕は言葉に迷った。伝えたいことはたくさんあるはずなのに、今は頭の中に何も浮かばない。君が自分の意思で並盛を出て行く、僕から離れると決めた、という現実に、僕は言葉を探せずにいる。
 僕を置いていくのなんてちっとも僕らしくないから却下だ。一緒に行くなんてもっと却下だ。僕は群れるのは嫌いだ。君とは別だけど、でも、それじゃ駄目だ。周りに示しがつかない。父が余計にうるさくなる。
 …好きなんだ、と言うのも却下だ。そんなの本当に僕らしくない。このタイミングで伝えるなんてそれこそ縋っているみたいで、行かないでと泣く子供のわがままみたいで、絶対に、嫌だ。
 彼女は何も言えない僕から視線を外して歩き出すと、屋上を出て行った。
 ……結局何も言えなかった。そんな自分がとても腹立たしくて、ガシャアンとフェンスに拳を叩きつけた。
「くそ…っ」
 あのとき言えなかったごめんも。ねぇ、あのスケッチ、まだ大事に持ってるよって言葉も。どうして今頃になって僕の中に溢れるのだろう。
……」
 ごめん。あのとき泣かせてしまったのは僕みたいだったから、理由が分からないままなんだけど、ずっと謝ろうって、それだけは決めてたのに。伝えられないままでごめん。勇気のない僕でごめん。
 ずる、とその場に崩れ落ちて膝をつく。フェンスに寄りかかって視線を投げ出すと、ぼんやりと滲んでいた。
 ああ、僕は、泣いているのか。どうして。泣くようなことなんて何も。いや、それどころか。泣いたことなんて、憶えのある限り、生まれて初めてだ。
 、と君の名をこぼした唇が震える。
 生まれて初めて。声を震わせて、歯を食い縛って、僕は泣いた。
 君が僕の隣にいた時間。その温もりはセピア色の想い出へと何度も色褪せようとしてきて、それを何度も磨き、埃を払い続けて、そうして輝き続けた、遠いあの日々。
 君とした指切り。交わした約束。
 大事にするよと笑った君。
 交換した猫のスケッチ。ヘタクソな僕の絵と、上手な君の絵。
 もう二度と戻らない。幸福だった日々の名残がただ、僕の胸を焦がして止まない。
 そうして君との別れは呆気なく訪れた。
 翌年8月。オックスフォードに見事合格した君は、向こうの入学に合わせるため家族で並盛を出た。
 僕は彼女を見送るための理由として風紀委員を『並盛中学からオックスフォードへストレートで合格したは我が校の誇り』として空港から送り出すことを提案し、彼女の前に立った。もう並中の制服を着ていない君は少し背が伸びて、また髪が伸びて、うん、かわいくなった。
 でもこれで最後だね。僕が君の姿を見るのは。
「こんな派手なの、いらなかったのに」
 彼女が困った顔で並盛の校歌を合唱する風紀委員を見る。
 僕は少しだけ眉尻を下げた。そう言うだろうとは思ってたんだけど、笑ってくれたってよかったのに。
 渇いている、と思う喉で、唾を飲み込んで、「無理をしないようにね」と言うと彼女は目を丸くした。それからふっと笑って「そっちこそ、喧嘩ばっかりしてないように」と言われて、僕は面食らって、それから笑った。
 最後の最後に君が僕に笑いかけてくれたから、僕も、満足だ。そう思う。思い込む。
 …もう送り出してあげなきゃ。飛行機の時間もある。イギリスまでのフライトは長い。ここで彼女を引き止めて疲れさせてるようじゃ駄目だ。
 最後に、と手を差し出す。彼女は僕の手に気付いて片手を差し出し、最後の握手を交わした。
 君とこんなふうに手を繋いで帰ったあの頃が懐かしくて、胸がじわりと痛んだ。
「元気で」
「うん。恭弥くんも元気で」
 握手を交わし、するり、と手が離れる。トランクを引いた君が僕の横をすり抜けて歩いて行く。
 その姿を見送る視界が滲みそうになる。
 爪が食い込むほど強く拳を握った僕は、それ以上彼女の後ろ姿を見ていられなくて、早々に空港を出た。彼女を乗せて飛び立つだろう飛行機を見送ることもなく、黒塗りの車に乗り込んで「出して」とだけ言って後部座席に背中を埋めて丸くなる。
 全然上手くいかない。最後までちゃんと見送るつもりでいたのにな。こんな中途半端に放り出して、僕は、一体、何がしたかったんだ。
「恭弥様?」
「うるさい。話しかけるな」
 僕を呼ぶ声を切り捨てる。それが誰のものであっても鬱陶しかった。僕を呼ぶ声が君の声でないことが胸に食い込んで痛い。すごく、痛い。
 痛いよ、。こんなに痛いと、こんなに苦しいと、僕はどうかなってしまうよ。

 強く目を閉じて君を思い描いても、いくら想像しても、その隣に僕はいない。いないのだ。これが現実。それが現実。これからもずっと君は僕の隣になんていなくて、手の届かない遠くの国で、僕のいない場所で、生きていく。
 これが。現実。
 なんて痛い。なんて苦しい。これが現実なんて僕は信じたくない。信じたくないよ。
 は、と吐き出した息が浅いことに気付いて、いつかの君が起こした過呼吸ってものを思い出した。
 あれは繊細な人間しかならないものだと思っていた。だから、小さいのに過呼吸なんて起こした君は、とても繊細な子なんだって、守ってあげなくちゃいけない女の子なんだって、思ってた。
 自分の口を掌で塞ぐ。対処法は知ってる。彼女に実践もした。一人で解決できる。
(…でも、できるなら、君に、いてほしかった)
 甘えた自分の思考が息苦しさで掻き消される。
 これがあのとき君が体験した苦しみなのだと思えば、僕はそれすら甘受できた。君を思って泣くことができた。過呼吸を理由に、もう戻らない君を想って泣くことができた。
 これが君の選んだ道なら。僕は肯定しよう。どんな君も、僕だけが受け止めよう。
 君の嫌いも、君の嘘も、君の優しさも、君の涙も、笑った顔も、その声の全て、その意思の全てを、全部全部受け止めよう。
 僕は、君の影として、いつまでもずっと、君だけを。想い続けるから。
◇  ◆  ◇  ◆  ◇
 まだ見送ってくれてるんだろうか、と淡い期待を込めて振り返って空港内を探してみたけれど、もうどこにもわたしを見送る風紀委員の姿はなくて、当然、彼もそこにはいなかった。
 …なんだ。やっぱりね。そうだよね。うん、そうだと思った。
 彼と最後の言葉と握手を交わして別れて、あのあと涙がこぼれたせいで振り返ることができなくて、今更振り返ってみたんだけど。もういないよね。うん。そうだよね。
 これでわたしは並盛を、日本を離れる。9月からオックスフォード生だ。日本へは当分帰ってこられない。
 一家でのイギリス移住という大事にはなってしまったけど、おかげでほっとしてもいる。知らない土地に一人というのはやっぱり不安だから。父はそういう意味でとても誇らしい。母は父に説得されてわたしたちと一緒に来ることを決めてくれたし、今のところ問題は何もない。
?」
「あ、うん。行く行く」
 母さんに呼ばれて慌ててそばに行く。父さんがちらりとわたしが振り返っていた空港内に視線をやって、「もういないんだな。あれだけ盛大にお前を見送ったのに」と言うから、わたしは笑った。「忙しい人たちなんだよ」と。「お見送りに来てくれただけいいじゃない」と続ければ、父は「まぁそうだな」と笑ってわたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
 父と母に連れられて飛行機に乗り込む。
 窓際の席を取ったわたしはぼんやりと外を眺めて、最後に、遥か下方へと小さくなっていく並盛を見た。
 わたしの希望だった町。わたしの絶望だった町。
 恭弥くんは、わたしがどうしてオックスフォードを受けるのかを訊いたけど、それ以上は何も言わなかった。きっと彼は確認がしたかっただけなんだ。中学生が海外の大学を受けるなんて前例を見ないことだったんだろう。全国を探したってそうある例じゃない。だから、彼は確認がしたかっただけ。だから他には何も言わなかった。
 …何を期待していたっていうんだろう。
 彼にはわたし以外がたくさんいる。男も女も。風紀委員という自分を崇めるひとたちに囲まれ、掃いて捨てるぐらいの女の子から想われて、あなたは幸せなんでしょう。だからわたしとの小さな思い出なんてもうどうだっていいんでしょう。
 あなたは幸せなんでしょう。だからわたしのことなんて引き止めないし、大した言葉もくれない。
 だからね。わたしも幸せ目指すわ。あなたをセピアの思い出へと昇華して、新しい可能性を探して、海外まで行くの。そこで新しいわたしを見つけるの。絶対にね。それであなたとは違う道を行く。あなたのことなんて忘れる。忘れてみせる。
 ……トランクの中に押し込んだ必要品の中に、アルバムがあって。そこに、あなたが描いた猫が入っている。少しだけ破いてしまったあのスケッチを、わたしは結局捨てられないで、今もまだ持ち続けている。
 あれを破るのはわたしがあなたを忘れたとき。あなたのことなんて思い出でしかないと笑えるようになったとき。そのとき初めて、わたしは、あなたを破り捨てることができる。
 だから何も悲しいことなんてない。
「…、」
 ぽ、と落ちた雫に、膝にかけていたブランケットを顔に押しつけた。
 肩が震えそうになるのを堪える。嗚咽を漏らしそうになるのを堪える。せっかくの旅立ちの日に両親に心配をかけたくはないから、堪えて、歯を食い縛って、固く目を閉じる。
 泣くことなんて何もない。悲しいことなんて何もない。
 わたしはこれから新しいことに挑戦する。今までみたいなつまらない授業じゃなくて、必死に勉強しないとついていけないような、もっとわくわくすることがたくさん待っている、可能性で溢れている場所へ行く。泣くことなんて何もない。悲しいことなんて何も、ない。そうでしょう。
 そこに、あなたがいないからって。泣くことなんて。
 もうあなたに会えないなんて。そんなことで泣いてなんになるの。
(恭弥くんのことなんて好きじゃない)
 最後にわたしに笑ってみせたあなたの顔を思い出したら、すごく、泣きたくなった。声を張り上げて泣きたくなった。それを必死に堪える。
 ねぇ。どうしてあなたはあのとき、あんなふうに笑ったの。
 傷ついていて、悲しんでいて、寂しく思っていて、苦しく思っている、そんなふうに笑ったの。
 あなたがもしもそんなことを思って笑ったんだとしたら。わたし。わたし、間違えたのかな。計算することは大の得意なのに、わたし、自分の未来と、あなたの未来を、間違えてしまったのかな。
 ……そんなわけないよね。
 これはきっと私の思い過ごし。あなたを思いすぎたわたしのエゴだ。
 あなたはきっと大丈夫。わたしなんていなくても大丈夫。頼りになる部下に囲まれて、かわいい子たちに囲まれて、やっていけるよ。
 いつか、わたしなんかよりずっと想ってくれる子に出逢って、恋をして、好きになって、それで、幸せになれるよ。
 きっと。わたしのことなんて、すぐに、忘れてしまうよ。
 最後にあなたと握手を交わした手を胸に抱いて、声を上げないように歯を食い縛りながら、頭からブランケットを被って、わたしは泣いた。