「あのね雲雀。あのね、どうしよう」
「何が」
「あの…ね」
 ひどい寒波が急激にやってきて、あまり雪なんて降ることのない並盛にまで白い結晶が舞っている夜。ひらりひらりと白い雪が舞う中、手袋もしてない手に白い息を吐きかけて彼女が言った。「フランと喧嘩しちゃった」と、ひどく真面目な顔をして、何を言うかと思えば。
 一つ吐息をこぼすと白く濁った空気が見えた。風がないだけまだいいと思って見上げた空は雪が舞ってるくせに雲の間から星も覗く夜だった。
 マフラーを外しながら「フランって誰だっけ?」と訊けば彼女が白い息を吐いて「ヴァリアーの子。たまにこっちにも来てた」と身振り手振りをつける。手袋もしてなければマフラーもしてない彼女の首にするする自分のマフラーを巻いて「あげるよ」とこぼしてから頭の中をさらってみた。フラン。名前だけ言われてもさっぱり思い出せない。
「雲雀、私大丈夫」
「寒そうだよ。いいからつけてて。で、フランって誰だっけ」
「憶えてないの? 確か、マーモンの後輩? ベルが構ってくるからうるさいって言ってた気がする」
「…ああ、幻術使いか」
 そういえばヴァリアーにそんな新入りがいた気もする。幻術使いなんて特に興味がないから気にしてなかったけど、フランって、確か彼女に電話を寄越してくる奴の名前だ。海外からでも彼女とコンタクトを取ろうと必死になってる奴の名前。
 そう思ったら唇が歪んだ。自分でも嫌だなと思う感じに。
 ぼやいた口を閉じてからコートのポケットから手を抜いて、さっきから寒さで手を擦り合わせている彼女の手を取った。想像していたよりもずっと冷たい手に瞬いて「冷たいじゃない。手袋してこないと駄目だろう」「あ、慌ててたから忘れちゃって…」もう片手をぱたぱた振って彼女が笑う。「大丈夫」と。寒さで鼻の頭が赤くなってるし、頬も上気していた。そんな顔を見て何も感じない男はいないと思うけど、それは僕も同じだった。視線を外してから冷たい手を握ったままコートのポケットに突っ込む。片手だけになるけど、まぁいいよね。
「喧嘩って、なんで。一方的に喧嘩売られたなら僕が代わりに買ってあげるけど」
「違うの、そうじゃなくて。こう、なんて言うんだろ…上手く言えないんだけど」
 白い雪がひらりと視界を舞い落ちる。
 ポケットの中で握られるままだった彼女の手がきゅっと僕の手を握り返した。それが心地よいようで、胸が熱くなるようで、痛くなるようで、何とも言えない気持ちになる。

 好意を抱いているのかと言われれば、確かにそうかもしれない。僕はこんな平凡な子を僕なりに想っているのかもしれない。
 でも僕の想いは、他人のそれなんかと比較できない。してはいけない。僕は常人じゃない。凡人じゃない。
 異常な想いは大事な君を必ず傷つける。傷つけないように丁重に扱ってきた君を簡単に壊してしまう力を僕は持っている。
 それでもなおどこまで君のそばで踏み止まっていられるかが僕が僕に対して抱く興味でもあり、意地でもあり、プライドでもある。
 踏み付けて越えてしまいたい一線で踏み止まり、君の翼をもぐことも簡単な腕で君を抱き締め、締め上げることもたやすい手で君と手を繋ぐ。労わるように。愛しむように。
(でも、きっと、僕は。最後には)

「…本当、上手く言えないんだけど。多分、私がいけないの」
「多分でしょ。なら君は悪くない」
「どうして?」
「僕がそう思うから。だから君は悪くない」
 じっとこっちを見つめる黒い瞳に歩みを止めた。こつんとブーツの音が響いて彼女の足も止まる。耳が痛くなる静寂の中で「何」とぼやくと彼女が笑った。「雲雀は私が悪いって言わないね」と。そんなの当たり前だと思いながら視線を外して「別に」と返して歩き出す。ブーツの音もすぐに続いた。
 人通りの少ない狭い道を二人並んで歩く。ただそれだけの時間も、今年はこれで終わりだ。なんだかんだで忙しくてあまり一緒にはいられなかった。恋人じゃないんだから四六時中一緒にいるわけじゃないし、他人にべったりする自分なんて気持ちが悪いし。だから僕にはそれくらいがちょうどいいんだろう、きっと。
 彼女をマンションまで送り届けたら、帰ろう。明日はまた飛行機で飛ばないとならないし。
「雲雀」
「何?」
「明日は、もう仕事?」
「そうだよ。また来年しか会えない」
「…そう。大変だね」
 ちらりと視線をやる。どこか憂うような目で白い雪を見ている彼女に何を言おうか頭が悩んだ。僕は気の向くまま喋ることしかしないし、気を利かせるなんてこと普段からする方じゃないから、こういうときに何をどう言えばいいだろうと無駄に考えたりする。無駄に考えてる間に彼女が曖昧に笑って「ねぇ、男の子と喧嘩したらどうやって仲直りすればいいのかな」と言うからそれまで考えていたことがまた無駄になった。
 僕の中は。君といたら君のことで埋まるけれど。君の中は今、僕じゃないフランって奴で埋まっている。
 気に入らない。
 かつ、と足を止めた。こつんと一歩遅れて彼女が立ち止まる。黒い瞳がこっちを見上げて、白い吐息が空気を濁した。
 首に巻いたマフラーを両手で締め上げれば彼女は簡単に死んでしまうだろう。その顔が苦しみに満ちてくれれば絶望で僕を見てくれるだろうか。絶望して死を思いながら僕だけで君の中を満たしてその灯火は消えるだろうか。それとも最後まで、そのフランって奴のことで頭を埋めて、君は逝くのか。
「雲雀?」
 白い手が伸びてぺたりと頬に触れられた。冷たい指先をきっかけに危うい思考が音を立てて崩壊する。
 コートのポケットで握ったままの手をぎゅっと握り締めて、頬に触れた手に掌を重ねて、「」と漏らす。冷たい手と肌の感触に目を閉じて踏み越えようとした一線でまた足を踏み締め止まる。
 この先へ、僕は行ってはいけない。どうあっても。
「…そのフランっていうの。君の何? 友達?」
「…うん。友達、だと思ってる」
「曖昧な言い方だね。引っかかる」
「……うん。あのね、好きだって言われたの。だいぶ前に」
 瞼を押し上げて確保した視界の先で、彼女は複雑そうな顔で夜空に視線を逃がしていた。冷たい手をぎゅっと握って「好きだって言われた? 君が?」そう確認する唇が嫌な形に歪む。唇を噛み締めることでそれを排除する。そんなことには気付かない彼女が小さく頷いてから顔を上げた。暗い道の向こうから癇に障る若い声が聞こえてきて気分が余計に悪くなる。
(ああ全く。フランって奴も咬み殺してやりたいけど、まずは目先の邪魔を排除しようか。僕の目の届くところで群れるのが悪い)
 げらげら笑いながら道を歩いてくる若い奴三人に彼女の手を離したときだった。離した手がもう一度僕の手を握って「雲雀」と僕を呼ぶ。纏いかけたちりっとした空気が歪む。
 頭の中で警鐘が鳴る。君には何も知ってほしくない、こんな僕を知ってほしくないと叫ぶ。でも君はいつか知るべきだ、こんな僕と自分の置かれている状況を知るべきだと叫ぶ。自分の声で頭の中がわんわんとうるさい。離した手に捉えられて振り払えない自分がいる。
 頭の中の警鐘がうるさい。
 とん、と彼女の肩を押して民家の壁際に押しやった。狭い道を大声で喋りながら歩いてくる若い奴を殴り倒したい。うるさいうざい群れるなとその頭を踏み付けてやりたい。
 だけど君がいる。僕の手を握って多分、止めている。僕を見上げる黒い瞳は真摯だった。どこか必死さが滲み出ているようにも感じた。僕がしようと思ったことを彼女は薄々気付いているのだ。
 君は僕らの籠の中の小鳥。飛び立つことを忘れた、かわいいかわいい小鳥。
 何も知らず、何にも属さず、誰のものでもない。君は僕らのかわいい小鳥。愛でるために籠の中に飼われ、そこから飛び立つことは許されない、いずれもげていく翼の持ち主。
 緩く彼女の手を解いた。解いて握り直す。指の間に指を這わせて小さな手を握る。
 白い息を吐いてこつと彼女の額に自分の額を押しつけた。彼女以外を意識から追い出すことに決める。
 大丈夫。がいるのなら、こんな壊れそうな頭でも、こんな僕でも、まだ歩いていける。
「そういえば今更なんだけど」
「な、何?」
「僕もね、君のこと好きだよ。ずっと前から」
「え? ひ、雲雀が、私を?」
「そう」
「じ、冗談…だよね?」
「失礼だね。そういう冗談僕が言うとでも?」
「思わない、けど。あの、」
 うろたえて視線をあっちへこっちへやる彼女が素直にかわいいと思った。それに免じてキスはしないことにする。顔を離して絡めていた手をするりと解いて「さぁ帰ろう。風邪引くといけない」と言ったところで若い奴三人がそそくさと通りすぎていくのが視界に入ったけど無視した。イチャつきやがってよぉとか負け犬の遠吠えのような言葉も思考から流す。
 いずれ誰かの手に堕ちる小鳥なら、その鳥篭を開けるのは僕だ。籠から出しても飛び立たないようその翼を手折る誰かがいるのなら、それは僕。
 慌ててついてくるブーツの足音と、「あの、雲雀、あの私、」と続く声に唇が歪んだ。笑みの形に。おどおどこっちを見上げる目がさっきのは本当なのか気紛れなのかと問うている。
 だから僕は彼女の手を握って言う。「嘘じゃないよ。本当だよ」と。
 フランって奴で埋まっていた君の中が僕で埋まっていくのが分かる。それが唇を歪める。自分でも嫌だと思う感じに。
 たとえば君の答えってものがあったとして、僕にそれは必要ない。
 君は僕の小鳥のまま、その翼は僕が手折り、君の全ては僕の思う通りになる。