目を開けると、そこは病院だった。
 ピ、ピ、ピ、という聞き慣れた音が鼓膜を震わせる。
 白っぽい部屋で無造作に手を伸ばすと、白っぽい色の着物の袖が腕を滑って落ちた。
「恭弥?」
 呼ぶ声に、眺めていた自分の腕から視線を外す。彷徨わせた先に君がいて、泣き腫らした顔で僕の手を取った。「恭弥大丈夫?」と泣きそうになりながら笑う君に言葉をかけようとして、掠れた息しか漏れないことに苛立った。僕の身体なんだから僕の言うことを聞けよ、馬鹿。
 の指が僕の額を撫でる。しっかりと握った僕の手を胸に抱いて「よかった」とこぼす君の声に、心配をかけたんだな、とぼんやり思う。
 ピ、ピ、ピ、と慣れた音がずっと耳に響いている。
 僕の記憶は。その最後は、イタリアで途切れていた。
 君と一緒にピザを食べた。それから、観光したりしながら、地下鉄に乗って、ホテルに向かう途中で、追っ手にあって。それで、彼女を逃がすために、僕は。
 僕は。どうしたんだっけ。何をしたんだっけ。頭の中がまだぼんやりとしているせいか自分がしたことが思い出せない。
 乗ったエスカレータに派手な仕掛けがしてあって、人が簡単に気絶するくらいの電流を流された。その前に、君を向こうの階段へと突き飛ばして。僕は電流にやられて動けなくなって。だから、君に、僕を置いて逃げろって。それで。それで?
(……曖昧。だ)
 おかしいな、と思ったけれど、まぁいいか、とも思った。
 僕は生きているんだから、深いことは考えなくていい。悪運強く生き残ったってだけだ。あるいは君って女神が微笑んで僕を助けたとかね。
 どうでもいい。
 僕はここにいて、君が僕の手を握っていて、泣きそうだけど笑っていて、その表情がとても愛しくて、僕の胸は幸せでいっぱいだから。些細なことは、どうだっていい。
 目が覚めて三日で退院した。彼女の足を引き止める時間が長いのはあまりいいこととは思えなかったから少し無理をしたけれど、身体は大して不自由などないし、動ける。動けるなら、ここを移動すべきだ。またこの間のような見境ない連中が現れないとも限らないから。
 僕がそう言ったら、彼女は緩く頭を振った。少し言いにくそうにしながらテーブルの上で組んだ指に視線を落として、「そのことなんだけどね」と口を開く。
 彼女は、イタリアでも主力マフィアの一つとして挙げられるボンゴレファミリーの傘下に入ることを決めた、というのだ。「どうして」と訊ねると「あのあと彼らに助けてもらったの。借りができたのよ」と彼女は言うが、君がそういうもので縛られるのが嫌いな人だというのは僕が一番よく知っている。何かもっと理由があるはずだ、と細い肩を掴んで「」と促すのだけど、彼女は口を閉じたままで、ボンゴレに行くという考えは変えなかった。
 君の意見なら、僕はなんだって聞きたい。だけどそれが脅されたとか借りができたとか、君にとって不承不承の理由であるのなら、僕はそれを認めない。君が本当にそれでいいと望んだことでなければ僕は納得できない。
 小雨が降る天気の中、病院から出て、近場の喫茶店に入る。コーヒーを二つ頼んで、彼女が待つカウンター席へと持っていく。
 雨を避けるため鞄を頭の上にやって走っていく人、傘を差して歩く人なんかを見ながら彼女がエスプレッソのカップに口をつけた。僕も一口すすったけれど、とても苦くて、君のように普通の顔で飲み続けることができず、眉を顰めてカップを置いた。
「…ドン・ボンゴレに。会ったのだけどね」
 ぽつりとこぼして、は僕の肩に頭を寄せた。
「彼、日本人で、あと、すごくらしくなかったの」
「…どういうこと?」
「まずは若いのね。わたしたちと同じくらい。それから、甘いのね。上に立つ人って感じでないの。大きな組織でそういうところってあまりないでしょ? わたし、多分あそこが気に入ったわ」
 その言葉に雨の風景から視線をずらして君を見やる。黒い髪に指を絡めて梳く。「本当に?」と訊ねると彼女は小さく笑った。「本当」と。その言葉からは嘘も強がりも感じなかった。
 そうか。君が本当にそう思ったのなら、僕もそれでいい。僕がそこを気に入るかどうかはまた別の話だし、たとえ気に入らなかったとしても、君がそこにいてもいいと思ったのなら、僕もそこを許そう。どんなに気に入らなかったとしても。
 それに。ボンゴレは大きな勢力だから。君がその傘下に入れば、これまでみたいなことはぐっと減るはずだ。ボンゴレを敵に回そうなんて馬鹿な奴らか、喧嘩を売りたい奴ら以外は、手を出してこなくなる。ならその方がいい。君の安全のためにも。君がもっと自然に笑って暮らせるようになるためにも。
「ああ、そうだ」
「? なぁに?」
「新しい靴を買おう。この前のでお気に入りが駄目になったろう」
 僕がそう言うと、彼女は目を丸くして僕を見上げた。前髪をかき上げてその額に唇を押しつけると、彼女はようやく笑って、「そうね。そうしましょ」と僕に抱きついた。
 何だか前よりも細くなった気がする背中を抱いてゆるゆると目を閉じる。
 本場のエスプレッソで口の中はとても苦かったけれど、僕の心はとても甘い気持ちでいっぱいになっていた。
 喫茶店を出たら大手のデパートに入り、君が気に入る靴を見つけるまで店を渡り歩いて、最終的にブーツを購入した。あまりヒールのないもので、これならもう捨てないですむわ、と彼女が笑ったから、僕も笑った。
 通り雨だったらしく、僕らが買い物を終えた頃には雨は止んでいた。
 通りに出てタクシーを呼び止め、は運転手に紙に書いた住所へ行くよう指示した。
 タクシーの中で彼女は疲れたように僕の肩に頭を預けてうとうとしていたので、僕はそんな君の頭に頬を預けて、緩む気持ちにときどき自分の腿を捻ったりしつつ、周囲や運転手に気を配り続けた。
 もう前回のような失敗はしない。本当なら君と一緒にうたた寝したいけど、それは心の許せる場所だけですべきことだ。僕らはまだ安全ではない。ボンゴレの傘下に入るまでが勝負なら、一瞬でも気を緩めることはできない。
 流れていく景色、滞る車の流れ、落ちる速度。
 運転手がちらちらと僕らの様子を気にしている。…十分前と比べるとかなり頻繁だ。
 ピン、と頭に引っかかった感覚に嫌な予感がした。
 そしてそれは当たった。ガシャン、と後ろからの衝撃にびくんと震えたが目を開ける。その肩を強く抱いて、『こりゃ大変だ、追突された』と外へ飛び出した運転手に、僕は彼女の腕を取って同じく外へと飛び出した。
 通り過ぎる視界に、タクシーに追突した黒塗りの車からぞろぞろとスーツに黒いサングラスをした男達が出てきたのを捉える。運転手と示し合わせたそのタイミングのよさに、ああやっぱりか、と思う。こういうとき僕の予感はいつも当たる。
「ハメられたね」
「もう…っ」
 さっそく新品のブーツで走ることになった彼女は苛立たしげな声を漏らした。
 君は有名人だから顔が割れている。僕もわりと有名人らしく顔が知られている。サングラス類の変装じゃ敵の目は欺けないってことだろう。
 道路を横切り歩道へ入り、一度だけ目の前の店のショーウィンドウガラスに映ったスーツの男達の姿を確認した。彼女の背を押して止まらずに走り、スーツの裾をさばいて腰に携行している銃を抜く。右と左にそれぞれ持って振り返り様撃ち抜く。さっき一度だけ確認した姿を頭の中で描き弾いて出した計算はだいたい当たっていたけど、何人か外した。こちらが発砲したことで向こうも銃を抜く。今の一回で全部片付けられたら理想だったんだけど、そう上手くもいかないか。僕の腕もまだまだだな。
 安物の銃はドンと派手な音がして、撃つ度に人の悲鳴が上がり、硝煙も吐き散らして、いい気分がしない。
 人と人の間を縫って走る彼女が「恭弥っ」と僕を呼ぶ。視線を流せば、彼女は歩道に乗り上げた白い車を指差していた。「ボンゴレだわ」と声を上げる彼女に、さすがトップ組織なだけあって情報も早い、と思いながらガチャンと開いた車の中に飛び込んだ。車はすぐに発車し、ギャギャギャとタイヤを鳴らして猛スピードで発進してその場から遠ざかっていく。
 は、は、と息を切らすに「怪我はないね」と確認すると、彼女は僕の手を握った。「恭弥は? 怪我はない?」とあちこちにやられる視線に小さく笑って「何もないよ。弾切れくらい」と安物の銃を振ると、彼女はおかしそうに笑った。
「街中でぶっ放したなお前ら…後片付けすんのはオレらなんだぞ」
「まぁまぁリボーン。よかったよ、間に合って。骸が気付いてくれてよかった」
 その声に視線を運転席にやれば、リボーンと呼ばれた男が運転をしていた。日本語を喋っているけどこっちは明らかに地元人の顔だった。助手席に座るもう一人は僕ら寄りの顔、つまり、日本人の顔をしていた。
 僕に寄りかかったを抱き止める。「ドン・ボンゴレ。また助けてもらったわね」と苦笑いをこぼす彼女に、ボンゴレのトップに立つらしい助手席の男はやんわり笑った。「まぁ、そうなっちゃった感じですね」なんて笑う男は確かに組織のトップの人間には見えなかった。日本ならその辺に転がってそうな優男だ。いや、優男よりも頼りない感じ。これが本当にドン・ボンゴレなのかと半ば呆れている僕にバックミラー越しの視線を寄越した相手と目が合う。
「雲雀恭弥さんですね」
「そうだけど。…そういう君は何」
「あ、沢田綱吉と言います。以後よろしくお願いしますね、雲雀さん」
 にこっと笑った沢田にふんとそっぽを向いて彼女の髪を撫でる。
 なるほど、確かに君が言っていた通り、とてもじゃないがマフィアのボスには見えない男だ。こんなのがトップだなんて、ボンゴレっていうのは一体どんな組織なんだか。
 バックミラー越しにまだこっちを見てる沢田を睨む。「何」と訊けば相手は苦笑いのようなものをこぼした。「いいえ。ただ、よかったな、と」沢田はそう言って笑ったけど、僕にはそのよかったの言葉の意味が分からず眉を顰めた。
 そこで、ギャギャ、とハンドルを右へ切ったリボーンが盛大な舌打ちをした。車と車の間を縫いながらさらにスピードを上げるリボーンに、彼女の頭を抱いたまま視線を後ろにやると、黒塗りの車からスーツの男が一人顔と腕を出してこちらを狙撃しようとしているのが見える。どうやらボンゴレ相手にも喧嘩を売ろうって馬鹿な連中らしい。
 迎え撃とうにも僕の銃は弾切れだ。安物だから装填数も少ないタイプで、殺ろうにも殺れない。
「どうするのさ」
「オレがやる。愛車に傷つけられちゃたまらないんでね。おいこらツナ、ちょっと運転してろ」
「え、わっ、ちょっと待てよリボーン! 俺は運転ヘタクソなんだってばっ」
 助手席から慌てたように手離されたハンドルを握る沢田から視線を外し、窓から上半身を乗り出したリボーンが鮮やかな手並みで追ってくる車のタイヤを撃ち抜いたのを見た。片手で帽子を押さえ片手だけで瞬時に四つのタイヤを撃ち抜くその早撃ちはなかなかのものだった。
 全く、とぼやいたリボーンがシートに腰かけ直し、窓を閉める。沢田はあからさまに安心したって顔でハンドルを譲った。
 …今の一連の動きからしても、沢田はとてもじゃないが組織のトップには似合わないし立てない人間のはずだけど。ボンゴレって一体どうなってるんだろう。
「これで、大丈夫かしら…」
 弱く呟いたの髪を撫でる。久しぶりに買い物したり追われて走ったりして彼女は疲れていた。前を向いたままのリボーンが「どうだかなぁ。この騒ぎに便乗してくる輩がいるとも限らん。お前さんがオレらの傘下に入れば余計手が出しにくいと襲ってくる連中はいるかもしれん」あっさりそんなことを口にするリボーンを睨みつける。は疲れているんだからもう少し気の訊いた言葉ってのはないのかこのイタリア人。
 苦笑を浮かべた沢田が「まぁ、大丈夫ですよ。俺達が必ず本部まで連れていきますから。そこで一筆してもらえばもう大丈夫になります」と言う声に、彼女がほっとしたように息を吐いて僕の胸に顔を埋めた。
 僕らが正式にボンゴレの傘下に入ってから一週間が経過した。
 今はまだイタリア内でしか行動の保障ができないと言われたけれど、自由なものだった。
 彼女に提示された条件はたった一つだけで、六道骸という右目を失くした男の特製の義眼を作れば、それでこの先までの保障が確立されるらしい。それは僕には手伝えないことだったし、手出しのできない分野ではあったけど、彼女はそれを二つ返事で了承し、今日も持ち出したノートパソコン相手に忙しなくキーを叩いている最中だ。
 仕事をしてると分かってはいるのだけど、そばに僕がいるのにパソコンの相手ばかりしている君を見ているのは、面白くなかった。せっかく歴史地区まで遠出したのに、僕との観光よりも、骸って奴の義眼の方が大事だなんて。
 不意打ちで抱きすくめると、彼女は驚いたようにキーから手を離した。「恭弥?」と僕を呼ぶ声に甘く耳朶に歯を立てる。
「…寂しいじゃないか。僕より六道の義眼が大事なの?」
「そんなわけないじゃない」
 彼女は笑って僕の頭を撫でたけれど、僕はそれじゃあ満足できなかった。拗ねた子供のようにぶすっとした顔で抱き締めたままでいると、彼女は諦めたような息を吐いてノートパソコンのキーを一つ押してそれまでのデータを保存し、パソコンを閉じた。
 僕の背中を抱いて彼女が笑う。愛しい笑顔を見せて僕の頬に口付けをする。
「ねぇ、じゃあ聖堂を回ろう? フィレンツェにはね、聖堂や教会がたくさんあるの。それに、ヴィーナスの誕生が飾られてる美術館だってあるわ。…あとね、上の方から眺めるフィレンツェの夕景はとてもきれいって話よ」
 恭弥と見たいな、と囁く君のことを強く抱き締めて、そう、じゃあ行こうか、と囁いて返す。
 ノートパソコンをケースに入れてトランクに丁重にしまい、少し重いけど、君の大事なものを片手に持ち、もう片手を緩く握り合って、僕らはフィレンツェの歴史的な町並みの中を二人で歩いた。
 イタリア内だけでも保障された安全。おかげで僕はこんなふうに君に甘えるようになった。
 君を最終的に守る盾も、君のために最後まで剣をかざすのも僕だと分かってはいる。僕がしっかりしなくちゃってことは分かってるんだ。
 でも僕は君と笑っていたいから。同じものを同じ目線で見て同じ時間を過ごしたいから。そのために笑っていたいから。そのときに、笑っていたいから。それ以外をなるべく排除したい。
 僕は自分の中を君で埋めたい。他には何もないってくらい君で埋め尽くしたい。君を、埋め尽くしたい。
 この聖堂はゴシック建築で、初期のルネサンス建築を代表するものの一つでね、と大聖堂のドーム型の天井を見上げて説明する君の横顔を眺めて焼き付ける。自分の中に、記憶に、絶対に忘れないように、と焼き付ける。
 やがて僕の視線に気付いた君が淡く微笑むから、その笑顔が愛しくて、僕の中は君への愛で埋め尽くされる。
 フィレンツェからローマへと戻り、ホテルの部屋で、お互いを求めて唇を貪り合う。その瞬間の幸福なことと言ったらない。
「恭弥」
「何?」
「わたしのこと好き?」
「もちろんだ。愛してるよ」
 ふ、と笑った彼女の目尻から一粒涙がこぼれて落ちた。「愛だって」とおかしそうに笑う君を抱き上げる。僕の口によっぽど愛って言葉が似合わないのか、彼女はまだくすくすと笑って僕の額に額を合わせて、やがて、こうこぼした。
「でも、それは嘘よ」
「…嘘って何が。僕は本気だ」
 眉根を寄せた僕に、彼女は朗らかに笑った。その笑顔は何だか寂しそうで、悲しそうだった。僕は彼女のその笑顔の理由が分からずに困惑した。
 君が僕の想いを否定する? そんな馬鹿な。僕らは愛し合ってる。そうだろう? 君だって僕を愛している、はずだよね。
 唐突に不安になって「は、僕のこと」「愛してる」言葉に詰まりかけた僕のことを彼女は肯定した。僕の額に唇を寄せて「世界で一番、誰よりも、何よりも、あなたが大事よ」と囁く声に、その切ない声音に、ぎゅっと胸が締め付けられる。
 何も問題なんてない。
 僕も世界で一番誰より君が大事だ。何より愛している。ほら、どこにも嘘なんてない。ここにあるのは真実の愛、それだけだ。
 何も問題なんてない。嘘なんてどこにもない。
 彼女が笑って僕の頭を抱き締める。やわらかい弾力のある胸と彼女の香水の淡い香りにさすがに視線が惑った。僕も男なんだけど、と言いたいのを堪えて、「重いから下ろすよ?」なんて言えば、彼女はぶうたれた。「ひどいわ、重いなんて。女性に対して言っちゃいけない言葉の一つよ?」なんて、言われなくたって分かっているし、君を重いだなんて感じたことは一度もない。今はちょっと頭が通常回転してないだけであって、そんなことが言いたかったわけじゃなくて。ああもう。じゃあ僕は何が言いたかったんだっけ。忘れてしまったよ。君があんなふうに笑うから。僕の胸を刺すような切ない声を出すから。
「世界で一番、誰よりも、何よりも、あなたが大事…」
 僕にそう囁きかける君の声は、まるで泣いているように震えていた。