黒いガウンを羽織った男が一人、黒いカバーのされた羽根布団に埋もれていた。黒い枕を抱いて、黒い髪に縁取られた端整な顔を寄せて、今にも眠ってしまいそうなまどろみの中をたゆたっている。
 彼は黒が好きだった。黒い色に埋もれているとその睡眠も穏やかなものになるのだ。彼女はそれを知っていてベッドメイクを黒でまとめ、シーツだけを白い色にした。
 …意識が落ちる、という刹那。だが、男は目覚める。
 本音を言えば眠ってしまいたかったが、スリッパがタイルの床を踏む音が彼の意識を現実へと呼び戻した。
 目は覚めたが、依然眠いものは眠い。眠りへと誘う重い身体に抵抗するように男は腕を伸ばす。その指先は、ベッドに歩み寄る白いガウンを羽織った女へと向けられている。

 眠気に掠れた声に女は朗らかに笑った。仕方がない人、と男を包容する笑みを浮かべ、伸ばされた手を取る。しっかりと両手で包み込んで「眠っていいのよ」と囁く声に、彼の意識が曖昧になる。
「恭弥?」
「…、」
「明日。―――に行きましょうね」
 穏やかに笑った女の顔を見上げ、男は瞼を下ろす。彼女の言葉の意味を理解していた彼は、彼女に対しての異論など見当たらず、そうだね、とこぼして眠りに落ちた。
 落ち着いた呼吸を繰り返す男を眺め、ベッドの淵に腰かけた女は満足そうに笑った。
 その笑顔が泣きそうだったことは、本人すら知らない。
 寝室の壁にかけられた額縁の中の二枚の古いスケッチだけが、そんな二人のことを見守っていた。
『げハっ』
 右の肩に回転をつけた鉄の棒の重い一撃を食らい、一人の男が倒れる。骨まで粉砕されたその一撃は恐るべき威力で、二度と機能しないであろう肩を押さえて喚く男はドンという銃声のあとにぱたりと動かなくなった。それまでの喚きようが嘘のように男は静かになる。その額に開いた穴から赤い色が溢れ、肌を伝って落ちる。
 そう、男は死んでいた。
 キン、と薬莢の落ちる音がやけに大きく響く。
 いつものように仕事を進めていた男達は、突然のアジト襲撃に驚き、仲間が一人殺られる5秒間をただぽかんと見ていることしかできなかった。
 それには理由がある。
 5階建てのアパートの最上階に当たるこのフロアの窓を蹴破り外からやって来た侵入者は、それだけでも常識外れだった。
 そして彼らが仲間が殺られるのを見るまで動けなかった最大の理由は、砕け散ったガラスを靴底で踏みつけ、目の前で涼しげな笑みさえ浮かべて立っているその男が、この世にありえるはずのない相手だったからだ。
 その男は死んだはずだった。
 間違いなく、たった今殺された男が、その額を撃ち抜き、殺したはずなのだ。
 不死身と称される男を殺ったと、あのときは組織一体で最早故となってしまった男のことを褒め称えた。これでボディーガードのいなくなったあの天才科学者をどうにかできる機会が増えるはずだ、と。いかにボンゴレが手を出してきたとはいえ、あの科学者に目をつけていたのはこちらが先だ。必ずモノにしてみせる。そう組織一体となって盛り上がった。
 だが、この現実は、どういうことだろうか。彼らの理解は目の前の現実まで追いつかない。
 確かに眉間を撃ち抜いて殺した男に、同じように眉間を撃ち抜かれ、男を殺したはずの仲間は死んだ。これは一体どういうことなのか。
 彼らの理解が追いつかないその隙に、侵入者である男はトンファーを手に駆ける。獣のような速度で、ようやく銃を抜くことを思い出した彼らのことを容赦なく蹂躙する。
 悲鳴。怒号。彼らは混乱しながらも敵である男に対抗するが、一人、また一人と鈍く光るトンファーの餌食になっていく。ある者は弾き飛ばされて窓を突き破って階下へと落下し、ある者は頭を粉砕され、ある者は振り向きもしない男が抜いた銃に撃ち抜かれ、皆が、死んでいく。 
『お前は…っ、死んだはずだァ!』
 仲間を次々に殺され混乱の極みに達した男の一人が叫ぶ。その手に握られた銃が火を吹く。だが、侵入者の男はそれを防いだ。銀に輝くトンファーは主を守る盾のように銃弾を弾き返す。
 弾がなくなるまで彼は何度も引き金を引いた。それを物ともせずに、銃弾を防ぎながら歩いてくるその男は止まらない。
 そんな馬鹿な、と彼は喚く。こんなことが現実であっていいはずがない、と。
 銀のトンファーから赤い色を滴らせ、獣のようにこのフロアを駆け抜け、返り血を浴び、殺人などどうとも思っていないという涼しい笑顔さえ浮かべ、最後に残った自分をも殺そうとしているその男は、確かに死んだはずだった。
 彼は不死身と謳われた男が額を撃ち抜かれたのを見た。仲間が簡単だったなと笑ったので自分も笑った。不死身なんて名ばかりのただの日本人だったと、彼らは男を笑い飛ばした。
 だがどうだ。現実はこれだ。
 確かに殺した男が自分へと迫っている。
 本当にこの男は不死身なのか。死んでも死なないのか。そんな非現実的な、と普段なら笑い飛ばすところだったが、この現実が、彼を追い詰めていく。
 かち、と引き金が軽くなり、火を吹かなくなった銃に、彼の混乱は恐怖と混濁する。
『お前は死んだはずだ、死んだはずだ、死んだはずだぁッ!』
 冷ややかな笑みをたたえる男は、銃を投げ出して背を向けて逃げ出す愚かなその姿を眺め、トンファーを上へと放る。カシャン、とその手にピストルが収まり、彼は逃げる男を撃ち抜いた。
 頭を撃ち抜かれた男が倒れ込めば、もうそこに動く者の姿はなくなっていた。
 落ちてきたトンファーをキャッチした男は、チーンとエレベータが到着する音を聞いた。トンファーを折りたたみ、音のした方へと向かう。邪魔な死体は踏みつけ、蹴飛ばし、5階の部屋をぶち抜いて作られた1フロアの部屋を出ると、そこには女が立っていた。すぐそこに後頭部を撃たれ転がっている死体があったが、彼女はそんなこと意に介さない。フロアが死体と血の臭いに満ちていようが、彼女にはそんなことは関係ない。穏やかな笑顔で「怪我はない?」と確認する女に、先ほどまでとは一転したやわらかい笑みを浮かべた男は「何もないよ。大丈夫」と言って、彼女が持ってきた着替えを受け取った。
 ざわざわと階下で騒ぐ人の雑音が届いてくる。
 返り血で汚れたスーツから新しいスーツへと着替え、男は女を抱え、アパートの屋上から隣の4階立てのビルへと飛び移った。
 サイレンが鳴り響く中で女はいつものように笑う。その笑顔に、男も笑った。
「まァた派手なことをやってきやがったな、お前ら」
 二人が現在の所属であるボンゴレ本部へと戻ると、いつでも黒いハットを被っている男が二人を出迎えた。彼の目は剣呑な光を帯びていたが、女はそれを意に介さずに笑う。朗らかに笑って、隣に立つ男に甘えるように肩に頭を預ける。
「どうせ邪魔だったのでしょ。何か問題があるの? アシならつかないわ。上手くやったもの。ねぇ」
「そうだね」
 女が甘えれば、男は応える。彼女の額に唇を寄せてキスをする。
 こんな状況でもくすくすと笑う女と、女が笑っているからこそ笑みを浮かべる男。二人を眺め、黒いハットに手をやった彼はハァーと大きな溜息を吐いた。
「…確かに奴らは邪魔だった。後々こうなってたことは想像できる」
「そうでしょう。じゃあ何が不満?」
「動機だよ。お前らは誰の許可もなく動いた。理由はなんだ」
 問い質す口調に、女はただ笑う。穏やかな微笑みさえ浮かべて「彼らは恭弥を危険な目に合わせたわ」と隣に立つ男の手を握る。「報復するのは当然だろう」と女の言葉を継いだ彼は、彼女の黒い髪に顔を埋めた。
 黒いハットの向こうから鋭い眼光で二人を観察する男は、今回も、二人の真意を測り損ねてしまった。ちっと舌打ちすると「ド派手にやりやがって。後片付けに回るオレらの身にもなれ」と二人を睨むが、その目には先ほどまでの鋭さはなかった。彼は二人の行動を許容範囲としたのだ。
 どうせそのうちバラすことになっていた組織だったことも手伝い、今回のこれは不問とはする。
 が、二人を注視するには、今回の事は充分すぎた。
 二人はそんな彼の警告の視線も気に留めず、手と手を取り合って正面階段を上がっていく。
 その様は、どこにでもいる、少し人目を惹くだけのカップルに見えた。
 ボンゴレを裏から仕切るとまでされている黒いハットの彼も気付かない。
 女は男の『不死身』の名を汚した輩の口封じに行ったのだ、とは気付かない。
「これで、よかったかな」
「ええ。概ね上手だったわ恭弥。でも、下まで落としたのはよくなかった。おかげで予定より早く気付かれて、ビルからビルへ飛び移る、なんてことになってしまったし」
 黒いベッドの上でじゃれ合うように身体を重ねる、黒いガウンの男と、白いガウンの女。「だって邪魔だったんだ」「それは分かるけどね」「…次からもう少し気をつけるよ」「そうね。そうしましょう」笑う女に唇を寄せる男。くすくすと笑みをこぼす女。どこにでもありそうな男と女の場景を見守る、額縁の中の古びた二枚の絵。
 男にとって女は唯一無二の存在であり、彼女の言葉を否定することも、その意思を否定することも、よほどのことがなければありえない。彼は盲目的に女を愛していた。
 女にとって男の二つ名を疑わせる声は邪魔でしかなく、彼のためにも、自分のためにも、彼女は彼を傷つけた全てを抹消する。どんな手を使っても。過去にもそうして一つの組織を潰した。
 不死身と謳われる雲雀恭弥。
 彼は不死身なのだ。彼は死なないのだ。それを疑う声など、彼を殺したと声高に叫ぶ者など、邪魔でしかない。
 だから、消すだけ。
 世界屈指の若き生物学者は微笑む。優雅とも表現できる微笑みで彼のことを肯定し、求め、愛し、語り合う。
 にとって何にも譲れないものは彼だけ。彼がここにいるという現実だけが、彼女の全てだった。